後水尾院ってどんな人? 特集「後水尾院と江戸初期のやまと絵」
出版企画室の遠藤楽子です。暑いですね。みなさん夏休みの宿題は終わりましたか。
8月11日(火)から9月23日(水・祝)まで本館特別2室で行なわれる特集「後水尾院と江戸初期のやまと絵」を担当しています。展示作業をしていたところ、ユリノキちゃんが原稿の取立てにやってきました。

もとこさん、原稿はまだかしら?
みなさん、後水尾院はご存じですか。後水尾天皇と書かれることもあります。いけばながお好きな方は、よく立花の会を開いたということをご存知かもしれません。京都でお寺めぐりをする方なども、お寺の縁起などで名前を見かけたことがあるのではないでしょうか。後水尾院にはたくさんの皇子・皇女があり(早く亡くなった子どもを除いても26人はいたそうです)、門跡寺院の主となったり、お寺を開創したりしています。また、きものや琳派の絵がお好きな方は、尾形光琳の実家の呉服屋であった雁金屋が「東福門院」の御用達だったという話をお聞きになったことがあるかもしれません。その東福門院というのは後水尾院の中宮、つまりきさきです。徳川秀忠の娘で、家光の妹でした。江戸から京都の御所へ輿入れする様子はそのころの京都を描いた屏風絵などに華やかに表されて、江戸幕府の存在を京都の人々に強くアピールしました。東福門院は、徳川家の強大な経済力を背景に、後水尾院を支えたといいます。このように、後水尾院の話題を始めようとすると、それぞれの方向に果てしなくお話が広がっていきます。

立花図屏風 筆者不詳 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵
立花図屏風は六曲一双のうち一隻の展示です。

三夕図 土佐光起筆 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵
暦の上では秋、にちなんで「三夕図」。ユリノキちゃんが見ているのは藤原定家です。

十二ケ月歌意図巻 下巻 土佐光起筆 江戸時代・寛文4年~8年(1664~68) 東京国立博物館蔵
「十二ヶ月歌意図巻」は下巻の展示です。
では、江戸時代の絵画に後水尾院はどのように関係しているのか?というところに今回は着目しました。江戸時代の朝廷は、幕府が制定した「禁中並公家諸法度」によって、実質的な権力の及ぶ範囲は学問や文化に制限されていました。そのなかで、後水尾院はもともと和歌を好み、指導も行ないました。桂離宮の主として知られる八条宮智仁親王からさずかった「古今伝授」という和歌(具体的には古今和歌集)に関する秘伝を、当時の朝廷のおかれた状況に合わせた「御所伝授」というシステムに整理したともいわれています。秘伝ということは、限られた人たちにしか伝わらないということであり、その限られた人たちが、その世界では最も尊重される存在である、ということになります。つまり、後水尾院は教養をたしなむだけでなく、権威を活かす頭脳派だったのではないか?と考えられるのです。和歌をはじめとした古典文学が学問や文化の基本であるということは、それを絵に表わしたやまと絵やその制作にも、後水尾院の影響力は及んでいたにちがいありません。

在原業平と同じポーズをしてみたユリノキちゃん
ユリノキちゃん、みなさん、続きはぜひ展示室で見てみてください。江戸時代を見る目がさらに広がっていくはず・・・です!
関連論文
「東京国立博物館所蔵土佐光起筆十二ヶ月花鳥図巻の制作背景について―後水尾院との関係を中心に―」
ミュージアムショップにて8月21日(金)より販売予定のMUSEUM657号に掲載されます。
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posted by 遠藤楽子(出版企画室研究員) at 2015年08月11日 (火)
トーハクくんがいく!~夜の東洋館でミイラに会うほー その2~
ほほーい!ぼくトーハクくん。
前回に続いて、ぼくとユリノキちゃんは、夜の東洋館に潜入中だほ。

トーハクくん、ワークシートの問題とけた? 私はあと1問。
ミイラのからだの中には何が入っているの?
かんたん! かんたん! ユリノキちゃん、ミイラの作り方をおさらいしてみようか。
まず死んだ人のおなかに穴をあけて、中の内臓を取り出して、よく乾燥させ・・・
きゃー、やめて! 無理~~!!!!
ユリノキちゃん、こわがりすぎだほ。えーと、ミイラのからだの中には、内臓のうちいちばん大切だと思われたものを戻したんだほ。
いちばん大事? 脳ミソかしら。
ぶぶー。 脳は、あまり重要ではなくて、捨てちゃったらしいほ。
ユリノキちゃん、いちばん大事なのは、ハートだほ!
そっか。こたえは ●●●● ね。
このワークシートをといてみたら、古代エジプトの人々が考えていた死後の世界について、少しわかってきたわ。
4つのこたえのなかに2回以上出てくる文字を選んで、四角いマスをぬりつぶすんだって。
きっちり、濃くぬることがコツですって。

ぬりつぶしたら、東洋館ラウンジとミュージアムシアターの入り口にある、答え合わせステーションにかざしてみるほ。

キャー、うれしい。正解だわ!!
ワークシートの内側のぬり絵の面を答え合わせステーションにかざしてみるほ。
うわーーーー。
塗り絵にきれいな色がついたわ!

なるほど、実はこんなにきれいな棺だったのね。
あ、ミイラが最後の暗号を教えてくれたわ。
この暗号をインフォメーションに伝えると、プレゼントがもらえるんですって!
みんなもクイズに挑戦するほー。
夏休みは東洋館の親と子のギャラリー「ミイラとエジプトの神々」にぜひお越しくださいね。
さすが、ユリノキちゃん。締めだけはしっかりしてるほ。
じゃ、ボクからもお知らせ。「ミイラとエジプトの神々」をテーマに、8月29日(土)に子ども質問箱「教えて!エジプトのひみつ」を開催するほ! 研究員さんがみんなの質問になんでも答えてくれるんだほ。
というわけで、ただいま質問大募集中~!

待ってるほ!
子ども質問箱「教えて!エジプトのひみつ」の質問は東洋館エントランスと「ミイラとエジプトの神々」会場に設置された質問箱にご応募ください。
ウェブサイト、はがきでの応募も受け付けています。
詳しくはこちら

親と子のギャラリー「ミイラとエジプトの神々」
9月13日(日)まで 東洋館3室にて開催中
ワークシートは東洋館ラウンジ、展示室などで無料配布
VR作品「東博のミイラ デジタル解剖室へようこそ」
10月12日(月・祝)まで 毎週 水・木・金・土・日・祝
東洋館 TNM&TOPPAN ミュージアムシアターにて上演中
料金:高校生以上 500円
※9月13日(日)まで、小・中学生のシアター鑑賞料無料
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posted by トーハクくん at 2015年08月06日 (木)
トーハクくんがいく!~夜の東洋館でミイラに会うほー その1~
ほほーい!ぼくトーハクくん。今日は、古代エジプトのミイラさんに会うために、夜の東洋館に潜入するほ。今は夏休み企画 親と子のギャラリー「ミイラとエジプトの神々」も開催してるんだほ~。

ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ~。どんどん先に行かないで!
なんだか面白そうだからついてきちゃったけど、やっぱりこわい。
東洋館といえばミイラでしょ・・・もしよみがえったりしたら・・・
ほー。びっくりだほ、ユリノキちゃんにもこわいものがあったのかほ!?
だって、ミイラって、死んだ人のからだでしょ? ほんとに古代エジプトのお墓に入ってたんでしょ。
ぼくだって、古墳育ちだほ。死んだ人との付き合いは長いほ。だから、ぜんぜんこわくないほ。
ほら、これがパシェリエンプタハさんのミイラだほ。

な、なんで名前知ってるの?
だって、ミイラさんの棺に書いてあるんだほ。
え? トーハクくん、さすがに詳しいのね。
カラダは布でくるまれているけど、頭蓋骨は出ているのね。やっぱりこわい!!!
ほんとうは全身が亜麻布というエジプトの布でくるまれていたんだほ。
昔のエジプトでは、人は死ぬとこうやってミイラにされたんだほ。
まずはおなかに穴を開けて、からだの中から内臓を取り出し・・・
きゃー、やめて! トーハクくん。無理!無理無理無理!
(しょうがないなあ。ミイラの作り方について知りたい人は、展示室で解説を読んでくださいだほー)
じゃ、ユリノキちゃん、このミイラの入っている棺をよく見てみて。

パシェリエンプタハのミイラ エジプト、テーベ出土 第3中間期(第22王朝)・前945~前730年頃 エジプト考古庁寄贈
ミイラが入れられているカルトナージュ棺は、もとはミイラを包むケースのような形でした。
明治37年(1904)に、エジプトの考古庁からトーハクに贈られたあと、こうやって身と蓋のように切り分けられ、中のミイラが見えるように展示されることになったのです。
真っ黒だけど・・・あら?
よく見ると、きれいなもようが描いてある。

棺に描かれた模様
この棺にはもともときれいな絵が描かれていたのに、真っ黒い液体のようなものをかけられてしまったんだほ。何を、どうしてかけたのかは、トーハクの研究員さんもわからないって言ってたほ。
もとの絵を見てみたいわね。
うん、研究員さんたちもそう思ったんだほ。それで、赤外線撮影や、高精細3D撮影をやってみたら、描かれていた絵の線が見えてきたんだほ。
おまけに、古代エジプトの象形文字ヒエログリフも書いてあったんだほ。だから、ミイラさんの名前もわかったんだほ。ヒエログリフを解読したら、ミイラさんのためのお願い事も書いてあったんだほ。
願い事ってなに?
パシェリエンプタハさんのために「神さまから供物と食べ物が与えられますように」って書いてあるんだほ。
なぜ死んだ後も食べ物が必要なの?
ほー、ユリノキちゃん、いいとこついてくるほー。
古代エジプトでは、人は死んだ後、死後の世界の王オシリスのところに行って、裁判を受けなくてはならないと信じられていたんだ。そこで、生前悪いことをしなかったことは証明されると、死者は永遠の命をもらうことができるんだほ。
永遠の命? じゃあ、死んだあとは何をしているの?
エジプトの人たちは、生きているときとおなじように、ナイル川のほとりで畑を耕して豊かな恵みをもらう、そんな暮らしがずーっと続くと思っていたんだほ。ずーっと生き続けるためには、永遠に腐らないからだが必要だったんだほ。だから、死んだからだをミイラにしたんだほ。

エジプト センネジェムの墓の壁画
古代エジプトの人々がイメージしていた死後の世界「イアルの野」。
豊かな恵みをもたらすナイルのほとりで生きているときと同じような暮らしが続くと思っていました
じゃあ、このミイラさんもずっと生きているの? でも、死んだ後も今と同じように畑を耕したり、働いたりなんて、私はごめんだわ。
古代エジプトにもユリノキちゃんのような考えの人がいて、死んだ人のかわりに働いてくれるウシャブティというミイラ型の人形をお墓に入れたんだほ。ほら、これがそのウシャブティ。

アメン神官のウシャブティ 末期王朝時代時代・前664~前332年 エジプト出土 (百瀬治・富美子氏寄贈)
手にスキとツルハシを持ち、背中には籠をしょっています
へえ、至れり尽くせりね。
ほかにも死者のためにいろいろな仕事をする人たちの人形をお墓に入れて、死者があの世で困らないようにしたんだほ。
じゃあ、この真黒な棺に絵はどんな絵が描かれていたの?
説明するのはちょっと難しいけど、死と再生に関係のある神様、死者を守る神様たちが描かれていたんだほ。
たとえば、ミイラさんの頭の上にはこんな絵。

カルトナージュ棺の頭の上の部分に描かれている模様の彩色復元。
フンコロガシの姿のケプリ神
えーっ? 虫?!
これは、フンコロガシの一種、スカラベという虫だほ。動物の糞を丸めて転がしていくところが、太陽を押し上げているように見えることから、復活と再生のシンボルとされたんだほ。
じゃ、この大きな翼をもった人はだれ?(下写真右)

カルトナージュ棺に描かれている模様の彩色復元
これは、死者を守る女神さま。イシスとネフティスだほ。
棺に描かれていた絵に興味がある方は、ぜひミュージアムシアターにいくといいほ。
きれいな色もついた再現映像がたっぷりみられるほ。ミイラさんをCTで撮影したとっておきの映像もたっぷり公開中~。
ほんと? じゃあ行きましょう!
ユリノキちゃん、いまはもうしまってるほ。明日、開館中に行くほー。
うーん、明日まで我慢できない!!!
あら? トーハクくん、楽しそうなワークシートがあるわよ。

ワークシートは東洋館ラウンジ、展示室にて配布しています
ほー! ほんとだ。一緒にやってみるほ。
(続く)
「ミイラのワークシートに挑戦!」の巻は次回のお楽しみ!
親と子のギャラリー「ミイラとエジプトの神々」
9月13日(日)まで 東洋館3室にて開催中
ワークシートは東洋館ラウンジ、展示室などで無料配布
VR作品「東博のミイラ デジタル解剖室へようこそ」
10月12日(月・祝)まで 毎週 水・木・金・土・日・祝
東洋館 TNM&TOPPAN ミュージアムシアターにて上演中
料金:高校生以上 500円
※9月13日(日)まで、小・中学生のシアター鑑賞料無料
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posted by トーハクくん at 2015年08月03日 (月)
日本の医学は、江戸時代の中頃にオランダから入ってきた西洋医学の影響をうけて、大きく進歩しました。それに対し、古くから日本で行われていたのが「養生」です。養生とは、健康に注意し,病気にかからず丈夫でいられるようにつとめるという意味です。近年、さまざまな養生のあり方が、病気を予防する医学の立場から注目されています。
現在、本館15室では「養生と医学」(2015年7月7日(火) ~2015年8月30日(日))をテーマに特集展示をしています。







一般には、江戸時代の庶民について、貧しい生活のなかで、病気に対する知識をもたず、ろくに医師の診察も受けられなかったというような印象が持たれています。ところが、実際には医療について関心をもち、灸をすえたり、湯治に出かけるなどして健康の維持につとめ、必要に応じて医師の診断を受けていた人が少なくありませんでした。
現代では、薬や注射で、手間をかけずに病気を治せると考えてしまいがちですが、病気にならずに長生きするために日頃何をしたらよいかを求めていた江戸時代の人々の考え方を、もう一度見直すことも大切ではないでしょうか。
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posted by 高橋裕次(保存修復課長) at 2015年07月24日 (金)
梅雨の時期、皆様はいかがお過ごしでしょうか。私はお昼休みに、展示室に向かうことがあります。快適な空間で作品を楽しむ、この時期には、何よりの幸せを感じます。現在、東洋館8室で開催中の特集「清時代の書」(2015年6月9日(火)~2015年8月2日(日))も、会期の半ばを過ぎました。天候不順、ジメジメして気分も晴れない…本展には、そんな時期だからこそ見ていただきたい作品が展示されています。

篆書・隷書・楷書・行書・草書、そして篆刻に印譜と、様々な作品が展示室を彩ります。
本展の舞台となるのは、中国・清時代(1616~1912)も乾隆帝による最盛期を過ぎた18世紀末から19世紀にかけて。書の分野では、この頃より碑学派(ひがくは)と称される一派が隆盛します。法帖を中心に学んできた従来とは異なり、彼らが書の拠り所としたものは、古代の青銅器や石碑など金石に見られる銘文の字姿でした。当時、全盛を迎えていた考証学(こうしょうがく/客観的・実証的に儒家古典を研究する学問)。その進展により金石が再注目され、広く研究されていたことが背景にありました。
これら金石の書のなかには、南北朝時代の石碑など以前は書としての価値が見出されず、お手本とされなかったものや、漢時代以前の篆書・隷書など生気に満ちた表現の開拓により、新たな息吹が吹き込まれ、再び脚光を浴びたものがあります。
碑学派は書の鑑賞と表現の幅を拡充させ、清時代の書を百花繚乱のごとく彩りました。

左:乙瑛碑(部分) 中国 後漢時代・永興元年(153) 東京国立博物館蔵(高島菊次郎氏寄贈)※本展出品作品ではありません。
右:高貞碑(出土初拓、部分) 中国 北魏時代・正光4年(523) 台東区立書道博物館蔵 ※本展出品作品ではありません。台東区立書道博物館「不折が愛した中国・南北朝時代の書―439年から589年、王朝の興亡を越えて―」にて7月20日(月・祝)まで展示中。
本展では、そんな碑学派隆盛の礎をなした鄧石如(とうせきじょ、1743~1805)・包世臣(ほうせいしん、1775~1855)・呉熙載(ごきさい、1799~1870)の、師弟3代にわたる系譜にスポットを当てています。

左:鄧石如像(『清代学者象伝』第2集) パネル展示
右:草書五言聯 鄧石如筆 中国 清時代・嘉慶9年(1804) 個人蔵
生涯、仕官せず、各地を歴遊して、書と篆刻で身を立てた鄧石如。言葉数は少なく、高潔で実直な人柄だったようです。生命感にあふれた鄧石如の書を見ていると、どこか力が湧いてくるような気がします。

左:包世臣像(『清代学者象伝』第2集) パネル展示
右:楷書嬌舞倚床図便面賦軸 包世臣筆 中国 清時代・18~19世紀 東京国立博物館蔵
経世家として、また書の理論家として才を発揮した包世臣。小柄で精悍な人物だったようです。絹本に書かれたこの作品は、爽やかな墨の色合いに目を奪われます。

左:呉熙載像(『清代学者象伝』第2集) パネル展示
右:篆書張茂先励志詩四屛 呉熙載筆 中国 清時代・19世紀 東京国立博物館蔵(青山杉雨氏寄贈)
生涯、仕官せず、書画篆刻や書籍の棗刻などを生業とした呉熙載。誠実で情に厚い人柄だったようです。しなやかさのある呉熙載の篆書を見ると、あたかも心地よい風が吹き抜けていくような気がします。
師弟とは言っても、それぞれの関係は異なります。鄧石如と包世臣は、師友の間柄に近く、実は生涯に2度ほど会ったにすぎません。しかし、この2度の出会いこそが、後に鄧石如の書の評価を不動のものとするきっかけになったのです。
初めての出会いは、嘉慶7年(1802)、鄧石如60歳、包世臣28歳のときのこと。鎮江(江蘇省)で鄧石如を知った包世臣は、書の教えを乞うべく、10日余りも彼のところを訪れました。それほどまでに自身を突き動かす何かを、鄧石如の人と書に感じたのでしょう。そして、鄧もまた、30以上も歳の離れた若者の熱意に、きっと心を許したにちがいありません。鄧石如は、包世臣を自身の書のよき理解者だとし、包もまたそれを自負していました。翌年、両者は揚州(江蘇省)で再会を果たしますが、これが終世の別れとなります。
鄧石如の没後、包世臣は、その生涯を「完白山人伝」として記し、伝授された技法を「述書」にとどめます。そして、当代の書を9つのランクに分けて評価した「国朝書品」において、包は唯一、鄧石如の書を第1等に置き、鄧の書が自身の理想を体現したものであることを世に示したのでした。

篆書白氏草堂記六屛 鄧石如筆 中国 清時代・嘉慶9年(1804) 個人蔵
鄧石如の篆書は、隷書とともに神品(第1等)に置かれました。
包世臣よりも24歳年少の呉熙載は、若くして包の入室の弟子となります。呉熙載は包世臣の字、慎伯(しんぱく)にちなんで、室号を師慎軒(ししんけん)とするほど、師を慕い、尊敬してやみませんでした。
既に呉が21歳のときには、包世臣の書法を会得し、包から、自身の書と見分けがつかない、とまで言われるようになっていました。呉熙載の素質と、ひたむきに努力する人柄を認めた包世臣は、愛弟子として、また書を深く語り合える数少ない者として、彼に様々な技法を授けたのです。そこには、師の鄧石如から学んだことも多分に含まれていたでしょう。
呉熙載の書を見てみると、楷書・行書・草書の3体は包世臣のものと酷似し、篆書・隷書・篆刻は鄧石如の作に範をとっていることが分かります。包世臣が著述で師を顕彰したように、呉熙載は自身の作品を通して、何よりも二人の師のことを世に伝えたかったのではないでしょうか。

左:楷書淮南子主術訓横披 呉熙載筆 中国 清時代・19世紀 個人蔵
右:臨孝女曹娥碑冊(部分)包世臣筆 中国 清時代・道光20年(1840) 東京国立博物館蔵(高島菊次郎氏寄贈)

左:隷書七言聯 呉熙載筆 中国 清時代・19世紀 個人蔵
右:隷書崔子玉座右銘横披 鄧石如筆 中国 清時代・嘉慶7年(1802) 個人蔵
彼らの後を受けて、趙之謙(ちょうしけん、1829~1884)・徐三庚(じょさんこう、1826~1890)・呉昌碩(ごしょうせき、1844~1927)といった人物が碑学派を隆盛に導きます。碑学は楊守敬(ようしゅけい、1839~1915)の来日によって、明治時代に日本にも伝わり、日中双方において近現代の書を語るうえでは不可欠と言えるほど、絶大な影響を及ぼしました。
3家の人柄に思いを馳せつつ、近現代の書との結節点、清時代の書をごゆっくりお楽しみください。
*台東区立書道博物館では、碑学派も学んだ南北朝時代の書が展示されています。こちらも是非、お見逃しなく。
「不折が愛した中国・南北朝時代の書―439年から589年、王朝の興亡を越えて―」
2015年3月24日(火)~2015年7月20日(月・祝)
前期:3月24日(火)~5月17日(日) 後期:5月19日(火)~7月20日(月・祝)
カテゴリ:研究員のイチオシ、特集・特別公開、中国の絵画・書跡
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posted by 六人部克典(登録室アソシエイトフェロー) at 2015年07月02日 (木)