このページの本文へ移動

1089ブログ

東京国立博物館コレクションの保存と修理

保存修復室の沖松と申します。
今回は、3月15日(日)まで公開中の特集「東京国立博物館コレクションの保存と修理」(本館特別1室)についてご紹介させていただきます。

当館の保存修復事業の成果の一端として、修理を終えた作品を、修理のポイントやその工程中に得られた情報などとともに紹介するこの展示も今回で15回目!
そんな節目の年でもある今回は、国宝室での「檜図屏風」の修理後初お披露目の展示と同時開催として、檜図屏風の修理に関連する資料も展示しています。

展示室内全景、屏風下地見本
左:展示室内全景右:屏風下地見本
本紙の下には、特性の違う和紙を、張り方を変えて何層も重ねた下地があります。本紙を支え、安定した状態を保つ上でとても重要です。


それでは、展示をのぞいてみましょう。
特別1室の南北の壁側のケースでは、作品の解体を伴う本格修理の例として、南側には刀剣・陶磁・考古などの立体物、北側に絵画・書跡・漆工、中央の覗きケースには、メインテナンスとして恒常的に行っている和綴じ本の綴じの修理や洋書の保存箱の製作などの対症修理の例を展示しています。また、檜図屏風修理の関連では、裏紙制作にあたって、八条宮家縁の意匠として桂離宮の襖に用いられた五七桐大紋の版木を用いました。今回の展示でも宮内庁京都事務所のご協力により特別に拝借して展示しています。

和綴じ、版木・唐紙
左:和綴じ本の修理、右:版木(五七桐大紋)宮内庁京都事務所所蔵とそれから摺った唐紙



ここでは、絵画・書跡作品から1点、技術的に興味深い例として、「先徳図像」(重要文化財)に注目してみましょう。

先徳図像
重要文化財 先徳図像  玄証筆   平安時代・12世紀

この作品は玄証(1146-1222)という、高野山を拠点に密教の図像研究・蒐集に活躍した学僧の自筆のものとして重要な作例です。紙は打ち紙加工がされた楮紙が用いられています。
本紙に虫損跡が多く、紙に厚みがあるため、修理前は、以前の修理で欠損部を塞いだ箇所に段差が生じていました。その段差が折れの進行する原因ともなり、陰影が生じて鑑賞上も支障を生じていました。これだけ多くの欠損部に補修紙を貼ると、一枚の厚さは少なくても、本紙を巻いたときには重なり合い、必要のない厚みが出て本紙に負担をかけてしまいます。

そのため、修理にあたっては虫損部の補修を如何に段差なく、本紙に負担をかけないように行うかが大きなポイントでした。
そこで採用されたのが「DIIPS」 (Digital Image Infill Paper System)です。

この技術は、本紙のデジタル撮影画像から欠損部の形状をアクリルシートに再現したもので補紙を漉き、それを欠損部に嵌めこむ方法です。
本紙の厚みに応じてシートの厚みを変えられ、レーザー加工で欠損部の形に穴を開け、そこに紙料を流し込んで補紙を漉くので、どんなに複雑で小さな形でも欠損部にピッタリ嵌まる形に漉くことができます。
そして周囲の余分な繊維をのりしろにできるため、本紙に接着する際に糊が薄くてすみ、凹凸も極力なくすことができます。
また、この技術の元になっている漉き嵌めのように、本紙そのものを紙料を混ぜた水に通す必要がないので、本紙の風合いや彩色など水に通すと損なわれる要素がある作品に効果的な技術です。


補紙作製シート、作製中
左:補紙作製中 右:補紙作製シート

修理の現場では、様々な状態の作品に、より安全で効果的に対応できるよう、こうした技術・材料の研究開発が常に進められています。

普段の展示された作品だけからは見えない裏方の仕事ですが、文化財を未来に伝えていくためにとても大事な部分です。年1回のこの機会に、是非ご覧いただけたら幸いです。


なお、今回、特別1室に展示の作品のうち、先徳図像は増井梅宗國久代様からの、四季山水図は長谷部康子様からの寄附金により実施することができました。国宝室に展示の檜図屏風はバンクオブアメリカ・メリルリンチ文化財保護プロジェクトからの助成金支援に修理が実施されました。

また、本館17室 保存と修理のコーナーなどに常設の募金箱へも多くの方々からのご寄附を頂いており、日常的メインテナンスとしての様々な処置や保存箱の製作などに活用させて頂いております。皆様の博物館の文化財の保存、修理事業へのご理解とご協力を心より篤く感謝申し上げます。
 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ保存と修理特集・特別公開

| 記事URL |

posted by 沖松健次郎(保存修復室主任研究員) at 2015年03月04日 (水)

 

親鶴の背中に小鶴を乗せて♪「水滴の美―潜淵コレクションの精華―」

1月15日の小正月、お飾りや注連縄、書初めなどを持ち寄り、火でお焚き上げする「どんどん焼き」(どんど焼き)。ニュース映像などでその様子を見るにつけ、思い出されるのは、中学生のころ教科書で読んだ、井上靖の『しろばんば』の抄出部分。「少年老い易く学成り難し」「一寸の光陰軽んずべからず」・・火にくべられた、あき子の書初めを、男子がいやがらせで開こうとする。松も取れていや増す寒さと火の暖かさ、思春期の微妙な心の動きがあいまって、印象にのこっている方も(世代的に)少なくないのでは?

少々強引でしたが、現代でも年賀状や書初めなど、年末年始には筆や墨を使う機会が、俄然増えるものです。本館1階14室では、長い歴史を有する筆墨の文化において、筆や硯などとともに、大事な道具立てのひとつとされてきた水滴、しかも銅や真鍮(しんちゅう)などの金属で作られた作品を、1月14日(水)よりご紹介しています。ずらりとならんだ水滴、壮観です。

本館14室展示
展示風景

硯で墨をする時に注ぐ水を入れる小さな器が「水滴」です。中国では南北朝時代(5~6世紀)ころのものが早い例として知られ、日本では当館の法隆寺献納宝物にある、国宝 金銅水滴(写真下、唐または奈良時代・8世紀)が現存最古の例として有名です。材質としては陶磁器が最も多く、他に金属製や石玉製があります。特に江戸時代以降は、高度に発達した金工の技法を駆使し、動物・植物・人物故事などを主題として意匠をこらした作品が数多く作られました。平成25年、当館に一括して寄贈された「潜淵コレクション」の金属製水滴は、渡邊豊太郎(わたなべとよたろう、号 潜淵(せんえん))氏とご子息の誠之(まさゆき)氏が収集した442件から形成されます。中でも江戸時代の作品は、動物・植物・器物・人物故事などさまざまなジャンルにわたり、類例の少ない七宝の作品も多く含まれます。まさに質・量ともに日本を代表する水滴コレクションといえるでしょう。特集ではその中の各ジャンルから138件をえりすぐりました。以下、いくつかご紹介していきましょう。なお水滴は水をたたえるために、内部は中空。水を入れる穴1個と水を注ぐ穴1個の穴2個というのが基本です。また口を大きく開いた器に、水をすくう匙(さじ)が付属しているものもありますが、これを特に「水盂(すいう)」と呼び、区別することもあります。

国宝 金銅水滴
国宝 水滴(水盂)  唐または奈良時代・8世紀   法隆寺宝物館第5室にて通年展示


まずは動物。当館がこれまで所蔵していたのが、下の画像の左の作品、これでもじゅうぶん耳は長い。ところが潜淵コレクションには、もっと耳長なウサギがいたのです!(画像右)私が個人的に気に入っているのは、この立ち姿のネズミ。両手にはソラマメみたいなものを抱えています。そのモッサリした表情とたたずまいが、なんとも好もしいのです。しかし毛並みの表現などは相当に細かい。しかもかなり大きいんです。カタツムリも秀逸!同じカタツムリながら、右と左ではまったく目指している造形感覚が異なっています。リアリズムとデフォルメといったところでしょうか。

兎
左:耳長兎水滴 江戸時代・18~19世紀 ※この作品は展示されていません。
右:耳長兎水滴 江戸時代・18~19世紀 (渡邊豊太郎氏・渡邊誠之氏寄贈)


鼠
鼠水滴 明治時代・19~20世紀 (渡邊豊太郎氏・渡邊誠之氏寄贈)


カタツムリ
蝸牛水滴  江戸時代・18~19世紀 (渡邊豊太郎氏・渡邊誠之氏寄贈)


珍しいところでは「龍門の鯉」。体は魚ですが、顔には耳と角があります。川を登る鯉の中で、特に優れたものは龍門を登って龍に変じるという「登龍門」(とうりゅうもん)の故事に基づきます。当館にはこの主題の水滴があり、その主題のユニークさ、造形の面白さから、水滴の展示ではよく使っていたのですが、潜淵コレクションにも、細部はやや異なるものの、ほぼ同じ作例がありました。めでたく兄弟ができました。

龍門の鯉
左:鯉水滴(魚跳龍門)  江戸時代・17~18世紀 ※この作品は展示されていません。
右:鯉水滴(魚跳龍門)  江戸時代・18~19世紀 (渡邊豊太郎氏・渡邊誠之氏寄贈)



「親亀の背中に小亀をのせて~♪」(むかし聞いたことのあるフレーズ。ご存知でしょうか?)画像の左は、親亀の体が水滴で、背中の穴に小亀のおなかから出ている「ほぞ」を差し込みます。つまり小亀は蓋(ふた)の役割も果たしているのです。また右は「親子鶴」。水滴ではあまり見ない題材のように思います。

親子亀と鶴
左:親子亀水滴 江戸時代・18~19世紀 (渡邊豊太郎氏・渡邊誠之氏寄贈)
右:親子鶴水滴 江戸時代・18~19世紀 (渡邊豊太郎氏・渡邊誠之氏寄贈)

続いては複数モチーフの組み合わせ。「茄子(なす)に黄金虫(こがねむし)」、「瓜(うり)に栗鼠(りす)」。茄子のヘタのささくれ感や黄金虫の脚、ウリやリスの丸々としたキュートな造形にご注目ください。これら果物と動物の組み合わせは中国の画題にあり、中国的な主題とみなされていたようです。もともとは、なんらかの寓意が込められていたのかもしれません。いずれにしても、そのユニークな組み合わせが楽しい作品です。

なすにコガネムシ 瓜に栗鼠
左:茄子に黄金虫水滴 江戸時代・18~19世紀 (渡邊豊太郎氏・渡邊誠之氏寄贈)
右:瓜に栗鼠水滴  江戸時代・18~19世紀  (渡邊豊太郎氏・渡邊誠之氏寄贈)



潜淵コレクションでは、人物故事的な主題の作品も少なくありません。こちらは床上の唐装の人物で、人物は左手に書物を持ち、床上には酒入れとおぼしきヒョウタンが置かれることから、唐代の詩人で酒をこよなく愛した李白(りはく)の五言絶句「静夜思」に材を取ったものと考えられます。

唐装の人物
牀上唐人水滴(李白静夜思) 江戸時代・18~19世紀 (渡邊豊太郎氏・渡邊誠之氏寄贈)




そして特筆されるのが、七宝水滴の充実です。ぜひ会場で確かめてみてください。そもそも江戸時代の七宝水滴じたい、数が少ないのです。

七宝水滴
展示中の七宝水滴

今回の展示でご紹介しているのは、潜淵コレクション全体の三分の一。まだまださまざまな金属製水滴が、収蔵庫で出番を待っています。金工の作品としての技法や材質など、造形性や歴史性の点でその意義が大きいことはもちろんですが、バラエティ豊かな主題と楽しい表現は、今後当館のさまざまな展示や教育普及事業に、大いなる活躍をしてくれることでしょう。


特集「水滴の美―潜淵コレクションの精華―」2015年1月14日(水)~4月5日(日) 本館14室
 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

| 記事URL |

posted by 伊藤信二(広報室長) at 2015年02月03日 (火)

 

博物館に初もうで~ひつじと吉祥~

年の瀬も押し迫ってまいりました。この時期、みなさん共通の懸案事項といえば、そう、年賀状です!2015年は未(ひつじ)年ですが、みなさんどんなデザインをご用意されていますでしょうか?

さて、今のわたしたちが思い浮かべるヒツジは、ふわふわ、もこもこした豊かな毛で全身を覆われた、かわいらしい姿ではないかと思います。では、そのイメージはいつから来たのでしょうか?お正月のトーハクでは、「博物館に初もうで~ひつじと吉祥~」(1月2日(金)~12日(月・祝))と題して、地中海から東アジアまでの遺物を通じてヒツジ(羊)とお正月にふさわしいおめでたい作品の数々をご紹介いたします。

展示風景
展示風景

紀元前より人類にとって最も身近な動物のひとつだった羊。宗派や東洋、西洋の別を超え、神への最適な捧げものとして考えられてきました。古代メソポタミア文明ではすでに紀元前7,000年ごろから羊を家畜化していた跡がありますし、古代中国ではそれ以前から羊とともに暮らしていた痕跡もあるといわれています。肉や乳、脂肪は人々の大事な栄養源になりましたし、皮や毛は衣類だけでなく羊皮紙などにも加工され、人類発展の歴史においてなくてはならない存在でした。

「羊頭部形垂飾」地中海東岸又はカルタゴ出土、紀元前7~ 6世紀、個人蔵
羊頭部形垂飾 地中海東岸又はカルタゴ出土 紀元前7~ 6世紀 個人蔵

やがて「よきもの」の意を備えるようになり、このうち古代中国では、青銅器などに羊文が表わされたほか、「美」「善」「祥」といった言葉にも羊の字が使われるようになります。

「饕餮文鼎(とうてつもんてい)」中国 殷時代・前13~前11世紀、東京国立博物館蔵(TJ-4443)
饕餮文鼎(とうてつもんてい)  中国  殷時代・前13~前11世紀 東京国立博物館蔵

「青玉筆洗」中国 清時代・19世紀、東京国立博物館蔵(TG-1701、神谷傳兵衛寄贈)
青玉筆洗 中国  清時代・19世紀  東京国立博物館蔵(神谷傳兵衛氏寄贈) 

羊に対する吉祥イメージはアジア全域に広がり、日本でも『日本書紀』によれば推古天皇7年(599)、百済より「駱駝一疋驢一疋羊二頭白雉一(ラクダ1匹、ロバ1匹、ヒツジ2頭、白キジ1匹の意)」が贈られたとあるのをはじめとして、『百練抄』ほか、異国からの献上品としての記載が散見できます。正倉院宝物にも、羊文を表わした白綾や、羊を描いた臈纈(ろうけち)屏風が存在しています。

一方、羊の生息しない日本では、薬師如来の眷属で時を司る十二支のひとつとして、もしくは異国の動物として認識されていました。しかし羊自体を吉祥図様として扱うことは定着しなかったようで、現代人がその姿をみるとまるで山羊! 明治時代に本格的に羊が飼育されるようになるまで、日本人は羊と山羊の区別はついておらず、いずれも半ば想像上の動物に近い存在として表現されていたことがうかがえます。

「十二支図」渡辺南岳筆、江戸時代・18世紀、東京国立博物館蔵
十二支図  渡辺南岳筆  江戸時代・18世紀  東京国立博物館蔵
右:羊部分拡大

今回の「博物館に初もうで」では、I「アジアの羊」、II「十二支」、III「日本人と羊」、IV「吉祥模様」という4つの切り口から、地中海から東アジアまでの遺物を通じて、羊と人との関係を探ります。また、1月2日(金)~1月12日(月・祝)には、トーハク内のあちこちに展示されている羊を訪ね歩く「羊めぐり~羊が何匹?」という企画も行っております。このほか、お正月にふさわしい作品の数々をご紹介いたしますので、新年はぜひ上野のお山へお越しください。


 

カテゴリ:博物館に初もうで特集・特別公開

| 記事URL |

posted by 金井裕子(特別展室研究員) at 2014年12月26日 (金)

 

本館14室の特集「能面 創作と写し」はご覧になりましたか?

能面の歴史は不明な点も少なくありませんが、室町時代までは「創作の時代」、安土桃山時代以降は「写しの時代」とおおよそ区分できます。
その分岐点は豊臣秀吉。秀吉は能を熱狂的に愛好しました。そして、大名の間で能を観るだけでなく、演じることが流行しました。
すると能面の需要が大幅に増え、観世、宝生、金春、金剛等の宗家に伝来した古い面を写し、所有するようになったのです。これが「写しの時代」です。
この写しは、能面を鑑賞するうえで重要なポイントになのですが、今回の特集「日本の仮面 能面 創作と写し」(本館14室、2015年1月12日(月・祝)まで)のように創作の時代の面とその写し、あるいは同じ面の複数の写しを展示して、写しのあり様をご覧いただく機会はあまりありませんでした。
いくつか見どころをご紹介します。
例えば鼻瘤悪尉(はなこぶあくじょう)を見てください。

鼻瘤悪尉
(左) 能面 鼻瘤悪尉  室町~安土桃山時代・16世紀
(右) 能面 鼻瘤悪尉「杢之助打」朱書  江戸時代・17~18世紀


額や眉間の皺もそっくりです。裏面も注目してください(展示では小さな写真で示しています)。

鼻瘤悪尉 裏面

左の面の右上に「文蔵作」とあり、右の面には「文蔵作正写杢之助写」と書いてあります。
つまり、左の面の写しが右の面です。
額の裏のノミ跡、左目の外側と上の2ヵ所にある布の貼り方などまでそっくりです。左の面の布貼りは亀裂か割れを補修したものですが、右の写しは忠実に写すために割れていないのに布を貼っているのです。
能の観客から見えない裏、しかも補修跡まで写されていることがあるのです。


つぎは曲見(しゃくみ)という面です。
 
曲見
(左) 重要文化財 能面 曲見 金春家伝来 室町時代・15~16世紀
(右) 重要文化財 能面 曲見 金春家伝来 江戸時代・17世紀

見分けがつかないくらい似ていますが左が創作、右が写しです。額の左右(右は眉の下、左はもう少し下)に傷があります。この傷も忠実に写しています。傷などない方がいいはずですが、すべてが大事な面と同じであることを求めたのでしょう。
このように能面では傷や剥落の様子も忠実に写すことがしばしば行われます。

今回展示している中に、雪の小面と呼ばれる面の写しが4面あります。雪の小面とは、豊臣秀吉が愛蔵していたと言われる雪月花の三つの小面のうちの一つです。現在は京都金剛家に所蔵されています。
写真は面打・河内の焼印「天下一河内」がある写しです。
 
雪の小面
(左) 重要文化財 能面 小面 「天下一河内」焼印 金春家伝来 江戸時代・17世紀
(右) 面裏


雪の小面の面裏には二つの大きな特徴があります。一つは両頬のあたりが焦げ茶色になること、
もう一つは鼻裏の刳りの右方にある肋骨状のノミ跡です。

小面の面裏
 
雪の小面を写した、河内の焼印のある小面にはこのほか面白い特徴があります。



鼻の頭に円形の傷です。
この傷は今回展示している「出目満昆」印と根来寺所蔵、二つの雪の小面の写しにも見られます。


(左) 重要文化財 能面 小面(鼻部分) 「出目満昆」焼印 金春家伝来  江戸時代・17~18世紀
(右) 能面 小面(鼻部分)  江戸時代・17~18世紀 和歌山・根来寺蔵

 
ところが、京都金剛家所蔵の雪の小面にはこれが見当たりません。それがなぜなのかはわかりません。また、今回展示している4面のうち1面にも見当たりません。
京都金剛家の雪の小面は塗り直しをして傷がかくれてしまったのでしょうか。

さらに今回出品していませんが、「天下一河内」の焼印がある「十六」の面裏に「雪の小面」と共通する特徴があるのも不思議です。「十六」は平敦盛の役に用いる男役の面ですから。
 

参考:能面 十六 「天下一河内」焼印 江戸時代・17世紀 ※今回は展示されていません

不明な点をこれから研究して解決すべく、調査を重ねています。その成果を公開してまいりますので、能面の展示にご注目ください。
 
 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

| 記事URL |

posted by 浅見龍介(京都国立博物館列品管理室長) at 2014年12月12日 (金)

 

特集「西日本の埴輪 -畿内・大王陵古墳の周辺-」の見方4-トピック編-

本特集「西日本の埴輪-畿内・大王陵古墳の周辺」(2014年9月9日(火)~12月7日(日):平成館考古展示室)も、あと2週間足らずとなりました。
平成26年度考古相互貸借事業で、大阪府立近つ飛鳥博物館から拝借した畿内地方中枢部・古市古墳群の円筒埴輪や動物・人物埴輪を軸に、展示テーマを構成(第1回)しています。

左)前半期の埴輪、右)後半期の埴輪
左:前半期の埴輪、右:後半期の埴輪

これまで、埴輪のカタチやその移り変わりを規定する製作技術の“秘密”(第2回)と、人物・動物埴輪の登場を背景にした(?)形象埴輪のドラスティックな造形の変化(第3回)についてお話ししてきました。
いわばミクロとマクロの視点で、今回の特集展示をご覧頂くにあたって、全体構成を読み取るために必要なキーポイントをご紹介したものです。

もちろん、(埴輪だけではありませんが)作品(考古資料)の“なりたち”(製作過程)を明らかにすることは、考古学の基本中の基本です。
(かなり長い・・・ジミな作業を要しますが)その特徴を的確に捉え、構造を掴む優れた方法で、対象の本質に迫る“王道”でもあります。
ときに「製作者の意図」さえも、(おぼろげながらも・・・)明らかになる場合があります。


ところで、今回の個々の展示品の中には、やはり普段なかなかお目に掛けることができない、ウッカリ見落としてしまいそうな見どころがまだたくさんあります。
そこで、常設展示品も含めた展示品の中から、是非注目して頂きたい幾つかつかのポイント(=オススメ・・・)を絞ってご紹介します。

さっそく、中央に(ド~ンと)展示された3本の大型円筒埴輪に注目して頂きましょう。

円筒埴輪・盾形埴輪(大阪府土師の里遺跡出土)大阪府近つ飛鳥博物館蔵
円筒埴輪・盾形埴輪(大阪府土師の里遺跡出土)大阪府近つ飛鳥博物館蔵

第2回でもご紹介しましたように、雄大な規模の割には(失礼・・・)均整の取れたシルエットと、リズミカル(≒等間隔!)に繰り返される均質な突帯の特徴から製作者の高い技術が窺えます。
ややもすると、その“巨大さ”ばかりに目を奪われがちですが、胴部に繊細な(?)線刻文様が施されていることにお気づきになった方も多いかと思います。

最初は、中央のもっとも高い大型円筒埴輪です。


 左)円筒埴輪(大阪府土師の里遺跡出土)、右)線刻文様(直弧文:同左 部分)以上、大阪府近つ飛鳥博物館蔵
(左) 円筒埴輪  大阪府藤井寺市 土師の里遺跡出土 古墳時代・5世紀   大阪府近つ飛鳥博物館蔵
(右) 線刻文様(直弧文:同部分)

この円筒埴輪には、正面に二つの円形の透孔があります。
下段透孔の下方の、2本の突帯を挟んでやや左側に、不思議な文様が刻まれています。
少々変形していますが・・・、多数の円弧を複雑に組み合わせた線刻文様で、「直弧文」とよばれています。
日本列島にしか見られない、独自に発達した呪術的な幾何学的文様として有名です。

名前の由来は、本来は直線と弧線を組み合わせた文様の特徴にありますが、その起源には多くの説があります。
その一つは、特集展示ケースの向かい側にある低い独立ケースに入った、これまた実に不思議な石造物(謎の物体?・・・)を覆う文様です。


展示室見取図
展示室見取図

 
左)模造 旋帯文石(原品=岡山県楯築神社 伝世)、右)浮彫文様(旋帯文:同左 部分)
(左) 模造 旋帯文石 (原品=弥生時代(後期)・3世紀  岡山県楯築神社 伝世)  東京国立博物館蔵
(右) 浮彫文様 (旋帯文:同部分)

正面(?)に人が顔だけを出している(?)ような表現があり、そのほかの部分は全体が幾何学的な文様で埋め尽くされています。
まさに緩やかに描かれた円形や直線状の帯と、巻き込む渦のように見える円形や弧線状の帯で構成されています。

弥生時代の終わり頃(2~3世紀前半)になると、瀬戸内・山陰や近畿地方などでは、墳丘墓とよばれる古墳の原型となった大規模な墳墓が築かれました。
この旋帯文石は、瀬戸内地方最大の楯築墳丘墓(岡山県倉敷市:全長約80m)から出土したとみられ、被葬者やリーダーに率いられていた集団の祖霊の姿を表現したという見解もあります。
古墳出現前夜の列島社会の激動期に、亡き首長の葬送儀礼において重要な役割を果たした“存在”を表現した石造物かもしれません。

そして、古墳時代になると「直弧文」が成立します。
 左)鹿角製装具(柄頭直弧文)(福井県二本松山古墳出土:J-14342) 、中)直弧文鏡(奈良県新山古墳出土・宮内庁蔵)、右)盾形埴輪(奈良県石見遺跡出土:J-23833)
(左) 鹿角製装具(柄頭直弧文)古墳時代・5~6世紀  福井県吉田郡永平寺町松岡吉野堺 二本松山古墳出土  東京国立博物館蔵  ※この作品は現在展示されていません。
(中) 直弧文鏡 古墳時代・4世紀 奈良県広陵町新山古墳出土 宮内庁蔵
(右) 埴輪 盾 古墳時代・5~6世紀 奈良県磯城郡三宅町石見出土  東京国立博物館蔵

とくに刀剣装具・石棺や装飾古墳、家形埴輪や靫・盾・大刀形埴輪などの武器武具形埴輪などに多く施されることが特徴です。
古墳時代後期(6世紀)に至るまで形骸化しつつ、さまざまな器物に施された、古墳時代を代表するといってもよい文様です。


次は、右側のやや太い大型の円筒埴輪です。
この円筒埴輪には正面に1つ円形透孔がありますが、その透孔の左側に、やはり奇妙な文様が刻まれているのがご覧頂けると思います。

左)円筒埴輪(大阪府土師の里遺跡出土)、右)線刻文様(騎馬人物像:同左 部分):以上、大阪府近つ飛鳥博物館蔵
(左) 円筒埴輪  大阪府藤井寺市 土師の里遺跡出土 古墳時代・5世紀   大阪府近つ飛鳥博物館蔵
(右) 線刻文様(騎馬人物像:同 部分)

シンプルな線描ですが、どうも脚を前後に踏ん張った大型の動物に人物が乗る様子を描いているようです。
動物の胴体はかなり長いことが特徴で、おそらく騎馬人物を描いたと考えられています。

同様な例は、古墳時代後期(6世紀)の土器などに描かれた例のほか、各地の装飾古墳の装飾や横穴墓の線刻画にも数多く見られます。
立体的な造形としては、装飾須恵器の騎馬人物装飾などもあります。

左)平瓶(岡山県唐殻遺跡出土:J-20199)、中)線刻文様(騎馬人物像:同左 部分)、右)子持装飾須恵器(騎馬人物装飾)( 岡山県備前市可真上出土
(左)平瓶 古墳時代・7世紀  岡山県新見市唐殻出土  東京国立博物館蔵   ※この作品は現在展示されていません。
(中)
線刻文様 (騎馬人物像:同
部分)
(右) 子持装飾付壺(騎馬人物装飾)  古墳時代・6世紀 岡山県赤磐市可真上出土  東京国立博物館蔵  ※この作品は現在展示されていません。

以前、馬形埴輪の解説(「動物埴輪の世界」の見方7─馬形埴輪2)でもお話しましたが、日本列島では古墳時代中期(4世紀末頃~5世紀)に馬具が古墳の副葬品として現れ、5~6世紀には広く乗馬の風習が普及したことが知られています。
金銅や銀で装飾を施された煌(キラ)びやかな馬具は、その形や色彩はもちろんのこと、徒歩による移動しか経験がなかった日本列島の人々に、憧れをもって受け容れられたことでしょう。

 左)馬具展示コーナー(中央・模造 金銅装鞍:J-21471)、右)馬形埴輪
(左) 馬具展示コーナー(中央・模造 金銅装鞍)
(右) 埴輪 馬  古墳時代・6世紀 群馬県内出土   東京国立博物館蔵

ちょうどこの円筒埴輪が造られた頃(5世紀前半)は、馬は稀少な最先端の乗り物として、人々の羨望の眼差しを集めていた頃と考えられます。
この線刻画は、当時の人々の密やかな乗馬への憧れを映し出しているのかもしれません。


もう一つ、左側の盾形埴輪との間にある大型円筒埴輪の口縁部にもご注目ください。
円形透孔が二つある正面の口縁部やや左側に、(これまた・・・)不思議な文様が描かれています。

左)円筒埴輪(大阪府土師の里遺跡出土)、右)線刻文様(同左 部分):以上、大阪府近つ飛鳥博物館蔵
(左) 円筒埴輪  大阪府藤井寺市 土師の里遺跡出土 古墳時代・5世紀   大阪府近つ飛鳥博物館蔵
(右) 線刻文様(同左 部分)


鋭い鉤状の三つの突起をもち、緩やかに丸みのある円弧で文様が描かれています。
残念ながら何を表したものかは判りませんが、二重線で表されることから、やや厚みのあるモデルを想像することも出来そうです。

このような鉤状の突起をもつ造形は、弥生~古墳時代の青銅器や貝製腕輪などに例があります。
弥生時代以来、繰り返し副葬品として貴人の装身具や宝器に登場しています。

左:貝釧(スイジガイ製)(静岡県松林山古墳出土)、右:巴形銅器(奈良県東大寺山古墳出土
(左) 貝釧(スイジガイ製)  古墳時代・4世紀 静岡県磐田市新貝 松林山古墳出土 東京国立博物館蔵
() 重要文化財  巴形銅器  古墳時代・4世紀   奈良県天理市櫟本町東大寺山北高塚 東大寺山古墳出土 東京国立博物館蔵

いずれも貴重な宝器として取り扱われたことがうかがえ、日本列島の人々にとって重要な意味をもっていたと考えられています。
また、沖縄県地方の南海産貝殻、あるいはそれをモデルにしていたとみられ、遠隔地から運ばれた稀少な素材であることから特別な存在であったことも注意されます。


さて、これらの埴輪に施した文様にはどのような意味があったのでしょうか?。製作者が何らかの意図を込めて描いた可能性は、十分に想像できますね。
実はこれらの大型円筒埴輪は、第2回でも紹介されたように、埋葬専用の円筒棺として製作されたものなのです。

埴輪製の円筒棺は、古墳時代の初めからしばしば製作されています。
とくに、古市古墳群周辺では100基を超える発掘例があり、ほかに大阪府百舌鳥古墳群や奈良県佐紀古墳群・馬見古墳群も密集する地域として知られています。
瀬戸内に面する兵庫県最大の前方後円墳・五色塚古墳(全長194m)の周辺では古くから多数発見されていて有名ですが、各地方で最大級の古墳でもしばしば見つかっています。
いずれも大王陵古墳を含む大型古墳群か、またはそれに匹敵する古墳が築造された地域と見事に一致しており注目されます。

このような地域では多数の埴輪が断続的に製作され、大勢の人々が従事していたことでしょう。
もちろん、その作業を統括・指導し、製品の水準を保ったリーダーの存在を想定することができます。
また、彼らは埴輪造りの他、巨大な古墳造りのための測量や土木技術をもった特別な人物であった可能性も高いと考えられています。

このような“特大”の円筒棺は、このような人物のために製作され、またそれを使用することはほかの人々ではまねできない、いわば“特権”のようなものであったのかもしれません。

展示全景
展示全景

これらの円筒棺には、首長の葬送儀礼で用いられる副葬品と共通するような、呪術的や新来の憧れの存在を示す文様が刻まれていました。
少なくとも、これらの文様を描いた人々は畿内地方中枢の古市古墳群において、大王陵古墳の築造や埴輪製作に携わった可能性は非常に高いと想定することができます。

彼らは古墳を築造するような社会的立場ではなかったのかもしれません。
しかし、このような“大仕事”に従事したリーダーやその一族たちの、いわば王権を支えた「技術」に対する誇りが如何ばかりであったのかは、容易に想像することができますね。
これらの円筒棺の完成度と文様に、その自信と自負がうかがえるような気がしますが、如何でしょうか。

今一度、じっくり彼ら(製作者)の“声”に耳を傾けて頂ければ幸いです。

 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古特集・特別公開

| 記事URL |

posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2014年11月25日 (火)