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特別展「はにわ」10万人達成!

開催中の挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」(12月8日(日)まで)は、来場者10万人を突破しました。
これを記念し、神奈川県からお越しの田中さん親子に、当館館長の藤原誠より記念品を贈呈いたしました。


記念品贈呈の様子。田中さん親子(中央、右)と「着るはにわ 挂甲の武人ルームウェア」を着た藤原館長(左)

お母様の純子さんが埴輪にご興味があり、娘の友菜さんを特別展「はにわ」にお誘いになったそうです。

当館の国宝「埴輪 挂甲の武人」とよく似た埴輪4体をはじめ、全国各地から空前の規模ではにわが集結しています!
約半世紀ぶりの東京国立博物館でのはにわ展、ぜひお見逃しなく。

カテゴリ:「はにわ」

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posted by 小松亜希子(広報室) at 2024年11月06日 (水)

 

「ふしぎな仁清」の金銀彩

タイトルにある「ふしぎな仁清」というのは、「走泥社(そうでいしゃ)」の中心メンバーとして知られる陶芸家八木一夫(やぎかずお、1918~79)のエッセイ(『芸術新潮』1969年3月号)です。実際に美術館で仁清の茶壺を観たときのことを次のように書いています。

「これだ、ああ、とおもった仁清の茶壺にだけは結局納得できなかった。ひとつは、ほとんど観念的に仁清の仕事そのものを高次元に置いていたのが、がくと私の内部で崩れたことなのだが、従ってこの場の仁清好尚への意味が、私にとってふしぎに、そして気味悪くも感じられ出してくるのだった。」
(「ふしぎな仁清」より一部抜粋)

仁清の作品といえば、20件以上も国宝や重要文化財に指定されており、日本のやきもののなかで圧倒的な知名度があります。
ただ、2017年に当館で開催した特別展「茶の湯」で江戸時代前期を代表するいくつかの仁清作の茶器を各地の美術館から拝借した際、私も図録や本の写真で知る姿とだいぶ違うと感じたことがありました。はっきり言ってしまえば絵付けの細部がつたなく、写真のほうが断然よく見えるのです。八木の場合、心理的な混乱によってまともに鑑賞することができない状況について「作品の弱さ」だけでなく「無理に他人から設定された主役の、持たざるを得ぬ悲哀」によるとまで表現し、古美術の評価や茶陶の価値を受け入れる眼や姿勢について自問しています。

しかし、博物館の研究員としては、仁清作品を積極的に評価したいし、高く評価してきた日本陶磁研究について考えてみたいと思いました。
そこで、仁清の絵付けをとりわけ力強く華やかなものにしている「金銀彩(きんぎんさい)」について調べてみることにしました。
これが、現在本館14室で開催中の特集「やきものを彩る金と銀」(12月1日(日)まで)のきっかけとなりました。


特集「やきものを彩る金と銀」の展示風景

日本でやきものに本格的な絵付けが行われるようになるのは、17世紀後半のことです。
この頃、肥前有田(ひぜんありた)では朝鮮半島からの技術に基づいて硬質磁器の生産が始まりました。一方、京都では施釉(せゆう)陶器の生産が隆盛します。そしてこれらの地で色絵、つまり赤や緑、青、紫、黄などの上絵具で装飾した製品がつくられるようになりました。興味深いことに、日本ではこの色絵装飾の草創期から、有田や京都で早くも「金銀彩」が導入されているのです。その先駆的な仁清の絵付けにみとめられるつたなさは、金銀をほかの上絵具といかにして共存させるかという試行錯誤のなかで生じた不具合によるものではないかと私は考えています。

重要文化財 色絵月梅図茶壺(いろえげつばいずちゃつぼ)
仁清 「仁清」印 江戸時代・17世紀
枝や源氏雲の配置に工夫がみられ、曲面ながらのびやかに月梅図を描くことに成功していますが、白梅と月をあらわした銀は黒く変色しています。
色絵月梅図茶壺(部分拡大)
梅花の輪郭に銀が侵食して、本来金彩の部分まで、硫化によって黒くなってしまっているところがみられます。

 

ちなみに銀彩は空気にふれると硫化(りゅうか)して黒く変色する性質があり、そのためか中国のやきものではほとんどみられません。有田でも硬質磁器における銀彩は17世紀後半の一時期に限られますが、京都では素地や賦彩(ふさい)に工夫を凝らしながら、金彩も銀彩も仁清以降継続して行われてきました。それは幕末の永樂(えいらく)家の作陶、明治期の輸出向け製品を経て、現代作家の仕事にも脈々とつながっています。
つまり「金銀彩」は、中国や朝鮮半島からの影響のもとに始まった日本のやきものの独自性や発展性を象徴するものと言えるのではないでしょうか。


重要文化財 柿釉金銀彩牡丹文碗(かきゆうきんぎんさいぼたんもんわん)
中国・定窯 伝中国陝西省楡林出土 北宋時代・11~12世紀 井上恒一氏・冨美子氏寄贈
宋時代を代表する白磁窯、華北の定窯(ていよう)の製品には、金彩をほどこした一群が知られています。
本作品はその「金花定碗(きんかていわん)」の代表作であり、金彩で牡丹をあらわし、口縁には銀を帯状に塗っています。




色絵七宝文盃洗(いろえしっぽうもんはいせん)
永樂和全作 江戸~明治時代・19世紀 横河民輔氏寄贈
器の外面は布を置いて絵付けをする「布目手(ぬのめて)」で七宝文をあらわし、見込みは刷毛で銀を塗っています。
異なる方法で「金銀彩」を効果的に取り入れた和全の技が光ります。


このたびの特集「やきものを彩る金と銀」では、中国宋時代の定窯で行われた「金銀彩」の貴重な例を皮切りに、明・清時代の金彩、日本の有田、京都を中心とした江戸から明治期のバラエティに富んだ「金銀彩」について、時代を追いながら紹介します。また、酸化銅や酸化銀を呈色剤(ていしょくざい)に用いたイスラーム陶器のラスター彩もあわせて展示します。
異なる時代や地域の「金銀彩」を比べてみると、日本のやきものの面白さをじわじわと感じていただけるのではないかと思います。

 

カテゴリ:特集・特別公開

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posted by 三笠景子(東洋室長) at 2024年10月28日 (月)

 

古代エジプトの頭飾り

ようやく秋らしくなりました。

東洋館では毎年恒例のイベント「博物館でアジアの旅」(11月10日(日)まで)が開催されております。
今年のテーマは「アジアのおしゃれ」。
東洋館1階のインフォメーションで配布中の「アジたびマップ2024」を片手に、おしゃれにまつわる展示物を探しながら、館内を巡ってみてくださいね。 
 
今回のブログでは2階3室に展示中の古代エジプトの頭飾をご紹介します。
東洋館3室「西アジア・エジプトの美術」 展示風景 
 
 
婦人頭飾断片  伝エジプト、テーベ出土
新王国時代(第18王朝)・前15世紀
 
金の板を加工して作ったU字形の飾りです。ロゼット(花文様)が組み込まれ、カラフルに象嵌されています。
展示品のとおり、複数をつづってリボンのようにして用いました。
 
このタイプのアクセサリーは、トトメス3世(治世:前1479~前1425年頃)の「3人の外国出身の王妃の墓」から大量に見つかっているもので、おそらく、展示作品もその一部です。
つまり、今から3500年前の古代エジプトの王族が身に着けていた装飾品とみることができます。
 
この墓は1916年に盗掘され、出土品が古美術市場に流出しました。
それらの多くはメトロポリタン美術館の所蔵となっています。
同美術館は1930年代に、このタイプの装飾品をウィッグカバーとして復元しました。 
▼メトロポリタン美術館ウェブサイト
 
現在、この復元は全面的に支持されているわけではありませんが、それでも、このイメージにやや近い(もっと短かったとされます)頭飾であったと考えられます。
その場合、1つのピースが1.5g前後なので、全体で1kg近い重さになると推測できます。
実用品としては重すぎるので、セレモニーなどの特別な機会に着用したか、死者のための副葬用のアクセサリーであったのかもしれません。
 
墓に埋葬された3人の王妃、マヌワァイ、マンハタ、マルタはその名前から、もとはシリア方面の都市国家の王女で、若きトトメス3世に嫁いできたと考えられています。
当時のエジプトはハトシェプスト女王が実権を握っていた時代で、3人は、おそらく女王の存命中(前1474~前1457年の間)に亡くなり、一緒に埋葬されました。
疫病によって同時期に亡くなった、後宮での争いに巻き込まれて命を落とした、といった説がありますが、なぜ3人が一緒に埋葬されたのかは謎です。
 
展示室でこのカラフルな頭飾を見つけたら、ぜひ、青緑色や水色のガラスの象嵌材を探してみてください。 
 
色ガラスによる象嵌(ぞうがん)
 
風化していることもあり、美しく見えない?かもしれませんが、実はここが「おしゃれポイント」です!
当時のエジプトではガラスは最先端の素材で、このようなアクセサリーに使われ始めたばかりでした。
ちなみに、ガラス細工は王妃たちの故郷とされるシリアや北メソポタミアで発達していた技術で、3人にとっては馴染みの素材だったと想像できます。
 
この王妃たちが亡くなった後、単独の王となったトトメス3世はシリア方面へ軍事遠征を繰り返し、エジプトの版図をアジアへと拡大させていきます。
この過程でシリアのガラス生産技術がエジプトに伝わり、王室工房で高品質なガラス器が生産されるようになったとされます。
特に、エジプトで作られるコバルトによる青色ガラスは高級なアクセサリーの素材として地中海・西アジアで取引されました。
 
その一例が、同じ展示ケースに並ぶ青色ガラスのアクセサリーです。
頭飾・首飾 ギリシャ本土 後期ヘラディック時代III期・前14~13世紀頃 個人蔵
 
こちらはギリシャのミケーネ文明の王侯貴族が身に着けた「頭飾・首飾」です。材料の一部はエジプトからもたらされた青色ガラスだと目されます。
 
 

カテゴリ:博物館でアジアの旅

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posted by 小野塚拓造(ボランティア室長) at 2024年10月25日 (金)

 

世代を重ねるおしゃれ タオ族の胸飾(むなかざり)

ちょうどこのブログを書いていると、韓国の小説家ハン・ガン女史がノーベル文学賞を受賞されたニュースが報じられました。すでに翻訳されている本もあるらしいので、この機会に読んでみたいと思います。

ひと昔前に比べると、近年はアジアの翻訳小説を書店で見かけることが多くなったように感じます。最近に私が読んだのは台湾の翻訳小説で、ハートフルな『台湾漫遊鉄道のふたり』、ミステリーものの『炒飯狙撃手(チャーハン・スナイパー)』、歴史小説の『フォルモサに吹く風』などです。どれもそれぞれに面白く読みましたが、博物館の研究職という立場からすると、『フォルモサに吹く風』は台湾に暮らす原住民族(げんじゅうみんぞく)のありし日の生活を目の当たりにするようで、東博が所蔵する民族資料への想像力をかきたてられました。 
台湾の翻訳小説
『台湾漫遊鉄道のふたり』(楊双子著、三浦裕子訳、中央公論新社)は紀行グルメの体裁で、二人の女性の友情を描く。『炒飯狙撃手』(張國立著、玉田誠訳、ハーパーコリンズ・ジャパン)はチャーハン屋の店主が凄腕(すごうで)のスナイパーという設定で、台湾の疑獄(ぎごく)事件を描く。『フォルモサに吹く風』(陳耀昌著、大洞敦史訳、東方書店)は鄭成功(ていせいこう)が活躍した時代のフォルモサ(台湾のこと)を舞台に、原住民族、オランダ人、漢民族たちの交流や対立を描く。
 
現在の台湾の主要民族は、中国大陸から移住した漢民族ですが、漢民族が移住する前から台湾には古くから人々が暮らしていました。それらの人々は、はるか昔に海流に乗って太平洋の島々に広がった人々と関係があると考えられており、原住民族とよばれています。台湾の原住民族は現在16部族が認定されています。台湾本島から南東方向に約90キロの沖合に蘭嶼(らんしょ)という小さな島があり、そこはタオ族が暮らす土地です。春になると、蘭嶼のまわりにはトビウオの群れがやってきます。タオ族の人々はトビウオ漁をはじめとする漁業やタロイモの栽培などをして暮らしてきた海の民です。 
蘭嶼(らんしょ)の景色
青く広がる海原のなか、ゴツゴツした岩の海岸にかこまれた島のほとんどは山地ばかり。車なら島の周囲を1時間ほどで1周できる大きさで、島の全体には森林が広がっている。
 
台湾の原住民族は、話す言葉によって、大ざっぱにオーストロネシア語族にくくられていますが、細かくいえば、タオ族の言葉は台湾本島よりもフィリピンのバタン島との方が近いようで、バタン島の人たちとは通訳なしでも話せるとのことです。タオ族の人々は死や血をタブーとする信仰が強く、死者の霊(アニト)と触れ合う際には籐(とう)や魚皮(ぎょひ)で作られた甲冑を着て、刀を帯びて、槍(やり)を構える作法があります。タオ族の気質は温厚とされ、争いのときには鎧を着ますが、刀や槍などの武器は使わず、石を投げ合って血が出たらやめるというものだったそうです。東博には、そのようなタオ族の暮らしにまつわる資料が保管されています。 
「台湾の海の民 タオ族の生活文化」の展示
現在、東洋館13室にて展示中の「台湾の海の民 タオ族の生活文化」。トビウオ漁に用いる舟の模型や道具、男性が着用する籐製の甲冑、女性が着用する胸飾などを展示している。
 
ただいま「博物館でアジアの旅 アジアのおしゃれ」(東洋館、11月10日(日)まで)で展示中の胸飾(むなかざり)は、タオ族の女性が着飾ったものです。メノウやガラスのビーズを連ねて作られ、母から娘、そのまた娘へと受け継がれるアクセサリーです。もしも受け継ぐ娘に姉妹がいれば、娘たちは胸飾を分けて、さらに自分でビーズを付け足すなどして、もとの部分を残しつつ少しずつ変化させながら伝えてゆきます。 

 

タオ族の胸飾・銀製腕輪 ともに台湾、台東県蘭嶼 19世紀後半~20世紀初頭
胸飾が少しずつ変化しながら伝承されるのは、まるで人間の遺伝子がアクセサリーで表現されているようにも思われる。タオ族の男女は銀製の腕輪をはめるが、これは交易で入手した銀貨を叩き延ばして作られた。
 
現在でもタオ族の女性はこのような胸飾りを大切にしていて、お祭りなどの晴れがましい日には身に付けて美しく装います。そのおしゃれには世代を重ねた心が込められているのでした。
 

カテゴリ:博物館でアジアの旅

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posted by 猪熊兼樹(工芸室長) at 2024年10月23日 (水)

 

東博の仲間になった作品たち――令和5年度新収品

東京国立博物館(以下、東博)の収蔵品は、12万件に及びます。
明治5年(1872)の創立以来、150年の歴史のなかで少しずつ収集し、収蔵品を増やしてきました。
そもそも、博物館の役割として、資料の収集、保管、展示、調査研究が挙げられますが、資料なくしては展示も成り立たず、「収集」はその根幹に関わる重要な業務といえます。

といっても、どうやって収集するのでしょうか。
もっとも基本的な方法は、「寄贈」と「購入」です。
志のある所蔵者からご寄贈いただいたり、市場にある作品を購入したりすることで、基礎体力ともいえる収蔵品を増やす努力を続けています。

足しげく通っていただいているお客様のなかには、「この作品、前はなかったな」と気づかれる方がいらっしゃるかもしれません。
東博の収蔵品は、残念ながら日本・東洋の豊かな造形文化を伝えるには完璧ではありません。
少しずつ作品の仲間を増やしていくことで、より魅力的な展示ができるようになっていくのです。

さて、こうして増えた仲間たちは、毎年1年分の寄贈・購入作品のなかから選りすぐり、翌年度に新収品展としてみなさまにお披露目の場を設けております。
令和5年度分として現在、平成館企画展示室で特集「令和5年度新収品」を開催し、計22件の新収品をご覧いただけます(2024年11月10日(日)まで)。
本ブログではその一部をご紹介しましょう。


展示室入口



加彩官人 中国 北魏時代・6世紀 香取敬三氏・香取亜紀子氏寄贈(TG-3118)

会場入口でお出迎えするのは、中国・北魏時代(6世紀)の俑「加彩官人」です。
俑とは、亡くなった方とともにお墓に埋葬される人形で、これは焼き物に彩色を施しています。
冠を被った人物を表わし、すらりとした立ち姿が印象的。
高さが60センチに及ぶ、この時期の俑としては破格の大きさを誇る点でも大変貴重です。



源氏物語図屏風(若菜上) 伝土佐光則筆 江戸時代・17世紀(A-12490)

続いて、「源氏物語図屏風(若菜上)」が右手の書画を展示したケースに彩を添えます。
『源氏物語』はさまざまな名場面が屏風や絵巻といった絵画作品に表わされましたが、これは第34帖「若菜上」のなかで、貴公子の柏木が女三宮と出会う蹴鞠の様子を描きます。
中央で蹴鞠をする4人の人物のうち、後ろを振り返るのが柏木。
猫が御簾から飛び出したために、ちらっと姿が見えているのが女三宮で、バッチリ目が合ってますね。
江戸時代前期(17世紀)のやまと絵師土佐光則の作と伝えられます。



重要文化財 太刀 長船則光 室町時代・長禄3年(1459)(F-20269)

左手のケースは、重要文化財に指定される「太刀」から展示が始まります。
こちらは、通常は柄に覆われて見えない茎(なかご)という部分に銘文が記され、美作国鷹取庄黒坂(現岡山県勝田郡勝央町黒坂)の領主とみられる鷹取泰佐(たかとりたいすけ)が、長禄3年(1459)に、名刀の製作地として知られる備前長船の刀工則光(のりみつ)を招いて製作させたことがわかります。
東博で刀剣の魅力を伝えるうえで、欠かせない仲間になることでしょう。


 
振袖 黒金通し縮緬地流水に百花模様 昭和時代・20世紀 小塚四郎氏・和子氏寄贈(I-4606)

こちらのケースでひときわ目を惹くのは、友禅染の振袖です。
全面に金の箔糸を織入れた豪華な生地に、流水を背景として梅や木蓮、藤、牡丹といった華やかな花々をあしらいます。
ラメ箔糸なども駆使した、近代の着物の名品として数えられるでしょう。


特別展「きもの KIMONO」図録表紙


担当者から教えてもらって、「あ!」と驚いたのですが、じつは2020年の特別展「きもの KIMONO」の図録表紙にも採用された作品でもあります。
当時、わたしも展示室で大胆なデザインに圧倒されましたが、ご縁があり、その後東博の仲間になったことをとても嬉しく思います。


これに限らず、新収品はさまざまなご縁があってこの場にあります。
今後、それぞれのジャンルの展示室で活躍することと思いますが、同期生と一緒にひとつの展示室でご覧いただけるのはこれが最初で最後になるでしょう。
この貴重な機会に、ぜひ新しい仲間たちをご覧いただければ幸いです。

 
特集「令和5年度新収品」展示室風景

 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 西木政統 (列品管理課) at 2024年10月21日 (月)

 

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