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1089ブログ

呉昌碩の書・画・印 その7「70代の呉昌碩」

台東区立書道博物館の連携企画「呉昌碩の書・画・印」(~2011年11月6日(日))をより深くお楽しみいただくための連載企画をお届けします。 今日は第7回目です。


呉昌碩にとって70歳は、地位も名誉も獲得した、いわば上り詰めた年でした。
この年、西泠印社の社長に就任、篆刻界のトップに立ちます。それにともない、名声を博した呉昌碩の書画篆刻を求める人たちが日に日に多くなっていきました。詩文や碑文を揮毫し、中国歴代の名品には跋文を記し、印を刻し、印譜をつくり、画の制作に没頭。それはまさに自らが望んでいた、書・画・印の世界のみに生きる暮らしでした。はたから見れば、芸術家として順風満帆な人生を歩んでいるように思えるでしょう。しかし呉昌碩自身は、この状況に精神的な重圧を感じていたようです。

ちょうどこの頃、呉昌碩の妻・施酒(ししゅ)の病状が思わしくなく、治療費や薬代が必要でした。また2人の息子、呉涵(ごかん)と呉東邁(ごとうまい)が多額の借金を抱えてもいました。
呉昌碩が友人の沈石友(しんせきゆう)に宛てた手紙に、以下のような一文があります。


金揮潤筆償児債、紙録単方療婦疴。
(金は潤筆をふるって児の債をつぐない、紙は単方を録して婦の病を療す)


呉昌碩は、書画の潤筆料で我が子の負債を返済し、夫人の医療費をまかなっていたのです。
実は呉昌碩自身も、この頃耳がよく聞こえず、足も不自由な状態でしたので、肉体的にも大きな負担を強いられていました。そのような中での作品制作でしたから、相当なプレッシャーを感じながら、良い作品を数多くつくらなければならないという状況に追い込まれていきます。
しかし人間は、窮地に立たされると思わぬ実力を発揮し、エネルギッシュな作品を生み出すこともあります。呉昌碩の70代がまさにそれであり、彼の生涯を通じて、最も作品数が多く、また最も脂ののった優品が多い時期でもありました。


臨石鼓文額
臨石鼓文額 呉昌碩筆 中華民国9年(1920)77歳 台東区立朝倉彫塑館蔵
(~11月6日(日) 書道博物館にて展示)



特に書においてはその傾向が顕著で、石鼓文の書風を基盤とした、呉昌碩独自の書風が形成されます。篆書の作品は、少し右上がりで、文字の重心が高く、脚が長くて、キュッと引き締まった字形を特徴とします。また行草書においても、石鼓文から得た筆意で書かれ、鋭さと張りのある力強い線質の作品が多くみられます。思わず臨書をしたくなるような、とても魅力的な字姿です。


朝倉文夫宛書簡
朝倉文夫宛書簡(部分) 呉昌碩筆 中華民国10年(1921)78歳 台東区立朝倉彫塑館蔵
(~11月6日(日)まで台東区立書道博物館にて展示)


画もまた、石鼓文の臨書から学び得た、動きのある線を用いて、二次元的に描写するのではなく、立体的な表現で自在に構成されています。呉昌碩の絶妙なバランス感覚と自由な感性とがうまく融合した作品群です。


水仙怪石図
水仙怪石図 呉昌碩筆 中華民国7年(1918)75歳 青山慶示氏寄贈・東京国立博物館蔵
(展示予定は未定)



78歳時の呉昌碩胸像を制作し、それを契機に呉昌碩書画のファンになった朝倉文夫は、呉昌碩作品について、「76、77、78の3年間が最も高潮に達して、全力を発揮した時期」と述懐しており、朝倉自身もまた、その頃の作品を好んで収集しています。
印は、呉昌碩篆刻の集大成である『缶廬印存(ふろいんそん)』を出版したことが大きな成果です。


「鍾善廉」(『缶廬印存』所収)
「鍾善廉」(『缶廬印存』所収) 呉昌碩作
中華民国4年(1915)72歳 小林斗盦氏寄贈・東京国立博物館蔵
(『缶廬印存』は~11月6日(日)まで東京国立博物館にて展示)



この印譜集は、30代から70代にかけて制作された印が収録されています。70代の印は、若い頃から苦心して追い求めてきた漢印の趣にたどり着き、古拙の味わいが十分に感じられる作品です。篆刻界の頂点に立った呉昌碩にとって、印への重圧は特別なものがあったことでしょう。
これら70代の書・画・印は、苦難の中で力を奮い立たせて作り上げた、呉昌碩芸術の境地といえるかもしれません。

  

講演会「呉昌碩の書・画・印」 平成館 大講堂 2011年11月5日(土) 13:30~15:00
※当日受付

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 鍋島稲子(台東区立書道博物館) at 2011年11月04日 (金)

 

呉昌碩の書・画・印 その6「60代の呉昌碩」

台東区立書道博物館の連携企画「呉昌碩の書・画・印」(~2011年11月6日(日))をより深くお楽しみいただくための連載企画をお届けします。 今日は第6回目です。

呉昌碩の60代は「寡作の時期」といわれています。日本での中国文化の流行を背景に、引く手あまたの人気作家として日本人顧客の注文に応え、驚異的な数を誇る70代以降に比べると、日本に現存する作品数は限られていますが、今回はいずれも純粋な創作活動の一端を示す粒ぞろいの作品を展示しています。

石榴図扇面
石榴図扇面 呉昌碩筆 清時代・光緒29年(1903)60歳 青山慶示氏寄贈 東京国立博物館蔵
(~2011年11月6日(日)書道博物館で展示)


篆書 觴詠墨縁
篆書「觴詠墨縁」軸 呉昌碩筆 中華民国・民国元年(1912)69歳 林宗毅氏寄贈 東京国立博物館蔵
(~2011年11月6日(日)東京国立博物館で展示)



呉昌碩64歳の「桃実図」は、紙面を大胆に分割し、みずみずしい桃の実を描いた作品です。気品あふれる淡紅色は、60代以前に多くみられる特徴です。
70代に入ると作品の依頼主である日本人たちが「色のこってりした、趣のぽってりしたもの」を好んだこともあり、この桃の実にみられるような透明感あふれる著色をほどこすことは少なくなります。

桃実図
桃実図 呉昌碩筆 清時代・光緒33年(1907)64歳 高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館蔵
(~2011年11月6日(日)東京国立博物館で展示)



1911年に起こった辛亥革命は、呉昌碩の創作活動にも影響を与えたようです。
民国元年(1912)69歳で、これまで用いていた俊卿(しゅんけい)を廃し昌碩と改めたことは、書・画・印に専念する呉昌碩の志を反映した象徴的な出来事といえるでしょう。
また、60代は対外的な活動が顕著になってきた時期でもあります。
呉昌碩が61歳の光緒30年(1904)に、杭州の印学団体・西泠印社(せいれいいんしゃ)が創立、60代の時期、すでに芸苑で実力と名声をほしいままにしていた呉昌碩は、9年後に同社の初代社長に就任することとなります。

西泠印社(中国・浙江省杭州市)内の風景(文泉と華厳経塔)
西泠印社(中国・浙江省杭州市)内の風景(文泉と華厳経塔)。
敷地内の建物には「呉昌碩記念室」が設けられ、呉昌碩の業績が顕彰されています。



光緒32年(1904)62歳のとき、呉昌碩に師事していた日本の印人・河井荃廬(かわいせんろ・1871~1945)は西泠印社の社員となり、日中の篆刻史に大きな足跡を残しました。これは呉昌碩の助力によるところが大きかったと推察されます。また、この頃の呉昌碩は、日本人の求めに応じて印を刻すことも少なくなかったようです。

画業は、趙子雲(ちょうしうん・1874~1955)などの弟子を擁するまでになり、宣統2年(1910)には上海にて中国書画研究会(後の海上題襟館金石書画会)の設立に参画します。

対外的な活動が盛んになるなかで、呉昌碩の盛名は日本にも届くようになりました。69歳の民国元年(1912)、日本ではじめて刊行された呉昌碩作品集『昌碩画存(しょうせきがそん)』(編集・発行 田中慶太郎)は呉昌碩の書や画を一般の人々に知らしめる契機ともなりました。

長尾雨山(ながおうざん・1864~1942)や内藤湖南(ないとうこなん・1866~1934)と親交し、中国美術の専門家のみならず広く美術界の人々を魅了した呉昌碩。近代日本美術の礎を築いた岡倉天心(おかくらてんしん)の愛弟子・中川忠順(なかがわただより・1873~1928)、彫刻家・朝倉文夫(あさくらふみお)の師匠・新海竹太郎(しんかいたけたろう・1873~1928)、雑誌『国華』編集委員を務めた田中豊藏(たなかとよぞう・1881~1948)といった美術界の名だたる人物が呉昌碩作品を蒐集し、その作品に憧憬を抱いていました。

60代は、書・画・印において確固たる地位を築き、清朝の伝統を継承する巨匠として海外に名を轟かせるまでの熟成期間とも考えられます。その後、呉昌碩の作品は中国国内だけでなく日本の芸術家にも大いに影響を与えていくこととなるのです。

今回、東京国立博物館・台東区立書道博物館の両会場では60代の作品を6件展示しています。
ご紹介できなかった下記3作品もあわせてお楽しみいただければ幸いです。


【書】臨石鼓文軸 呉昌碩筆 清時代・宣統2年(1910)67歳 林宗毅氏寄贈 東京国立博物館蔵
(~2011年11月6日(日) 東京国立博物館で展示)
【書】篆書七言聯 呉昌碩筆 清時代・宣統2年(1910) 67歳 台東区立書道博物館蔵
(~2011年11月6日(日) 台東区立書道博物館で展示)
【書】開通褒斜道刻石跋 呉昌碩筆 中華民国・民国元年(1912) 69歳 台東区立書道博物館蔵
(~2011年11月6日(日) 台東区立書道博物館で展示)
 

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 佐々木佑記(台東区立書道博物館) at 2011年10月27日 (木)

 

呉昌碩の書・画・印 その5「呉昌碩が刻した不折の印 ~その2~」

台東区立書道博物館の連携企画「呉昌碩の書・画・印」(~2011年11月6日(日))をより深くお楽しみいただくための連載企画をお届けします。 今日は第5回目です。

今回は、1089ブログ『呉昌碩が刻した不折の印 ~その1~』でご紹介した、呉昌碩が刻した2種の印「豪猪先生(ごうちょせんせい)」白文方印(以下、「豪猪先生」)と「邨鈼(むらさく)」朱文方印(以下、「邨鈼」)(2種とも台東区立書道博物館にて2011年11月6日(日)まで展示)の作風について見ていこうと思います。


豪猪先生
(左)豪猪先生、(右)(左)の画像の印材上面の側款「老缶(ろうふ)」(全期間台東区立書道博物館にて展示)

「豪猪先生」の刻の深さは、磨滅の具合も考慮しなければなりませんが、浅めでおよそ1ミリ前後。豊かさを感じさせながらも締りのある、呉昌碩の白文印独特の線質です。起筆、終筆、転折には細かく刀を入れて表情を変化させ、筆画が集まっている部分を印刀の柄の先などで叩いて古色を出しています。周囲の縁も叩いて古色を出していますが、「豪」の1、2画目にあたる部分を削ぎ、縁とほぼ同化させています。これにより、上部に横画のない隣の「先」と頭を揃えています。
印面構成では、「豪」の「豕」を右へ流しています。「猪」は若干右へ傾けていますが、「犭(けものへん)」の左側の縦画の終筆を太くすることで、右に流れる「豪」を支えるはたらきをしています。左行の「先」は左に傾け、「生」を中央の縦画を左に傾けることで「先」に続く自然な行の流れができています。これら4字を印面全体として見ると、右行はほぼ垂直にバランスを保ち、左行は右に流れていることがわかります。しかし「生」の2本の横画の起筆を太めに刻すことで、右への流れを支えています。


邨鈼
(左)邨鈼、(右)(左)の画像の印材上面の側款「缶(ふ)」(全期間台東区立書道博物館にて展示)


「邨鈼」も白文とほぼ同じ深さで刻されていますが、余白は深めにさらわれています。起筆、終筆部、そして「邨」の「口」の内側などの細かい余白を作る時はやはり小刻みに刀を入れており、白文と同様の刀法が見られます。縁は全体の安定のために下辺を最も太くしており、ここを中心に叩いて古色を出しています。
印面構成は、左上部に筆画を集め、反対に右下部に余白を作り、筆画の集まる所と開いている所との対比を強調した粗密の関係を表しています。中央の罫線もそれに従い、下へ行くにつれて細くなるよう配慮されています。
「邨」は右へ傾き、「鈼」は左へ傾けた構成になっていますが、「邨」を支えるように右側の縁がはたらいています。「鈼」では、左への傾きを抑えるために、楷書の金偏の6画目にあたる画を左側へなだらかに引っ張り、さらに8画目にあたる横画の終筆を右下がりにまとめています。

以上のことから、この2種の印はともに高い水準を示す印面構成であることがわかります。また、「邨鈼」に刻された「缶」の側款は、例の少ない貴重な単入刀法による篆書例としても注目すべきものです。


(右)毛公鼎銘、(左)十七帖(賀監本)
(左)毛公鼎銘 西周後期・前8世紀 (2011年9月13日(火)~2011年10月10日(月・祝)まで展示)
(右)十七帖(賀監本) 王羲之 東晋・4世紀 (~2011年11月6日(日)まで展示)
共に 台東区立書道博物館蔵、同博物館で展示


不折コレクションに見られるこれらの印影の例としては、『毛公鼎銘』に河井荃廬が刻した印とともにこの2印が押されており、『十七帖』(賀監本)には、「邨鈼」が押されています。どちらも中国書法史上重要な作品であるだけに、不折は大事に押したのでしょう。

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 中村信宏(台東区立書道博物館) at 2011年10月19日 (水)

 

呉昌碩の書・画・印 その4 「50代の呉昌碩」

台東区立書道博物館の連携企画「呉昌碩の書・画・印」(~2011年11月6日(日))をより深くお楽しみいただくための連載企画をお届けします。
今日は第4回目です。

50代を迎えた呉昌碩は、蘇州と44歳時に活動の拠点を設けた上海とを往来する日々を送っていました。光緒20年(1894)51歳時に起こった日清戦争に際しては、呉大澂の幕僚として従軍、この時に見た山川風物は後の呉昌碩の技芸に裨益するところがあったと言われています。また、同25年(1899)56歳には、同郷の丁葆元(蘭蓀)の推挙により、江蘇省安東県令の職を得ます。ただ、職務の内容や環境は呉昌碩には合わなかったようで、着任後1ヶ月ほどで辞職、その後は基本的に、売芸によって生計を立てることに専念しました。

この時期の書画は模索段階、あるいは徐々に自身の作風を築き始める過渡的段階にあったことがわかります。篆書の書跡においては、なお模索の様子が色濃く、49歳時の「篆書毛詩四屏」(東京国立博物館にて2011年10月10日(月・祝)まで展示)は、筆遣いや字形のまとめ方など、「清純」とも評される楊沂孫(1812?~1881)の書風に倣う様子が見て取れます。また、54歳時の「集石鼓字聯」(東京国立博物館にて2011年11月6日(日)まで展示)、57歳時の「臨石鼓文扇面」(台東区立書道博物館にて2011年11月6日(日)まで展示)は「石鼓文」原本からの変形がさほどなく、比較的忠実に書写されています。これら3作品には、古典または先人の書をもとにした、模索段階における謹厳さが窺えます。篆書は50代後半以降、徐々に自身の書風を築き始めます。


臨石鼓文扇面(部分) 呉昌碩筆 清時代・光緒26年(1900) 57歳 高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館
(台東区立書道博物館にて2011年11月6日(日)まで展示)


52歳時、楊峴の室(遅鴻軒)で書写された、「牡丹図」(東京国立博物館にて2011年11月6日(日)まで展示)の行草書による賛は、明末清初期に活躍した王鐸(1592~1652)の書風に通じるところがある一方、後年の書に顕著な、左右に振幅させる筆遣いや粘り強い線質が見られるようにもなります。この時期、行草書においては、徐々に独自の書風を築き始める過渡的段階にあったことが推察されます。


(左)牡丹図 呉昌碩筆 清時代・光緒21年(1895) 52歳 青山杉雨氏寄贈 東京国立博物館、(右)賛の拡大図
(東京国立博物館にて2011年11月6日(日)まで展示)


また、同時期の絵画を見ると、楊峴の賛(清時代・光緒22年(1896)、呉昌碩53歳時)を持つ「墨竹図」(東京国立博物館にて2011年10月10日(月・祝)まで展示)においては未だ呉昌碩独自の様式が明らかではないものの、57歳時の「擬大梅山民梅花図巻」(台東区立書道博物館にて2011年10月10日(月・祝)まで展示)、59歳時の「墨葡萄図」(東京国立博物館にて2011年10月10日(月・祝)まで展示)では墨線や構図を自在にし、金石味を生かした独自の作風が形成し始められたことがわかります。


(左)墨竹図 呉昌碩筆 清時代・19世紀 東京国立博物館
(東京国立博物館にて2011年10月10日(月・祝)まで展示)


(右)墨葡萄図 呉昌碩筆 清時代・光緒28年(1902) 59歳 高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館
(東京国立博物館にて2011年10月10日(月・祝)まで展示)



ところで、50代の呉昌碩を交遊の面から見ると、師友との死別という大きな出来事があったことがわかります。53歳のとき、師と仰ぎ詩文や書法を学んだ楊峴(1819~1896)、そして書画を介して知己の間柄であった任伯年(1840~1896)が、更に59歳のとき、金石資料の閲覧などにおいて知遇を得た呉大澂(1835~1902)が相次いでこの世を去ります。三者の存在は呉昌碩にとって、技芸のみならず精神や人格の形成にまで深くかかわったものと思われます。この時期に見られる書画の作風変化は、彼らとの別れで揺れ動く呉昌碩の心情も少なからず影響しているのかもしれません。

なお、往時の三者との交遊を窺うことができる作品として以下のものを展示しています。

【 楊峴 】
呉昌碩「牡丹図」(東京国立博物館にて2011年11月6日(日)まで展示)
呉昌碩「墨竹図」(東京国立博物館にて2011年10月10日(月・祝)まで展示。今後の展示予定は未定)
任伯年「酸寒尉像」(東京国立博物館および台東区立書道博物館ともに2011年11月6日(日)までパネル展示)
呉大澂「古柏図」(東京国立博物館本館特別1室にて2011年10月16日(日)まで展示)
【任伯年】
任伯年「酸寒尉像」(東京国立博物館および台東区立書道博物館ともに2011年11月6日(日)までパネル展示)
任伯年「蕉蔭納涼図」(東京国立博物館および台東区立書道博物館ともに2011年11月6日(日)までパネル展示)
【呉大澂】
呉大澂「古柏図」(東京国立博物館本館特別1室にて2011年10月16日(日)まで展示)

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 六人部克典(台東区立書道博物館) at 2011年10月13日 (木)

 

呉昌碩の書・画・印 その3 「40代の呉昌碩 ―模索と葛藤― 」

台東区立書道博物館の連携企画「呉昌碩の書・画・印」(~2011年11月6日(日))をより深くお楽しみいただくための連載企画をお届けします。
今日は第3回目です。


光緒13年(1887)、呉昌碩は44歳のとき、それまで活動の中心としていた蘇州・杭州から、上海へと移り住みます。この時期は上海県丞(しゃんはいけんじょう)の官職を買い、生活の糧にしていたようです。一方、篆刻に励み、『削觚廬印存』(光緒9年(1883)~)には、この40代頃から50代までの篆刻作品が収められています。
40代の呉昌碩の書画作品を見ると、いまだ呉昌碩らしさは見られず、その作風を模索していることがわかります。これらの独自の画風を確立する以前の作品は、いわゆる若描と呼ばれ、贋作が作られやすい時期でもありました。しかし、「桂花図」(光緒14年(1888)、45歳)、「墨梅図」(光緒14年(1888)、45歳)や「籠菊図」(光緒15年(1889)、46歳)を見てみると、いずれも50代以降の作品にはみられないみずみずしい個性と、共通する模索の跡を見ることができます。

おそらくこの時期、呉昌碩が絵画創作の規範としていたのは、清末以来の伝統的な花卉画であったのでしょう。張熊「花卉図」は、輪郭を使わない没骨で描いた花弁の表現や構図など全体の画趣がよく似ています。張熊(1803~1886)は、呉昌碩の生地・安吉にも近い秀水(浙江省嘉興)の人で、青年時代から上海で活躍していました。


(左)呉昌碩「籠菊図」(光緒15年(1889)、46歳、青山慶示氏寄贈 東京国立博物館)
(2011年10月12日(水)~11月6日(日)まで平成館企画展示室にて展示)


(右)張熊「花卉図」(咸豊2年(1852)、東京国立博物館)
(展示予定は未定)


清末にはこのような、清雅な色彩を使った花卉画が流行していました。陳鴻寿「花卉図」(嘉慶17年(1812)、東京国立博物館)はその代表作で、すっきりとした画面構成と清楚な色遣いも、「桂花図」(光緒14年(1888)、45歳)と類似するものです。この時期の落款の位置も規則に沿ってきっちりと入っています。


(左)陳鴻寿「花卉図」(嘉慶17年(1812)、東京国立博物館)
(展示予定は未定)


(右)呉昌碩「桂花図」(光緒14年(1888)、45歳、東京国立博物館)
(~2011年10月10日(月)まで本館 特別1室にて展示)



しかしおそらく呉昌碩自身、このような伝統花卉画に不満を感じていたに違いありません。ここで終っていたら、呉昌碩の絵画には現在のような名声は与えられなかったでしょう。呉昌碩は「50歳にして初めて画を学んだ」と言っています。中国では書画一致という考えがあり、書法の筆線を用いて絵画を描くことが尊ばれていました。光緒20年(1894)、俊卿と名を改めた呉昌碩は50代を迎え、自らの書の線を使う新しい絵画世界を、いよいよ生み出していくことになります。40代は同時代までに流行していた花卉画をしっかりと咀嚼した時期と言えるでしょう。


その一方で、その後の人生に大きな影響を与えることとなる友人たちと知り合ったのも40代でした。「古柏図」は、40代で知り合った金石学者呉大澂の古柏図に、呉昌碩が師として接した楊峴(ようけん)、兪樾(ゆえつ)らの跋を伴った作品です。詩塘には呉昌碩が題を施し、光緒16年(1890)、47歳にあたります。


呉大澂「古柏図」(呉昌碩題、光緒16年(1890)、47歳、東京国立博物館)
(~2011年10月16日(日)まで本館 特別1室にて展示)



本館の特別1室「中国書画」では、10月16日(日)まで、本図をはじめ、呉昌碩芸術に至る金石の流れを築いた包世臣、呉熙載、鄧石如の作品や、大先輩にあたる趙之謙、同時代の上海の画家である銭慧安、蒲華、弟子の王一亭の作品などを展示しています。あわせてご高覧いただければ幸いです。

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 塚本麿充(東洋室) at 2011年10月05日 (水)