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1089ブログ

魏・蜀・呉ってどんなとこだほ?

ほほーい! ぼくトーハクくん。今日は、市元研究員が見どころを紹介してくれるっていうから、特別展「三国志」の会場に遊びにきたほ!
市元さんよろしくだほ!

特別展「三国志」会場。奥に見えるのは関羽像(新郷市博物館蔵)です

よろしく。ところでトーハクくん、三国志に出てくる魏・蜀・呉って聞いたことあるかい?

ぎ・しょく・ご?

そう、どんなところだったかって知ってる?

うーん、三国志ってだいたい戦ってばかりいる感じで、それぞれの国のことまではイメージ沸かないほ。

そっか(笑)。今回の特別展「三国志」では、魏・蜀・呉がどのような国だったのかを知ることができる出土品を、色々見ることができるんだよ。

ほほ!

今日は、俑(よう)というお墓の副葬品として作られた人形や動物の模型を見て、実際に魏・蜀・呉を感じてみよう。

なんだかワクワクだほ!


儀仗俑(ぎじょうよう)
青銅製 後漢時代・2~3世紀
1969年、甘粛省武威市雷台墓出土
甘粛省博物館蔵



はじめに三国時代の前にあたる、漢時代の俑を見てみよう。
これは儀仗俑といって馬車と牛車の隊列を矛(ほこ)や戟(げき)で武装した騎兵が警護する様子を表した俑だよ。

本物そっくりだほ!

俑などの副葬品は生前の生活が死後も続くようにと作られるんだけど、漢時代のものは写実的なのが特徴。しかも、バランスよく作られていて、ちょっとやそっとじゃ倒れないんだよ。


体は立体的ですが、腕は平べったいです

この歩いている人の腕は本物っぽくないほ。

ちょっとおもしろいよね。腕だけを平べったく作ることに何か意味があったのかもしれないね。

うん。それでこれが三国時代になるとどうなるほ?

はいはい、それじゃあ、三国のうち、まずは呉を見ていこう。


武士俑(ぶしよう)
土製 三国時代(呉)・3世紀
1999年、湖北省赤壁市蘆林畈1号墓出土
赤壁市博物館蔵


これは、武士俑って言うよ。武士だから頭に冑(かぶと)をかぶってる。

ほー、ぼくにちょっと似てる! 市元さん、俑とぼく(埴輪)ってどう違うほ?



俑も埴輪もお墓の副葬品として作られたものだけど、埴輪はお墓の上や周りに並べるのに対して、俑はお墓の中に並べるんだよ。

ほほー。お家の中と外の違いかほ。

お家の模型もお墓のなかにいれるから、まあ考え方の違いなんだろうね。
他にも、こんなに色々な俑があるんだ。役割を細かく分けて仕事をしていたことが分かるね。


俑(よう)
青磁 三国時代(呉)・3世紀
2001年、湖北省武漢市黄陂区蔡塘角1号墓出土
武漢博物館蔵


ほー、なんか、心なしかみんな真面目な顔してるほ。

呉は経済的に発展していた国だったけれど、この俑たちのように真面目な人々が支えていたんだろうね。
トーハクくんも働くなら呉がいいと思うよ。

 ぼくはトーハクで十分だほ。


一級文物 牛車(ぎっしゃ)
青磁 三国時代(呉)・3世紀
2006年、江蘇省南京市江寧区上坊1号墓出土
南京市博物総館蔵


一方でこの牛車の模型は、一見シンプルだけど牛の顔から車輪まで特徴をよくとらえて丁寧につくられていることが分かる。
シンプルだけど手を抜かない。これも呉の特徴だね。

うん。牛の足の形とかもく見るとしっかりしてるほ。

そうでしょ。さて、次は蜀を見ていこう。


説唱俑(せっしょうよう)
土製 後漢~三国時代(蜀)・2~3世紀
重慶市忠県花灯墳墓群11号墓出土
重慶中国三峡博物館蔵



調理俑(ちょうりよう)
土製 後漢~三国時代(蜀)・2~3世紀
重慶市三峡庫区出土
重慶中国三峡博物館蔵



舞踏俑(ぶとうよう)(右)
石製 後漢~三国時代(蜀)・2~3世紀 重慶市出土 四川博物院蔵
舞踏俑(左)
石製 後漢~三国時代(蜀)・2~3世紀 重慶市出土 重慶中国三峡博物館蔵


みんなニコニコ、なんかポーズも決まってるほ。

ホントいい笑顔だよね。蜀の人々の穏やかな気風が伝わってくるでしょ。
蜀は動物の模型もぜひ見てほしいな。


一級文物 犬
土製 後漢~三国時代(蜀)・2~3世紀
1957年、四川省成都市天迴山3号墓出土
四川博物院蔵


今にも動きだしそうだほ! ちょっと怖いほ~。

躍動感があって生き生きとしているね。呉は見たものの特徴をそのまま再現するけど、蜀はそれに加えてアーティスティックでクリエイティブな表現をする。

ほほー。アーティスティックでクリエイティブ!(ちょっと何言ってるかわからないほ)。

実在しない架空のものでも、生き生きとしているんだ。


揺銭樹台座(ようせんじゅだいざ)
後漢~三国時代(蜀)・3世紀
2012年、重慶市豊都県林口墓地2号墓出土
重慶市文化遺産研究院蔵


これは揺銭樹台座といって金のなる木を取り付ける台座だよ。この怪獣の顔とかユーモアがあって、なかなかいいよね。

怪獣のほかにも、鳥とか龍とかいろいろあるほ。

もう、アーティスティックでクリエイティブで、さらにファンタジックだね!

うんうん。あーでこーで、さらにファンタジックだほ!

トーハクくん、ちょっと馬鹿にしてるよね。

 やだなー、そんなことないほー。

気を取り直して、それでは最後の魏を見ていこう。


侍俑(じよう)
土製 後漢~三国時代(魏)・3世紀
2008~09年、河南省安陽市曹操高陵出土
河南省文物考古研究院蔵


この侍俑は魏の王、曹操(そうそう)のお墓、曹操高陵(そうそうこうりょう)から出土したものだよ。ちなみに女性だよ。

……なんていったらいいかわからないほ。

トーハクくんの気持ち、わかるよ。シンプルなうえ、呉と違って作りが雑なんだよね。前後の合わせ型で作ったものなんだけど、合わせ目のバリがそのままのこっててちょっと粗雑。

鼻もぺたんこだほ。

ぺたんこだね(笑)。
こっちにある曹操の息子の曹植(そうしょく)のお墓から出土した動物の模型を見てみて。水鳥、鶏、そして犬。


水鳥、鶏、犬(みずどり、にわとり、いぬ)
土製 三国時代(魏)・3世紀
1951年、山東省聊城市東阿県曹植墓出土
東阿県文物管理所蔵


……シュールだほ。ある意味、芸術的……。

同感、シュールで芸術的。侍俑のような雑さはないけど。

どうして魏の副葬品はこんなにシンプルなんだほ?

曹操の残した遺言が影響しているんだ。

どういうことだほ?

曹操は質素倹約を重んじていて、「自分の葬儀は手厚くするな」と遺言をのこしたんだ。

えー! すっごく偉い人なのに! なぜだほ!?

曹操はおそらく、それまでの漢王朝の秩序をかえて、新しい国の体制を築こうとしたんだと思う。手厚い葬儀にするとそれだけ手間がかかる、その手間を新しい国をつくっていくことに使いたかったんじゃないかと。

え、ちょっといい話だほ。なんだか曹操、ステキだほー!

どうだい、トーハクくん。こんな具合に、小説や歴史書だけじゃわからないことが、実際の出土品から読み解くことができるんだ。
まさに「リアル三国志」の世界だね。

うん、最高の世界なんだほ。ぼく、広報大使やっててよかったほ。



 特別展「三国志」は9月16日(月・祝)までです。ぜひ足をお運びください!(来てほー!)
 

特別展「三国志」チラシ

 

日中文化交流協定締結40周年記念
特別展「三国志」

2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室

 

特別展「三国志」チラシ

日中文化交流協定締結40周年記念 特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
 

 

カテゴリ:考古2019年度の特別展

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posted by 市元塁(東洋室) at 2019年08月26日 (月)

 

君は曹操高陵を見たか?

三国志のなかでも抜群の知名度を誇る曹操。
そのお墓(曹操高陵 (そうそうこうりょう))がみつかったのは今から10年ほど前のことでした。
特別展「三国志」では、2016年に刊行された発掘報告書をもとに、曹操高陵の墓室を実寸で再現しています。


本展会場に実寸で再現した曹操高陵の内部

この墓をご覧になって、立派な墓と感じる方もいれば、意外と簡素だなと思われる方もおられることでしょう。
私たち研究者も、そうした点に強い関心を抱いています。
なぜなら、西晋時代の陳寿が著した正史『三国志』に、曹操は自身の葬儀を簡素にするようにとの遺言が記されているからなのです。
遺令の内容は次の通りです。
 

天下はいまだ安定していない状況である。
よって、古制にしたがうこともままならない。
葬儀が終われば皆は早々に喪を解くように、
将兵は持ち場を離れてはならない。
役人は職務を遂行せよ。
遺体を飾る必要はない。
金玉珍宝の類いを墓におさめるな。


これによると、墓室の大小は曹操がいう薄葬とは直接的な結びつきはないのかもしれません。
ただこれまで知られている魏の有力者の墓とくらべると、曹操高陵は抜きんでて大きいというわけではなさそうです。

あらためて遺令をみてみましょう。
遺体を飾るなというくだり、そして金玉珍宝を墓に入れるなという最後の一文。
これらは考古学的に検証ができそうです。

遺体を飾るなというのは、原文では「時服」にせよと言っています。
いうなれば「普段の装いのまま葬れ、特別なあつらえは不要である」と言っているのです。
では、特別にあつらえた死装束とはどのような服だったのでしょうか。
漢時代、王などの貴族が葬られる際は、軟玉の板を銀や銅の糸で綴じ合わせた「玉衣」を着せるならわしでした。


亳州市博物館の展示室でみた玉衣(曹氏一族墓出土)

ところが、曹操高陵の中からはその断片すら検出されませんでした。
後漢時代の王クラスの墓の発掘事例をみますと、盗掘に遭っている場合でも少量の玉衣片はみつかるものです。
その痕跡すら確認されなかった以上、曹操は玉衣に覆われることなく葬られたといえそうです。


次に金玉珍宝とはどのようなものをいうのでしょうか、後漢時代の王クラスの墓にはまばゆいばかりの金粒細工による品々が納められました。
特別展「三国志」では、後漢時代の金製獣文帯金具(きんせいじゅうもんおびかなぐ)を展示しておりますが、こうした文物がまさに当時いわれたところの「金玉珍宝」であったと考えられます。


一級文物 金製獣文帯金具
金製、貴石象嵌 後漢時代・2世紀
2009年、安徽省淮南市寿県寿春鎮古墓出土
寿県博物館蔵

曹操の墓からは、若干の金糸などが出土しているものの、「金玉珍宝」と言えるものは見つかっていません。
ここでひとつ留意しておきたいことがあります。曹操高陵は過去に何度も盗掘に遭っているということです。
金目のものはすでに持ち去られている可能性があるのです。
そうした可能性を完全に排除することはできませんが、現在知り得る情報に基づけば、曹操の遺言は実行にうつされたと判断できます。


それでは、曹操の墓からどのようなものが出土したのでしょうか。
詳しくは会場でご覧いただきたいと思うのですが、曹操高陵からは用途不明のものが多数出土しています。
まるで曹操が研究者の力量を試しているかのようです。
なかでも際立っているのが瑪瑙円盤(めのうえんばん)です。


瑪瑙円盤
瑪瑙製 後漢~三国時代(魏)・3世紀
2008~09年、河南省安陽市曹操高陵出土
河南省文物考古研究院蔵

木星を思わせる美しい縞模様。表面は丁寧に磨き上げ、周囲は面取り加工を施しています。
何かにはめ込んだのか、そのまま使ったのか。使ったとしてその用途は何なのか。
いまだ答えにはたどり着けていません。

開閉器(かいへいき)も謎に満ちています。


開閉器
青銅製、鍍銀 後漢~三国時代(魏)・3世紀
2008~09年、河南省安陽市曹操高陵出土
河南省文物考古研究院蔵

下半の砲弾型の部分が左右に開く仕組みになっているのですが、具体的な用途となると皆目見当もつきません。
こうした謎めいたものに出会ったとき、私たち考古学者はどうするのかというと、とにかく実物をよく観察するのです。
答えに近づくヒントは、インターネットの中でも文献の中でもなく、往々にしてそのモノに込められているからです。
また、よく観察しておくことで、何か別の資料を見たときに思わぬ共通点に気づくこともあるのです。

特別展「三国志」は始まったばかり。
これからも実物をじっくり観察し、なんとか謎の解明につなげたいと思っています。
 

特別展「三国志」チラシ

 

日中文化交流協定締結40周年記念
特別展「三国志」

2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室

 

特別展「三国志」チラシ

日中文化交流協定締結40周年記念 特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古2019年度の特別展

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posted by 市元塁(東洋室) at 2019年07月18日 (木)

 

特集「松山・徳島の考古学」について

こんにちは。考古室研究員の山本です。
今回がはじめてのブログ登場です。皆さまどうぞよろしくお願いいたします。

ただいま平成館企画展示室では、特集「松山・徳島の考古学」(~12月25日(火))を開催しています。
この展示は考古相互貸借事業により、当館から作品をお貸出しするかわりに、松山市考古館徳島市立考古資料館の所蔵する考古資料をお借りして展示しています。

入り口付近からみた西側ケース
入り口付近からみた西側ケース

この展示では地域の特性に触れることができるのも見どころのひとつ。両館からは、縄文時代から平安時代まで、多岐にわたる作品をお貸出しいただいています。

それでは同じ四国(高知)出身の私から、ふだん考古展示室でお目にかける機会のない魅力的な作品をご紹介しましょう。
まず松山市からは、大渕遺跡の彩文(さいもん)壺形土器です。大渕遺跡は縄文時代晩期の遺跡で、松山平野に水田稲作が定着する過程を知るうえで重要な遺跡です。

彩文壺形土器
彩文壺形土器 愛媛県松山市 大渕遺跡出土 縄文時代(晩期)・前1000~前400年 松山市考古館蔵

夏の縄文展で、いろんな土器をご覧になって縄文土器に強くなった皆さんも、この壺を見ればびっくりするのではないでしょうか?
まん丸なフォルムに、短い口。口の周りの黒い模様は、まるで茄子の“へた”のようですね。個人的には、地元の高知の美味しい秋茄子を思い出してしまいます。この模様は土器を焼くときに、こうなることを意図して炭素を吸着させたものと考えられます。つまり狙ってナスビのように仕上げたのです。

これは似たような土器が朝鮮半島からも見つかっていますが、全く同じものはありません。水田稲作が行われるようになる時期に突然あらわれた、謎の多い土器なのです。


次に、徳島市からは弥生時代に製作された木偶(もくぐう)です。

木偶
左:木偶 徳島市 庄遺跡出土 弥生時代(中期)・前2~前1世紀 徳島市立考古資料館蔵

ちょっとこわいリアルな表情の顔に、棒のような胴体部分。胴の部分は別の素材で組み合わせていたとも考えられています。
皆さんは縄文時代の土偶はよくご存知かと思いますが、この木偶は弥生時代のものです。こうした弥生時代の人形表現は、男女が対になるものが多くみられます。夏の縄文展でも、弥生時代の土偶形容器など男女一対になるものがありましたね。この木偶にもパートナーがいたかもしれません。パートナーはどんな姿だったのか、そもそもこの木偶さんは女性なのか男性なのか・・・興味は尽きません。

この他にも見どころたっぷりの展示となっていますので、ぜひ足をお運びいただけますと幸いです。

また、今回の展示で興味を持っていただけましたら、ぜひ松山と徳島へも足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。どちらもより多くの魅力ある考古資料、・・・そして美味しいお酒と海の幸が皆さまをお待ちしていることと思います。

出口側から見た東側ケース
出口側から見た東側ケース

毎年おこなってきました東京国立博物館での考古相互貸借事業も、今年度が最後となります。これまで楽しみにしてきてくださった皆さま、どうもありがとうございました。今後とも、当館所蔵資料での特集陳列は続けてまいりますので、ご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

カテゴリ:研究員のイチオシ考古特集・特別公開

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posted by 山本 亮(考古室研究員) at 2018年11月27日 (火)

 

【縄文】遺跡へゴー! ~遺跡で楽しむ縄文~その2

遺跡へゴー! ~遺跡で楽しむ縄文~その1」に引き続き、特別展「縄文―1万年の美の鼓動」展示作品が出土した遺跡を、いくつかご紹介します。

井戸尻(いどじり)遺跡群
長野県と山梨県の県境にほど近い富士見町には、縄文時代の遺跡が数多く眠っています。
特に中期の遺跡がたくさんあり、井戸尻遺跡群とも呼ばれる遺跡密集地帯からは、造形的に優れた作品が多く発見されています。
本展覧会でも中期を代表する特色ある作品が出品されています。

深鉢形土器
No.33 深鉢形土器 長野県富士見町 藤内遺跡出土 

重要文化財 深鉢形土器
No.162 重要文化財 深鉢形土器 長野県富士見町 藤内遺跡出土

深鉢形土器
No.163 深鉢形土器 長野県富士見町 曽利遺跡出土

いずれも縄文時代(中期)・前3000~前2000年/長野・井戸尻考古館蔵

富士見町内から出土した作品の多くは、井戸尻考古館に収蔵されています。
博物館は井戸尻遺跡に隣接しており、復元された竪穴住居など、史跡が整備されています。
周囲は井戸尻の名の由来となったともいわれるように、豊富な湧水に恵まれ、日当たりがよく見晴らしの良い風景は、縄文人がこの地を好んで利用していたことが頷けます。
さらに、遺跡の目の前に連なる山々の間から、富士山の8合目付近から山頂付近がはっきりと見えます。
はっきり見えるのは空気が澄んだ秋から春にかけてですが、私が行った6月でも、残雪が残る山頂を見ることができました。
一際存在感ある富士山を見つめながら縄文人も暮らしていたのでしょうね。

井戸尻遺跡からみた富士山
井戸尻遺跡からみた富士山(2018年6月)


北沢石棒
最後にご紹介するのは長野県佐久市月夜平遺跡出土の石棒です。
この作品は昭和8年に道路改修工事の際に偶然土中から発見されました。
その後近くに鎮座する大宮諏訪神社へ奉納され、以来、ご神宝として通常は社殿に納められています。
何度か神社へうかがいましたが、いずれも氏子代表の皆さんが立ち会ってくださり、神社でご神宝が大切に守られていると感じました。
月夜平遺跡は、昭和初期の文献に写真入りで紹介されるなど、佐久地方では有名な遺跡です。現在もその頃と大きく変わらない景観で、遺跡が眠っています。
今回の展覧会では特別にご許可を得て、作品をケースに入れず、石棒が直立した状態で展示しています。これまでの発掘事例によれば、一般的に石棒は寝かせられた状態や、人為的に破壊された状態で出土することが多いといえます。ただし、住居跡や土坑から頭部の破片が直立した状態で発見されることもあり、本来石棒は立たせて儀礼などに使われたとする考え方もあります。また、月夜平遺跡周辺では石棒がたくさん発見されていますが、月夜平遺跡からそれほど遠くない佐久穂町北沢には、高さ2メートルを超える大きな石棒が現在も田んぼの畔に直立した状態でたたずんでいます。この石棒はもともと地表からわずかに立った状態で現在の場所に置かれていたものが、昭和40年代に掘り起こされ、補強されて現在のように立っているそうです。重厚感がありながらも端正な姿形が周囲の風景にごく自然に溶け込んでいるのがとても印象的です。農作物の収穫を終えた晩秋から春先に訪れてはいかがでしょうか。北沢の石棒は、月夜平遺跡出土の石棒の展示を考えるうえでとても参考になりました。

中央で直立する石棒 
中央で直立する石棒(作品№146) 

社殿の石棒撮影のようす 
社殿の石棒撮影のようす(カメラを構えているのは当館の藤瀬カメラマンです)(2018年4月筆者撮影)

佐久穂町北沢の石棒 
佐久穂町北沢の石棒(2018年4月筆者撮影)

【さあ、遺跡へゴー!】
本展覧会に関する取材を受けるとき、私がよくお話しすることがあります。それは、もし本展覧会で展示されている作品をご覧になったら、今度はぜひ、その作品が発見された場所(遺跡)にお出かけくださいとお話しています。なぜならば、作品が発見された遺跡は、その作品が生み出され(あるいは持ち込まれ)、使われ、役目を終えて長い年月眠っていた場所です。いわば作品の故郷のような場所。その故郷に実際に出かけ、その場に立ってみることをお勧めしたいですね。たとえ景観が少し変わっていたとしても、当時の風景や当時暮らしていた縄文人の気分に近づくことができるんじゃないかな、と考えています。
遺跡で縄文人の気分を味わうことができたら、次に、普段その作品が所蔵・展示されている博物館を見学してみませんか。地域の博物館には、その作品と同じ遺跡から発見された出土品や、近くの遺跡から発見された出土品など、その地域ならではの作品がたくさん展示されています。その中には、美しいもの、かっこいいもの、きれいなもの、かわいいものなど、皆さんの心をつかむ、お気に入りの作品が見つかると思います。もしかしたら未来のスーパースターとなる作品と出会えるかもしれませんね。

私が学生時代、先輩から考古学は「歩けオロジーだ!」とよく言われました。考古学の英訳であるArchaeology(アーケオロジー)をおもしろおかしく語呂を合わせて「歩けオロジー」などといつの頃からか言われるようになったものだと思います。おそらく「考古学は現場(現地)が大切で、足で稼いで(実際に遺跡を訪れたり、出土品の調査に各地の所蔵先を訪ねて)学問をするものだ」という意味合いなのではないかと私は理解しています。

この夏、トーハクで縄文展をご覧になられたら、各地の縄文の美を求めて、皆さんも「歩けオロジー」してみませんか?新しい出会いがきっとあるはずです。ぜひ遺跡や博物館での出会いを楽しみつつ、縄文時代や縄文文化をさらに身近に感じてみてください。

国宝土偶縄文のビーナスが発見された棚畑遺跡にて 
国宝「土偶縄文のビーナス」」が発見された棚畑遺跡にて(2018年7月筆者)
※翌日の国宝土偶縄文のビーナス拝借を前に、遺跡に「ご挨拶」

カテゴリ:研究員のイチオシ考古2018年度の特別展

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posted by 井出浩正(特別展室主任研究員) at 2018年08月24日 (金)

 

【縄文】遺跡へゴー! ~遺跡で楽しむ縄文~その1

特別展「縄文―1万年の美の鼓動」(2018年7月3日(火)~9月2日(日))はもうご覧になられたでしょうか。会期も残すところ僅かとなってきました。どうかお見逃しなくご観覧ください。

本特別展では207件の作品を拝借・展示しています。
今回は、展示作品が出土した遺跡のうち、最近私が実際に訪れた遺跡を、いくつかご紹介したいと思います。


真脇(まわき)遺跡
真脇遺跡は石川県能登半島の内浦と呼ばれる富山湾に面した遺跡です。
縄文時代前期から晩期にかけて集落が営まれました。
真脇遺跡は通常では残りにくい有機物が豊富に残されており、多量のイルカ骨や彫刻木柱など、極めて特徴的な出土品が有名です。
本展覧会では「第5章 祈りの美、祈りの形」に作品が展示されています。

重要文化財 彫刻木柱
No.144 重要文化財 彫刻木柱 縄文時代(前期)・前4000~前3000年

重要文化財 彫刻木柱
No.145 重要文化財 彫刻木柱 縄文時代(晩期)・前1000~前400年

重要文化財 鳥形把手付鉢形土器
No.180 重要文化財 鳥形把手付鉢形土器 縄文時代(中期)・前3000~前2000年

いずれも真脇遺跡出土/石川・能登町教育委員会蔵

このうち、作品№145はクリの丸太を半円状に割って加工した木柱で、発掘調査によって同様の木柱が輪を描くように並んで発見されました。
発見された木柱は根元に近い部分のみでしたが、横方向や縦方向の溝が彫ってあり、縄文人が石器で加工を施した痕跡がよく観察できます。
本例は縄文時代晩期のものと考えられており、特徴的なサークル状の配置は、縄文人の何らかの記念碑的な役割が推定されています。

そして、なんと真脇遺跡ではそのサークルが復元されています。
現在、真脇遺跡は史跡整備が進められており、史跡公園に真脇遺跡縄文館があります。
おだやかな湾を望む微高地にある真脇遺跡には、現在大きな柱がそびえており、遠くからでもその姿を確認することができます。
もしかしたら当時も海から真脇ムラの木柱がよく見えたのかもしれませんし、真脇ムラのランドマークとしても機能していたのかもしれませんね。
復元されたウッドサークルの一部
復元されたウッドサークルの一部(2018年4月)


鳥浜(とりはま)貝塚
北陸にはユニークな遺跡がまだまだあります。
次にご紹介する鳥浜貝塚もそのひとつです。
鳥浜貝塚は福井県三方郡美浜町から三方上中郡若狭町に広がる三方五湖のうち、三方湖に注ぐ鰣(はす)川と高瀬川合流付近に形成された低湿地遺跡で、縄文時代草創期から前期を中心に貝塚が形成されました。
通常では残りにくい有機物や彩色が施された土器などが多数発見されており、「縄文人のタイムカプセル」とも呼ばれています。

重要文化財 赤彩鉢形土器
No.3 重要文化財 赤彩鉢形土器
鳥浜貝塚出土 縄文時代(前期)・前4000~前3000年
福井県立若狭歴史博物館蔵


No.3は小ぶりな鉢ですが、丁寧な縄文と磨消縄文(※)、さらに赤彩によって幾何学的な文様が際立っています。
※磨消(すりけし)縄文…縄文時代を代表する、指や工具などで平滑に調整する装飾技法

私にとって鳥浜貝塚は、学生の頃に先輩や後輩たちと発掘調査のため合宿生活していた思い出の地です。
今回、実に十数年ぶりに再訪しましたが、遺跡も遺跡を流れる鰣川も当時のままで、日本海へとつながる三方五湖は穏やかな風景のままでした。
縄文時代の水辺に暮らした人々の暮らしを考えるうえでとても興味深い遺跡や博物館です。
現在の鳥浜貝塚周辺
現在の鳥浜貝塚周辺(2018年7月)
鳥浜貝塚は河川改修の際に発掘調査されました


鳥浜貝塚出土品の多くを展示している若狭三方縄文館
鳥浜貝塚出土品の多くを展示している若狭三方縄文館(2018年7月筆者撮影)
※No.3の所蔵館とは異なります



尖石(とがりいし)遺跡
次は内陸の縄文集落へ行ってみましょう。長野県茅野市にある尖石遺跡です。
長野県茅野市は縄文時代の国宝6件のうち2件の土偶が発見された縄文時代を代表する拠点です。
八ヶ岳をのぞむ標高約800~1000メートルのなだらかな斜面にはたくさんの縄文時代の遺跡が今もなお数多く眠っています。

尖石遺跡は、縄文時代の集落跡研究のレジェンド的な遺跡。
今日の縄文時代集落跡研究を振り返るには欠かせない、学史上大変著名な遺跡です。
尖石遺跡と与助尾根(よすけおね)遺跡が横並びに隣りあっており、二つの大きな環状集落が並んでいたと考えられています。
尖石遺跡と与助尾根遺跡に隣接して茅野市尖石縄文考古館があります。
国宝「土偶 縄文のビーナス」と国宝「土偶 仮面の女神」が保管・展示されている博物館です。

国宝 土偶 縄文のビーナス
No.80 国宝 土偶 縄文のビーナス
長野県茅野市 棚畑遺跡出土 縄文時代(中期)・前3000~前2000年


国宝 土偶 仮面の女神
No.82 国宝 土偶 仮面の女神
長野県茅野市 中ッ原遺跡出土 縄文時代(後期)・前2000~前1000年


いずれも長野・茅野市蔵(茅野市尖石縄文考古館保管)

本展覧会では、2点の国宝土偶に加えて、尖石遺跡から出土した縄文時代中期の蛇体把手付深鉢形土器が出品されています。
蛇体把手付深鉢形土器
蛇体把手付深鉢形土器
長野県茅野市 尖石遺跡出土 縄文時代(中期)・前3000~前2000年
長野・茅野市尖石縄文考古館蔵


この作品は昭和8年(1933)の発掘調査で出土しました。
土器の口縁部に存在感ある把手がひとつ。
わずかに口を開けた横向きの蛇が跳ね上がらんとしている姿が印象的ではないでしょうか。
縄文時代中期の中部高地周辺では、本例のように蛇を思わせる立体的な装飾が付けられた作品があります。
なぜ蛇をあしらったかはまだよく分かっていませんが、手足がない、成長過程で脱皮をする、毒で時に人に襲い掛かることもある、冬眠をするなど、人とは異なる蛇の特徴的な生態に縄文人が何らかの畏怖や興味の想いを抱いてこうした作品をつくったのかもしれません。

現在尖石遺跡と与助尾根遺跡は遺跡の史跡化が進んでおり、発掘調査時の住居跡や、竪穴住居の復元家屋などが整備されています。
また遺跡内に縄文時代に利用されていた樹木や植物などを植栽し縄文時代の森を育てています。
かつて尖石縄文考古館がリニューアルオープンした2000年に訪れた際は、復元されて間もない新築の復元家屋でしたし、植えられたクリの木も小さな幼木でした。
それから18年がたち、今回訪れてみると、時を刻んでとても味わい深い復元住居に変貌しており、まるで中から縄文人が出てきそうな気配すら感じさせました。
自然の中で暮らしていた山の縄文人の生活風景がここにはあります。
与助尾根遺跡内の竪穴住居の復元家屋
与助尾根遺跡内の竪穴住居の復元家屋(2018年7月)

尖石遺跡の脇には、遺跡の名前の由来となった奇岩「尖石」がひっそりと佇んでいます。
こちらも遺跡を訪れた際はぜひ立ち寄ってみたいですね。
尖石
尖石(2018年7月)


中ッ原(なかっぱら)遺跡
つづいて、同じく茅野市内の中ッ原遺跡をご案内します。
国宝「土偶 仮面の女神」の出土遺跡です。
この土偶は、全体の姿形ももちろん素晴らしいのですが、私は後ろの仮面と頭部を固定するのに縛りつけている十字のひも状の表現など、細かなところにまで装飾が行き届いているのがかっこいいなぁと思います。
 「土偶 仮面の女神」の後頭部にもご注目ください
「土偶 仮面の女神」の後頭部にもご注目ください

本例以外に、この展覧会では山梨県韮崎市後田遺跡(No.106)や長野県辰野町泉水遺跡(No.107)の出土の仮面土偶が展示されています。
似ているようでどこか違う、その姿形や文様を、ぜひこの機会に3作品を見比べてみてはいかがでしょうか。

さて、中ッ原遺跡は縄文時代中期から後期の大きな集落跡です。
弧状に並ぶ住居跡に沿うようにお墓と考えられる穴がたくさん発見されています。
中ッ原遺跡
中ッ原遺跡(2017年6月)

「仮面の女神」は墓のひとつにあけられた小さな穴から横倒しの状態で発見されました。
この遺跡では現地で「仮面の女神」が発見された時の状況が復元されています。
土偶が発見された実際の穴は、保存のため、現在埋め戻されていますが、それとほぼ同じ位置に合成樹脂などで復元されています。
地中からまさに「仮面の女神」が発見された状況がよくわかります。
「仮面の女神」の出土状態の復元
「仮面の女神」の出土状態の復元(2017年6月)

遠くの山々を見渡すことができる見晴らしの良いこの場に立つと、土偶が発見された縄文時代のお墓のあつまり(墓域)がなぜこの場所に作られたのか、なんとなくわかるような気がします。

遺跡へゴー! ~遺跡で楽しむ縄文~その2」へ続く

カテゴリ:研究員のイチオシ考古2018年度の特別展

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posted by 井出浩正(特別展室主任研究員) at 2018年08月22日 (水)