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1089ブログ

野毛大塚古墳の展示デザイン

現在、平成館企画展示室で展示中の「新指定 重要文化財 野毛大塚古墳-世田谷の中期古墳-」の展示デザインについてお話します。

この野毛大塚古墳の特集展示では、普段の展示とは異なる、少し変わった展示方法に挑戦しています。
特徴は、展示品と一体になったグラフィックです。


野毛大塚古墳の展示風景
野毛大塚古墳の展示風景


通常、展示品や解説、題箋は下の写真のように、別々に互いに干渉しないように配置されています。


総合文化展の展示風景/本館2階展示室
総合文化展の展示風景/本館2階展示室
作品や解説、題箋が干渉しないように配置されている


しかし、今回の展示では斜めの展示台に作品とグラフィック(解説や画像、題箋)が一体となって並んでいます。


野毛大塚古墳の展示台
作品とグラフィックが一体となった野毛大塚古墳の展示台


野毛大塚古墳の展示台


野毛大塚古墳の展示台


野毛大塚古墳の展示台


野毛大塚古墳の展示台


これによって、一巻の絵巻を見るようにスムーズに展示を観ることができます。

鑑賞者の目線を比べると違いがよくわかります。
通常の展示で、展示品が低い位置にある場合、人の目線は、以下のようになります。



〈通常の展示の目線 パネル↑・作品↓・パネル↑・作品↓・パネル↑・作品↓・・・〉


首を上下する必要があり、これを繰り返すと疲れてしまいます。
一方、今回の野毛大塚古墳の展示では、このような目線となります。



〈野毛大塚古墳の展示の目線 パネル↑・作品↓・作品↓・作品↓・パネル↑〉


壁付きパネルを始めと終わりの2箇所にまとめ、なるべく目線が上下しないつくりになっています。
このような目に見えない、目線のデザインもとても大切な要素です。

もちろん全ての展示を今回のように作ればいいというわけではありませんが、今回の企画と展示品を考慮した結果、最適な展示方法としてグラフィックと一体になった展示に至りました。
「展示の性格」に合わせその都度、最適な展示方法を考えていく必要があるのです。

今後、みなさんが博物館の展示を観る際に、どんな意図でデザインされているか意識しながら観ると、「“この作品の”・“この展示の”ここを見せたい!」という研究員やスタッフの意図が見えてくるかもしれません。

 

【展示情報】

特集「新指定 重要文化財 野毛大塚古墳ー世田谷の中期古墳ー
会場:平成館 企画展示室
期間:2017年7月11日(火)~2017年9月10日(日)

 

カテゴリ:考古特集・特別公開

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posted by 荻堂正博(デザイン室) at 2017年08月01日 (火)

 

【トーハク考古ファン】重文指定記念! 多摩川で古墳さんぽ ~野毛大塚古墳を訪ねて~

トーハク考古ファンの皆様、おさらいです。
2017年はトーハクの古墳時代の作品にとって記念すべき年となりました。
さて、何があったのでしょうか?

まずは、
トーハク所蔵の東京都・野毛大塚古墳出土品が重要文化財に!

重要文化財指定を記念して特集「新指定 重要文化財 野毛大塚古墳―世田谷の中期古墳―」を開催中だほ

そして、
トーハク所蔵の奈良県・東大寺山古墳出土品が国宝に!

古墳といえばトーハクくん。国宝指定にコーフン!

さらに、
岐阜県・船木山(船来山)24号墳出土品が出土50周年!

平成館考古展示室で主要な作品を展示中だほ(12月3日[日]まで)

東大寺山古墳については1089ブログ「新国宝をお披露目! 東大寺山古墳出土の謎の大刀」をご覧いただくとして、今回は1つめの野毛大塚古墳について紹介します。

野毛大塚古墳は、東京都内に残る5世紀の古墳として全国的にも著名です。
「東京みたいな都会にも古墳があるんだほー」というトーハクくんのように、意外に思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
確かに地方に比べると、東京では古墳があったと実感する機会は少ないかもしれませんね。
しかし、実際には古墳時代の東京には数多くの古墳が作られました。
実はトーハクのある上野公園内にもたくさんの古墳があったといわれ、表慶館の立つ場所にもかつて古墳がありました。


この場所にも古墳がありました。鉄刀や馬具などが出土しています

多くは消滅してしまいましたが、現在、上野公園内には約70mの前方後円墳である摺鉢山(すりばちやま)古墳が残っています。
山登りならぬ古墳登りをして、墳頂で休憩をされている方も多いです。

世田谷区と大田区の多摩川左岸にも、数多くの古墳が作られ荏原台(えばらだい)古墳群と総称されます。
そのなかの1基が野毛大塚古墳なのです。
この荏原台古墳群は比較的よく古墳が残っていますので、古墳さんぽがオススメです。


東京に来たころは私も実際に歩いて回りました

東急大井町線の等々力(とどろき)駅を降りるとすぐに、等々力渓谷があります。
この渓谷には1㎞ほどの遊歩道があり、かつての世田谷の自然を留めています。
渓谷内を進むと等々力渓谷横穴群があり、この横穴群から、東には5世紀の御岳山(みたけさん)古墳、西には今回の主役・野毛大塚古墳があります。


緑あふれる等々力渓谷。古墳ファンならずとも歩いて楽しい遊歩道です


等々力渓谷横穴群の3号横穴は、ガラス越しに内部を見学できます


野毛大塚古墳は、玉川野毛町公園の敷地内にあります。
公園には野球場やテニスコートがあり、運動をする人や子ども連れ、(そしてきっと古墳ファンも!)で賑わっています。
野毛大塚古墳は、全長82mもある帆立貝形古墳。
帆立貝式古墳とは、前方後円墳の前方部が短くなり、あたかも帆立貝のような形をした古墳のことです。


現地に行くとその大きさがわかります

墳丘に登ることもできます。
墳頂には、どのような遺物がどこから出土したのかわかるように、4つの埋葬施設(第1~4主体部)がタイルで復元されています。


白い部分が埋葬施設のあった場所です

この4つの埋葬施設のうち、箱形石棺(第2主体部)から出土した大半の遺物は、トーハクで所蔵しています。
他の埋葬施設からの出土品は世田谷区の所蔵で、昨年、国の重要文化財になりました。
そして今年、トーハク所蔵品が重要文化財に指定されることになりました!

このトーハク所蔵の野毛大塚古墳出土品は、新指定のお披露目を兼ね、特集「新指定 重要文化財 野毛大塚古墳―世田谷の中期古墳―」として展示しています(~9月10日[日]/平成館企画展示室)。


会場は考古展示室の向かい側、企画展示室です

野毛大塚古墳には4つの埋葬施設があったため、被葬者は4人いたと考えられます。
多摩川左岸一帯に影響力をもつ、歴代の首長やその一族が葬られました。
この野毛の首長は地域を収めるために、時には武装し、時には祭祀をしました。また、近畿地方のヤマト王権とも結びつきを深めました。

第2主体部からの出土品(当館所蔵です)は、祭祀具である滑石製模造品が多くを占めています。


野毛大塚古墳出土の滑石製模造品

水や生産に関わる滑石製模造品が多く、無事に稲が稔り、豊作になるように、首長が神に願いを込めたのでしょう。
なかでも、水を介した祭祀に関わる槽(そう)はここでしかみられないもので、下駄も類例が少なく貴重です。


滑石製槽


滑石製下駄

滑石製刀子はトーハク所蔵品で232点あり、ひとつの埋葬施設からの出土量として東日本で最大量を誇ります。このように全国的にみても貴重なものを、この野毛大塚古墳の被葬者は所有していました。

さて、古墳さんぽに戻りましょう。
さんぽの最初に、荏原台古墳群は世田谷区のみならず大田区にも広がっていると説明しました。
大田区側の古墳へは、野毛大塚古墳からも点在する古墳をたどりながら歩いて行けますが、電車を使う方法もあります。
最寄り駅は東急線の多摩川駅で、駅からすぐのところに多摩川台公園があります。
この公園では、4世紀や6~7世紀の古墳を見学できます。
古墳に登ることはかないませんが、亀甲山(かめのこやま)古墳や宝莱山(ほうらいざん)古墳のような古い前方後円墳や、一列に並ぶ6~7世紀の多摩川台古墳群は見応えがあります。
公園内には荏原台古墳群を紹介する古墳展示室もあります。


亀甲山古墳は4世紀の前方後円墳です


奥から順に多摩川台第3号墳、第4号墳、第5号墳。6~7世紀に築造されました

「東京に、こんなに古墳があるんだ!」と驚きませんか?
トーハクで野毛大塚古墳出土品の重要文化財指定を祝い、古墳さんぽで東京の魅力を再発見する…これが、この夏、トーハク考古ファンの皆様にオススメの過ごし方です。

※今後、Instagramで野毛大塚古墳出土品を紹介していきます。
「#1089考古ファン」で検索してみてください。

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 河野正訓(考古室研究員) at 2017年07月18日 (火)

 

【トーハク考古ファン】新国宝をお披露目! 東大寺山古墳出土の謎の大刀

トーハク考古ファンの皆さま、ニュースです!
今年、トーハクの古墳時代の作品に関連して、いくつか記念すべきことがございました。

まず、トーハク所蔵の東京都野毛大塚古墳出土品が、発掘されてから120周年となる節目の年に、国の重要文化財に指定されることになりました。
そこで、これを記念して特集「新指定 重要文化財 野毛大塚古墳―世田谷の中期古墳―」(7月11日[火]~9月10日[日]/平成館企画展示室)を開催いたします。


重要文化財 滑石製槽(かっせきせいそう) 
東京都世田谷区 野毛大塚古墳出土
古墳時代・5世紀


また、岐阜県船木山(船来山)24号墳出土品も、出土して50周年となる節目の年です。
6月27日(火)から主要な作品を一括して展示することにいたします(「岐阜県の前期古墳―船木山24号墳出土品―」/平成館考古展示室)。


上から変形三角縁六神鏡・変形六神鏡・変形半円方形帯神獣鏡・
岐阜県本巣市 船木山24号墳出土
古墳時代・4~5世紀


そして、今回のブログの本題となるのが、新たに国宝に指定されることになった、当館所蔵の奈良県東大寺山古墳出土品です。
明日、6月20日(火)より平成館考古展示室で展示いたします(「ヤマト(倭)王権の成立―宝器の生産―」)。

 
国宝 鍬形石(くわがたいし)

左:国宝 車輪石 右:国宝 石釧(いしくしろ)
奈良県天理市 東大寺山古墳出土
古墳時代・4世紀



左:国宝 石製坩(せきせいかん) 右:国宝 石製台付坩
奈良県天理市 東大寺山古墳出土
古墳時代・4世紀


この東大寺山古墳は、奈良県天理市に所在する、全長約130mの前方後円墳です。
4世紀を代表する作品が、数多くみつかったことで著名な古墳です。

奥が前方部、手前の盛り上がりが後円部です

そのなかでも、ひときわ注目されるのが金錯銘花形飾環頭大刀(きんさくめいはながたかざりかんとうたち)です。この大刀には、24文字の金象嵌の銘文がありました。
銘文中には「中平」(184~189年、190年)という中国・後漢の年代があり、この大刀は中国大陸で作られたと考えられています。
古墳時代の日本列島は、文字が普及していない時代です。このようななか、銘文の入った刀や剣は大変貴重で、しかも東大寺山古墳の大刀は2世紀後半の作という、日本列島でみつかった銘文刀剣のなかで一番古い事例として注目されています。
しかも2世紀後半の大刀が、4世紀の古墳から出土しているのです! およそ150年近くも伝世し、古墳に納められたということです!


国宝 金錯銘花形飾環頭大刀
下は「中平」銘の部分
奈良県天理市 東大寺山古墳出土
古墳時代・4世紀

「中平」銘の入った大刀には、花形とも鳥形ともとれる、青銅製の柄頭が取り付けられています(写真下)。そこには、直弧文という日本列島独自の文様がありますので、この柄頭は日本列島で作られたものとわかります。


そのため、この大刀は2世紀後半に中国大陸で製作され、日本列島に運ばれて、4世紀に柄頭が取りつけられた、とする説が有力です。
また、大刀の製作年代は「倭国大乱」が収束して、卑弥呼が「倭国」の女王として共立された時期と重なってきます。
これにより、さらに踏み込んで、卑弥呼が中国の皇帝や権力者からもらった大刀とみる研究者もいます。

では、そんな重要な意味のありそうな大刀が、なぜ東大寺山古墳に副葬されたのでしょうか?
この古墳の被葬者は、王権のなかで軍事的に重要な職掌を担った可能性が高く、そのため、卑弥呼がもらった(かもしれない)大刀を保有しえたのではないか、という考えがありますが、まだはっきりとは分かりません。

このように大刀一つとってみても、興味深いストーリーを描くことができます。
ただし、ここで紹介したのは、あくまで複数ある説のうち一部です。
研究には異説がつきものです。研究者のなかには、「中平」は「大平」の誤りであり、じつは日本列島で大刀が作られたと考える研究者もいます。
そうなると別のストーリーを考えなければいけませんね。
実際はどうだったのでしょうか?
謎に満ちた古墳時代を考えるうえで、この大刀は大きな手がかりになるかもしれません。
今後の研究に注視していきたいと思います。

※今後、Instagramで東大寺山古墳出土品を紹介していきます。
「#1089考古ファン」で検索してみてください。

カテゴリ:news考古

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posted by 河野正訓(考古室研究員) at 2017年06月19日 (月)

 

トーハクのプリンス「埴輪 挂甲の武人」が大修理だほ!

2015年10月のリニューアル以来、平成館考古展示室の顔として展示されていた国宝「埴輪 挂甲の武人」が大修理に入ります。この修理について、トーハクくんとユリノキちゃんが迫ります!


挂甲の武人展示風景
国宝 埴輪 挂甲の武人 群馬県太田市飯塚町出土 古墳時代・6世紀


ユリノキちゃん  埴輪で唯一国宝に指定されている、「埴輪 挂甲の武人」が7月2日(日)で考古展示室を去り、本格解体修理に入るのよ。



トーハクくん ということはしばらく会えないんだほ…。



ユリノキちゃん 文化財の宿命で、どうしても経年による劣化は避けられないの。



修理箇所
もともと下半身が大きく欠けていたのを、前回の修理(※1)の際に、石膏で復元されましたが、経年により劣化が進んでいます(黄色が復元箇所)


修理箇所
前回の修理で接合した箇所は、長年の加重により緩んできています

 

今回の修理の方法:修理前調査 → 解体 → クリーニング → 組立


ユリノキちゃん 今回の修理は、2年以上もかけて行う大がかりなものなのよ。 
   修理前の調査は6か月かかるので、昨年度からすでに始まっているの。



トーハクくん 何をそんなに調査するんだほ?壊れているところを直せばいいんだほ。



ユリノキちゃん ただ直すことだけ考えるのではなく、この次の修理も見据えて、オリジナルの部分に負担にならない方法で行うことも重要なの。だから、挂甲の武人さんが今どんな状態にあるのか、詳しく調べないと!



トーハクくん 次の修理まで考えているなんてすごいほー。

 


ユリノキちゃん 当然お金もたくさん必要になるんだけど、なんとご寄付(※2)をいただけたの!



トーハクくん ほー!?それはとってもありがたいほー。



ユリノキちゃん 修理完了は2019年6月末の予定よ。埴輪担当の研究員は修理が完了したらできるだけ早く展示するって言っていたわ。



トーハクくん  挂甲の武人さん、しばらく会えないのはさみしいけど、元気になって戻ってくるのを待っているほ!




※1 当館の収蔵品になった昭和27年(1952)以降修理の記録は無いため、それ以前に行われたと考えられます
※2 
バンクオブアメリカ・メリルリンチ文化財保護プロジェクトからの助成(トーハクでは、国宝 檜図屏風 (狩野永徳筆)、国宝 鷹見泉石像 (渡辺崋山筆に続く3件目となります) 


 

カテゴリ:news考古トーハクくん&ユリノキちゃん

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posted by トーハクくん&ユリノキちゃん at 2017年06月17日 (土)

 

【トーハク考古ファン】埴輪になったニワトリ

弥生時代のマツリの道具、銅鐸。銅鐸界のスターはシカでした。
古墳時代にもシカは登場します。なかでも古墳の上や周囲には、シカの埴輪を見かけることがあります。

どうしてシカを埴輪にしたのでしょうか。
それは古墳に葬られた王にとって、狩猟が大切だったから、という説があります。
たとえば、こんなシカの埴輪があります。

埴輪 鹿
古墳時代・6世紀 茨城県つくば市下横場字塚原出土
※展示予定はありません。


困り顔ですね。なぜかというと…


矢が刺さっているんです!(印をつけた部分。矢柄部分は折れてしまっています)
矢を射かけられているシカを描いた銅鐸がありましたが、古墳時代になってもシカは狩りの獲物でした。

このようなシカの埴輪のほかに、イノシシとイヌがセットとなって出土することもあります。
このセットも、狩猟を再現しているとされています。
 
左:重要文化財 埴輪 猪
右:埴輪 犬
いずれも、古墳時代・6世紀 群馬県伊勢崎市大字境上武士字天神山出土
通年展示/平成館考古展示室


イヌをよく見てください。首輪をしていますね。人に飼われている証拠です。


また、耳をピンとたて、口を開け、舌を出しています。いまにも王の命令をうけ、イノシシに襲いかかりそうな様子です。
一方でイノシシは、タテガミを立て興奮している様子。でも、なんだか悲しそうです。

シカ、イノシシとイヌは、王による狩猟を示すために埴輪になりました。
このほかサルやムササビといった、めずらしい埴輪もあります。

重要文化財 埴輪 猿
古墳時代・6世紀 伝茨城県行方市沖洲 大日塚古墳出土
~7月17日(月・祝)/本館1室


このサルの埴輪は、背中に子ザルの痕跡が残っています。そのため、子ザルを背負うお母さんのサルとわかります。
どうして、親子のサルが埴輪になったのか。実はまだよくわかっていません。

鳥の埴輪もあります。
ガンやカモといった水鳥の埴輪や、ニワトリの埴輪です。

埴輪 水鳥
古墳時代・5世紀 大阪府羽曳野市 伝応神陵古墳出土
通年展示/平成館考古展示室


なかでも、ひときわ注目されるのがニワトリの埴輪です。
今年の干支でもあるニワトリ。このニワトリがスゴイのです。

埴輪 鶏
古墳時代・6世紀 栃木県真岡市 鶏塚古墳出土
通年展示/平成館考古展示室


ニワトリのスゴイところ1→量
現在、発掘されてみつかったニワトリは、およそ400体。ガン・カモが150体、ウが20体、サギが10体ほどですので、ニワトリは鳥形埴輪のなかで圧倒的に多く作られました。

ニワトリのスゴイところ2→出現時期
ニワトリの埴輪の出現時期は、動物埴輪のなかで最も早い4世紀。そして、6世紀まで長く作られ続けられます。
古墳の埋葬施設に最も近く置かれ、埴輪のなかでもその中心となるのが写真のような家形埴輪です。

重要文化財 埴輪 入母屋造家
古墳時代・5世紀 奈良県桜井市外山出土
~7月2日(日)/平成館考古展示室
7月19日(水)~12月25日(月)/本館1室


その家形埴輪の近くにニワトリがいることが多く、ニワトリは他の埴輪と比べて、重要な埴輪といえます。

どうしてニワトリが埴輪になったのでしょうか?
その謎を解くには、ニワトリの埴輪をじっくり観察する必要があります。
栃木県鶏塚古墳のニワトリは、高い円筒のうえにいます。ほかにも、古い時期のニワトリの埴輪は、止まり木に乗っていることが多く、どうやら高い場所にいるニワトリを表現しているようです。

もうひとつ、別のニワトリの埴輪を見てみましょう。

埴輪 鶏
古墳時代・5世紀 群馬県伊勢崎市 赤堀茶臼山古墳出土
※展示予定はありません。


側面の丸いもの。これは目のヨコにある耳羽(耳の孔を覆う羽)を強調した表現だと考えられています。

高いところにいるニワトリ。耳羽を強調したニワトリ。
一体何を意味しているのでしょうか?

ニワトリは夜中、高いところで寝る習性があります。地面に寝ていたら、イタチなど小動物に襲われるかもしれません。そのため、襲ってくる動物がいないか、耳をすまして高いところにとどまり、注意をしつつ寝ているのです。
このことから、ニワトリの埴輪は、夜のニワトリを表現しているとする説があります。

では、どうして夜なのでしょう。
夜明けになるとニワトリは「コケコッコー」といいます。
そのため、古墳時代の人々は、太陽を導く鳥として、ニワトリを神聖視していたようです。いまのように、卵や肉を食べていたわけではありません。

夜は邪悪なものが暗躍していたとされています。
古墳に邪悪なものが寄り付かないよう、光を導き、邪を払うニワトリが、埴輪となり重要な役割を担ったのでしょう。

しかしながら、この説に反対する研究者もいます。
ニワトリの埴輪には、オスとメスそれぞれいますが、メスは「コケコッコー」とは鳴きません。それゆえに、邪を払うことはできません。
この場合は、生命の再生を願うため、多産を象徴するメスのニワトリが埴輪として選ばれたと考えられます。

もしかしたら、埴輪をつくるよう注文した人それぞれで、異なる意味づけをニワトリに与えたのかもしれません。
皆様は、どのような思いを込められて作られたと考えますか?

今回、紹介した埴輪の多くは現在、平成館考古展示室本館1室にて展示中です。ぜひ実物を目の前にして、埴輪にこめられた思いを想像しながらご覧ください。

埴輪オンステージ!(平成館考古展示室)
ぼくのおともだちに会いにきてほ~


※Instagramで、トーハクの埴輪をアップしています。
「#1089考古ファン」で検索してみてください。

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 河野正訓(考古室研究員) at 2017年03月28日 (火)