シアトルには雨がよく似合う。
約9時間のフライトの後、霧雨煙るタコマ国際空港に私が降り立ったのは、2024年2月21日2時半過ぎのことだった。晴れていれば雪を頂いたマウント・レーニア(タコマ富士)が拝めるはずだったが、陰鬱な冬空が広がっているばかり。しかも、入国審査は長蛇の列だ。
「渡航目的は?」
「旅行です。」
ところが、これで済まなかった。どこに泊まるのか、米国内に友人はいるのか、はてはお土産には何を持ってきたのか…
どうやら2017年に私がイランへ入国してから、アメリカ入国にビザが必要となったために、要注意人物と見られているのかもしれない。
入国に1時間を要した後、LLR(Link Light Rail)に約1時間揺られてダウンタウンに降り立った。波しぶきのかかるパイク・プレイスのベンチに座り、クラムチャウダーをテイクアウトして海鳥と一緒にようやく食事にありつくと、長旅の疲れもあってそのまま眠ってしまった。
はっと気が付くと、ボランティア・パークのシアトルアジア美術館前に立っていた。
シアトルアジア美術館の前で
アール・デコ様式で、大恐慌直後の1933年に建てられたシアトル美術館の原点だ。1991年にダウンタウンに新築されたシアトル美術館、2007年にオープンしたウォーターフロントのオリンピック彫刻公園とともに、市民の誇りでもある。
2020年にリニューアルされた展示は、アジアの多様な歴史、地理を一括りにせず、国境ではなく文化の繋がりを重視した比較文化的なテーマ設定が売りである。
たとえば、「テキストとイメージ」展示室では、宗教美術における「詩」「書」「画」の相互作用を東アジアとイスラームで比較する。俵屋宗達と本阿弥光悦の合作「鹿下絵新古今和歌巻断簡」とイスラーム・カリグラフィーの流麗なクルアーンが近くに展示され、アジアの書の幅広さを実感させる仕掛けである。「自然界を描く」展示室では、都路華香の屛風が中国や日本の文人画と対比されている。
このような、日本の美術館ではあまり見られない大胆な試みは、日本美術、アジア美術に日頃触れることの少ないシアトル市民へダイレクトにその魅力を訴えかけるための、シアトルアジア美術館独自の挑戦なのだ。むろん、この斬新な展示手法は全米だけでなく世界中から注目された。
ところが、間もなく閉館の憂き目にあう。
パンデミックである。
一年以上にわたる休館を経て、再開できたのは2021年5月だった。
重厚な入口を入るとフラー・ガーデン・コートが広がる。初代館長・フラー博士の名を冠した明るい空間だ。その左側に「アジア美術の果てしなき物語」展示室がある。
縄文時代の土偶、古墳時代の腕輪型石製品、古代朝鮮半島の加耶の形象土器の展示ケースに交じって、「彼」はすっくと立っていた。
群馬県太田市で出土し、約60年前にシアトルに渡った「埴輪 挂甲の武人」(シアトル美術館では「Haniwa Warrior Figure」)である。
埴輪 挂甲の武人
群馬県太田市出土 古墳時代・6世紀 アメリカ・シアトル美術館蔵
約60年間シアトルにいた「兄弟埴輪」
(注)特別展「はにわ」出品予定
持ち物や甲(よろい)の表現が当館の国宝「埴輪 挂甲の武人」と少し異なっているけれども、「兄弟埴輪」と呼んでも誰しも異論はないだろう。「兄弟である」と宣言したのは、この埴輪を日本から呼び寄せたフラー博士だ。当時、博士は他にも兄弟が3人いることなどきっと夢にも思わなかったに違いない。
国宝 埴輪 挂甲の武人
群馬県太田市飯塚町出土 古墳時代・6世紀 東京国立博物館蔵
(注)特別展「はにわ」出品予定
19世紀後半から日本人町が形成され、もともと日本という国に親近感を持っていたシアトル市民は、この太平洋をはるばる渡ってきた埴輪を大歓迎した。その頃、日米修好通商条約締結100周年を記念したさまざまな祝賀行事が開催されたことも後押しした。1962年に開かれ、1000万人以上が訪れたシアトル万国博覧会に関連した「古代東洋の芸術」展の目玉のひとつにもなっている。
以来、ずっとシアトルの地を離れたことはなく、兄弟が対面することもないままに約60年が経過した。
「あなたはどうしてここに来たのですか?同じ作者から生まれた兄弟が日本にいることはご存知ですか?」
「実は、私は…」
彼が重い口を開いて語り始めた瞬間、ふと我に返った。
いつしか雨も上がり、目の前には観光客で賑わうスターバックスの1号店。そして、ピュージェット湾に沈む美しい夕日がシアトルのビル街を赤々と照らしている。
ぜひ、彼を日本の兄弟たちと再会させてあげたい。
熱い思いを胸に、暮れなずむダウンタウンへと私は歩き始めた。
シアトル・ダウンタウンの夕暮れ
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posted by 河野一隆(学芸研究部長) at 2024年05月31日 (金)
挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」(2024年10月16日(水)~12月8日(日)、平成館 特別展示室)。
「埴輪の展覧会なんて、展示室がみんな茶色くなっちゃうんじゃないですか?」
――そんな声が聞こえてきそうです。
でも、目を凝らしてよく見てください。
何かが見えてきませんか?
この埴輪、なんだか赤みの強い部分があるような…。
埴輪 杯を捧げる女子
群馬県高崎市 上芝古墳出土 古墳時代・6世紀 東京国立博物館蔵
(注)特別展「はにわ」出品予定
そう、実は色が塗られていた埴輪があるんです。
とはいえ、長らく古墳の上で雨風にさらされ、土の中に埋もれていた埴輪たちの表面に塗られていた顔料は落ちやすく、追究が難しいこともあって十分には検討されてきませんでした。
もともと、埴輪は赤い色が多く使われていることがわかっていました。
国宝 円筒埴輪
奈良県天理市檪本町東大寺山北高塚 東大寺山古墳出土 古墳時代・4世紀 東京国立博物館蔵
いちばん下の段は土に埋めてしまうため、赤く塗られていません
(注)特別展「はにわ」出品予定
しかし近年、栃木県下野市にある甲塚(かぶとづか)古墳から出土した埴輪が復元された際に色の検討が行われ、鮮やかに塗られていたことがわかりました。
当館でも、国宝「埴輪 挂甲の武人」の修理・調査を行いました。
国宝 埴輪 挂甲の武人
群馬県太田市飯塚町出土 古墳時代・6世紀 東京国立博物館蔵
(注)特別展「はにわ」出品予定
詳細な観察と、蛍光X線分析(どのような物質が存在するか調べる装置を用いた分析)を行い、彩色の復元に取り組みました。
その成果がこちらです。
埴輪 挂甲の武人(彩色復元)
令和5(2023)年 原品:群馬県太田市飯塚町出土 古墳時代・6世紀
東京国立博物館蔵
制作:文化財活用センター
(注)特別展「はにわ」出品予定
埴輪 挂甲の武人には、白、赤、灰の3種類の顔料が使われていたと考えています。
白は白土で、白っぽい土を選別したもの。
赤はベンガラという、自然界にある鉄分に由来するもの。
灰は白土にマンガンという鉱物を混ぜたものと考えられます。
現在の埴輪に付着した黒色もマンガンで、これは埴輪が土の中に埋もれている中で表面に付着したものと考えられます。
埴輪 挂甲の武人の背面。黒く見えるのが土に埋まっている際に付着したマンガンです
埴輪 挂甲の武人が製作され、古墳に立てられた地域では土中にマンガンが多くあったらしいことがわかります。
現在では、白色と赤色はうっすらと残っているのが見て取れます。
しかし、灰色はごくわずかしか残っておらず、よほどしっかりと見ないとわかりません。
白土とマンガンはもともと相性が悪いため、はがれやすかったようです。
埴輪 挂甲の武人を解体した際の、脚(左)と沓(くつ、右)。灰色がわかるでしょうか。
当館には、他にも色を塗っていたとみられる埴輪が多くあります。
埴輪の色の研究はまだまだはじまったばかり。
これからも、埴輪の色についての調査研究を続けていきます。
埴輪 挂甲の武人の彩色復元については、三次元の模型を特別展「はにわ」で皆さまにご覧いただけます。
皆様に新しい埴輪のイメージをお届けできると幸いです。
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posted by 山本亮(考古室) at 2024年05月24日 (金)
2024年10月16日(水)~12月8日(日)、当館 平成館 特別展示室で挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」を開催します(2025年1月21日(火)~5月11日(日)、九州国立博物館でも開催)。
埴輪(はにわ)とは、王の墓である古墳に立て並べられた素焼きの造形です。
その始まりは、今から1750年ほど前にさかのぼります。
古墳時代の350年間、時代や地域ごとに個性豊かな埴輪が作られ、王をとりまく人々や当時の生活の様子を今に伝えています。
恵解山(いげのやま)古墳(京都府長岡京市)に並ぶ円筒埴輪 撮影:山本亮
なかでも、国宝「埴輪 挂甲の武人」は最高傑作といえる作品です。
この埴輪が国宝に指定されてから50周年を迎えることを記念し、全国各地から約120件の選りすぐりの至宝が空前の規模で集結します。
国宝 埴輪 挂甲の武人
群馬県太田市飯塚町出土 古墳時代・6世紀 東京国立博物館蔵
本展は、「プロローグ 埴輪の世界」「第1章 王の登場」「第2章 大王の埴輪」「第3章 埴輪の造形」「第4章 国宝 挂甲の武人とその仲間」「第5章 物語をつたえる埴輪」「エピローグ 日本人と埴輪の再会」で構成されます。
第4章では、当館所蔵の国宝「埴輪 挂甲の武人」を含め、同一工房で製作されたと考えられる5体の「埴輪 挂甲の武人」が史上初めて勢揃いします。
よく似た兄弟のような「埴輪 挂甲の武人」5体。うち1体はアメリカ・シアトル美術館から約60年ぶりに里帰りです。
4月22日(月)、平成館大講堂で本展の報道発表会を行いました。
まずは、主催者を代表して、当館副館長の浅見龍介がご挨拶しました。
当館副館長 浅見 龍介
続いて、本展に多大なるご支援を賜りました、特別協賛 バンク・オブ・アメリカ在日代表、BofA証券代表取締役社長 笹田 珠生様よりご挨拶をいただきました。
バンク・オブ・アメリカ在日代表、BofA証券代表取締役社長 笹田 珠生様
バンク・オブ・アメリカ様には、国宝「埴輪 挂甲の武人」をはじめ、国宝「檜図屛風」、重要文化財「五龍図巻」、国宝「鷹見泉石像」など5件の文化財修復にご支援をいただいております。
そして、本展の展示作品と見どころについて、当館の河野主任研究員が解説しました。
主任研究員 河野正訓
埴輪とは何か?から、各地域の個性的な埴輪、人物埴輪や動物埴輪の注目すべき造形など、埴輪愛あふれる河野研究員の解説でした。
高さなんと170cm。現代の神社建築にも通じる屋根の形
家形埴輪
大阪府高槻市 今城塚古墳出土 古墳時代・6世紀 大阪・高槻市教育委員会蔵(今城塚古代歴史館保管)
若き王の姿をほうふつとさせる盛装のいでたち
重要文化財 埴輪 天冠をつけた男子
福島県いわき市神谷作101号墳出土 古墳時代・6世紀 福島県蔵(磐城高等学校保管)
画像:いわき市教育委員会提供
数多くの馬具を身に着けた「飾り馬」。珍しい頭部の表現にご注目
馬形埴輪
三重県鈴鹿市 石薬師東古墳群63号墳出土 古墳時代・5世紀 三重県埋蔵文化財センター蔵
また、壇上には2体の埴輪が!
どちらも実物大です!
こちらは、当館と文化財活用センターが制作した、国宝「埴輪 挂甲の武人」解体修理後の復元模型(左)と彩色復元模型(右)です。
近年の修理と調査研究の結果、表面に色が塗られていた痕跡があることが分かりました。
本展では、最新の埴輪の研究成果もご紹介します。
埴輪 挂甲の武人(彩色復元)
令和5(2023)年 原品:群馬県太田市飯塚町出土 古墳時代・6世紀 東京国立博物館蔵
制作:文化財活用センター
彩色復元模型は、この日が初お披露目でした。
驚きの彩色については、本ブログでご紹介します。どうぞお楽しみに。
会場でも、またSNSでも大変話題になっていましたが、河野研究員の髪にご注目!
復元模型について解説する河野研究員
なにやら不思議な髪型ですね…
フォトセッションの様子
挂甲の武人と同じポーズで一枚。担当研究員、全員満面の笑みです
研究員の髪型ですが、古代の男性の髪型「美豆良(みずら)」を再現したカチューシャを装着しました。
(このカチューシャは試作段階のもの。販売については検討中です。)
素朴で“ユルい”人物や愛らしい動物から、精巧な武具や家に至るまで、埴輪の魅力が満載の展覧会です!
東京国立博物館では約半世紀ぶりに開催されるはにわ展、今後も展覧会公式サイトなどで最新情報をお伝えしていきます。どうぞご期待ください。
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posted by 小松亜希子(広報室) at 2024年04月25日 (木)
こんにちは、考古室研究員の山本です。
研究員イチ押しの作品を紹介する企画「未来の国宝」、このたび彫刻・工芸・考古の展示がはじまりました。
創立150年記念特集「未来の国宝―東京国立博物館 彫刻、工芸、考古の逸品―」と題して、本館14室を会場に、2022年9月6日から12月25日の展示期間を3期に分け、考古・漆工・陶磁の作品を展示します。
そのトップバッターとして、考古分野から白瑠璃埦と、それにまつわるエピソードをご紹介します。
重要文化財 白瑠璃埦 ササン朝ペルシア 大阪府羽曳野市 伝安閑陵古墳出土 古墳時代・6世紀 クラブ関西寄贈 ガラス製
2022年9月6日(火)~10月10日(月・祝)まで展示
このガラス製の埦について、考古展示室では長らく「ガラス埦」としてご紹介してきましたが、令和元年の特別展「正倉院の世界」で正倉院宝物の白瑠璃埦とともに展示されたことを機に名称を「白瑠璃埦」としました。
ご存じの方も多いかと思いますが、この埦と正倉院宝物の白瑠璃埦は大きさや切子の段数や数がほぼ同じで、兄弟埦とも呼ばれることがあります。
これまでこの2つの埦が同時に並べられたのは3度のみ。
うち2回は関係者や専門家しか見ることができませんでしたが、特別展「正倉院の世界」ではついに展覧会の場で多くの皆様がご覧になれる機会となったのでした。
これらの埦はソーダ石灰ガラスという種類の素材で、ササン朝ペルシア(3~7世紀)の領域で作られました。
かつてはイラン高原でよく出土することから現在のイランで作られたと考えられていましたが、最近では現在のイラクにあたるメソポタミア地方を中心に作られたものとされています。
これほど遠く離れた場所からはるばる日本へと運ばれてきた2つの埦。
当館の埦が出土した安閑陵古墳は6世紀の古墳であり、また正倉院に宝物が納められたのは8世紀のことですから時代に大きな差はあるのですが、2つの埦に秘められた数奇な運命を想起せざるを得ません。
そうした想いから、作家の井上靖さんが短編小説「玉碗記」を著したことも有名です。
そしてこの埦は、出土してから当館に収蔵されるまでの間にも、多くの変転の道のりを歩みました。
ここでそのエピソードをご紹介します。
この埦が出土したのは戦国時代とも江戸時代とも記した文書がありますが、史料が多く信用が置ける江戸時代説が有力です。出土したのは元禄年間と考えられています。
古墳が崩れ、中からこの埦が出土したとされています。
外箱の箱書きによれば、安閑陵古墳(高屋築山古墳)を含む土地を当時所有していた森田家(屋号は神谷)から、近くの古刹である西琳寺に寄進されたことが分かります。
この外箱の箱書きによって、この埦が安閑陵古墳から出土したという伝承に信憑性が与えられるのです。
外箱底面の箱書き
円筒形の内箱、その蓋には大きく「御鉢」の2文字。
内箱蓋の題字「御鉢」
内箱見込みの揮毫
内箱の身の見込みには京都の上賀茂神社の神職で、寛政8年当時に書博士として活躍していた賀茂(岡本)保考の揮毫があり、京都の聖護院門跡であった盈仁(えいにん)法親王がこの題字を書いたことがわかります。
内布には時期が遡るであろう古裂が、仕服には唐織の裂が使われており、これらをみても大変珍重されていたことが分かります。
白瑠璃埦と付属品一式
この埦が西琳寺に寄進されたころにはちょうど国学が隆盛していたこともあり、この埦は多くの文人たちの目に留まることになりました。
藤貞幹(とうていかん)や太田南畝(蜀山人)(おおたなんぽ(しょくさんじん))らの著した書物には、しっかりとその存在が記されています。
そのころにはすでに漆で接いだ状況を確認できる絵図があるので、江戸時代には現在みられるような姿になっていたことがわかります。
日本近代東洋考古学の父と呼ばれる原田淑人は、江戸時代にすでに修復が行われた証拠としてこの黒漆接ぎを「治療してはいけない傷跡」と評しています。
最も欠けが多い部分。CT撮影によって、隙間が大きい箇所には木片が詰められていることが分かりました
ところが明治時代に入ると危機が訪れます。廃仏毀釈の影響で行方不明となるのです。
幻の存在となったこの埦に再び光が当たるようになったのは戦後、昭和20年代のことでした。
大阪の旧家に収められていたのがわかり、有志の努力によって当館に収められることとなったのです。
江戸時代に出土したのち、珍重され多くの人々の関心を引いた白瑠璃埦。
危機を迎えたのち、多くの人々の手によって再び脚光を浴びるようになりました。
その道筋をたどると、未来に向けて文化財を守り伝えていく使命をあらためて強く感じます。
創立150年記念特集 未来の国宝―東京国立博物館 彫刻、工芸、考古の逸品―
重要文化財 白瑠璃埦 ササン朝ペルシア大阪府羽曳野市 伝安閑陵古墳出土 古墳時代・6世紀 クラブ関西寄贈
[2022年9月6日~2022年10月10日まで展示]
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posted by 山本 亮(考古室) at 2022年09月06日 (火)
東洋館で開催中のイベント「博物館でアジアの旅」[9月8日(火)~10月11日(日)]も残すところ1週間を切りました。 今年のテーマは「アジアのレジェンド」です。東洋館1階インフォメーションで配布中のパスポートを片手に、関連作品を探しながら、コロナ禍で人の少ない(涙)東洋館を巡ってみてください。
この記事では、古代エジプトのセクメト女神像と、そのレジェンド(伝説)をご紹介いたします。
東洋館の2階に上がり、展示室(3室)の左奥に見えるのがセクメト像です。
(左右ともに)セクメト女神像 エジプト、テーベ出土 新王国時代(第18王朝アメンヘテプ3世治世)・前1388~前1350年頃
ライオンの頭をもった女性の姿で表現されたセクメト。
古代エジプトの神話には、セクメトは恐ろしい女神として登場します。
その昔、人間たちが、支配者である太陽神ラーに抗おうとしたとき、人間を罰するために遣わされた女神がセクメトでした。セクメトは、その強大な力をもって、人間たちを殺してまわりました。最後はラーが一計を案じ、セクメトをお酒で酔っ払わせることで、穏やかな女神に戻し、最終的に人々が救われた、という物語。今から4000年以上前にさかのぼる古い神話です。
頭にはかつらをかぶり、胸元にアクセサリーを着けています。ちなみに、目は赤く彩色されていたと考えられています。
古代エジプト人は、この強力で攻撃的な女神の一面を、雌ライオンの姿に重ねていたのでしょう。また、セクメトの力は正義と秩序を守るために行使されること、セクメトをなだめることで人々が救われたこと、この2点が物語のポイントです。つまり、セクメトをなだめることで、癒しと安定をもたらすことができると考え、古代エジプトの人々はセクメトを病気や怪我を癒す神様として信仰したのです。
セクメト像の左手を見ると、丸い持ち手のついた十字を握っています。これは生命の象徴である「アンク」で、人々の命と生命力を盛り立てる力を意味していると考えられます。セクメトは、人々を護り、病気や怪我を癒す神様でもあったのです。
セクメトが左手に握っているアンク。
さて、このセクメト像はどこから来たのでしょうか?
これらのセクメト像を作らせたのは、アメンヘテプ3世というファラオ。
有名なツタンカーメンの祖父にあたる人物で、繁栄の絶頂期にあったエジプトを40年近く統治した偉大な王でした。
強固な財政基盤を背景に、各地で神殿の建設や改修を進めたことが特筆されます。
現在のエジプト観光の目玉となっている建造物やモニュメントには、アメンヘテプ3世が手掛けたものが多く含まれます。
その一つに、「メムノンの巨像」と呼ばれる1対の石像があります。
高さが20メートル近くあるこの像は、アメンヘテプ3世の坐像で、壮大な葬祭神殿の入口に配されていたものです。
メムノンの巨像。巨像の後ろに、当時としては最大規模の神殿が広がっていました。現在、H・スルジアン博士が率いる遺跡整備プロジェクトによって、かつての神殿の様相が明らかになってきています。(写真:H・スルジアン博士提供)
アメンヘテプ3世の葬祭神殿の想定復元図。
(出典:馬場匡浩『古代エジプトを学ぶ ―通史と10のテーマから―』2017年、六一書房、図11-16「アメンヘテプ3世葬祭殿」)
「メムノンの巨像」がある第一棟門を通り、さらに第二、第三の棟門を抜けると、無数の巨大な柱がそびえる建造物がありました。
この列柱建築に数百体ものセクメト像が並べられていたと考えられています。
近年のスルジアン博士のチームの発掘調査では、神殿内部に残っていたセクメト像が出土しており、博士によればその数は280体にも及んでいるそうです。
出土したセクメト像。学術的な発掘調査は葬祭神殿のどこにセクメト像が並べられていたのかを探る手掛かりになります。(写真:H・スルジアン博士提供)
古代エジプトの最大規模の神殿であったアメンヘテプ3世の葬祭神殿は、紀元前1200年頃の地震で倒壊したと考えられています。その後、瓦礫が石材を再利用するために持ち出され、いつしか、巨像だけが取り残されました。神殿内にあったセクメト像の多くは、神殿倒壊後に、同じ地域にあるムート女神の神殿に移設されたと考えられます。19世紀に、エジプトで美術品獲得のための発掘が始まると、ムート神殿にあった多くのセクメト像が持ち出され、現在、世界各地のミュージアムで所蔵されています。
東洋館3室に並ぶ2体のセクメト像。
一見して、狛犬の類かな?と感じる方が多いのですが、実は、エジプト史のレジェンド(偉人)ともいえるアメンヘテプ3世にまつわる彫像で、もとは数百体あったうちの2体なのです。
そして、古代エジプト人にとってのセクメトは「恐怖の女神様」であり、人々の病を回復させ、世の中に安らぎをもたらす「癒しの女神様」でもありました。
それでは、アメンヘテプ3世は何のために数多くのセクメト像を作らせ、自身の神殿に祀ったのでしょうか?
当時の中近東で度々流行った疫病を鎮めるためとも、自身の健康状態を回復させるためとも言われていますが、はっきりしたことは分かっていません。
東洋館にお越しの際は、ぜひ、3室のセクメト像をご鑑賞いただき、恐ろしくも親しみのあるセクメトの神話や、壮大なアメンヘテプ3世の葬祭神殿に思いを寄せてみてください。
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posted by 小野塚 拓造 at 2020年10月06日 (火)