東洋館8室では、特集「宮廷から地方へ――明時代の絵画と書跡」(前期:~2021年3月21日〈日〉、後期:3月23日〈火〉~4月11日〈日〉)を開催しています。
当館所蔵、寄託の中国絵画といいますと、まずは国宝の李迪筆「紅白芙蓉図軸」に代表されるような、宋時代、12から13世紀の作品が有名です。
しかし、実は明時代、15から16世紀の宮廷画家と、その系譜に属する画家たちの作品にも、かなりの優品がそろっています。
今回は、これらをまとめてご覧いただこうという特集になります。
東洋館8室 展示風景
大きな作品が多く、会場では、その迫力、「画面の圧」も楽しんでいただきたいのですが、このブログでは、さすが宮廷画家! と思えるような、緻密な細部描写をいくつかご紹介したいと思います。
1. 呂紀筆「四季花鳥図軸」
重要文化財 四季花鳥図軸 呂紀筆 中国 明時代・15~16世紀
呂紀(りょき)は、明時代の花鳥画を主導した画家で、日本にも大きな影響を及ぼしたことで知られます。
重要文化財 四季花鳥図軸(春)(部分・鳩)
こちらは、その代表作「四季花鳥図軸(しきかちょうずじく)」四幅対の一部です。
鳩のクチバシや頭部、目の虹彩の部分などには繊細なグラデーションがかけられ、後頭部や肩の羽一枚一枚が丁寧に描かれています。
また、やわらかい墨の線によって一本一本描かれた羽毛が、鳩の全身をびっしりと覆っているのも確認できるでしょう。
重要文化財 四季花鳥図軸(春)(部分・桃)
こちらは咲き誇る桃の花。
さまざまな角度から表わされた花びらや葉には、やはり美しいグラデーションが見られます。
蕊(しべ)の描写も細やかで、蕚(がく)や葉の輪郭には墨と赤茶色が重ねられ、枝全体がほのかに紅く色づいている様子が再現されます。
2. 周全筆「獅子図軸」
獅子図軸 周全筆 中国 明時代・15世紀
「獅子図軸(ししずじく)」は、幅2メートル近い画絹いっぱいに父子の獅子が描かれた、豪壮な雰囲気の作品です。
獅子図軸(部分)
左=父獅子の顔、右=子獅子の顔上=父獅子の顔、下=子獅子の顔
迫力はあるけれども、画家の実感が伴わないせいか、どこかユーモラスでもある獅子たちの表情も見所ですが、
獅子図軸(部分・毛描)
たてがみや体毛に見られる、様々な種類の線描には、さすがの技巧が光っています。
3. 「売貨郎図軸」
売貨郎図軸 筆者不詳 中国 明時代・15~16世紀 石島護雄氏寄贈
貨郎は行商人のことです。
明時代の宮廷では、元宵節(げんしょうせつ、旧暦1月15日)の出しものとして劇団員が扮した華美な貨郎を描く主題が流行したようです。
この「売貨郎図軸(ばいかろうずじく)」は、宋時代絵画として伝わってきましたが、明時代宮廷画家によるものと推察されます。
売貨郎図軸(部分・貨郎と子ども) 筆者不詳 中国 明時代・15~16世紀 石島護雄氏寄贈
指に小鳥をとめた貨郎と、子どもたちが会話をしています。
子どもたちの美しい衣装も見所です。
売貨郎図軸(部分・屋台)
豪華な屋台の中には、多種多様な鳥が描かれ、鳥名を記した紙札がひるがえります。
売貨郎図軸(部分・蛙と猿)
画面手前には、片足はだしの腕白小僧が、サソリのついた棒で捕まえた蛙を片手にぶら下げて、走っています。
屋台の下にぶらさがった猿がそれを面白そうに眺めており、そのさらに下には、脱ぎ捨てられたくつが見えます。
あるいは猿がいたずらして、くつを隠したのかもしれません。
売貨郎図軸(部分・踊る子ども)
画面手前左には、腕をからませて踊っている子どもたちの姿も見えます。
今となってはこれがどのような遊びなのかわかりません。
この作品には、このような見る人の目をたのしませる仕掛けがちりばめられているのです。
特集「宮廷から地方へ――明時代の絵画と書跡」では、このほかにも、じっくり細部をご覧いただきたい作品が多く展示されています。
ぜひ会場で、明時代宮廷画家たちの画技をおたのしみください。
宮廷から地方へ――明時代の絵画と書跡 編集・発行:東京国立博物館 定価:660円(税込) カラー24ページ 各作品の詳細な説明については、こちらの小冊子もご参照ください。 |
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posted by 植松瑞希(出版企画室) at 2021年03月05日 (金)
こんにちは、日本絵画担当の金井です。
現在本館2階で開催中の「木挽町狩野家(こびきちょう かのうけ)の記録と学習」に関連して、前回は模本の果たした役割についてご紹介させていただきました。
今回は、木挽町狩野家が務めた江戸幕府の「奥絵師(おくえし)」がどのようなもので、どのように弟子を育成していたのかをみていきたいと思います。
(前回のブログ「模本たちの果たした役割」に移動する)
江戸幕府の御用を務める絵師のなかで、最上位に位置するのが奥絵師です。旗本にも匹敵する身分で、将軍への直々のお目見えOK、世襲もOK。絵の代金である報酬(画料)のほかに、家来持つための給与も支給されていました。
江戸幕府の御用を務める絵師たちの序列
江戸幕府の奥絵師は、狩野探幽、尚信、安信の3兄弟から続く家柄にほぼ限られていました。探幽は鍜治橋に、尚信は竹川町(後に木挽町)に、安信は中橋に屋敷を拝領したので、それぞれ鍜治橋狩野家、木挽町狩野家、中橋狩野家と呼ばれています。
後に木挽町狩野家から分かれた浜町狩野家を加えたこの4家が奥絵師を名乗ることができました(※幕末には住吉家や板谷家も奥絵師になります)。
この奥絵師の筆頭を務め、画壇の中心的な役割を担ったのが木挽町狩野家です。
奥絵師の仕事は膨大です。まず一か月のうち、決まった日付に出仕(登城)し、「御絵部屋」と呼ばれる部屋に交代で詰めます。描くものは将軍のお好みの絵だけでなく、幕府から各大名家や朝廷、朝鮮国王への贈答品、姫たちの嫁入り道具、幕府役人たちへの褒美など多岐にわたりました。
ほかにも、全国の大大名から依頼される膨大な鑑定依頼をこなし、将軍やその子どもたちに絵を教え、江戸城や寛永寺の襖絵や壁画の作画やメンテナンスまで担当していました。
しかも江戸城は数年おきに火事に見舞われたので、それらを考えると、とんでもない仕事量です。画家であり、鑑定士であり、美術教育者であり、修理技術者でもあったわけです。
公用日記 (天保十二辛丑年秋冬)(部分) 狩野〈晴川院〉養信筆 江戸時代・天保12年(1841)
江戸城内で、第12代将軍・徳川家慶が見守るなか、大急ぎで襖絵を描く狩野〈晴川院〉養信とその兄弟・息子たち
これら膨大な仕事を当主だけでこなすことは不可能です。そのため各家は多数の弟子(=門人)を教育して組織的に対処していました。木挽町狩野家は常時5、60人の弟子を抱えていたといいます。
この大工房は「画所(えどころ)」と呼ばれ、弟子の育成、絵の鑑定、絵の製作という3本を柱としていました。
弟子によって絵の出来栄えに差があっては困るので、教育プログラムも組まれるようになります。ここでも登場するのが模本です。全国の大名からの推薦を受けた優秀な若者に、手本となる模本を繰り返し書写させ、技術を叩き込むことで、当主の用務を代行できる立派な「木挽町狩野家の絵師」を育成することを試みました。
木挽町狩野家の修学過程
上の図は、木挽町狩野家の弟子であった明治時代の日本画家・橋本雅邦(1835–1908)の回顧録をもとに作成した修業過程の図です。今の学校のように、課題をこなしてステップアップしていく様子がよくわかります。
一人前になった絵師たちは国許に戻り、各大名のお抱え絵師として活躍し、後人を育てました。そこからまた優秀な若者が推挙され、上京して木挽町狩野家で学ぶ……というサイクル生まれます。そのため、弟子たちも先祖代々の絵師、という家が少なくありません。先の橋本雅邦や、同じく明治時代に活躍した狩野芳崖もこのような家の出身です。
結果として狩野派の作画メソッドが全国に広まり、裾野が広がることで奥絵師の地位はますます上昇していくことになりました。
特集「木挽町狩野家の記録と学習」から2回に渡って、江戸時代の狩野派がどのように模本を使ってきたかなどをご紹介してきました。
普段は完成した「本画」を見ていただく機会が多いと思いますが、絵師たちが水面下で行っていた努力を、これらの模本類を通じて少しでも感じていただければ幸いです。
カテゴリ:特集・特別公開
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posted by 金井裕子(平常展調整室) at 2021年03月04日 (木)
本館特別1室と特別2室で「木挽町狩野家(こびきちょう かのうけ)の記録と学習」(3月21日(日)まで)がはじまりました。
この特集は、当館が所蔵する5,000件近い「木挽町狩野家伝来資料」を通じて、江戸時代の幕府の絵師たちが、なぜ多数の模写を行い、どのようにそれらを利用してきたかをご紹介するものです。
会場は以下の3つから構成されています。
第1章「木挽町狩野家のはじまりと奥絵師の御用」
第2章「鑑定と模写」
第3章「記録から創造へ」
第1会場写真
第2会場写真
今回のブログでは、展示をご覧いただく前に、まず、この伝来資料がどのようなものなのかをご紹介したいと思います。
――「模本」「粉本」とはどんなもの
狩野派は室町時代中期から明治時代初期まで続いた、日本の絵画の最も代表的な流派の一つです。昨年の特別展「桃山」で展示していた室町時代の狩野元信、安土桃山時代の永徳、江戸時代初期の探幽などの名をご記憶の方も多いのではないでしょうか。
今回ご紹介している伝来資料は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した木挽町狩野家が大切に保管していた「模本(もほん)」や「粉本(ふんぽん)」と呼ばれるもので、主に5つの種類があります。
(1)目にした出来事を記録したもの。スケッチ。
(2)完成画(本画)の前段階となる下絵や草稿。
(3)本画の代替品としてつくられた複製画。レプリカ。
(4)後日の参考資料として、本画を写した控え。模写や縮小コピー(縮図)。
(5)学習や練習の結果、量産されたもの。稽古描き。
(1)スケッチは思いついたときに描きとめることが多く、後日、画帖や巻子に貼られて保管されました。
雑画帖 第一帖(部分) 狩野〈伊川院〉栄信、狩野〈晴川院〉養信筆 江戸時代・18~19世紀
(2)本画の前の下絵。幕府に制作を命じられた屛風の下絵です。
長篠合戦図屏風下絵 狩野〈養川院〉惟信、狩野〈伊川院〉栄信筆 江戸時代・18~19世紀 狩野謙柄氏寄贈
(3)本画の代替品としてつくられた複製画。徳川吉宗が狩野古信に命じて3セット描かせ、1つは狩野家の控えとして、残る2つは幕府と所蔵者である毛利家にそれぞれ収められました。
四季山水図巻(山水長巻)(模本、部分) 狩野〈栄川〉古信模写 江戸時代・享保10年(1725)
原本=雪舟等楊筆 室町時代・文明18年(1486)
※展示期間:2021年2月28日(日)まで
(4)古画や名画を後学のために写したもので、原本の筆者や所蔵者についてのメモを記されています。
羅漢図(模本) 竹澤惟房模写 江戸時代・安永10年(1781) 原本=伝禅月筆 元時代・14世紀
(5)狩野〈晴川院〉養信が10歳(現在の9歳)に描いた稽古描き。
魚籃観音図(模本)(部分) 狩野〈晴川院〉養信模写 原本=狩野探幽筆 江戸時代・文化2年(1805)
中でも特に多いのは古画・名画を写した(4)です。このような模本は狩野派だけでなく、土佐派や住吉派、円山派など、他の流派もそれぞれ作成し、大切に保管していました。
木挽町狩野家の場合、持ち出しを厳しくチェックし、定期的に修理を施すなど、厳重に管理していたことが知られています。
―― なぜ模本が大切にされたのか
現代の私たちからみると、模本はコピーやニセモノといったような、マイナスな印象が強いかもしれません。
けれども、「写す」という行為は、創造を生み出すための原点で、今でも美術制作の基礎中の基礎と考えられています。それは室町時代から江戸時代にかけて画壇を席捲した狩野派の画家たちにとっても同じことです。
そしてそれ以上に、作画上、絶対に模本が必要な理由がありました。それは江戸時代、彼らに期待された絵画がどのようなものだったかに関係します。
当時、絵の主な発注者である将軍や大名は、先例、特に吉例を何よりも重んじていたため、まず先例に準じた絵を描くことが求められました。加えて贈答用の絵画は、相手の格によって画題や、素材の種類、量までも決められていたため、絵師自身のオリジナリティを発揮できる部分は非常に限られていたのです。
このような状況下ですと必然的に、先例、すなわち過去の古画や名画の情報を持たない絵師は御用を務めることが出来ません。逆にいえば、これらをより多く保有している家がより有利になったのです。
そのため、どの家も積極的に鑑定を引き受け、模写する機会を増やし、それをまた次の制作に活かす、というサイクルを作り出しました。また模写の際、古画や名画に対する感想や、当時の所蔵者情報なども記録するようになります。
各家の模本類は、このようにして集められた膨大な絵画情報の集積なのです。
木挽町狩野家は、江戸時代の狩野派の中でも中心的な役割を担い、将軍のお抱え絵師として全国に多大な影響力を持っていました。彼らの手元には全国の大大名からあらゆる古画や名画が寄せられ、大変な数の鑑定をこなしていたことが知られています。
この伝来資料を読み解くことで、江戸時代の絵画制作だけでなく、現在私たちが鑑賞している中世以前の絵画についても多くのことが明らかになると期待されています。
次回は、木挽町狩野家が務めた「奥絵師(おくえし)」という立場と仕事についてご紹介したいと思います。
カテゴリ:特集・特別公開
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posted by 金井裕子(平常展調整室) at 2021年02月16日 (火)
本館特別4室にて開催中の、親と子のギャラリー「まるごと体験!日本の文化」。
「浮世絵」「うるし」など東京国立博物館の展示に関連したテーマをとりあげた、大人も子どもも楽しめる、体験型の展示です。
※会場内では消毒等、新型コロナウイルス感染予防対策を徹底して行っています。
※本展はデジタルコンテンツや複製品を用いた体験型展示です。体験のモチーフとなっている作品は展示していません。
「浮世絵」「うるし」と並んで人気だった「よろい」のコーナーが、会期後半に模様替えし、「きもの」コーナーとして生まれ変わりました。
会場で目を引くのは、この複製きもの。
もとになった作品は、当館所蔵の「小袖 白綾地秋草模様(しろあやじあきくさもよう)」(通称:冬木小袖)と、「振袖 白縮緬地梅樹衝立鷹模様(しろちりめんじばいじゅついたてたかもよう)」。
どちらも江戸時代・18世紀につくられたもので、重要文化財に指定されています。
ほんものの作品展示ではなかなか見られない、着付けた状態の複製きもの
複製きものの横にはテーブルと椅子が並べられ、ゆっくりと「きものぬりえ」を楽しめる空間になっています。
足を休めてちょっと一息。ぬりえに没頭できる空間です
こちらのコーナーでは、寛文年間(1661~1673)に初めて刊行された、雛形(ひいながた・今でいうファッション雑誌)に載っていたきものデザインのぬりえに挑戦できます。
ぬりえイメージ
ちなみに江戸時代には、流行に合わせて200種類以上もの雛形本が出回ったそうです。
たとえば、この雛形本の右ページのデザインによく似たきものが、当館のコレクションにもあります。
「新撰御ひいなかた」より 江戸時代・寛文7年(1667)
振袖 白綸子地大菊小花模様(しろりんずじおおぎくこばなもよう) 江戸時代・17世紀
それから、こちらの雛型本のデザインによく似た赤いきものを着ている立ち姿の女性が描かれた絵もあります。
「美女ひいながた」より 江戸時代・享保12年(1727)
婦女納涼図 西川祐信筆 江戸時代・18世紀 井上猛氏寄贈
雛形に出てくるデザインが、実際に町で流行していたものであったことがよくわかります。
雛形をモチーフにしたきものぬりえのデザインを見て、どんな色のきものがあったらいいかなと、想像を膨らませながら楽しんで色をぬっていただければと思います。
思い思いの色をぬって細かい模様やデザインの工夫をお楽しみいただいたあとは、当館で展示している実際のきものをあわせてご覧ください。
日本の文化の奥深さをより感じていただけることでしょう。
本展は2月28日(日)まで開催しています。
※入館は、オンラインでの事前予約(日時指定券)制となっております。
詳しくはウェブサイトをご確認ください。
カテゴリ:教育普及
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posted by 藤田千織(教育普及室長) at 2021年02月11日 (木)
特別展「日本のたてもの―自然素材を活かす伝統の技と知恵」では、文化庁が「模造事業」としてこれまで製作を行ってきた国宝・重要文化財の木造建造物の模型を中心とした展示を通して、古代から近世までの日本建築の成り立ちを紹介しています。
模型以外にもパネル展示も行っていますがご覧になりましたでしょうか。
パネル展示をしている正倉院正倉模型と唐招提寺宝蔵模型はともに校倉造ですが、今回は校倉造について紹介します。
正倉院正倉 1/10模型 平成16年(2004) 文化庁蔵
※会場では模型は展示していません
唐招提寺宝蔵 1/10模型 昭和39年(1964) 東京国立博物館蔵
※会場では模型は展示していません
校倉造は木材を水平に積み重ねてその上に屋根を載せるので、柱が無い建築構造で、日本建築では特異な存在です。
世界でも特異な存在ですが、ログハウスと呼ばれて北欧の伝統建築では一般的な構造です。
ノルウェーのログハウス倉庫(17世紀、ノルウェー民俗博物館)
じつは、会場の表慶館の裏側に抜けて外に出ると、校倉造の建物があるのです。
重要文化財 旧十輪院宝蔵がそれで、鎌倉時代に建てられ、明治15年に奈良の十輪院から東京国立博物館に移築されました。
重要文化財 旧十輪院宝蔵(校倉)
※柵の中にはお入りいただけません
小さな建物ですが模型ではありません。床下を塞ぐように十六善神像を線刻した石をはめ込む、特異な校倉の中でも仏堂色の強い、さらに特異な校倉です。是非ご覧ください。
校倉造は、木材を隙間無く積み上げる都合上、まっすぐな木材が必要です。
その点において針葉樹は、まっすぐな木材が得られやすいので校倉造に向いています。
世界を見ても北欧のような北国や、中国雲南省北部のような高山地帯など、針葉樹が多い地域にログハウスは多いのです。
しかし、旧十輪院宝蔵をはじめとして日本の校倉のように、木材を断面三角形(厳密には五角形)に精密に仕上げて意匠に優れたログハウスは海外に例を見ません。
展示中の長寿寺本堂(模型)などの優美な檜皮葺も、針葉樹であるヒノキの樹皮を利用したものですが、樹皮葺屋根をここまで美しく昇華した建築は海外にはありません。
長寿寺本堂 1/10模型 昭和62年(1987) 国立歴史民俗博物館蔵
日本人がどのように針葉樹を活かしたか、「日本人と自然」・「日本の美」の一端を垣間見られるポイントです。
※本展の入場は事前予約が必要です。展覧会公式サイト等でご確認ください。
カテゴリ:2020年度の特別展
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posted by 黒坂貴裕(文化庁文化財調査官) at 2021年02月10日 (水)