なんとも愛らしい子犬たち5匹。この子たちは、朝顔の咲く野原で遊んでいるようです。右端の子は、じゃれて茶色の子の背中に乗り上げ、ちょっと首をかしげた白い子と視線を交わしています。左の画面に移って、茶色の子は、どうやら朝顔のツルをおもちゃにし、くわえて引っ張っているみたいです。後ろ足で首をかく左端の白い子のポーズは、実際によく見かける犬のしぐさですよね。足の裏が土で汚れているように描かれているのも、野原で走り回ったこの子のやんちゃさを伝えてくれます。
五者五様のポーズで無邪気に遊ぶ姿はカワイさ全開!当館のアイドル、ナンバー1(犬だけにワン!)といってよさそうな有名な作品です。一緒に描かれた朝顔は、これが子犬であるというスケール感を伝える役割も果たしています。
見ていてすがすがしさが感じられるのは、元気に遊ぶ子犬たちの白や茶色にくわえて、朝顔の鮮やかな群青と緑、杉板の茶色に映える清涼感あふれる配色によるところが大きいでしょう。朝顔のツルが子犬たちをゆるやかにつないで曲線を描き、子犬たちの体や、朝顔の花と葉の丸っこい形が反復して、ゆったりとしたリズムを刻んでいるのも心地よく素敵です。上の方に何も描かず広く残し、思い切って下3分の1に寄せて描いた意表をつく構図(これについては後でまたふれます)、木目の美しい無地の杉板画面(金箔が貼られたり地色が施されていた痕跡はありません)、そこに映える優美で清涼感あふれる色と形、あまりにも高い完成度に驚かされます。
近づいてみてみると分かるのですが、子犬の毛並みの描写は徹底していて、毛の一本一本が白や茶色の絵の具を使ってごくごく細い筆で描かれています。さわったらふんわりとやわらかそうな質感描写、現代用語でいえば「もふもふ」というのでしょうか。眼や鼻もごく丁寧に形作られて表情がとらえられていますし、右画面左端の子は口を開き、内側に朱を塗って口の中を表わしつつ歯まで描かれています。このように丁寧な描写の一方で、耳はささっと「S」字状に簡略に描かれています。この描き方は、背景をほとんど省略した思い切りのよさとつながっているでしょう。要するに、描写の足し算、引き算が絶妙なのです。
この絵を描いたのは、あの円山応挙(1733~1795)。応挙は、描く対象の徹底した観察による「写生」をもとに、そこに見事な整形をほどこして、それまでの画とはちがう、本物らしさが前面に迫ってきながら上品な香りを放つ絵の数々を生み出して、江戸時代中期、18世紀後半の京都で絵画界を席巻しました。応挙が多くの門人たちを育てたことによって、その流れは円山四条派という大河となり、その伝統が近代以降にまでつながっていったことは、よくご存知でしょう。応挙と同時代の小説家で『雨月物語』で有名な上田秋成(1734~1809)は、「絵は、応挙の世に出て、写生といふことのはやり出て、京中の絵が一手になつた事じや」(『胆大小心録』)、つまり当時、京じゅうが応挙風の絵だらけになったと証言しています。
描かれた場所は、尾張国、現在の愛知県海部郡大治町馬島(あまぐんおおはるちょうまじま、名古屋駅から西へ5~6キロ)に位置する天台宗の古刹(奈良開基とも平安開基ともいわれる)明眼院(みょうげんいん)の書院。書院は、寛保2年(1742)の建立ですが、内部の障壁画は、天明4年(1784)に数え52歳の円山応挙によって描かれました。そのうち、廊下を仕切る引き戸、杉戸のひとつとして描かれたのが「朝顔狗子図杉戸」にほかなりません。この書院は、明治時代に三井財閥総帥の益田孝(鈍翁)が買い取って品川御殿山の邸に移築、昭和8年(1933)に当館へ寄贈されました。現在、当館本館北側の庭園内に建ち「応挙館」と呼ばれて親しまれています。庭園開放の時期に、ぜひ外観をご覧ください。
応挙館外観
明眼院は、日本最古の眼科専門の医療施設として知られ、お寺の言い伝えでは、応挙も眼の治療に通い、回復のお礼として障壁画を描いたとされます。想像してみてください。眼の治療に来た人々をはじめ善男善女が廊下を歩いていくと、向こうに杉戸がみえ、下の方に絵があって子犬たちが遊んでいる。それは、まるで廊下と地続きのようにみえる。そうした視覚効果をねらって、思い切って下に寄せて描いたのではないでしょうか。お寺には小さい子どもたちも来ていたでしょう。廊下を歩く子どもたちにとっては、この絵はちょうど眼の高さ。杉戸の直前まで来て、思わず子犬たちをすくいあげたくなったかもしれません。
応挙は、子どもたちにこそ、この絵を見せたかったのかも・・・。
この絵にはモデルがいたのではないか、それは、応挙自身がペットとして飼っていたか、近くで飼われていた子犬ではないか、と想像する研究者もいます。応挙は、これ以外にも掛幅などで愛くるしい子犬たちを描いた作品を多くのこしていますが、いずれも全身白毛の子犬と基本茶色で手と口の周りだけ白毛のコロコロとした子犬を組み合わせて描いているからです。それだけ、身近なところに題材を見出したような親しみやすさのある絵ですし、なによりも画面にあふれる画家の優しいまなざしが、じんわりと感じられます。
応挙以前の絵画にはほとんどなかった子犬だけの絵。じゃれ合う子犬たちの愛くるしさといったら、たまりません。実物の前に立って胸キュンキュンしてみませんか?そうすれば、キャンキャン鳴き声が聞こえてくるかもしれません。展示は、本館8室にて2015年8月2日(日)まで。
カテゴリ:研究員のイチオシ
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posted by 山下善也(絵画・彫刻室主任研究員) at 2015年07月16日 (木)
7月11日(土)、「クレオパトラとエジプトの王妃展」がついに開幕しました。
開幕に先立ち、7月10日(金)には開会式・内覧会を行い、大変多くのお客様にご出席いただきました。
さて、展示室に入ってすぐ、ひとりの美女がさっそくお客様の目線をくぎづけにしています。
クレオパトラ
ダニエル・デュコマン・ドゥ・ロクレ作
1852~53年
マルセイユ美術館蔵
この美女こそが、古代エジプト最後の女王にして本展のヒロイン、クレオパトラ(7世)です。
クレオパトラについては前回もご紹介しましたが、共同統治者として君臨し、弟との権力争いや、2人のローマの英雄との恋、そして彼女の死とともに古代エジプト王国も終焉を迎えるという大変ドラマチックな人生を歩みました。
さすがは、歴史に名を残す女王クレオパトラ。ローマの英雄どころか、お客様もすっかり虜です。
私たちのハートを奪い去る魅力を備えた女性は、クレオパトラだけではありません。
本展の注目作品として何度もご紹介してきたのが「アメンヘテプ3世の王妃ティイのレリーフ」(ブリュッセル、王立美術歴史博物館蔵)。
ついに本物に会えました! 日本初公開です!!
日本でこのレリーフをご覧になるのを楽しみにされていた近藤二郎教授(本展監修者)、内覧会時の作品解説はいつも以上にアツイ解説となりました。
日本を代表するエジプト学の研究者をも虜にしてしまう王妃ティイの魅力、恐るべし。
「小顔だねー」と、女性ならときめかずにはいられない言葉を一身に浴びていたのが、こちらの作品。
王妃の頭部
テル・アル=アマルナ出土
新王国・第18王朝時代 アクエンアテン王治世(前1351~前1334年頃)
ベルリン・エジプト博物館蔵
アメンヘテプ4世の王妃ネフェルトイティ(ネフェルティティ)の像とも、別の王妃の像とも考えられています。
ポスターやチラシにも登場している作品なので、目にされた方も多いのではないでしょうか。
こちらの像、写真で見るイメージよりも小顔なんです。そして美人なんです!!!
ぜひご自身の目で確かめてみてください。
本展は世界14ヵ国約180件もの作品が集結した展覧会です。
他にもご注目いただきたい作品や魅力的な王妃たちが多数!
そんななか、敢えてもうひとつ注目ポイントを挙げるならば、普段目にする機会の少ない個人コレクションの優品も多数出品されているということです。
西アジアの考古学が専門の、本展の担当研究員も「今まで本物を見たことがなかったけど、かなり良いもので驚いた!!」と興奮気味に語っていました。
青色彩文土器(魚)
新王国・第18王朝時代(前1550~前1292年頃)
アル・タニコレクション
今後、こちらのブログで展覧会の見どころを研究員が(そしてトーハクくんが)どんどん紹介していきます。
どうぞご期待ください。
平成館ラウンジには、撮影スポットを設けています。
ご来館の記念にどうぞ!
カテゴリ:news、2015年度の特別展
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posted by 高桑那々美(広報室) at 2015年07月13日 (月)
今や日本のアニメーション界を牽引しているといっても過言ではない、細田守監督作品と東京国立博物館は少なからぬ縁があります。細田監督の名を世に広く知らしめた珠玉の名作『時をかける少女』(『時をかける少女』製作委員会2006)では、主人公のおば(原作小説の筒井康隆・著「時をかける少女」の主人公)が、博物館に勤めていますが、まさに東京国立博物館が映画の舞台になっています。また重要な意味を持った「絵」も映画のなかで本館の展示室に展示されました。
『時をかける少女』 ©「時をかける少女」製作委員会2006
そして昨年10月10日、11日には「博物館で野外シネマ」で『時をかける少女』が上映され多くの方々がつめかけました。上映後には作中場面に登場した博物館のあちこちを、実際にご覧いただく時間があり、たくさんの方々に総合文化展をご覧いただくことになりました。
「博物館で野外シネマ」チラシと上映時の風景(2014年10月10日(金)、 11日(土) 開催)
そしてこの7月11日(土)には、スタジオ地図が贈る細田守監督の最新作である「バケモノの子」が封切りとなります。映画に登場するバケモノたちは、みな刀を持っていますが、実は主人公の熊徹(くまてつ)と九太(きゅうた)が持つ刀は、東京国立博物館の所蔵品を参考としています。当館の刀剣を専門とする研究員が、登場人物の力強さなど、人物設定に応じた刀剣を提案したのです。
『バケモノの子』 ©2015 B.B.F.P
参考にされた刀剣
朱漆打刀(しゅうるしうちかたな)(重要文化財「刀 無銘元重」の拵(こしらえ))
安土桃山時代~江戸時代・16~17世紀 東京国立博物館蔵
溜塗打刀(ためぬりうちがたな )(明智拵(あけちこしらえ))
室町時代・16世紀 東京国立博物館蔵
ともに本館5・6室で7月28日(火)から10月12日(月・祝)まで展示されます。
このように東京国立博物館と日本の美術の数々が、細田監督の作品にとりあげられているのです。日本を代表する細田作品を堪能されたら、その作品世界に取り上げられた東京国立博物館の文化財にもぜひ、ご興味を持っていただけましたら幸いです。
細田守監督作品に関わる参考情報
1. 日本テレビ系の「金曜ロード SHOW!」にて、7月17日(金)午後9時からは『時をかける少女』が放送されますので、ぜひアニメーション世界で登場する東京国立博物館をあらためてご覧ください。
なお本日7月10日(金)午後9時からは前作『おおかみこどもの雨と雪』が放送されます。
2.渋谷ヒカリエの9Fヒカリエホール・ホールA(7月24日(金)~8月30日(日))にて『バケモノの子』展が開催され、細田守監督の作品世界を体験できます。
3. 雑誌『SWITCH』(Vol.33 No.7)では「細田守 冒険するアニメーション」特集が組まれ、そこで本ブログ執筆者が細田監督作品と東京国立博物館の所蔵品をはじめとした日本絵画の関わりを解説しました。
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posted by 松嶋雅人(平常展調整室長) at 2015年07月10日 (金)
「クレオパトラとエジプトの王妃展」王妃のプロフィール(4)~クレオパトラ~
「クレオパトラとエジプトの王妃展」で注目の王妃を紹介するシリーズの第4回です。
今回のヒロインは、展覧会のタイトルにも登場するクレオパトラ。
彼女は「絶世の美女」「悲劇の女王」と呼ばれるなど、魅力あふれる女性でした。
そのため死後も彼女を題材にした数多く彫像や絵画、小説や映画などが作られています。ごく最近でも某ファストファッションブランドのCMでのなかで、香椎由宇さん演じるクレオパトラが三大美女のひとりとして登場しています。
実はクレオパトラの名前をもつ王妃が歴史上数人いることをご存知でしょうか?
一般にいうクレオパトラは、クレオパトラ7世を指しています。
クレオパトラ7世は、プトレマイオス12世の娘として紀元前69年に生まれました。彼女が生きた時代のエジプトは、プトレマイオス朝エジプトとも呼ばれ、アレクサンドロス大王の東方遠征に従った将軍のひとり、プトレマイオスが、大王の没後、王を宣言して独立したギリシア系の王国でした。
この王国の最後の女王がクレオパトラ7世です。
(左)クレオパトラ
ローマ出土
プトレマイオス朝時代
クレオパトラ7世治世(前51~前30年)
ヴァチカン美術館蔵
Photo(C)Vatican Museums. All rights reserved
クレオパトラの代表的な彫像のひとつです。いわば定番中の定番のクレオパトラ像、
頭には幅の広い帯状の冠を被っています
(右)クレオパトラ
出土地不詳
プトレマイオス朝時代(前1世紀中頃)
トリノ古代博物館蔵
(C)Archivio Soprintendenza per i Beni Archeologici del Piemonte e del Museo Antichità Egizie
こちらの彫像は、近年クレオパトラ像として指摘された作品です
これらふたつの彫像は、いずれもギリシア様式の特徴をもつ王妃の像ともいえます
クレオパトラ
出土地不詳
プトレマイオス朝時代(前200~前30年頃)
メトロポリタン美術館蔵
Photo(C)The Metropolitan Museum of Art, Dist. RMN-Grand Palais / image of the MMA
3匹の聖蛇ウラエウスがつく冠はエジプト風、巻き髪のヘアスタイルはギリシア風のクレオパトラ像。
ギリシア系の王国の女王であり古代エジプトの女王、という両面をあわせもつクレオパトラをよく表わしています
父王がなくなった紀元前51年、クレオパトラは弟プトレマイオス13世とともに共同統治を行いますが、弟はまだ幼く歳が離れていることもあって、実際は彼女の単独統治といえるものでした。
クレオパトラ女王の誕生です。
しかし、彼女は弟の支持者によって国を追われてしまいます。
この姉弟の権力闘争のなかで登場するのが、ローマの英雄カエサルです。
クレオパトラはカエサルを後ろ盾とすることで、この争いに打ち勝ち、再び女王の座に返り咲きます。
ところが、カエサルの突然の暗殺によって、彼女は物心両面の支えを失います。
新たにカエサルの副官であったアントニウスと関係を結びますが、後にローマ帝国初代皇帝となるオクタウィアヌスにアクティウムの海戦で敗れ、紀元前30年に自らの短い生涯を閉じました。
クレオパトラとアントニウスの銀貨
シリア出土
プトレマイオス朝時代
クレオパトラ7世治世(前51~前30年)
古代オリエント博物館蔵
銀貨の表と裏に表わされたクレオパトラ(写真左)とアントニウス(写真右)は、二人の親密な関係を示しています。
当時のコインは民衆に王の姿を伝えるために、忠実に表わされました
ここまで紹介してきたクレオパトラゆかりの作品と、みなさんが思い浮かべるクレオパトラの姿と違いはありませんか?
私たちがよく知るクレオパトラのイメージは後世に創られたものです。
西欧諸国ではルネサンス以降、旧約聖書の逸話を題材とする絵画が描かれ始めます。
また古代もまた題材として選ばれました。
17・18世紀になると西欧諸国のエジプトへの進出とともに、古代エジプトへの関心とあこがれは高まりをみせます。
そのようななか、美しさと知性そして波乱の人生を送ったクレオパトラは、彫像や絵画、小説の格好の題材として選ばれ、物語の主人公として新たに生まれ変わったのです。
オクタウィアヌスにカエサルの胸像を示すクレオパトラ
ポンペオ・ジローラモ・バトーニ筆
1755年か
ディジョン美術館蔵
(C)Musée des Beaux-Arts de Dijon. Photo Hugo Martens
クレオパトラがカエサルの胸像を前にし、彼との親交を語ることでオクタウィアヌス(後のローマ帝国初代皇帝アウグストゥス)の心を解こうする場面です。
クレオパトラは描かれた当時の衣装に身を包み、気品に満ちた姿で描かれています
クレオパトラ
ダニエル・デュコマン・ドゥ・ロクレ作
1852~53年
マルセイユ美術館蔵
(C)Musées de Marseille / photo Jean Bernard
逸話をもとにクレオパトラの死の場面を象徴的に表わした像。胸をあらわにした彼女の右腕には毒蛇が絡みついています。
彼女は古代エジプトの女王としてではなく、妖艶な美女として表現されました
ぜひ本展で、古代エジプト最後の女王として君臨したクレオパトラの姿とともに、後の世で物語や伝説のなかで永遠の命を得たクレオパトラの姿を、あわせてお楽しみください。
カテゴリ:研究員のイチオシ、2015年度の特別展
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posted by 品川欣也(特別展室主任研究員) at 2015年07月07日 (火)
長雨と湿気に、気分もやや沈みがち・・
そんな中、ここだけはホットなエナジー(表現が古い?)が満ちみちています。それは、刀剣が展示されている部屋。連日の盛況には、ただ驚くばかりです。
この機会に初めてトーハクを訪れたという方も少なくないようですが、ツイッターなどでの感想の中に、「刀剣だけでなく他の総合文化展(平常展示)の展示物も良かった!」との声を目にして、とても嬉しく感じます。永い歴史をもつ当館には、優れた美術作品や歴史資料が伝わってきました。担当の研究員は、その中からさらに厳選して作品を展示しています。あなたのその熱いまなざしなら、きっと他の分野でも、名品の名品たるゆえんを感じ取っていただけるはずです!
ということで、いささか前のめり、かつ我田引水ぎみですが、今回は本館13室金工の部屋で現在展示している、「自在と置物」(7月26日(日)まで)についてご紹介します。
自在置物とは、鉄、銀、銅などの金属で、タカ、ヘビ、エビ、カニ、コイ、カマキリ、クワガタ、チョウなどの動物を形づくったものです。たんに形にあらわすというのではなく、各パーツを細かく独立させて作り、組み立てられています。プラモデルを想像してみてください。ただ、プラモデルのパーツは、溶かしたプラスチックを金型に流し込んで成形しますが、自在置物の場合はすべて手作り。それも金属の塊や板を熱しては叩くことを繰り返し、形に仕上げているのです。その姿はきめわてリアル。しかも胴体や関節の曲げ伸ばしなど、自由自在に動かすことができます。パーツが細かく分かれているので、自由でなめらかな動きが可能となるのです。
左:自在鷹置物 明珍清春作 江戸時代・18~19世紀 東京国立博物館蔵
右:自在伊勢海老置物 明珍宗清作 江戸時代・18~19世紀 東京国立博物館蔵
こうした一連の作品は「自在置物」(略して自在ということも多い)と呼ばれていますが、この呼び名が定着したのは、実はそう古いことではありません。現在も13室で展示していますが、明治時代末に購入した里見重義(さとみしげよし)作の、銀製の龍の箱に、「純銀製自在 龍」と記され、これを当時の台帳に「自在龍置物」として登録したこともあり、昭和58年(1983)当館での特別展「日本の金工」において、同種の作品に「自在○○置物」という名称を使ったことが、ひとつのきっかけとなったのです。当館には、自在の代表的作品が少なくありません。金工を担当してこられた先輩方の研究と尽力によって、当館には「自在置物」の名品が集まり、そして美術作品としても認知されるようになったということを、強調しておきたいと思います。
左:自在龍置物 里見重義作 明治40年(1907) 東京国立博物館蔵
右:自在龍置物の箱の蓋表
自在置物は江戸時代以降、さかんに作られるようになります。制作を担ったのは、鎧(よろい)や兜(かぶと)、あるいは当世具足(とうせいぐそく)などの、いわゆる甲冑(かっちゅう)を制作した甲冑師たちでした。江戸も時代が進み、戦乱の無い泰平な世情の中で、甲冑の仕事は少なくなり、甲冑以外の道具や調度品を手がけるなかに、こうしたいわば「動物のフィギュア」もあったのです。しかし、当時どのように使われていたのかは、よくわかっていません。ある作品では「文鎮」(ぶんちん)と記録していた例があり、一部の小型作品については、文鎮としても使われたようです。しかし大型の作品は、すでに「重し」の範疇を超えています。用途を離れた純粋な鑑賞作品、つまり「置物」という性格は、かなり強かったのではないでしょうか。これは自在置物に限らず、江戸時代、特に中期以降の仏具や、香炉、水滴などの調度品にも、ある程度共通していえることです。一応は用途をもつけれど、多彩で高度な金工技法を駆使し、動植物や人物故事などのモチーフを精巧に表し、それ自体が鑑賞芸術として成立している作品があります。
左:花籠形釣香炉 江戸時代・18世紀 東京国立博物館蔵
右:五具足 村田整珉作 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵
さらには、当時中国や西欧からもたらされ発展した本草学(ほんぞうがく)や博物学(はくぶつがく)の影響も大きくあずかっていたことでしょう。動物・植物・鉱物などを詳細に観察し、精密な図絵に写し取り、分類研究することで、ひいては医療や農耕、漁労などへの応用をはかっていく学問です。
江戸時代の自在置物は、ほとんどが鉄製です。茶釜のように溶かした鉄を鋳型に流し込んで作る鋳造(ちゅうぞう)という技法もありますが、甲冑や刀剣などは、鉄の塊や板を熱して赤め叩くことを繰り返す鍛造(たんぞう)により成形します。いったん形を作ってしまえば、固く頑丈なのですが、そこまでもってくるのに、たいへんな手間と時間、そして技能を必要とします。見方を変えれば、鉄を鍛造して組み上げる「自在置物」は、同じ材質と技法で甲冑を作っていた甲冑師たちにとっては、まさに「お手の物」でした。江戸時代の自在置物には、「明珍」という姓をもつ作者の名が記された作品があります。この明珍は甲冑師の一派で、大名の所在する各地で活躍していました。今回の展示の中にも、明珍姓の作品がいくつかありますが、その一つが当館の誇る「自在龍置物」です。
上:自在龍置物 明珍宗察作 江戸時代・正徳3(1713) 東京国立博物館蔵
下:寝ころんだところです。
全長135センチをはかり、自在置物としては大型の部類に入る作品です。鉄の鍛造でパーツを作り、表面に黒漆を焼き付け、鋲(びょう)で留めて組んでいます。胴から尻尾にかけては、径のことなる円筒を重ねていくやり方で、ヘビの構造と同様です。大型でやや重くはありますが、かなりフレキシブルな動きをさせることが可能です(動画をご覧下さい)。
もちろん龍は実在の動物ではないのですが、東洋では古代から、様々に表現されてきました。そうした従来の図像の約束ごとにしたがい、それをリアルに再現したということになるでしょう。この作品は、大型であること、動きのなめらかさ、バランスの取れた造形など、自在置物としても最高峰といってよいと思うのですが、もう一つ重要なことに、制作年代と作者の名前が判明する点があります。のどの部分に刻まれた銘文から、正徳3年(1713)、「武江」(武蔵野国江戸)の神田に住む、当時31歳の「明珍紀宗察」が作ったことがわかります。正徳3年は、現存する自在置物の年記としては最古です。
自在龍置物のあごの銘文
またこの明珍宗察(むねあき/むねあきら)は、甲冑師としても実績を残しました。宗察は江戸の明珍家本家の宗介に師事し、広島藩浅野家や福井藩松平家の甲冑を制作しています。灯台もと暗し、実は当館にも、宗察の手がけた甲冑の部品があることがわかりました。籠手の部分の金具2点です。いずれも鉄の鍛造で作られており、背面から打ち出すことにより、表はレリーフ状に浮き上がっています。龍の爪や角には、金や銀が象嵌されています。薄い鉄板の打ち出しと細部の表現から、優れた技術が見て取れるのですが、本品には「於武江 明珍式部紀宗察作之」「享保六辛丑年二月吉祥」と刻まれています。自在龍制作から8年後の享保6年(1721)、変わらず江戸住まいであった宗察の手になるものです。そういえば、龍のボサボサッとしたようなひげの表現は、両者通じるところがありますね。この後宗察は以後も甲冑師として活動したようで、子の宗寅と合作した延享5年(1748)の甲冑が知られています。
左上:甲冑金具(籠手部分) 明珍宗察作 江戸時代・享保6(1721) 東京国立博物館蔵 ※この作品は展示されていません
左下:鉄板の打ち出しで、龍や雲などの文様をレリーフ状に表します。
中・右:甲冑金具の銘文
自在置物は、明治時代以降も制作されました。海外における博覧会での出品や工芸品の輸出などの時勢にあって、精巧な自在置物は海外で高く評価されます。今なお海外に多数の自在置物が所在しているのは、そのためです。明治期における自在のプロデュースを精力的に行なったのが、今回の展示でも作品を紹介している、高瀬好山(たかせこうざん)でした。当館にはこれまで、好山の自在がなかったのですが、昨年ご好意によって作品のご寄贈、ご寄託にあずかることができ、本当に有難く感じております。(なお今回展示している高瀬好山作の自在蟷螂置物をご寄贈くださった森山寿様からは、明珍宗察の動向についても、貴重なご教示をいただきました。)
左:自在蟷螂置物 高瀬好山作 大正~昭和時代・20世紀 東京国立博物館蔵 (森山寿氏寄贈)
右:蟷螂拳 VS 蛇拳!
自在置物は、その所在や伝来もふくめ、今後新しい事実の発見や確認が期待される分野だと思います。興味を抱かれる方も、年々増えているように感じます。自在置物の世界が、いよいよのびのびと広がっていくことを願っています。
カテゴリ:研究員のイチオシ
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posted by 伊藤信二(広報室長) at 2015年07月03日 (金)