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1089ブログ

「拓本のたのしみ」その1

東京国立博物館(以下「東博」)と台東区立書道博物館(以下「書道博」)は、連携企画として、毎年時期とテーマを合わせて中国書画に関する展覧会を開催しています。
22回目となる今回の連携企画は「拓本のたのしみ」と題して、両館で様々な拓本の魅力をご紹介しています。

東京国立博物館 東洋館8室 特集「拓本のたのしみ―明清文人の世界―」
前期:2025年1月2日(木)~2月2日(日)、後期:2月4日(火)~3月16日(日)

台東区立書道博物館 「拓本のたのしみ―王羲之と欧陽詢―」
前期:2025年1月4日(土)~2月2日(日)、後期:2月4日(火)~3月16日(日)


東博 東洋館8室の展示風景


書道博の展示風景

本展を多くの方々にお楽しみいただこうと、東博と書道博の研究員でリレー形式による1089ブログをお送りします。初回は東博展示から、前半部の概要を中心にお伝えします。

拓本は、石や木に刻まれた文字・図像など、立体物の表面にみられる凹凸を、紙と墨などで写し取った複製です。
いわゆる版画とは違い、版(原物)の上に紙を置き、紙の上から墨を重ねます。そのため、左右反転せず、版と同じ向きに写し取ることができます。
版に直接墨を付けない拓本は、とり方にもよりますが、原物の保存という点でも画期的な複製技法と言えます。

書の拓本には、主に青銅器や石碑などをもとにした金石拓本(碑拓)や、肉筆による歴代の名筆を版に刻して拓本にとり編集した法帖があり、碑拓法帖とも呼ばれています。
碑拓法帖は、金石文字や肉筆にかわり、先人が記した歴史上の出来事、その時代・筆者の文字・文章、ひいては社会・文化を伝える貴重な資料です。
後世の文人たちは、碑拓法帖に儒学や歴史学など様々な学問的価値を見出したばかりでなく、その字姿や書法に心を傾け、収集・鑑賞・研究の対象としました。

サブタイトルに「明清文人の世界」と題した東博展示では、前半部(「拓本あれこれ」、「碑拓法帖の優品」)で拓本そのものの魅力に注目し、後半部(「鑑賞と研究」、「収集と伝来」)で拓本を愛好し楽しんだ明清時代の文人の活動に焦点を当てています。




宋拓漢石経残字(部分) 伝蔡邕筆
後漢時代・熹平4年(175) 東京国立博物館蔵
【東博通期展示、巻き替えあり】


儒教の経典の標準テキストを石に刻し、後漢の首都洛陽の太学(最高学府)に建てた「熹平石経(きへいせっけい)」の残石の拓本。後漢の公式書体、八分という隷書で記されます。
原石は建立後ほどなく戦乱で損壊し、清末以降に残石が出土するまで、時代とともにほとんど見られなくなり、拓本が珍重されました。希少な宋時代の拓本を入手した銭泳(せんえい、1759~1844)は、拓本の側に自らの考証や釈文を記しています。碑帖研究の大家の翁方綱(おうほうこう、1733~1818)は、銭泳を称賛するかのように、本作を手にした銭泳の肖像(巻頭)に隷書で題を記しています。

「拓本あれこれ」
書の拓本は、もとになる金石文字と肉筆の違いもさることながら、版の作り方や状態、そこから紙墨などでいかに写し取るかにより、字姿や趣が大きく変わります。また、装幀の仕方も拓本の見え方に影響します。ここでは、各種の碑拓法帖から、様々な味わいの拓本を展示しています。

「碑拓法帖の優品」
歴代の能書や歴史上の偉人の筆跡をとどめる拓本は、書の古典として珍重されました。とりわけ、唐時代の能書の手になる碑拓と晋・唐時代の名筆をもとにした法帖は、鑑賞や手習いの対象として、盛んに制作・収集されました。ここでは、古典として尊ばれた晋唐の書を伝える碑拓法帖の優品を展示しています。

皇甫誕碑 欧陽詢筆
唐時代・貞観元~15年(627~641) 東京国立博物館蔵
【東博前期展示】



皇甫誕碑 欧陽詢筆
唐時代・貞観元~15年(627~641) 
高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館蔵
【東博前期展示】

隋朝の忠臣の皇甫誕を顕彰した石碑の拓本。上は原石の形をとどめる拓本で、整本(せいほん)や全搨本(ぜんとうぼん)と呼ばれます。下は切り貼りして折帖に仕立てた剪装本(せんそうぼん)という拓本です。もとの形を知ることができたり、鑑賞がしやすかったりと、それぞれの良さがあります。
皇甫誕碑の原石は、明の万暦年間に地震により断裂しました。上は断裂後の拓本、下は断裂前の未断本です。〇印の「碑」字のように、文字の残存状況や損傷具合に違いがあります。より古い時代にとられた希少な拓本は、原石本来の字姿を伝えることから、とりわけ珍重されました。
この石碑の書は、右肩上がりと、背勢という文字の内側を引き締める構え方が強調されており、初唐の三大家に数えられる能書、欧陽詢(おうようじゅん、557~641)による楷書のなかでも、特に険しく勁さのある字姿です。

今回は東博展示の前半部をお伝えしました。ぜひ会場で魅力あふれる拓本をお楽しみください。
 

 

拓本のたのしみ

編集:台東区立書道博物館
編集協力:東京国立博物館、九州国立博物館
発行:公益財団法人 台東区芸術文化財団
制作・印刷:大協印刷株式会社
定価:1,900円(税込)
ミュージアムショップのウェブサイトに移動する
拓本のたのしみ 表紙画像

 

カテゴリ:研究員のイチオシ中国の絵画・書跡「拓本のたのしみ」

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posted by 六人部克典(東洋室) at 2025年01月22日 (水)

 

見どころ紹介! 中国書画精華―宋・元時代の名品―


東洋館8室では、毎年秋恒例の名品展、特集「中国書画精華―宋・元時代の名品―」が開催中(~2024年12月22日〈日〉)です。
中国の書画は古来日本人に愛され、現在に至るまで多くの優品が大切に伝えられてきました。ただ、現代の私たちの目には少しとっつきづらい、どこを楽しめばよいかわからない、というジャンルでもあります。
ここでは、「見どころ紹介」と題して、いくつかの作品について、鑑賞のおすすめポイントを説明したいと思います。

1. 修理後初公開!表装にも注目!!


山水図軸 伝夏珪筆 南宋時代・13世紀 中国

 
山水図軸(風帯)

本作は2022年に修理を終えてから初めての公開になります。現在の表装は、公家の名門近衛家(このえけ)で仕立てられた可能性があり、風帯(ふうたい)と一文字(いちもんじ)には、紫に染められて金箔が貼られた、羅(ら)という織り方の最高級の裂(きれ)が、おそらく非常に貴重であったため、端切れをつなぎあわせた形で使われています。
また、風帯は通常本体に縫い付けられて、巻いた状態では折りたたむように収納されるものですが、本作では、裂がこれ以上いたむのを避けるため、取り外しができるようになっています。これを掛風帯(かけふうたい)といいます。
修理前は、不安定であったため、掛風帯を使用することができなかったのですが、修理を経て風帯を掛けた状態で展示できるようになりました。近衛家で愛された本来の姿をお楽しみください。


2. 鳥は何羽?


重要文化財 雪汀遊禽図軸 羅稚川筆 元時代・14世紀 中国


雪汀遊禽図軸(部分)

手前の木々は葉を落とし、枝先は蟹の爪のようにとがり、枝と幹がねじれ複雑にからみあっています。後ろには、川面と白く雪の積もった岸、そして山々が水平方向にどこまでも広がっていきます。
色彩のない荒涼たる空間のようですが、目を凝らすと、寒さの中に息づく生命のいろどりを見つけることができます。枝の上には、水色の長い尾をもつ山鵲(さんじゃく)のような鳥2羽、首と腹の白い鳥(コクマルガラスか)の群れが、寒さに羽毛をふくらませてとまり、水辺には橙色の鴨の群れが身を寄せています。
宋・元時代の画家たちは、このような墨と色彩の効果的な対比を得意としました。


3. 「金」、使ってます!


重要文化財 猿図軸 伝毛松筆 南宋時代・13世紀 中国


猿図軸(目)

南宋時代の絵画には、要所要所で、非常に洗練された金の使用が認められます。本作はその好例で、ふさふさとした毛を描く細い線には、墨や赤茶に加えて金泥(きんでい)が使われ、白目には絹の後ろから金箔あるいは金泥が施されています。これらにより、繊細にきらめく光を表現しているのです。
特に白目の部分は、肉眼では光を感じるだけで、なかなかはっきりと金の存在を確認できません。しかし顕微鏡で拡大してみると、絹糸の後ろにしっかりと詰まった金箔(金泥)の存在を見ることができます。


4. 高僧と能書の競演


重要文化財 禅院額字「釈迦宝殿」 無準師範筆 南宋時代・13世紀 中国


禅院額字「釈迦宝殿」(部分)

無準師範(ぶじゅんしばん)が円爾(えんに)に贈った一群の額字(がくじ)・牌字(はいじ)には、筆者を無準とするものと、能書の張即之(ちょうそくし)とするものの2種があります。
展示中の禅院額字「釈迦宝殿(しゃかほうでん)」は無準、同じく「旃檀林(せんだんりん)」は張の書です。ともに太く堂々とした書きぶりですが、線質や点画の構成などには違いがあります。無準はややニジミがあり、粘りのある重厚な線質。点画の太細(たいさい)や疎密(そみつ)など、構成にバランスを欠くところもありますが、かえってそれが厳しくもどこか温かさのある独特な雰囲気を醸(かも)しているようです。一方、張は重厚かつ鋭い線質。点画が整然と配され、揺るぎのない字姿をつくっています。南宋を代表する高僧と能書による迫力満点の書。ぜひ見比べながらご堪能ください。


5. 修理後初公開、過去から未来へ


傑山偈 古林清茂筆 元時代・泰定3年(1326) 中国


傑山偈(修理前)

本作は2022年10月から1年をかけて本格修理が実施されました。本紙には強い折れや汚れが多く見られ、亀裂(きれつ)等によって墨書の一部に剥落(はくらく)が生じていました(上図の5行目2・5・6字目「若・低・可」)。剥落が進行する前に、作品を解体してクリーニングや補修等の処置を行い、本紙と表装の状態は改善され、今後の保存活用に支障がない健全な状態となりました。修理後はまず収蔵庫内の安定した環境で1年ほど保管、経過観察をして、今回晴れてお披露目することとなりました。
修理に際しては、もとの軸木(じくぎ)に江戸時代・天明(てんめい)元年(1781)の修理時の墨書が確認されました。先人たちが過去から現在まで大切に伝えてきた本作は、今また未来へとつなぐ準備が整いました。


6. 篆書もスゴイ!


楷書玄妙観重脩三門記巻 趙孟頫筆 元時代・14世紀 中国(部分)

本紙の末には、1字分下げて4行にわたって署名が添えられます。ここに「趙孟頫書幷篆額」とあり、行楷書による本文と冒頭にある篆書(てんしょ)の題額はともに趙孟頫(ちょうもうふ)の書であることがわかります。
趙孟頫と言えば、書聖・王羲之(おうぎし)を規範とした行草書や、碑文を得意とした唐の能書、李邕(りよう)を素地とした、本作のような行楷書などで知られます。碑文という性格を意識したのか、本文は余白がよく整った、見やすく美しい字姿をしています。点画の配置とその間の余白(分間布白(ぶんかんふはく))は、文字の視認性に直結します。その点で、厳格な分間布白や左右対称の字形、均一に保つ線などを基本とする篆書では、その技量が試されます。本作の題額は、趙孟頫の篆書の技量の高さを示しています。


展示会場風景

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 植松瑞希(絵画・彫刻室)、六人部克典(東洋室) at 2024年11月27日 (水)

 

「呉昌碩の世界」その3 中華文人の友だちづくり

東京国立博物館(以下「東博」)の植松です。

現在、東洋館8室では、特集「生誕180年記念 呉昌碩の世界―金石の交わり―」(~3月17日(日))が開催中です。
こちらは毎年恒例の東博と台東区立書道博物館の連携企画ですが、今年は、呉昌碩生誕180年記念事業ということで、もう2館、台東区立朝倉彫塑館兵庫県立美術館の呉昌碩展示とも時期を合わせて、より総合的に「呉昌碩の世界」をご案内しています。
 
この展示をよりお楽しみいただくため、リレー形式による1089ブログをお送りします(過去のブログはこちらから。「呉昌碩の世界」その1その2)。
3回目の今回は東博展示から、呉昌碩とその師友との交流がよくわかる作品を紹介します。

古柏図軸(こはくずじく) 呉大澂(ごたいちょう)筆 清時代・光緒14年(1888) 高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館蔵
【東博にて3月17日(日)まで展示】


こちらの、「古柏図軸」、なんか、画のまわりにいっぱい字がある! と驚かれるかもしれません。
どうしてこういうことになるのでしょうか。それはこの作品が、本来は、展覧会に掛けて公(おおやけ)に楽しまれるものではなく、文人たちの友情を深めるためのプライベートな贈りものであったからなのです。
「柏」と題がついていますが、中国でいう柏は、日本のカシワ(落葉樹)ではなくヒノキ(常緑樹)の類を指し、いつでも葉が青々としていることから、長寿や高潔な人柄の象徴として愛されてきました。
贈りものにするのにぴったりの画題ですね。

誰がどんなことを書いているのか、まずは、絵画の部分を見ていきましょう。
落款(らっかん)と印章が2セットあります。


古柏図軸の絵画部分
 

古柏図軸の湯貽汾(とういふん)落款部分

左下の方には「湯雨生(とううせい)」と書かれています。
雨生は、清代後期の著名な画家、湯貽汾(とういふん、1778~1853)の字(あざな)であって、これはその落款ということになります。
 
でもちょっと待ってください。
その下に「清卿臨本(せいけいりんぽん)」と印がありますね。
「臨本」すなわち模写ですから、これは清卿という人が、落款も含めて湯貽汾の古柏図を模写したものという意味になります。
清卿は、清代末期の高官で学者、書画篆刻家としても著名であった呉大澂(ごたいちょう、1835~1902)の字です。

その呉大澂の落款が右上、画の中ほどにあります。


古柏図軸の呉大澂(ごたいちょう)落款部分

これにより、呉大澂は光緒14年(1888)の秋7月、この模写を作って「見山(けんざん)」という人に贈ったことがわかります。
見山は、やはり学者で書家としても有名な楊峴(ようけん、1819~96)の字になります。

模写作品を贈りものにするというのはちょっと変な感じがします。
ただ、清の武官として活躍し、太平天国(たいへいてんごく)の乱で南京が陥落した際に殉死した湯貽汾は、呉大澂にとって尊敬すべき先輩であり、模写も特に謹厳な態度でのぞんでいます。
そのような模写作品であれば、楊峴への贈りものとして問題なかったのではないでしょうか。

楊峴は、光緒16年(1890)の夏6月、画の右外に題記を書いています。
ここには、光緒14年秋、呉大澂からもらったこの作品を、2年後のこの年、「麈遺先生(しゅいせんせい)」なる人の「松柏之寿(しょうはくのじゅ、長寿)」の祝いとして贈ったとあります。


古柏図軸の楊峴(ようけん)題記部分

残念ながら、麈遺先生が誰かはわからなかったのですが、この麈遺先生に頼まれて、光緒16年8月、画の上に堂々たる題字を書いたのが、まだ47歳と比較的若い呉昌碩です。


古柏図の呉昌碩題字部分

呉昌碩にしてみれば、9歳上の呉大澂はこの頃知り合ったばかり、官位も、学者、書画篆刻家としての名声・実績も遠く及びません。
また、25歳上の楊峴は、30代から大変お世話になっている書と詩の師匠です。
その二人ゆかりの作品に題字を書くというのは大変なプレッシャーだったと想像されますが、見事それに応えています。
こういった、作品上での文人同士の交流が、書画家としての呉昌碩を育てていったことがわかるでしょう。

古柏図軸

その後も、10年にわたり都合5名の文人たちが、呉大澂、楊峴、呉昌碩に続いて、画の両側を埋め尽くすように題記を書いた結果、本作は現在の姿になりました。
現代の私たちには見慣れない、書と画の競演ですが、呉昌碩と師友たちとの交流の軌跡として楽しんでいただければ幸いです。

(追記)
ブログを読んでくださった方から、「麈遺」は、楊峴と同郷の書画家、凌霞(りょうか)の号であるとご指摘いただきました。
ありがとうございました!
 

カテゴリ:研究員のイチオシ中国の絵画・書跡「生誕180年記念 呉昌碩の世界—金石の交わり—」

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posted by 植松瑞希(絵画・彫刻室) at 2024年02月26日 (月)

 

「呉昌碩の世界」その2 呉昌碩の十八番、印に注目!

 台東区立書道博物館(以下、書博)の春田賢次朗です。

このたび21回目となる東京国立博物館(以下、東博)と書博の連携企画では、呉昌碩(ごしょうせき)生誕180年事業として、台東区立朝倉彫塑館(以下、朝倉)、兵庫県立美術館と時期を合わせて「生誕180年記念 呉昌碩の世界(東博、書博は3月17日まで)を開催しています。また、ふくやま書道美術館においても、呉昌碩をテーマとした展示を行います。

トップバッターの六人部克典さんによる「呉昌碩の世界」その1 に続き、わたしからは東博展示、朝倉展示、書博展示の呉昌碩作品に捺(お)されている5顆(か)の印についてお話しをしたいと思います。呉昌碩は、生前自らを「篆刻が第一、書法が第二、花卉が第三、山水は素人」と評するように、篆刻(てんこく)を十八番としました。
 

①「道在瓦甓」朱文方印
この印は、「篆書般若心経十二屛」、「墨梅図軸」に見られます。



篆書般若心経十二屛(てんしょはんにゃしんぎょうじゅうにへい) 【右】第一幅 【左】第十二幅
呉昌碩筆 中華民国6年(1917) 高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館蔵 
【東博にて2月12日(月・休)まで展示

 
 

墨梅図軸(ぼくばいずじく)
呉昌碩筆 清時代・光緒11年(1885) 兵庫県立美術館蔵(梅舒適コレクション)
【書博にて2月12日(月・休)まで展示】


側款(印材の側面に刻まれた款記)に「旧蔵漢晋甎甚多、性所好也。爰取『荘子』語摸印。丙子二月。倉碩記。」とあることから、丙子(1876年)の2月、呉昌碩が33歳の時に漢・晋時代の甎(せん)を好み、その書風で刻した印であることが分かります。甎は、現在のレンガに相当します。
「道在瓦甓」は、『荘子』に見える語です。
東郭子(とうかくし)が荘子に「道と言われるものはどこにあるのかな。」と尋ねると、荘子は「どこにだってあるよ。」と答えます。東郭子はさらに「はっきり決めてくれるといいんだけれど。」と言うと、荘子は「螻(オケラ)や蟻の中にもあるよ。稊(いぬびえ)や稗(ひえ)の中にもある。瓦や甓(しきがわら)にだってあるよ。大便や小便にもあるよ。」と答え、東郭子はいよいよ黙ってしまいます。荘子はさらに「正獲の官にあるものが市場の監督人に豚を踏んでその太り具合を調べることを尋ねたとき、胴よりも股(もも)、股よりも足のつけねのように、太りにくい部分へと下がれば下がるほど正確に分かると言うことだった。道はここにあると限定してはいけない。道は全ての物にいきわたっているものだからね。」と言いました。
呉昌碩は、荘子が万物に等しく存在する「道」を説くように、「篆書般若心経十二屛」の一幅一幅にもそれぞれ共通の「道」が存在していることを伝えたかったのでしょうか(十二幅もありますからね)。この印は呉昌碩の他の連幅作品にも見られますが、「墨梅図軸」は一幅のみの作品です。必ずしも連幅専用の印という訳ではないようです。


②「俊卿之印」朱文方印・「倉碩」白文方印(両面印)
この印は、非常に多くの呉昌碩作品に捺されており、呉昌碩の名の「俊卿(しゅんけい)」、字(あざな)の「倉碩(そうせき)」が刻されています。側款に「丁丑九月刻面印。以便行篋携帯。」、「此擬穿帯印。」とあることから、丁丑(1877年)の9月、呉昌碩34歳の時に穿帯印(せんたいいん)を参考にして、携帯用に刻した印であることが分かります。穿帯印は、扁平な両面印で、携帯するのにうってつけでした。
使用頻度が特に高い印なので、印面は徐々に摩耗し、四隅は擦り減っていきます。そこで呉昌碩は光緒23年(1897)、54歳の春に、34歳の時に刻した両面印とそっくりな印を再び刻しています。
呉昌碩が82歳の時、事件は起こります。約50年もの間愛用し続けたこの印が何者かによって盗まれてしまうのです。この時呉昌碩は、弟子の王个簃(おうかい)に54歳の時に刻した印の印影をもとに摸刻させたので、この印は呉昌碩が34歳の時に刻したもの、呉昌碩が54歳の時に刻したもの、王个簃が摸刻したものの、計3顆が存在しているのです。呉昌碩にとってこの印は、特別お気に入りであったことがよく分かります。


③「一狐之白」朱文方印
この印は、「臨石鼓文四屛」に見られ、四幅全てに捺されています。



臨石鼓文四屛(りんせっこぶんしへい)
呉昌碩筆 中華民国7年(1918) 兵庫県立美術館蔵(梅舒適コレクション)
【書博通期展示】


側款に「己卯春日。倉石道人作于苕上。」とあることから、己卯(1879年)の春、呉昌碩が36歳の時に苕上(ちょうじょう)(呉興)で刻した印であることが分かります。
司馬遷の『史記』には、これに類似する「一狐之腋」(一匹のキツネの脇毛)という語があります。この語は、「千金の価値がある皮衣(かわごろも)は一匹のキツネの脇毛からはできない。」という一文で用いられており、国家を治めるためには優れた人材を多く集めるべきであることを説いています。
キツネの脇の下の白毛皮で作られた皮衣は、狐裘(こきゅう)とも言い、昔から珍重されていました。呉昌碩は、一匹のキツネから採取できるほんの少しの上質な皮衣を一幅の聯に見立てて、これを四幅全てに捺すことで、自らの作品を千金の価値がある皮衣と同等であることを暗に示しているのでしょう。つまり、この印は連幅作品に捺されていることではじめて意味を為すのであり、「臨石鼓文四屛」は、呉昌碩自身が認める自信作であったのです。


④「帰仁里民」白文方印
この印は、「篆書八言聯」、「荷花図軸」に見られます。



篆書八言聯(てんしょはちごんれん)
呉昌碩筆 中華民国6年(1917) 林宗毅氏寄贈 東京国立博物館蔵 
【東博通期展示】



荷花図軸(かかずじく) 
呉昌碩筆 中華民国5年(1916) 兵庫県立美術館蔵(梅舒適コレクション)
【書博にて2月14日(水)から3月17日(日)まで展示】



側款に「帰仁吾鄣呉村里名、亦里仁為美之意。壬午冬。昌石記。」(帰仁は我が地元の鄣呉村の里名で、里仁は美の意味である。壬午の冬。昌石が記す。)とあることから、壬午(1882年)の冬、呉昌碩が39歳の時に刻したことが分かります。印面の「帰仁里民」は「鄣呉村の人」という意味で、鄣呉村は呉昌碩の生まれ故郷である浙江省安吉県鄣呉村(せっこうしょうあんきつけんしょうごそん)を指します。
「里仁」は『論語』に見える語です。
「子曰。里仁為美。択不処仁、焉得知。」(孔子が言った。「仁に居る(里(お)る)ことは立派(美(よ)し)なことである。あれこれと選んで仁を離れたならば、どうして智者と言えるだろうか。」)
印面の「帰仁里民」の「仁里」をわざわざひっくり返して『論語』に見られる「里仁」にあてがっています(ちょっと無理があるような…?)。「里仁」は「立派」という意味であり、呉昌碩が故郷に誇りを持っていたことを示す、地元愛溢れる印です。


⑤「半日村」朱文方印
この印は、「藤花爛漫図軸」、「篆書八言聯」、「竹図軸」に見られます。



藤花爛漫図軸(とうからんまんずじく)
呉昌碩筆 中華民国5年(1916) 個人蔵
【東博にて2月14日(水)から3月17日(日)まで展示】

 


篆書八言聯(てんしょはちごんれん)
呉昌碩筆 中華民国13年(1924) 兵庫県立美術館蔵(梅舒適コレクション) 
【書博にて2月14日(水)から3月17日(日)まで展示】




竹図軸(ちくずじく)
呉昌碩筆 中華民国10年(1921) 台東区立朝倉彫塑館蔵 
【朝倉にて2月9日(金)から3月6日(水)まで展示】


側款に「孝豊鄣呉村、一名半日村。甲寅秋。老缶。」とあることから、甲寅(1914年)の秋、呉昌碩が71歳の時に刻した印であることが分かります。
呉昌碩が生まれた鄣呉村は、山々に囲まれ、竹や古樹が空高くそびえているので、木々が日の光を遮り、半日しか日が当たらないことから半日村とも言います。呉昌碩の詩集には、故郷の風土に関する詩が多く見られ、「帰仁里民」印からも分かるように、やはり地元大好き人間だったのです。


呉昌碩の作品には、これまでご紹介した印のように、落款印以外の印が捺されているものが少なくありません。今回ご紹介した5顆の印が紙面のどこに捺してあるかは、あえて内緒にしましたので、ぜひ東京国立博物館、台東区立朝倉彫塑館、台東区立書道博物館に足を運んでいただき、作品のどこにこれらの印があるのかを探してみてください。

 

図録『生誕180年記念 呉昌碩の世界』
ミュージアムショップのウェブサイトに移動する

週刊瓦版
台東区立書道博物館では、本展のトピックスを「週刊瓦版」として、毎週話題を変え、無料で配布しています。各館の担当者が順番に書いています。呉昌碩の世界を楽しむための一助として、ぜひご活用ください。

 

カテゴリ:中国の絵画・書跡「生誕180年記念 呉昌碩の世界—金石の交わり—」

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posted by 春田賢次朗(台東区立書道博物館専門員) at 2024年02月07日 (水)

 

「呉昌碩の世界」その1 真骨頂の書

現在、東洋館8室では、特集「生誕180年記念 呉昌碩の世界―金石の交わり―」(前期展示:2月12日(月・休)まで、後期展示:2月14日(水)~3月17日(日))が開催中です。

今年で21回目を数える東京国立博物館(以下「東博」)と台東区立書道博物館(以下「書道博」)の連携企画。今回は、呉昌碩(ごしょうせき)生誕180年記念事業として、台東区立朝倉彫塑館兵庫県立美術館と時期を合わせて「呉昌碩の世界」をご紹介しています。
本展を多くの方々にお楽しみいただこうと、東博と書道博の研究員でリレー形式による1089ブログをお送りします。初回は東博展示から、書跡のオススメ作品を中心にご案内します。
 

2024年に生誕180年を迎えた呉昌碩(1844~1927)は、清朝末期から中華民国初期にかけて書画篆刻(てんこく)に偉大な業績を遺し、清朝300年の掉尾(ちょうび)と近代中国の劈頭(へきとう)を飾る文人として知られます。その芸術は、当時盛行した古代の金属器や石刻などの金石(きんせき)文字の研究を素地として、同じく金石を尊重した先学や師友たちから影響を受けて形成されました。
呉昌碩はとりわけ戦国時代・秦の「石鼓文(せっこぶん)」に執心しました。石鼓文は王の狩猟の様子などを詠う韻文を、太鼓形の10個の石に刻した銘文で、大篆(だいてん)と呼ばれる篆書(てんしょ)の古典として重んじられます。呉昌碩は生涯にわたってその臨書を続け、自らの芸術を「金石の気」と呼ばれる特異なオーラに満ちた、質朴で重厚なものへと昇華させます。
後年、呉昌碩は上海芸術界の中心人物となり、中国に渡った日本の同好の士とも交流して大きな影響を与えます。大正時代には作品集の刊行や個展の開催など、呉昌碩の作品は日本でも広く愛好されました。
東博展示では、サブタイトルに「金石の交わり」(金石のように堅いまじわり)と題して、第1部「呉昌碩前夜」、第2部「呉昌碩の書・画・印」、第3部「呉昌碩の交遊」の3部構成とし、金石に魅せられた呉昌碩の作品を、影響を受けた先学や交流のあった師友たちの作品とともにご覧いただきます。

 

篆書八言聯(てんしょはちごんれん)
呉昌碩筆 中華民国6年(1917) 林宗毅氏寄贈 東京国立博物館蔵 
[東博通期展示]


呉昌碩の書法の真骨頂である篆書は、50代の頃まで先学の能書、楊沂孫(ようきそん、1812~1881)の書法の影響が顕著でした。しかし、60代以降、恣意的なまでの解釈を加えた石鼓文の臨書により、先学の影響を脱して、70代から最晩年に至るまで独自の様式を築くに至ります。
「篆書八言聯」は呉昌碩が74歳の時に、石鼓文から文字を集めて、8言2句「天馬出斿嚢弓執矢、淵魚共楽微雨夕陰」を2幅に書いた作品です。款記(かんき)には、石鼓文の北宋時代の拓本をもとに阮元(げんげん、1764~1849)が制作した重刻本(じゅうこくぼん)から集字したことが記されます。

 

篆書八言聯 呉昌碩筆(部分)

 


石鼓文―阮氏重撫天一閣本―(せっこぶん げんしじゅうぶてんいつかくぼん) 
阮元模 清時代・嘉慶2年(1797)、原刻:戦国時代・前5~前4世紀 市河三鼎氏寄贈 東京国立博物館蔵
[東博前期展示]


こちらは阮元による石鼓文の重刻本の作例です。阮元は、明の蔵書家、范欽(はんきん、1506~1585)を祖とする天一閣(てんいつかく、浙江省)所蔵の北宋拓本をもとに制作しました。
呉昌碩は阮元が創設した書院、詁経精舎(こけいせいしゃ、浙江省)で学び、学術的な背景から、石鼓文の拓本のなかでも阮元の重刻本を尊重したことが指摘されています。
呉昌碩74歳時の「篆書八言聯」と石鼓文を比べてわかるように、この頃の呉昌碩は石鼓文の字形をもとにしながらも、やや右上がりの躍動感のある文字構えに変えていたり、縦長で重心が高い引き締まった造形にしています。朴訥とした筆使いで、線質は重厚で力強さが感じられます。あたかも無機質な線の石鼓文に息吹を吹き込み、生気に満ちた字姿に再生しているかのようです。

 

篆書集石鼓字聯(てんしょしゅうせっこじれん)
呉昌碩筆 清時代・19世紀 青山慶示氏寄贈 東京国立博物館蔵 
[東博後期展示]


一方、「篆書集石鼓字聯」は呉昌碩が「呉俊(ごしゅん)」と名のっていた51歳以前の早期の作例で、同じく石鼓文から集字して7言2句「水逮深淵又其道、雨滋嘉樹敷之華」を書写した対聯(ついれん※家の門や柱、壁などを飾る対句を表した2幅の書)です。
先ほどの「篆書八言聯」に対して本作は、石鼓文の字形に比較的忠実で、筆使いは謹厳、線には繊細さが見られます。
当時の呉昌碩は、石鼓文をはじめとする金石文字を拠りどころとしながら、先学の書をふまえて自己の作風を模索していました。本作の字姿にも、同じく石鼓文を深く学んだ楊沂孫の書法の影響がうかがえます。

 

篆書集石鼓字聯 呉昌碩筆(部分)

 


篆書八言聯(てんしょはちごんれん)
楊沂孫筆 清時代・光緒5年(1879) 林宗毅氏寄贈 東京国立博物館蔵
東博前期展示


楊沂孫は呉昌碩より32歳年長で、呉昌碩に先んじて、石鼓文をもとに独自の様式を築いた能書です。
この「篆書八言聯」は、楊沂孫が晩年の67歳時に8言2句「欲知則学欲能則問、持酒以礼持才以愚」を書写した対聯です。
秦の始皇帝が制定した、小篆(しょうてん)と呼ばれる篆書を基調として、石鼓文の文字構えを取り入れた造形をしています。虚飾を排した筆使いはよどみがなく実に自然で、剛と柔の中庸を得た線質です。
本作のような清純な趣の石鼓文風の篆書に、模索期の呉昌碩は強く惹かれたのかもしれません。

 

篆書八言聯 楊沂孫筆(部分)


本展を通して、金石で彩られた「呉昌碩の世界」をご堪能いただけますと幸いです。

 

生誕180年記念 呉昌碩の世界

編集:台東区立書道博物館
編集協力:東京国立博物館、九州国立博物館、兵庫県立美術館、台東区立朝倉彫塑館
発行:公益財団法人 台東区芸術文化財団
制作・印刷:大協印刷株式会社
定価:1,800円(税込)
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生誕180年記念 呉昌碩の世界 表紙画像

カテゴリ:研究員のイチオシ中国の絵画・書跡「生誕180年記念 呉昌碩の世界—金石の交わり—」

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posted by 六人部克典(東洋室) at 2024年02月02日 (金)