台東区立書道博物館との連携企画第17弾、「生誕550年記念 文徴明とその時代」は後期展示に入り、3月1日(日)の閉幕まであとわずかとなりました。鍋島主任研究員、六人部研究員に続く、しんがりブログをお届けします!
南宋の皇族であった趙孟頫(ちょうもうふ、1254~1322)は、26歳の時に祖国滅亡の憂き目に遭いましたが、その豊かな才能が元の初代皇帝フビライに認められ、元王朝に仕えることになりました。漢民族である南宋の皇族でありながら、故国を滅ぼした異民族の王朝に仕える忸怩(じくじ)たる思いを、趙孟頫は知人への書簡の中で切々と訴えています。
趙孟頫は高級官僚を務めながら、生涯をかけて壮大な書画のしかけに挑みました。彼は復古主義を提唱し、数々の素晴らしい書画を作ることで、伝統的な漢民族の優位性を天下に知らしめたのです。伝存する王羲之(おうぎし)の書が日ごとに減少するなか、多くの人々は趙孟頫の書を学ぶことで王羲之の書に近づこうとしたほど、趙孟頫の書は王羲之のそれに肉薄していました。楷行草は王羲之・王献之(おうけんし)を学び、精到な書風を誇りました ※図1参照。

図1:楷書漢汲黯伝冊 趙孟頫筆 元時代・延祐7年(1320) 永青文庫蔵

図1:楷書漢汲黯伝冊 文徴明補筆 明時代・嘉靖20年(1541) 永青文庫蔵

図1:楷書漢汲黯伝冊跋 文徴明筆 明時代・嘉靖20年(1541) 永青文庫蔵
趙孟頫67歳の書。書道博物館では、72歳の文徴明が帖末に記した跋文を展示しています。
趙孟頫が後世に与えた影響はとてつもなく大きく、明時代の初期にも多くの追随者がいました。しかし明時代の中期、趙孟頫の没後150年も過ぎた頃になると、さすがに趙孟頫流の書は形骸化してしまい、趙孟頫の書そのものを貶(おとし)める者が出てきました。文徴明(ぶんちょうめい、1470~1559)の先輩にして友人であった祝允明(しゅくいんめい、1460~1526)もその一人 ※図2参照。祝允明は趙孟頫の書を俗書と貶め、趙孟頫の書を学ぶことなく、直接、王羲之の書の拓本を学ぶことで、王羲之の真髄に近づこうとしたのです。祝允明のこのような立ち位置は、いわば新しい考えに基づく伝統派であったと言えます。
しかし、文徴明は終生にわたって趙孟頫を尊敬し、趙孟頫が歩んだ道を彼自身も歩もうとしました。趙孟頫が理想とした王羲之の書を、おそらく文徴明は趙孟頫の書を通して学び、趙孟頫が幾度となく書いた千字文を、文徴明もまた数え切れないほど揮毫しています ※図3参照。祝允明が新しい考えに基づく伝統派であるとするのなら、文徴明は古い考えを墨守した伝統派であったと言えるでしょう。

図3:草書千字文冊 文徴明筆 明時代・嘉靖14年(1535) 台東区立書道博物館蔵
文徴明は生涯におびただしい数の千字文を書き残しました。これは66歳の書。書道博展示。「福縁善慶」をあしらったトートバックは、書道博だけで販売しています。

図3:草書千字文巻 文徴明筆 明時代・嘉靖24年(1546) 東京国立博物館蔵 (青山杉雨氏寄贈)
文徴明76歳の書。東博展示。

高級官僚であった文徴明の父文林(ぶんりん)は、趙孟頫の書を学びました。文徴明が幼いころ、画を学んだ沈周や ※図4参照、書を学んだ李応禎や ※図5参照、文を学んだ呉寛 ※図6参照 たちはみな文林の同僚で、それぞれ文徴明より43歳、39歳、35歳も年上でした。悪友の祝允明や唐寅(とういん、1470~1523)が文徴明を騙して色街に連れ出し、あらかじめ示し合わせた妓女が文徴明に科(しな)を作ると、血相を変えて帰宅した堅物の文徴明は、一世代や二世代も古い流れを汲む道学先生の傾向がすこぶる強い人物であったようです。

図5:詔求直言表(停雲館帖より) 李応禎筆 明時代・15世紀 東京国立博物館蔵 (高島菊次郎氏寄贈)
李応禎は強い意志を持ち、気概に富んだ人物でした。22歳の文徴明が師事したとき、李応禎は61歳。東博展示。

図6:謝賜御書詩表巻跋 呉寛筆 明時代・15~16世紀 台東区立書道博物館蔵
文林は呉寛より10歳年下でしたが、同じ年に進士に及第し、昵懇の間柄でした。書道博展示。
歴史の波に翻弄され、一族だけでなく王朝の恨みまでをも晴らすかのように、壮大な挑戦を試みた趙孟頫と、実に恵まれた環境の中で摂生につとめ、90歳の最晩年まで郷里に閑居して努力に努力を重ねた文徴明は、両者ともその時代や境遇を象徴するかのような、えもいわれぬ書画の世界を築き上げ、後世に大きな影響を与えたのでした。
文徴明とほぼ同時代、文徴明より2つ年下で57歳の生涯を駆け抜けた王守仁は、王陽明と言った方が、通りが良いかも知れません。中国思想史上、朱子学を批判的に継承し、哲学の突破を実現した王守仁(王陽明)の書も、出陳されています ※図7参照。

図7:草書何陋軒記巻 王守仁筆 明時代・16世紀 東京国立博物館蔵 (高島菊次郎氏寄贈)
王陽明の哲学は、董其昌にも隠然たる影響を及ぼしました。東博展示。
文徴明が90歳の長寿を全うしたとき、上海に5歳の董其昌(とうきしょう、1555~1636)がいました。王陽明の哲学が右派と左派に分かれながら広く浸透し、文化が爛熟し情欲が解放された明時代の後半、董其昌は文徴明や趙孟頫を意識しながら、芸苑に新たな息吹を吹き込みます ※図8参照。

図8:謝賜御書詩表巻跋 董其昌筆 明時代・16~17世紀 台東区立書道博物館蔵
董其昌は文徴明や趙孟頫を乗り越えようとして、数々の名品に真摯に対峙しました。書道博展示。

図8:書画合壁冊 董其昌筆 明時代・崇禎2年(1629) 東京国立博物館蔵 (高島菊次郎氏寄贈)
董其昌は書画に対する考えが文徴明と異なりますが、文徴明がいたからこそ董其昌が活躍したと言えるでしょう。東博展示。

閉幕まであとわずか。文徴明とその時代の書画を通して、文徴明の来し方と行く末に思いを馳せていただければ幸いです。まだ見てない人も、前半の展示しか見てない人も、伝統と革新が入り交じり、文化の流れが大きく変貌しようとする明時代の中期に焦点を当てたこの企画を、お見逃しなく!

東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画
「生誕550年記念 文徴明とその時代」
2020年1月2日(木)~3月1日(日)
東京国立博物館 東洋館8室
2020年1月4日(土)~3月1日(日)
台東区立書道博物館
※ 前期:2月2日(日)まで、後期:2月4日(火)から

カテゴリ:研究員のイチオシ、特集・特別公開、中国の絵画・書跡
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posted by 富田淳(学芸企画部長) at 2020年02月14日 (金)
生誕550年記念 文徴明(ぶんちょうめい)とその時代 その2
トーハク(@東洋館8室)と台東区立書道博物館(書博)で毎年開催している恒例の連携企画は、現在の「生誕550年記念 文徴明とその時代」(前期:~2月2日(日)、後期:2月4日(火)~3月1日(日))で17回目となりました。年明けに開幕した本展も、一部展示替えを経て、2月4日からは後期展が始まります。展覧会は開幕したらあっという間、気付けば閉幕間近ということがよくあります。ぜひ、お見逃しなく。
さて、先日のブログでは、書博の鍋島稲子主任研究員が両館の展示の見どころをご紹介されました。今回は本展の主役の文徴明についてお話ししながら、オススメの展示作品をご紹介しようと思います。


文徴明(1470~1559)が生まれたのは今から550年前の蘇州です。当時の蘇州は商品流通の要地で、絹織物などの紡績業によって中国第一の商工業都市に発展を遂げていました。その経済力と長江下流域の豊かな土壌は文化の繁栄をもたらし、書画の商品化が促され、高まる需要は文人たちの活動を支えました。

現在の蘇州の街並み
商品の流通を支えたのが運河。現在も水路が張り巡らされ、白壁に統一された建造物が並ぶ蘇州の街並みは風情たっぷりです。

現在の曹家巷
文徴明の生家は、蘇州府長洲県(現在の蘇州市)の徳慶橋西北に位置する曹家巷というところにありました。巷は街の横丁という意味です。残念ながら徳慶橋は残っていないようですが、曹家巷には今も民家が軒を連ね、外壁には「曹家巷」の標識が掲げられます。文徴明が生まれたのち、父の文林は自邸に停雲館を建てたと言われます。
幼少期の文徴明は言葉が遅く、書は青年期まで下手だったようです。しかし、19歳のときに受けた試験で、書が拙いために順位を落とされたことをきっかけに一念発起、人一倍、書の研鑽に努めました。
文徴明の並々ならぬ努力については、例えば、1000文字からなる長篇の詩「千字文」を日に10回書くことを日課としたなどと、常人離れした逸話が残されます。その真偽は措くとして、実際に文徴明が書いた「千字文」は比較的多く現存し、晩年に至るまで勤勉真摯に書と向き合っていたことが想像されます。

草書千字文巻(部分) 文徴明筆 明時代・嘉靖24年(1545) 東京国立博物館蔵(青山杉雨氏寄贈)
東博通期展示
これは文徴明が76歳の時に、蘇州の自宅の玉磬山房で書いた「千字文」です。東晋時代の王羲之を手本とした書には、流暢で趣深い線が見られ、洗練された美しさが目を奪います。
文徴明は父と同じ官僚になるべく、26歳~53歳まで合計9度にわたり科挙の地方試験に挑み続けましたが、遂に及第できませんでした。その後、推薦されて54歳から3年間、北京の朝廷に出仕したものの、官界に馴染めず自ら退官を願い出て帰郷します。玉磬山房は、文徴明が蘇州に戻って間もなく自宅の東に築いた一室で、以降そこで自適に詩を詠み書画に耽る翰墨生活を送りました。
帰郷した頃には、すでに先輩や同世代の有能な文人がこの世を去っており、文徴明は以後、蘇州の文人サークルのリーダー的存在となって、その芸術活動を牽引し続けたのです。
文徴明の行草書には、王羲之の書やそれを継承したと伝えられる隋時代の智永の書を基礎とした、端正で雅やかな様式の作が残されます。また、北宋時代の黄庭堅の書法を忠実に修得した、才気あふれる大字の行書も見られます。

行書陶淵明飲酒二十首巻(部分) 文徴明筆 明時代・嘉靖33年(1554) 京都国立博物館蔵
書博後期(2/4(火)から)展示
陶淵明の有名な詩を、文徴明が最晩年の85歳の時に書きました。絹本の風合が、趣ある字姿を引き立てています。

草書七言律詩扇面 文徴明筆 明時代・16世紀 東京国立博物館蔵(高島菊次郎氏寄贈)
東博前期(2/2(日)まで)展示
文徴明が蘇州城の西北に位置する虎丘に登った際に詠んだ詩を、煌びやかな金箋の扇面に書きました。大胆かつ軽快に書き進められ、筆画の太細や疎密は変化に富みます。


文徴明が40歳の時に蘇州の天池山に遊んだ際に詠んだ詩を69歳の時に書きました。黄庭堅風の代表作の一つです。鋭さと重厚さを兼ね備えた線が躍動します。文徴明の師の沈周もまた、黄庭堅風の書にすぐれました。
文徴明の書で、行草書とならび最も高く評価されているのが超絶技巧の小さな楷書です。王羲之の「黄庭経」や「楽毅論」などをよく学び、それらを消化して清らかで気品に満ちた様式を築きました。晩年になるにつれて技量や精神力は凄みを増し、80代になっても衰えることなく小楷を書き続けました。

楷書尺牘冊 文徴明筆 明時代・16世紀 台東区立書道博物館蔵 書博通期展示
文徴明は23歳のときに昆山(現在の蘇州市昆山市)の呉愈の三女と結婚し、のちに文彭、文嘉ら子宝にも恵まれました。岳父の呉愈に宛てたこの手紙は、早年の頃の書と言われます。晩年の小楷と比べると、文字の形のとり方などに初々しさが垣間見られ、文徴明の早期の作例として貴重です。

楷書離騒九歌巻(部分) 文徴明筆 明時代・嘉靖31年(1552) 東京国立博物館蔵(高島菊次郎氏寄贈)
東博通期展示
自宅の停雲館で、83歳の時に『楚辞』の「離騒」と「九歌」を書いた一巻です。縦横1センチにも満たない文字は、1行21字詰めのマス目に合計216行にわたって整然と記され、清らかで澄みきった細身の線は乱れることなく、首尾一貫しています。卓絶した技法と高い精神力に支えられたこの書は、文徴明の代表作の一つに数えられます。
嘉靖39年(1559)2月20日、文徴明は御史の厳傑の亡き母のために墓誌銘を執筆していた際、筆を置き正座したまま逝去し、90の天寿を全うしました。温厚篤実な人柄と清雅な作風に魅せられた門弟や子孫ら、多くの後輩文人によって、文徴明は後世まで多大な影響を及ぼすこととなります。本展の作品から、文徴明とその時代に思いを馳せていただけますと幸いです。

現在の文徴明墓
文徴明のお墓は、蘇州市相城区にある孫武紀念園の敷地内に今も残されています。
*曹家巷と文徴明墓の調査では、潘文協氏(蘇州博物館)にご協力いただきました。

東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画
「生誕550年記念 文徴明とその時代」
2020年1月2日(木)~3月1日(日)
東京国立博物館 東洋館8室
2020年1月4日(土)~3月1日(日)
台東区立書道博物館
※ 前期:2月2日(日)まで、後期:2月4日(火)から

カテゴリ:研究員のイチオシ、特集・特別公開、中国の絵画・書跡
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posted by 六人部克典(登録室研究員) at 2020年01月31日 (金)
生誕550年記念 文徴明(ぶんちょうめい)とその時代 その1
昨年の今頃、トーハクは特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」と連携企画「王羲之書法の残影-唐時代への道程-」のダブル開催で、書の展覧会に光が当たっていました。
今年は連携企画「生誕550年記念 文徴明とその時代」の一本勝負ですが、小規模ながらも充実した内容です。展示総数は、国宝1件、重要文化財3件、重要美術品3件、筑西市指定文化財1件を含む、全133件。トーハクで68件、書博で65件を展示しています。
1089ブログでは、3回にわたって本展を楽しんでもらうためのツボをお伝えいたします。
みどころワン・ツー・スリー!
1、ここが凄い!未曾有の明時代中期スペシャル!!
2、あそこも凄い!国内の文徴明、ほとんど総動員!!
3、ダメ押しで凄い!呉派作品を精選、蘇州の華やぎ!!
国内屈指の名品を集めた文徴明の展覧会を日本で開催するのは、おそらく初めての試みでしょう。この連携企画は、2館で1つの展覧会となっており、トーハク、書博それぞれ独自のウリもあります。では、展示作品を章ごとにチラリとお見せしましょう。
トーハクだけ!
第1章 文徴明前夜-明代前期の文人書画
明時代前期の書画は、宋元時代からの伝統を継承する流れと、宮廷での流れがあります。王紱(おうふつ)は元末の四大家の倪瓉(げいさん)、王蒙(おうもう)らの影響を受け、詹仲和(せんちゅうわ)は、復古主義を唱えた趙孟頫(ちょうもうふ)の影響を窺うことができます。

呉派のさきがけ、わしのあこがれ!
重要美術品 秋林隠居図軸 王紱筆 明時代・建文3年(1401) 東京国立博物館蔵(東博前期展示)
トーハク&書博!
第2章 文徴明と蘇州の芸苑
文徴明は、清雅な作風に温厚篤実な人柄で蘇州芸苑のドンとなります。書画をよくする家風を受け継いだ文徴明の子孫や弟子たちによって、文徴明の芸術は後世まで多大な影響を与えました。

33歳、余裕の集中力!
山水図巻(部分) 文徴明筆 明時代・弘治15年(1502) 個人蔵(東博通期展示)

85歳、まだまだイケちょる!
行書陶淵明飲酒二十首巻(部分) 文徴明筆 明時代・嘉靖33年(1554) 京都国立博物館蔵(書博後期展示)
書博だけ!
第3章 文徴明の書画鑑識
文徴明は若い頃から書画の名品に慣れ親しみ、当時の大コレクターたちとも親交して鑑識眼を養っていきました。歴代の名品に補筆したり跋文を書き添えるなど、鑑識のドンでもありました。

趙孟頫の影武者になりきって書いたものよ。
写真右:楷書漢汲黯伝(かんきゅうあんでん)冊(部分) 趙孟頫筆 元時代・延祐7年(1320)
写真左:楷書漢汲黯伝(かんきゅうあんでん)冊(部分) 文徴明の補筆 明時代・嘉靖20年(1541)
※ いずれも永青文庫蔵(書博通期展示)
トーハクだけ!
第4章 蘇州画壇の華やぎ-職業画家たちの活躍
繁栄する蘇州の絵画市場では、職業画家たちの作品が売買されました。文徴明一族やその周辺の文人たちと職業画家たちの多彩な活躍により、蘇州画壇は華やぎを増していきます。

みんな大好き、一番人気の清明上河図!
清明上河図巻(部分) 張択端款 明時代・17世紀 東京国立博物館蔵(東博前期展示)
トーハク&書博!
第5章 江南文人書画界への波及
蘇州に刺激され、他の江南地域も文人書画様式を作る動きが盛んになります。浙江(せっこう)では伝統的に筆墨の味わいを重んじた奔放な表現が愛されました。徐渭(じょい)は浙江の作風を代表する文人です。

絶妙なにじみとかすれ、まさに墨の魔術師じゃの!
花卉雑画巻(部分) 徐渭筆 明時代・万暦3年(1575) 東京国立博物館蔵(東博通期展示)
書博だけ!
第6章 日本における受容
江戸時代の書は、文徴明を基盤とした唐様書(からようしょ)が流行しました。絵画は、狩野派の絵師や文人画家の与謝蕪村(よさぶそん)らが文徴明を学んでいます。海を隔てた日本でも、気品ある文徴明の作風は人気を博しました。

蕪村も、わしの書画を学んで大きくなった!
筑西市指定文化財 文徴明八勝図巻(部分) 与謝蕪村模 江戸時代・18世紀 個人蔵(書博通期展示)
…まだまだみどころ満載の文徴明、続きはその2、その3でお楽しみください。
連携企画第17弾、上野の山とその麓でくりひろげられる文徴明ワールドは3月1日(日)まで絶賛公開中です!この機会をお見逃しなく!!

図録
生誕550年記念 文徴明とその時代
編集:台東区立書道博物館
編集協力:東京国立博物館
発行:公益財団法人 台東区芸術文化財団
定価:1100円(税込)
※ 東京国立博物館ミュージアムショップと台東区立書道博物館で販売中。
週刊瓦版
台東区立書道博物館では、本展のトピックスを「週刊瓦版」という形で、毎週話題を変えて無料で配布しています。トーハク、書道博物館の学芸員が書いています。展覧会を楽しくみるための一助として、ぜひご活用ください。

東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画
「生誕550年記念 文徴明とその時代」
2020年1月2日(木)~3月1日(日)
東京国立博物館 東洋館8室
2020年1月4日(土)~3月1日(日)
台東区立書道博物館
※ 前期:2月2日(日)まで、後期:2月4日(火)から

カテゴリ:研究員のイチオシ、特集・特別公開、中国の絵画・書跡
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posted by 鍋島稲子(台東区立書道博物館主任研究員) at 2020年01月16日 (木)
新年、あけましておめでとうございます。特別展室の猪熊です。
昨年は天皇陛下の御即位があり、東京国立博物館(トーハク)では、その御慶事にちなんで昨秋には特別展「正倉院の世界」(会期終了)を開催し、昨年末からは特別公開「高御座と御帳台」(~1月19日(日))を開催しています。

また、それらの展覧会に合わせて、トーハクの所蔵品のなかから宮廷関係の作品を集めて、特集「天皇と宮中儀礼」を開催しています。このたびのブログでは、その特集のなかに表わされた高御座を紹介します。
高御座は、古代から天皇の御座として用いられた調度で、黒漆塗りの基壇の上に御倚子(ごいし)を置き、その上に八角形の屋根をかぶせ、屋根の上には9体の鳳凰像や鏡などを飾り、御倚子のまわりに帳(とばり)をたらす形式のもので、本来は国家的な儀式を行なう朝堂院(ちょうどういん)の正殿である大極殿(だいごくでん)の中央に置かれていました。
かつて正月元日には朝賀(ちょうが)という儀式があり、大極殿の前庭に盛装した廷臣たちが整列して、高御座に昇られた天皇に対して慶賀の意を表しました。この朝賀の儀式の方式は、そのまま即位礼にも採用されました。やがて朝賀は途絶えましたが、その儀式の方式は即位礼に残されました。
その後、大極殿が焼失して再建されなくなると、太政官庁(だいじょうかんちょう)の建物で即位が行なわれるようになりました。

ところが、この太政官庁も滅びると、天皇の御在所である内裏(だいり)の紫宸殿(ししんでん)で即位礼を行なうこととなりました。江戸時代の「御即位図」には、紫宸殿とその前庭で儀式が行なわれている様子が描かれています。

現在、京都御所の紫宸殿に高御座が置かれているのには、このような経緯がありました。
江戸時代の高御座は内裏の火災のうちに焼失し、明治維新ののち、大正天皇の御即位に際して高御座が新調されました。これが現在の高御座です。その新調の時には、新時代にふさわしく天皇と皇后が並ばれるように、高御座のとなりに皇后の御座として御帳台(みちょうだい)を置くようになりました。御帳台は、高御座の形式に準じていますが、屋根には鳳凰ではなく鸞(らん)の像を1体だけのせて、鏡などの装飾もありませんでした。ところで、大正時代に描かれた「御即位大嘗祭絵巻」という絵巻を見ますと、現在の高御座と御帳台では両側の階段がなくなっているのがわかります。

これは平成度の御即位に際して、京都御所ではなく、皇居で即位礼を行なうようになったところ、皇居の正殿の松の間に高御座と御帳台がおさまらなかったために、両側の階段を外しておさめ、そのまま現在に至っているのです。
宮廷での元日や即位の儀式に用いられた高御座については、このような歴史がありました。
貴重な機会ですので、ぜひ特別公開「高御座と御帳台」と合わせて、特集「天皇と宮中儀礼」もご覧ください。
それでは、みなさま、本年もよろしくお願い申しあげます。
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特集「天皇と宮中儀礼」 |
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posted by 猪熊兼樹(特別展室長) at 2020年01月15日 (水)
東洋館8室で開催中の特集「中国書画精華―日本における愛好の歴史」(~12月25日(水))は、11月26日(火)から後期展示に入り絵画作品が入れ替わりました。

東洋館8室 中国の書跡、中国の絵画
先日、植松研究員が1089ブログ「中国絵画、「愛好の歴史」の探りかた」と題して、作品への想いがかたちとなって表れたものを手掛かりに愛好の歴史が探れることを紹介されました。
今回はこれを中国書跡の展示作品で見てみたいと思います。
中国書跡の愛好の歴史で、見逃せないのが禅宗僧侶の書です。日本では特に禅僧の書を「墨跡」と呼び、禅林や禅の精神と結びついた茶の湯の世界で珍重されてきました。
例えば、楚石梵琦(そせきぼんき、1296~1370)の二大字「的胤(てきいん)」もその一つ。室町時代以降、茶の湯が展開していくなかで、茶室の床飾りとされるようになった墨跡は、表装も茶人の好みに仕立てられ、鑑賞に供されました。二大字「的胤」は江戸時代初期の茶人、小堀政一(遠州、1579~1647)の好みの表装と伝えられ、付属する二重の保存箱のうち中箱の蓋に記される「琦楚石墨蹟」の題字もまた遠州の書とみられます。

二大字「的胤」 楚石梵琦筆 元時代・14世紀 広田松繁氏寄贈
楚石梵琦は14世紀、元時代末から明時代初めに活躍した高僧で、入元の日本僧とも親交しました。この墨跡は秀居士という在家信徒に道号を書き贈った一幅。筆力に満ちた雄強な字姿です。表装裂は、一文字と風帯が紫地唐花宝相華菊唐草紋様印金、中廻しが白茶地蓮牡丹造土紋様印金、上下が水浅葱地絓とみられます。

左:二大字「的胤」付属の中箱 ※展示の予定はございません
右:中箱蓋の題字「琦楚石墨蹟」 小堀遠州筆

左:二大字「的胤」付属の外箱 ※展示の予定はございません
右:外箱蓋の題字「琦楚石墨蹟」
禅僧ではありませんが、墨跡と同様に禅宗文化のなかで珍重された中国の文人の書も見逃せません。なかでも南宋時代の張即之(ちょうそくし、1186~1266)や元時代の馮子振(ふうししん、1257~?)は、ともに禅学に造詣が深く禅僧と親交し、海を渡った日本僧とも交流しました。
張即之の書風は南宋禅林で流行し、日本僧の請来品や張風の書をよくした蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)などの渡来僧を介して日本でも受容され、馮子振の書もまた入元の日本僧に好まれて少なからず請来され、禅林や茶の湯で愛好されてきたのです。


馮子振は官僚として活躍する一方、中峰明本(ちゅうほうみょうほん)、古林清茂(くりんせいむ)ら当時の高名な禅僧とも親交を結びました。本作は、中峰明本のもとで修行をしていた日本からの留学僧、無隠元晦(むいんげんかい)の求めに応じて書き与えた七言絶句の形式をとる三首の法語です。
馮子振筆「無隠元晦あて法語」は著名な大名茶人でもある雲州松平家7代の松平治郷(不昧、1751~1818)の旧蔵品です。不昧が作成を命じた茶道具目録『御茶器帳(雲州蔵張)』(月照寺本)では、「御茶器名物並之部」に記される「馮海粟墨跡」にあたるとみられます。
『御茶器帳』の記載にあるように、江戸時代に活躍した古筆鑑定家の古筆宗家9代古筆了意(1751~1834)の折紙と添状が、不昧の題字「憑(馮)海粟 証状」が記された保存箱に収められて伝来します。

馮子振筆「無隠元晦あて法語」付属の古筆了意の折紙 ※展示の予定はございません

馮子振筆「無隠元晦あて法語」付属の古筆了意の添状 ※展示の予定はございません

馮子振筆「無隠元晦あて法語」付属の折紙箱
題字「憑(馮)海粟 証状」 松平不昧筆 ※展示の予定はございません
中国の禅僧や禅学に精通した文人らの書は、日本にもたらされ、禅林から茶室などへと鑑賞の場や方法が展開されていくなかで、母国とは異なる新たな愛好の歴史が紡ぎだされました。
本展で、中国書画の日本独特の愛好のかたちにも触れていただけますと幸いです。

特集「中国書画精華―日本における愛好の歴史」
2019年10月29日(火)~12月25日(水)
(前期:11月24日(日)まで、後期:11月26日(火)から)
東洋館8室
※こちらの画像には後期展示の作品が含まれています。

カテゴリ:研究員のイチオシ、特集・特別公開、中国の絵画・書跡
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posted by 六人部克典(登録室研究員) at 2019年12月02日 (月)