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1089ブログ

「王羲之と蘭亭序」その4 曲水の宴 パリピの系譜

永和9年(353)3月3日、王羲之が風光明媚な蘭亭に名士41人を招いて開催した曲水の宴は、北宋時代の李公麟(りこうりん)が描いた蘭亭図に基づいて、蘭亭序にまつわる諸資料を加えた蘭亭図巻が作られました。1780年、清の乾隆帝(けんりゅうてい)が明時代の拓本に拠って作らせた蘭亭図巻には、11人が2篇の詩を、15人が1篇の詩を賦し、16人は詩を賦さず、罰として大きな杯に3杯の酒を飲まされた、と注記しています。


蘭亭図巻(乾隆本)(らんていずかん けんりゅうぼん)(部分)
原跡=王羲之他筆
清時代 乾隆45年(1780) 林宗毅氏寄贈 東京国立博物館蔵
【東博後期展示】


王羲之の上には2篇の詩が刻されていますが、実際には6篇の詩を書いたことが、唐の『右軍書記(ゆうぐんしょき)』等の諸文献から分かります。孫綽(そんしゃく)が記した詩集の後序に拠ると、曲水の宴で作られた詩は多く、全ては詩集に載せなかったようです。酔いが回ると筆は進みますが、後で読み返すと、冷や汗が出る内容であったりするものです。

蘭亭図巻(乾隆本)。王羲之の上に2篇の詩が刻されている場面
蘭亭図巻(乾隆本)(部分)


曲水の両岸に陣取る名士たちを見ると、鼻を赤らめた后綿(こうめん)は、どうやら酩酊してぐっすり寝入っているご様子。

蘭亭図巻(乾隆本)。酩酊してぐっすり寝入っている后綿(こうめん)の場面。
蘭亭図巻(乾隆本)(部分)



一方、虞説(ぐえつ)は今し方書き終えた詩稿を手に持って、声高らかに朗読し、お隣の呂系(りょけい)は片膝を立て、耳を傾けて聞き入っています。

蘭亭図巻(乾隆本)。虞説(ぐえつ)と呂系(りょけい)が向き合う場面。
蘭亭図巻(乾隆本)(部分)


足下に飲み干した杯を置く楊模(ようも)は、気持ちよさそうに踊っています。42人のパリピが参加した曲水の宴は、後世に大きな影響を与えました。

蘭亭図巻(乾隆本)。気持ちよさそうに踊る楊模(ようも)の場面。
蘭亭図巻(乾隆本)(部分)

日本における曲水の宴は、『日本書紀(にほんしょき)』に拠ると、顕宗天皇元年(485)3月上巳を筆頭に、486年、487年、691年に開催されたと伝えますが、信憑性には疑問符が付されています。
一方、『聖徳太子伝暦(しょうとくたいしでんりゃく)』では、推古天皇28年(620)3月上巳に、太子が奏して「今日は漢家の天子が飲を賜う日であるぞよ」とのたまい、大臣以下を召して、曲水の宴を開催。諸藩の大徳(冠位十二階の第一番目の位)ならびに漢と百済の文士たちに詩を作らせ、禄を賜りました。日中韓のにぎにぎしいパーティーは、聖徳太子絵伝にも描かれています。


国宝 聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん)(部分)
秦致貞(はたのちてい)筆 平安時代・延久元年(1069)
【法隆寺宝物館の「デジタル法隆寺宝物館」で、8K高精細画像と複製を7月30日(日)まで展示】


『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、文武5年(701)から延暦6年(787)まで15回にわたって開催されたものの、延暦9年(790)に故あって停止され、寛平2年(890)3月3日に再開されました。
源高明(みなもとのたかあきら)の『西宮記(さいきゅうき)』には、曲水の宴の式次第が記されています。その内訳は、(1)天皇出御、(2)王卿が参上し、(3)紙・筆が置かれ、(4)詩題が献上され、(5)三献して、(6)音楽が流れ、(7)身分の低い者から披講し、最後に(8)禄を賜る、という流れでした。
平安時代の中期に、パリピの帝王として君臨したのが藤原道長(ふじわらのみちなが)でした。道長の日記『御堂関白記(みどうかんぱくき)』には、曲水の宴をはじめとする数々のパーティーが記録されています。とりわけ、長保年間から寛弘年間にかけては、タガが外れたように頻繁に開催しています。王羲之が開催した曲水の宴は、時空を隔てた道長の時代にも受け継がれ、道長の部下であった藤原行成(ふじわらのゆきなり)らによって、世界に誇るべきかな表現も最高峰に到達したのでした。


重要文化財 高野切第三種(こうやぎれだいさんしゅ)(部分)
伝紀貫之筆 平安時代 11世紀 東京国立博物館蔵
【書道博で4月23日(日)まで展示】

 

連携企画20周年 王羲之と蘭亭序

編集:台東区立書道博物館
編集協力:東京国立博物館
発行:公益財団法人 台東区芸術文化財団
定価:1,200円(税込)
ミュージアムショップのウェブサイトに移動する

 

 

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 富田淳(東京国立博物館副館長) at 2023年04月18日 (火)

 

「王羲之と蘭亭序」その3 『世説新語』のヒ・ミ・ツ

台東区立書道博物館(以下「書道博」)の鍋島稲子です。
東京国立博物館(以下「東博」)と書道博の両館で開催中の連携企画「王羲之と蘭亭序」は、早くも残すところ約1ヶ月となりました。
東博の植松瑞希さんから流れてきた觴(さかずき)が、目の前を通り過ぎる前にブログを書かないと、罰として大きな觴に三杯の酒を飲まされるかもしれない、ハラハラ&ドキドキリレーの1089ブログ!
わたしからは、今回展示の作品中、国宝に指定されている「世説新書巻第六残巻」(せせつしんじょかんだいろくざんかん)についてお話しをしたいと思います。

『世説新語』とは、後漢時代の末から東晋時代(2~4世紀)にかけて活躍した、640人余りの名士の逸話集であり、いいことわるいこと、あることないことが書かれた、今でいうところのゴシップ誌ネタのようなものです。
南朝宋の劉羲慶(りゅうぎけい)が編纂し、梁の劉孝標(りゅうこうひょう)が注を付しました。
都合1120話が収録され、王羲之にまつわるエピソードは45話あります。
その中に蘭亭序の話も含まれ、『世説新語』は、蘭亭序の記述がある最古の文献としても知られています。

王羲之は、自分の書いた「蘭亭序」が、西晋の貴族であった石崇(せきすう)が詩会の雅宴で作った詩集の序文「金谷詩序」(きんこくしじょ)に匹敵するほどの文章だと、ある人がほめてくれたので、とてもうれしそうだった。
『世説新語』企羨(きせん)第16より

王羲之のほほえましいエピソードですね。
そうかと思えば、仲の良かった友人が亡くなると、手のひらを返したように故人の悪口を言ったり、気に食わない奴を無視したりバカにしたりと、王羲之のブラックな部分も描かれています。
清談好きな貴族たちの人間味あふれる姿が映し出された『世説新語』は、王羲之とその時代背景を知る格好の資料であり、読み物としても楽しい内容です。


国宝 世説新書巻第六残巻-規箴・捷悟(きしん・しょうご)-(部分)
唐時代・7世紀 京都国立博物館蔵
【書道博で3月26日(日)まで展示】
親友の王敬仁(おうけいじん)と許玄度(きょげんど)が亡くなると、王羲之は彼らを手厳しく論じたので、孔巌(こうがん)がこれをいさめ、王羲之は自分を恥じた、というお話。

さて、日本には唐時代に書写された最古の『世説新語』が現存します。
巻末に「世説新書巻第六」と書かれていることから、唐時代には『世説新書』と呼ばれていたことがわかります。
「世説新書巻第六」は、明治時代の初期に西村兼文(にしむらかねふみ)が東寺で発見し、所蔵していました。
京都に住む文人の山添快堂(やまぞえかいどう)、北村文石(きたむらぶんせき)、山田永年(やまだえいねん)、森川清蔭(もりかわきよかげ)、神田香巌(かんだこうがん)は古写本に精しく、ぜひみんなで見にいこうと兼文を訪ねます。
現物を目の当たりにした時、清蔭が色めき立ち、ゆずってくれと言い出しました。
他の4人も欲しがり、ついには口論となったため、兼文は困り果て、しかたなく5人にゆずることにしました。
5人はこれを携え、帰りしなに旗亭へ立ち寄り、酒の席で「世説新語巻第六」1巻を5つに裁断し、くじ引きで各々1つ獲りました。
飲み終わると、みんな大笑いしながら家に帰りました。
この時、5分割された「世説新書巻第六」ですが、後に2つの残巻が1つに接合され、現在は4つの残巻が伝わっています。

東博所蔵の残巻には、尾題の「世説新書巻第六」や、旧蔵者の署名「杲宝」(ごうほう)の右半分が残っています。
本文の後にある神田香巌の跋文によると、杲宝は東寺観智院の開祖で、『本朝高僧伝』に見えると記されています。


国宝 世説新書巻第六残巻-豪爽
(ごうそう)-(巻頭部分)
唐時代・7世紀 東京国立博物館蔵
【書道博で3月28日(火)~4月23日(日)展示】


国宝 世説新書巻第六残巻-豪爽-(巻末部分)
唐時代・7世紀 東京国立博物館蔵
【書道博で3月28日(火)~4月23日(日)展示】
昨年、東博で開催の特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」でも展示されました!

また紙背には、平安後期に書写された「金剛頂蓮花部心念誦儀軌」(こんごうちょうれんげぶしんねんじゅぎき)があり、平安時代にはすでに日本に伝わっていたこともわかります。


[参考]
国宝 世説新書巻第六残巻-豪爽-(紙背部分) 金剛頂蓮花部心念誦儀軌
(注)今回の連携企画では、東博・書道博とも紙背の展示はありません。

そしてなによりも、この作品のすばらしさは、唐時代に完成した楷書の字姿を肉筆で見ることができる点にあります。
美しく力強い筆勢で書かれ、理知的で典雅な響きを持つ「世説新書巻第六」は、日本にのみ現存する、まさに国宝の威厳と風格を備えた、唐時代7世紀の写本の傑作です。
会期中、残巻を書道博で順番に展示していますので、お見逃しなく!

「王羲之と蘭亭序」余話、ここだけのヒ・ミ・ツ
●平成館で開催中の特別展「東福寺」(~5月7日(日))では、国宝「太平御覧」(たいへいぎょらん/京都・東福寺蔵)の第75冊において、王羲之の書論と伝わる部分を4月9日(日)まで展示中! 
●東洋館9室「中国の漆工」では、「蘭亭曲水宴堆朱長方形箱」(らんていきょくすいのえんついしゅちょうほうけいばこ)を4月2日(日)まで展示中!
東博館内で、王羲之や蘭亭序にまつわる作品をぜひ探してみてください!
 

連携企画20周年 王羲之と蘭亭序

編集:台東区立書道博物館
編集協力:東京国立博物館
発行:公益財団法人 台東区芸術文化財団
定価:1,200円(税込)
ミュージアムショップのウェブサイトに移動する

 

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 鍋島稲子(台東区立書道博物館主任研究員) at 2023年03月24日 (金)

 

「王羲之と蘭亭序」その2 蘭亭雅集の様子を想像してみよう!

東京国立博物館(以下「東博」)の植松瑞希です。

東洋館8室で開催している東京国立博物館と台東区立書道博物館(以下「書道博」)の連携企画「王羲之と蘭亭序」は後期に入りました(~4月23日(日))。
「王羲之と蘭亭序」の世界をより深く楽しんでいただくため、本展に関わった東博と書道博の研究員で、リレー形式により1089ブログを更新しています。
さて、トップバッターの中村信宏さんに続き、わたしからは、王羲之主催の蘭亭での集まりが、後世、どのように描かれていったのか、というお話をしたいと思います。


東洋館8室展示風景

永和9年(353)の3月3日、王羲之は、いまの浙江省紹興県あたりにあった蘭亭(一説に、蘭花の多い川辺にあったあずまや)という場所で禊(みそぎ、邪気払い)の行事を行い、41人の名士を集めて、「流觴曲水」(りゅうしょうきょくすい)の宴を開きました。
流觴曲水は、川の水を引いて曲がりくねった流れを作り、そこに、觴(酒の入った盃)を流し、これが自分のところに着くまでに詩を作る、作れなかったら盃を飲む、という遊びです。
この遊びで作られた一連の詩に対し、王羲之が書いた序文が「蘭亭序」です。
「蘭亭序」は名文として知られるだけでなく、最高の書家とあがめられる王羲之の代表作品として称えられてきました。
そして、このようなすばらしい名文・名品を生み出した、蘭亭での集まり自体も、憧れの的となったのです。
そのため、これを描いた絵画作品も数多く残っています。
といっても、当時の記録がことこまかに残っているわけではありません。
画家たちは、その様子を想像して描いたわけで、どこに力点を置いて表現するか、全体構成や細部描写をどう工夫していくかというのは、それぞれの腕の見せ所となります。

さて、歴代の蘭亭雅集図の中で最も名高いのは、北宋時代、11世紀頃の文人画家、李公麟(りこうりん)が描いた巻子形式のものです。
真筆は失われてしまいましたが、図像の大枠自体は、拓本の形で伝えられています。
ここでは、清時代の乾隆帝の命令で作られた拓本「蘭亭図巻(乾隆本)」を見ていきましょう。


蘭亭図巻(乾隆本)(らんていずかん けんりゅうぼん)(部分)
原跡=王羲之他筆、清時代・乾隆45年(1780) 林宗毅氏寄贈 東京国立博物館蔵
【東博後期展示】

最初は、川辺のあずまや、蘭亭から始まります。筆を執り、ガチョウを眺める高士は、ガチョウ好きで知られる王羲之です。
あずまやの王羲之とガチョウの後には、曲水に流れ込む急流があり、酒の入った盃を準備し、次々と水に浮かべる召使の子供たちが描かれます。
そして、流れの左右に並んで座る、42人の名士が紹介されていきます(王羲之も再登場します)。
彼らは敷布の上に座り、硯と筆、紙をかたわらに詩作に励んでいます。
頭上には、官職・名前と、作った詩の内容が書かれています(作れなかった人は空欄です)。

途中は省略しますが、最後には、橋が描かれ、その先で、流れた盃をきちんと回収する子供たちの姿が見えます。


蘭亭図巻(乾隆本)(部分)

この蘭亭雅集図は、絵画表現だけで完結するというよりは、王羲之を始めとした有名な文人たちの性格や人生、その詩文の内容に思いをはせ、それが一堂に会した奇跡的な集まりの盛大さを改めて感じさせる、そういったものになっています。

このような、李公麟由来の図像をふまえて作られたのが、明時代末期、王建章(おうけんしょう)という画家が作った扇面です。
この作品では、両手で開くことのできる小さな画面に、一望できるように蘭亭雅集の風景が描かれています。


蘭亭春禊図扇面頁(らんていしゅんけいずせんめんけつ)
王建章筆 明時代・崇禎6年(1633) 比屋根郁子氏寄贈 東京国立博物館蔵
【東博後期展示】

王建章は、蘭亭雅集になくてはならない曲水を、画面上から、逆Cの字を描いて、左下に送るよう配置します。
この流れに沿って見ていくと、盃を準備して流す子供たちがいて、


蘭亭春禊図扇面頁(部分)

水辺で詩を書いたり、あきらめて盃を飲んだりしている参加者たちがあらわれて、


蘭亭春禊図扇面頁(部分)

あずまやでガチョウが泳ぐのを眺める王羲之が見つかり、


蘭亭春禊図扇面頁(部分)

橋の先で盃を回収する子供たちに行き着きます。


蘭亭春禊図扇面頁(部分)

一方、清時代末期の上海で活躍した人物画家、銭慧安(せんけいあん)は、約束事にとらわれない、新たな蘭亭雅集図を描いています。


蘭亭修禊図扇面(らんていしゅうけいずせんめん)
銭慧安筆 清時代・光緒13年(1887) 青山慶示氏寄贈 東京国立博物館蔵
【東博後期展示】

銭慧安の扇面では、表された空間の範囲はぐっと小さくなり、そこに大勢の人々が詰め込まれます。
王羲之らしき人物の座るあずまや、盃を流す曲水は描かれますが、参加者たちの多くは、流れから離れて、思い思いに時を過ごしています。

盃の流れを見ているのは召使の子供たちだけで、しかも彼らも流觴曲水の宴のために仕事をしているというよりは、おもしろい遊びを興味津々に眺めているという風情です。


蘭亭修禊図扇面(部分)

参加者たちは、輪になって談笑していたり、欄干越しに話し込んだり、琴を聞きながら何かを論評したり、それぞれ、友人たちとの交流に集中しています。


蘭亭修禊図扇面(部分)

考えてみれば、最初に見た、李公麟由来の巻子形式の蘭亭雅集図には、名士どうしの交流はほとんど描かれませんでした。
ひるがえって、銭慧安の作品は、宴のにぎやかな様子を表現することに力点を置いた点に新しさが認められます。

蘭亭雅集に対する画家たちそれぞれのアプローチを比較し、楽しんでいただければ幸いです。 

連携企画20周年 王羲之と蘭亭序

編集:台東区立書道博物館
編集協力:東京国立博物館
発行:公益財団法人 台東区芸術文化財団
定価:1,200円(税込)
ミュージアムショップのウェブサイトに移動する

 

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 植松瑞希(絵画・彫刻室) at 2023年03月14日 (火)

 

「王羲之と蘭亭序」その1 道は違えど蘭亭愛-趙孟頫と趙孟堅-

台東区立書道博物館の中村です。
毎年恒例となっている東京国立博物館(以下「東博」/会場東洋館8室)と台東区立書道博物館(以下「書道博」)の連携企画は、今年で20回目を数えます。
現在開催中の「王羲之と蘭亭序」(前期~3月12日(日)、後期3月14日(火)~4月23日(日))では、20周年の節目を記念して、連携企画初回でも取り上げた王羲之(おうぎし)と蘭亭序(らんていじょ)に焦点をあてるとともに、後世における受容と展開をご紹介しています。

書の名品として名高い王羲之の「蘭亭序」ですが、残念ながら真跡は現存しません。
しかし、その字姿は多くの模本や拓本によって、現代にまで受け継がれてきました。
今回のブログでは、数ある拓本のなかでも「定武蘭亭序」と、それにまつわる書画の大家たちのエピソードをご案内します。

「蘭亭序」を手に入れた唐の太宗皇帝は、臣下たちに臨書や模写を命じました。
そのなかで、欧陽詢(おうようじゅん)の臨書が最も優れているということで、それを石に刻み、とった拓本を下賜したといいます。
この時の版石は、五代十国時代の石晋(せきしん)の乱によって所在不明となり、北宋時代の慶暦年間に定州(ていしゅう/河北省)で発見されました。
この地は唐時代に義武軍(ぎぶぐん/軍団の名)が置かれたため、「定武(ていぶ)」と名付けられたといいます。

同地の太守であった薛珦(せつきょう)が模刻し、子の薛紹彭(せつしょうほう)も模刻を行いましたが、この時にもとの版石の五字(五行目の「湍」「帯」「右」「流」、八行目の「天」)を破損させました。
破損させる前にとられた拓本を「五字未損(みそん)本」あるいは「五字不損(ふそん)本」、破損したあとにとられた拓本は「五字已損(きそん)本」といいます。
版石は北宋王朝滅亡の原因となる靖康(せいこう)の変で失われたと伝えられています。
五字未損本には、書道博が所蔵する中村不折コレクションの「韓珠船本(かんじゅせんぼん)」があります。


定武蘭亭序(韓珠船本)
原跡=王羲之筆 原跡=東晋時代・永和9年(353) 台東区立書道博物館蔵
【書道博前期展示】



「定武蘭亭序(韓珠船本)」展示風景(於=台東区立書道博物館)
【書道博前期展示】


五字已損本には、「呉静心本(ごせいしんぼん)」、そして元時代の大家、趙孟頫(ちょうもうふ)が愛蔵した「独孤本(どっこぼん)」が有名です。
元時代・至大3年(1310)9月、僧の独孤からこの「蘭亭序」を譲り受けた趙孟頫は、都に向かう船のなかで鑑賞・臨書し、「蘭亭序」を尊崇する心情を十三の跋文(ばつぶん)に記しました。


定武蘭亭序(独孤本)
原跡=王羲之筆、跋=趙孟頫他筆 原跡=東晋時代・永和9年(353)、趙孟頫跋=元時代・至大3年(1310) 高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館蔵
【東博後期展示】


[参考]
「定武蘭亭序(独孤本)」より趙孟頫跋文
(注)今回の連携企画では、東博・書道博とも趙孟頫跋文のページ(画像)の展示はありません。


趙孟頫には年の離れた従兄の趙孟堅(ちょうもうけん)がいます。
趙孟堅はある日、五字未損本の「蘭亭序」を手に入れ、限りない喜びを感じていました。
ところが夜に舟で帰るところ、湖中弁山(こちゅうべんざん)という所のふもとで舟がくつがえってしまいます。
荷物の類はみな水浸しとなりましたが、幸いに浅く、趙孟堅はこの巻を持って洲の上に立ち、従者に向かって「蘭亭は私が持っている。その他の物は棄てても何か苦しかろうか」と言いました。
趙孟堅は家に帰ると、巻のはじめに「性命可軽。至宝是保。」の八字を題し、さらに重宝したといいます。
こうして趙孟堅が命懸けで守った五字未損本は「落水本(らくすいぼん)」と呼ばれるようになりました。
(注)今回の連携企画では、東博・書道博とも「落水本」の展示はありません。

中国文化護持のためにあえて元王朝に仕えた趙孟頫とは相容れない仲となってしまいましたが、「蘭亭序」を愛好し、尊重する気持ちはどちらも負けてはいません。
こうした出来事も「蘭亭序」の神格化に一役買ったようです。
 

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 中村信宏(台東区立書道博物館主任研究員) at 2023年03月01日 (水)

 

特集「中国書画精華―宋代書画とその広がり―」その2「五馬図巻」

現在、東洋館8室では、日中国交正常化50周年 東京国立博物館150周年 特集「中国書画精華―宋代書画とその広がり―」(前期:~10月16日(日)、後期:10月18日(火)~11月13日(日))が展示中です。

前回の1089ブログ(その1「アジア大発見!」)に続き、本特集後期展示の絵画でおすすめしたいのは、「五馬図巻(ごばずかん)」です。
修理に入っていたため、2019年の特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」(東京国立博物館)以来、久しぶりの公開となった本作について、以下、簡単に紹介したいと思います。










重要美術品 五馬図巻 李公麟筆 中国 北宋時代・11世紀
(展示期間:10月18日(火)~11月13日(日))



1、主題

「五馬図巻」には、名前のとおり5頭の馬が、その縄をひく人物ともに描かれています。
第1馬から第4馬までは、画の横に馬の来歴、名前、年齢、高さが書かれています。

それによると、
立派な体格と賢そうなまなざしをもつ白毛(一部に赤みを帯びた灰色の斑点あり)の第1馬は、中国北宋時代の元祐元年(1087)12月16日に于闐国(現在の新疆ウイグル自治区ホータン県あたりにあった国)から献上された、鳳頭驄(ほうとうそう、鳳凰の頭のように美しい葦毛という名)。
黄毛で鼻の大きな異民族風の装束の男にひかれています。



五馬図巻(第1馬部分)
 

やや小柄で愛嬌のある顔立ちの、うすい赤褐色の第2馬は、元祐元年(1086)4月3日に吐蕃(チベット)系の首領である董氈(とうせん)から(実際はその後継者から)献上された、錦膊驄(きんぱくそう、肩に美しい模様のある葦毛という名)。
やはり鼻のおおきな柔和な顔立ちの、異民族風のいでたちの男にひかれています。



五馬図巻(第2馬部分)


すらっとした俊敏そうな赤毛の第3馬は、元祐2年(1088)12月23日に秦州(甘粛省)の交易でもたらされた、宮廷厩舎の名馬、好頭赤(こうとうせき、美しい赤に染まった空の色のような馬という名)。
ちょうど馬を洗うところなのか、上着だけをはおった簡素な身なりに裸足で、左手にブラシを持った、異民族の男にひかれます。



五馬図巻(第3馬部分)


やや太った、完全な白毛の第4馬は、元祐3年(1089)閏12月19日、吐蕃の首領である温渓心(おんけいしん)より贈られた照夜白(しょうやはく、闇夜を照らすように白い馬という名)。
こちらは漢民族風の男にひかれています。



五馬図巻(第4馬部分)


第5馬には、現在なにも書かれていませんが、元時代、13世紀にはこれの横にも馬名等があったことが記録にのこっています。
それによれば、くびを高くもたげ、足取りにも活発な気性があらわれているこの大きな馬は、元祐3年(1088)1月14日に献上された満川花(まんせんか、川に花が満ちているような模様のある馬という名)となります。
こちらもやはり漢民族風の、鞭を持った男にひかれています。



五馬図巻(第5馬部分)

 

2、作者

「五馬図巻」には作者の落款がありませんが、北宋の著名な文人士大夫である黄庭堅(こうていけん、1045~1105)と曽紆(そうう、1073~1135)の跋文が付いており、これにより、李公麟(りこうりん、1049頃~1106)の作品として長らく伝来してきました。
現在の美術史学者たちもおおむね李公麟の真筆であることに同意しています。



五馬図巻 
黄庭堅跋



五馬図巻 曽紆跋


李公麟(字伯時、号龍眠)は、舒城(じょじょう、現在の安徽省あたり)の人。
五代十国時代の王国、南唐の君主である李氏の末裔ともいう名門に生まれ、熙寧3年(1070)に進士及第したエリート官僚です。
学問に優れ、書画や古器物を多く蒐集・研究する一方、自身も書画制作をよくし、この時代を代表する文人画家として、在世時から非常に高く評価されてきました。
北宋を代表する文人士大夫、蘇軾(そしょく、1036~1101)およびその周囲の人々が李公麟作品にささげた文学作品も多く残っており、中国文化史にその名声は燦然と輝いています。

画家李公麟が手がけた主題は、馬、道釈人物、山水など幅広いのですが、特に、最初のうちは馬を好んで描き、人気を博したことが知られています。
中国美術史において、軍事力ひいては権力の象徴であり、後に優れた人材の寓意ともなった馬は、重要な主題であり続けましたが、名馬が多くもたらされた唐時代に、特に優れた作品が生まれました。
李公麟は唐時代の馬の画の名手たちの作品をよく研究し、また自ら宮廷の厩舎に足を運んで、北宋皇帝の所有する名馬をよく観察し、対象の真に迫る、優れた馬の画を作ったと伝えられます。

残念ながら、現在、真筆と認められる李公麟の馬の画は、この「五馬図巻」以外のこっていないので、本作は非常に貴重な存在といえます。
馬の顔や体の造形・量感を確かめていくような筆の重なりの臨場感、スッと通った衣の線の美しさ、筆墨と共存する繊細な彩色の効果など、「五馬図巻」の表現を見れば、李公麟が馬の画家として卓越した名声を得た理由がよくわかるでしょう。



五馬図巻 第1馬、筆の重なり



五馬図巻 第2馬、人物の衣文線




五馬図巻 第2馬、馬の目尻の赤味

 

3、修理

「五馬図巻」は、北宋時代は文人士大夫たちの所蔵にあり、南宋時代になって宮廷コレクションに入ったと伝わります。
その後、13世紀、元時代には、書画コレクターたちの間で有名な作品になっていました。
摹本(もほん)も多く作られていたようです。
18世紀には、清朝最盛期の皇帝、乾隆帝(けんりゅうてい、1711~99)の愛蔵品となりました。
清朝滅亡後に日本に流出してからは、1928年の唐宋元明名画展覧会(東京帝室博物館、東京府美術館)に出陳されていますが、以降、2019年の「顔真卿」展まで、公開の機会に恵まれませんでした。

長らく実物が見られなかった「五馬図巻」については、今後、さまざまな場所で多くの人に鑑賞していただくことが望まれましたが、そのような定期的な公開のためには、画や書の表わされた紙や表装の損傷を抑え、状態を安定させることが必要でした。
そのため、東京国立博物館では、2019年から2か年に渡り、紙の折れなどを緩和し、表装のバランスを整えて、巻子の開け閉め回数が重なっても、これ以上損傷が進行しないような処置を行いました。
なお、修理にあたっては、もともとの絵画表現や紙の風合いに極力変化がないように努めました。

この修理の詳細、その過程でわかったことなどは、『修理調査報告 「五馬図巻」』に明らかにしています。
「五馬図巻」自体についても、より詳しく説明していますので、ご関心のある方はぜひご覧くださいませ。



『修理調査報告「五馬図巻」』
全152ページ(カラー64ページ含む)
発行:東京国立博物館
定価:3,450円(税込)
ミュージアムショップにて10月下旬より販売予定。



東京国立博物館の中国絵画コレクションに新しく加わった、「五馬図巻」。
修理を経て、今後もさまざまな展示に登場していく予定ですので、ご贔屓のほど、よろしくお願い申し上げます。

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡東京国立博物館創立150年

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posted by 植松瑞希(絵画・彫刻室) at 2022年10月14日 (金)