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特集陳列「動物埴輪の世界」の見方6─馬形埴輪1

特集陳列「動物埴輪の世界」(2012年7月3日(火)~10月28日(日))の主なラインナップ、鶏・水鳥形埴輪と犬・猪・鹿形埴輪に続いて最後を飾るのは馬形埴輪です。
馬形埴輪は動物埴輪でもっとも数が多く、また大型の目立つ存在ですが、他の動物埴輪にはみられないさまざまな装飾をもつことが特色です。
多くの教科書や切手にも採り上げられていますので、少しでも埴輪に興味のある方なら誰もがご存知のことと思います。

馬形埴輪部分全景
馬形埴輪展示部分(全景)
左:埴輪 馬 大阪府堺市 伝仁徳陵古墳出土 古墳時代・5世紀 宮内庁蔵
中:重要文化財 埴輪 馬 埼玉県熊谷市上中条日向島出土古墳時代・6世紀
右:埴輪 馬 群馬県大泉町出土 古墳時代・6世紀


馬といえば、競馬やレジャーなどでしばしばテレビ・スポーツ紙に登場し、先日のロンドンオリンピックでも、馬術の日本代表選手が大会最高齢ということで注目を浴びたことは記憶に新しいところです。
また、モータリゼーションの現代でも乗り物の「推進力」は、(あの鉄腕アトムも・・・)「馬力」で表示されますし、演劇からきた「馬脚をあらわす」をはじめ、「馬齢を重ねる」「馬の耳に念仏」などの慣用句は誰もがピンとくる表現で、日常会話(日本語)の中にも深く埋め込まれています。


現在では、馬は競馬・観光などの特定の利用に限定されますが、ほんの半世紀ほど前までは農村はもとより街中でも、農事の耕作・運搬や馬車・荷車の牽引に利用され、日常的にお目にかかる馴染(なじ)み深い動物でした。
時代劇でもいろいろな場面に登場し、江戸時代以前の人々の生活にもっとも密接な動物であったといっても過言ではありません。
そういえば、「人馬一体」などという表現もありますね。


まず、馬の起源とその特徴を見ておきましょう。
化石を研究する古生物学によれば、約6500万年前の始新世に北アメリカの森林地帯に棲(す)んでいた草食動物(エオヒップス)が草原に進出して暮らすうちに、進化してエクウスと呼ばれるウマの祖先が誕生したといわれています。
この間に肉食動物から逃れるために、(最初は私たちと同じような)四肢の5本指は草原を駆け廻るのに適した形に変化し、(人間で言えば・・・)“中指”が著しく長大に発達しました。
また、体格の大型化とともに、先端の爪は変化して蹄(ひづめ)となり、馬の体の特徴が出来上がりました。

ウマ類の進化図
ウマ類の進化図(E.ギエノー(日高利隆訳)1965 『種の起源』文庫クセジュ174、白水社より)

われわれ人類が誕生した氷河期(約600万年~1万3千年前)には、地続きとなったユーラシア大陸にも移動して、現在のヨーロッパ・アフリカの草原地帯にまで活動範囲を拡げていったようです。

このような蹄をもつ草食動物を有蹄(ゆうてい)類といいますが、蹄の特徴から大きく2種類に分かれます。
一つは、ウマを代表とする単数の蹄をもつ奇蹄(きてい)類です。
もう一つは、“中指と薬指”が変化して2つの蹄をもつ偶蹄(ぐうてい)類で、イノシシやシカ・ヤギなどが“代表選手”です。
同じ四つ足動物でも肉食動物のオオカミを祖先にもつイヌの仲間や、(動物埴輪にはありませんが・・・)ライオンやヒョウなどのネコ科の動物は、ご存知のように5本の指と鋭い爪をもっています。


そこで、動物埴輪の脚先に注目してみると、興味深いことに気がつきます。
猪と馬の埴輪の(キュッと引き締まった形の良い・・・)脚を後ろから見ると、脚先の裏に鋭い三角形のスリット(???)が入っています(ハイヒール・・・ではありません)。
(念のために・・・)やはり犬形埴輪にはありませんので、これらはまさに有蹄類の蹄(!)を表したものということが判ります。

猪・馬・犬形埴輪部分
猪・馬・犬形埴輪部分(脚先後部):
左:重要文化財 
埴輪 (前脚)  群馬県伊勢崎市境上武士出土  古墳時代・6世紀
中:馬
埴輪 馬 (脚部) 群馬県大泉町出土  古墳時代・6世紀
右:
埴輪 犬(前脚) 群馬県伊勢崎市境上武士出土  古墳時代・6世紀

これまで(第2・3回)に見てきた鶏・水鳥形埴輪では、頭部の嘴(くちばし)や鶏冠(とさか)などに加えて、脚先には蹴爪(けづめ)や水掻きなどが表現されていました。
また、同じ四つ足動物の埴輪でも、それぞれに特徴的な体型や頭部表現のほかに、このように動物種によって脚先までが見事に造り分けられていたことが判ります。
これらの独特な表現からは、まずは造形する動物の特徴を的確に捉える、という埴輪製作者(工人)の“基本姿勢”がうかがわれ、その鋭い観察眼と的確な表現力には驚かされます。

このように動物埴輪は、一定のルールに基づいて造形されていたことを想定することができそうです。
埴輪の製作者は、いわば「動物埴輪の“キーワード”」を埋め込むことによって、それを見る人々にメッセージを伝えようとしていたに違いありません。
動物埴輪の性格を知るためには、現代のわれわれも当時の人々と同じ“目線”で埴輪を「見る」ことが重要と思います。
ここに動物埴輪を「読み取る方法」のヒントが見えてきたようです。


さて、そもそもこのような馬は、いつ頃から日本列島に棲んでいたのでしょうか。
また、馬形埴輪に表現されている多種・多様な馬具には、どのような意味があったのでしょうか。
これらのご紹介は少々話が長くなりそうですので、(残念ですが・・・)次回にしたいと思います。

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ところで、前回(第5回)のクイズの答えは、もうお分かりでしょうか。
ヒントは「お尻と脚の向き」にありました。

すでに、これまで(第2~6回)にお付き合い頂いた皆さんは、鳥形埴輪や四つ足動物形の埴輪には相当詳しくなっておられますので・・・、すぐに見つけられたことと思います。

水鳥形埴輪
左:埴輪 水鳥 大阪府羽曳野市 伝応神陵古墳出土  古墳時代・5世紀、右:水鳥形埴輪展示部分(全景)

そう・・・、水鳥形埴輪群の後列右端に“居る”、丸々とした体型の彼(?)です!
(頸部をまったく欠いていますが・・・)水掻きのある右側(右脚)の脚先が向こう側に向いていますので、こちらには(丁度人間の)“踵(かかと)”に見える部分(実は趾(あしゆび)の付け根ですが・・・)が見えています。
よく見ると、翼の羽毛の向きも逆ですね。

大変恐縮ですが、(胴体が向こう向きですので・・・)こちらにはふっくらとした「お尻」を向けています(申し訳ありません・・・)。
失礼致しました!
 

これまでの記事
特集陳列「動物埴輪の世界」の見方1
特集陳列「動物埴輪の世界」の見方2─鳥形埴輪・鶏編
特集陳列「動物埴輪の世界」の見方3─鳥形埴輪・水鳥編
特集陳列「動物埴輪の世界」の見方4─犬と猪・鹿の狩猟群像
特集陳列「動物埴輪の世界」の見方5─番外編

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2012年10月08日 (月)

 

特集陳列「動物埴輪の世界」の見方5─番外編

今回は、特集陳列「動物埴輪の世界」(2012年7月3日(火)~10月28日(日))に関連したいくつかのトピックをご紹介します。
特集陳列が行われている考古展示室には、ほかにも動物埴輪が展示されています。


まず、特集陳列の展示ケースから見て奥に、広い展示室の中央を仕切るように設置されている弓なりに弯曲した壁形ケースがあります。

考古展示室見取図
考古展示室見取図(Ⅰ-4~6:古墳時代Ⅰ~Ⅲ[3~5c]、Ⅰ-8:古墳時代Ⅴ[7c]、Ⅱ-7:テーマ・埴輪と古墳祭祀)

左(南)端の3面ガラスのケースには、大阪府伝安閑天皇陵古墳から出土したと伝えられる重要文化財のカットグラス(ガラス碗)が展示され、両面には大小の窓形展示ケースが配置されています。
奥にある人物埴輪などを展示する(前方後円墳をイメージした)ヒョウタン形展示台[テーマ・形象埴輪の展開]と向かいあう位置に、小さな窓形展示ケースがあります(見取図★1)。


現在、ここには特集陳列に合わせて、重要文化財の猿形埴輪を展示しています。
腰部から下と両腕部分が失われていますが、(窓の外を眺めるように?)頸を傾げてこちらを見つめるような愛らしい表情をもち、当館の形象埴輪の中でももっとも人気の高い埴輪の一つです。

この猿形埴輪は100年(!)以上前の1907(明治40)年に当館に寄託されてから、常設展示などで長らく活用させて頂いてきた経歴があり、明治時代からすでによく知られた有名な埴輪です。
平成11年度に購入の機会を得て当館蔵となり、現在、常設展示やウェブサイトなどでも広く公開・活用されています。

猿形埴輪
重要文化財 埴輪 猿 茨城県行方市 大日塚古墳出土 古墳時代・6世紀(12月16日(日)まで考古展示室にて展示)
(左)猿形埴輪展示風景、(中)猿形埴輪全景、(右)猿形埴輪部分(背面)


さて前回、鹿形埴輪には振り返るポーズをもつ例が多いことが紹介されましたが、この猿の振り返るような“仕草”には少々別の意味があるようです。
注目点は、この猿の背中の部分です。出土した時に農具などで付いたと考えられる頭部や胴部の傷痕が痛々しい中で、よく見ると背中には数ヵ所の粘土が剥(は)がれたような痕が見られます。
とくに両肩部後ろ側の対称的な位置には、Y字形に繋がる二つの小ぶりな楕円形の剥離があり、背中の大きな剥離痕と併せて考えると、どうやら子猿が両“手”で親猿の背中に必死にしがみついていた姿を想定することが出来ます。
このように考えると、この猿形埴輪の特徴的な仕草は、子猿の様子を心配そうにうかがう母猿の表情といえそうです。

これまでのブログ(第2~4回)でご紹介してきた鶏・水鳥形埴輪や狩猟に関係した猪・犬形埴輪では、首輪や鈴・紐などの人間とのつながりを示す表現の有無、つまり人間が飼育している動物か野生の動物か否かが、いわば“キーワード”でした。
この猿形埴輪には、首輪や鈴などの表現は見られないようですので、野生の猿の姿を象(かたど)った埴輪と考えられます。
実は、猿形埴輪は大変例が少なくほとんど唯一の例で、比較する材料がないためにその意味はまだよく解っていません。
しかし、おそらく他の動物埴輪にはみられない特徴的な“親子”の表現にヒントが隠されているに違いありません。


ここでもう一度、鳥形埴輪を見てみると、これまで(第2回第3回)に少しだけ触れたツル・サギ形の水鳥形埴輪と鷹形埴輪にも、同じような区別があります。
サギ・ツル形の埴輪はやはり野生の鳥たちを表現していると考えられるのに対し、鷹形埴輪は多くが人物埴輪と一体に表現されるという著しい特徴があります。
また、猛禽類の鷹の特徴である鋭く曲がった嘴(くちばし)や短い頸の表現にとともに、尻尾(しっぽ)に鈴の付いた紐の表現が多いことも顕著な特徴です。


鷹匠形埴輪実測図
鷹匠形埴輪実測図 (左:全体、右:鷹形部分)(群馬県オクマン山古墳出土)(太田市教育委員会 1999『鷹匠埴輪修復報告書』より)

群馬県オクマン山古墳出土の鷹匠埴輪は、鍔(つば)の付いた立派な帽子に上げ美豆良(みずら)を結い、籠手(こて)を着けた腕に、尻尾に鈴が付いた鷹を止らせていて、まさに“王者の鷹狩”を彷彿(ほうふつ)とさせます。
これらの鷹を象った埴輪は、明らかに鷹狩りの鷹と鷹匠(たかじょう)の姿を表現した埴輪と考えられ、明確に人間社会の一部に位置づけられた鳥の姿を伝えています。

8世紀の万葉集にも、人間に飼われた鷹の姿を描いた次のような表現がみえます。
『万葉集』巻17、第4011番歌、放逸(ハナ)せる鷹を思ひて、夢(イメ)に見て感悦(ヨロコ)びて作る歌一首 
「 [前略] 鷹はしもあまたあれど 矢形尾の 吾(ア)が大黒に〔大黒は蒼鷹の名なり〕 白塗りの 鈴取つけて
朝狩りに 五百つ鳥立て 夕狩りに 千鳥踏立て 追うごとに 許すことなく [後略] 」

飼い主はいつもたくさんの鳥を獲って手許に確実に戻ってきた愛鳥の蒼(あお)鷹を「大黒」と名付け、尻尾に銀メッキを施した鈴を付けて可愛がっていた様子が詠われています。
鷹形埴輪にみられた尻尾に鈴を付ける風習との一致も注目されます。
奈良時代には王権の一部としての鷹狩りに加え、貴族階級の人々の間にも鷹狩りの風習が拡がり、愛玩された鷹の姿を伝えています。

(あの“あばれン坊将軍”などの・・・)テレビの時代劇でもおなじみですが、江戸時代の将軍は武勇の嗜(たしな)みとして、しばしば鷹狩りに出掛けたことはよく知られています。
(あまり合戦には役に立ちそうもありませんので・・・)まさに、“王者”のDNAが受け継がれている姿といえます。

鵜や鷹形の埴輪は、鵜飼いや鷹狩りの風習とその性格が古墳時代に遡ることを教えてくれますが、前回紹介された狩猟をモチーフとした埴輪のもつ性格が、中世以降にも引き継がれていることは大変興味深いことです。
これらの鳥形埴輪は、現代にもつながる人間社会とは切っても切れない関係にあった、(もちろん人間の都合ですが・・・)選ばれた動物の姿を表現した造形の典型で、動物埴輪の性格の根本を如実に物語っているといえそうです。


さて、さらに進んで、ヒョウタン形埴輪展示台の向こう側に見える壁付ケースの中にも、馬具展示コーナー[古墳時代IV・地方豪族の台頭]の一部として馬形埴輪が展示されています(見取図★2)。
いわゆる「飾り馬」とよばれる乗馬用の馬を象った埴輪で、金銀色に輝く装飾性の高い鞍や鐙と馬をコントロールする轡のほか、やはり煌(きら)びやかな金銀装の杏葉や雲珠など、各種の飾りが着けられていることが特徴です。

馬形埴輪展示全景

馬形埴輪
(上)馬形埴輪展示風景、(下左)馬形埴輪 群馬県内出土 古墳時代・6世紀 全景、(下右)馬具名称パネル

このコーナーでは、実際の馬具を種類別にまた年代順に展示していますが、それぞれの装着位置を馬形埴輪と馬具の名称を入れたパネルで示しています。
馬具の名称と用途は少々難しいため(すみません…)、図解と実物の馬形埴輪で分かり易く展示しているコーナーですので、本特集陳列と併せて、是非ご覧ください。
なお、馬形埴輪の意味については、馬や乗馬の歴史なども含めて改めてご紹介する予定です。


最後に、クイズをひとつ・・・。
特集陳列の動物埴輪のうち、“一匹または一羽”だけ、実は観覧者のお客様に少々“失礼な”姿勢(ポーズ?)のヤカラが居ます。
ステージや舞台でも、(人間・動物を問わず)出演者の顔は観客席に向いていることが基本ですので、“あさって”の方向や知らんふりはイケマセンね。
埴輪の遺存状態で大きく壊れている部分が大きかったために、このような向きにしか展示出来なかったのが理由ですが・・・(けっして躾(しつけ)が悪かった訳ではありません)。

これまでのブログ(第1~4回)にお付き合い頂いた読者の皆さんは、すでに鶏・水鳥、犬・猪などの動物の種類を見分けるポイントや、習性や役割を踏まえた動物埴輪の仕草や特徴を読み取る眼が出来上がっていると思いますので、すぐに見つかるものと思います。是非、じっくりと探してみて頂ければ幸いです。
ヒントは、お尻と脚の向きにありそうです。

次回は、馬形埴輪についてご紹介します。

これまでの記事
特集陳列「動物埴輪の世界」の見方1
特集陳列「動物埴輪の世界」の見方2─鳥形埴輪・鶏編
特集陳列「動物埴輪の世界」の見方3─鳥形埴輪・水鳥編
特集陳列「動物埴輪の世界」の見方4─犬と猪・鹿の狩猟群像

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2012年09月26日 (水)

 

特集陳列「動物埴輪の世界」の見方4─犬と猪・鹿の狩猟群像

今回の特集陳列「動物埴輪の世界」(平成館考古展示室、2012年7月3日(火)~10月28日(日))で、鶏・水鳥の群れの次に展示されているのが、犬、猪、鹿の四足動物の埴輪のグループです。
これらの埴輪がどのような意味を持っていたかを知るには、どの動物とどの動物の関係が深いかを探ることが大切です。

狩猟関係の埴輪群
狩猟関係の埴輪群(後列:左から犬・猪・鹿、前列:左から猪・猪・鹿)

それには、埴輪が古墳のどこから、どのように出土したのかを確かめる方法があります。
犬と猪が組み合わせとなった良好な事例が、群馬県高崎市保渡田VII遺跡で発見されています。

保渡田Ⅶ遺跡の埴輪群像
群馬県高崎市保渡田VII遺跡の猪狩りの場面(左から男子(狩人)・犬・猪)
(写真:かみつけの里博物館提供)


そこでは、犬と猪の埴輪、そして、烏帽子のような形の帽子をかぶった男子埴輪が一つの場面を構成していました。この男子は、手の部分を失っていますが、おそらく、弓を引く狩人(カリウド)の姿をあらわしていたと考えられます。猪の背中には矢が刺さり、一筋の血が流れています。

狩人の放った矢がまさに猪を仕留めた緊迫した場面をあらわしています。また、狩人と猪の間には犬がいて、猪狩りの手伝いをしていたようです。
このような猪狩りの場面をあらわした埴輪を古墳に並べた事例は多く、古墳に葬られるような有力者にとって重要な行事であったと考えられます。

また、狩猟は、古墳時代の有力者にとって重要だっただけでなく、洋の東西、時代を問わず、よく似たモチーフが確認できます。
中国の前漢~後漢(前1世紀~後1世紀)の灰陶狩猟文壺には、馬上から振り返りざまに矢を放つ「パルティアンショット」で虎を狙う人物が描かれています。
同様のモチーフは、西方のササン朝ペルシャ(4世紀)の銀器や唐(7~8世紀)でも錦や絹などの文様として登場し、後者は日本にも法隆寺や正倉院などに伝えられています。


(左) 灰陶狩猟文壺 前漢~後漢時代・前1~後1世紀 中国 横河民輔氏寄贈(展示未定)
(右) 重要文化財 狩猟文錦褥 奈良時代・8世紀
(展示未定)

こうした狩猟について、娯楽や軍事訓練とする見方もありますが、娯楽や軍事訓練とは考えがたい情景もあらわされています。
前7世紀頃のアッシリアの王、アッシュール=バニパル王がライオン狩りをしている様子を表現したレリーフでは、襲いかかるライオンに王がひるむことなく対峙し、ライオンを仕留める姿が描き出されています。また、ササン朝ペルシャの銀器には国王がみずから槍や剣を手にし、熊や豹と戦うモチーフも取り上げられています。
こうした事例からは、狩猟は娯楽というよりも、王が命がけで執行する重要な儀礼であったのではないかと考えられます。

猪はライオン、熊、豹ほど恐ろしい動物ではありませんが、『古事記』にはヤマトタケルが東征の最後に討とうとした伊吹山の神が白い猪に化身してヤマトタケルを苦しめるという物語が登場します。 
神の化身である猪を狩ることは、その土地を治める有力者にとって必要な命がけの行為と認識されていたのではないかと考えられます。

埴輪 矢追いの猪 伝千葉県我孫子市出土 古墳時代・6世紀
埴輪 矢追いの猪 伝千葉県我孫子市出土 古墳時代・6世紀(腰部に刺さった矢の表現)

では、鹿はどうでしょうか?
鹿についても、『日本書紀』に神に化身する存在として登場します。ただし、古代人にとって猪と鹿は異なる役割が期待されていたようです。

8世紀の万葉集巻九、一六六四番に雄略天皇の詠んだとされる
「夕されば 小倉の山に 臥す鹿の 今夜は鳴かず い寝にけらしも」
(夕方になると小倉の山で腹ばいになる鹿は、今夜は鳴かないで寝てしまったようだ)
という歌があります。 
また、『日本書紀』仁徳天皇三十八年秋七月条も、毎夜、大王が鳴声を聴いていた鹿を殺した佐伯部を安芸国へ追放したという記事が載っていることなどから、天皇が土地の精霊である鹿の鳴き声を聞くという儀礼行為があったと指摘する研究者もいます。

埴輪 鹿 茨城県つくば市下横場字塚原出土 古墳時代・6世紀
埴輪 鹿 茨城県つくば市下横場字塚原出土 古墳時代・6世紀(胴部に刺さった矢の表現)

動物埴輪では猪と同じく矢が刺さった表現がなされた鹿も造形されていますが、その数は少なく、多くは振り向いた姿であらわされています。また、ほかの動物埴輪と組み合うことなく単独で配置されたものが多いようです。 
埴輪の鹿は鳴きませんが、その鳴き声を聞くために用意されていたのでしょう。

よく見ると、犬や鵜の埴輪の頸には紐や鈴のついた首輪が表現されています。同じ狩猟の場面に登場する埴輪でありながら、犬や鵜の埴輪は、猪や鹿とは違って(人間社会における位置づけが正反対で)、人間に飼育された動物ということになります。
犬は、今も昔も人間に忠実な動物で、猪狩りにあたっては命がけで人間の手伝いをしています。 
8世紀の『播磨国風土記』には、応神天皇の狩犬である麻奈志漏(マナシロ)が猪と戦って亡くなり、応神天皇は麻奈志漏のお墓を作ったことが記されています。

ところで、鵜といえば岐阜・長良川の鵜飼を想い出しますが、鵜飼は日本の各地でなされていました。鵜は鳥の中でも賢い動物で人間が飼育しやすい動物といわれています。 


鵜形埴輪実測図(群馬県保渡田八幡塚古墳出土)
[若狭徹論文 2002『動物考古学』19、動物考古学研究会より]


また、山口県下関市の土井ケ浜遺跡は弥生時代の集団墓地として著名ですが、そこでは鵜を胸に抱きかかえたまま葬られた女性が見つかっています。 
この鵜は女性が大事に飼っていた鳥だったのでしょうか。

鵜をなぜ埴輪としてあらわしたのか。 
現在、確認されている鵜の埴輪の数はそれほど多くはなく、明快な解答をえられる段階にはありません。 
しかし、少なくとも鵜が古墳時代の人々にとって、親しみのある動物であったことだけは間違いないようです。


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posted by 山田俊輔(考古室研究員) at 2012年09月12日 (水)

 

特集陳列「動物埴輪の世界」の見方3─鳥形埴輪・水鳥編

今回の特集陳列「動物埴輪の世界」(平成館考古展示室、2012年7月3日(火)~10月28日(日))では、鶏形埴輪に続き、水鳥形埴輪が“群れ”るように展示されています。
水鳥は鶏などと違って特定の種を指す言葉ではなく、ガン・カモ類やサギ・ツル類など多くの種類を含んでいます。
主に海で生活する海鳥に対して、河川や湖沼といった内陸の水辺で活動する鳥の総称で、多くはいわゆる渡り鳥です。

埴輪の鳥は、数種類の水鳥が造り分けられていますが、その意味はどのようなものでしょうか?
それにはまず、水鳥形埴輪に写された鳥の種類を知る必要がありますが、どこで見分けることが出来るのでしょうか?

水鳥形埴輪全景
水鳥形埴輪全景

鳥の姿や体型は、ひとえに鳥たちの生活ぶり(生態)に深く関わっています。
さまざまな姿は、(すべての動物がそうですが)主に動物たちの“死活問題”である餌の獲得(捕食)に強く結びついています。

とくに、嘴(クチバシ)とその活動を支える脚は、捕食の対象(食性)によってそれぞれに有利な形態に進化を遂げ、種類毎に特有な特徴をもっています。
これらは遠目に見ても、鳥を見分けるもっとも特徴的な要素で、種類を見極める最大のポイントです。
このような水鳥の生態に適応した体型や嘴・脚などの特徴と水鳥形埴輪の特徴を比較することで、いくつかの種(モデル)が想定されています。


鳥類の嘴と脚 [現代新百科事典4「足とくちばし」:学習研究社1966年より]

まず、嘴と脚から見てゆきましょう。
いずれも平たい嘴をもち、なかには鼻腔が表現されているものも少なくありません。
眼は、竹管や棒状の工具でシンプルに表現されています。
また、脚先を確認できる例では、水掻きの表現をもつことが判ります。

体型はおしなべてふっくらとした胴体をもち、それに長い頸と上を向いた短い尾羽が表現されています。
平たい嘴と水掻きをもつ脚や短い尻尾など、身近な動物ではマガモを家禽に品種改良したアヒル(家鴨)にそっくりです。
とくに、前列中心に置かれた大型の鳥形埴輪は、(胴体付け根部分から頭部までしかありませんが)大ぶりのしっかりとした膨らみをもつ頭や眼の表現、しなやかにゆったりと延びる頸部や細やかな羽部の線刻文様など出色の造形で、鳥形埴輪としても最大級の逸品です。


鳥形埴輪の嘴(1~4・7)と脚(5・6)
1~3・5:埴輪 水鳥 大阪府羽曳野市 伝応神陵古墳出土 古墳時代・5世紀
4・6:埴輪 水鳥  埼玉県行田市埼玉出土  古墳時代・6世紀 (個人蔵)
7:埴輪 鶏 栃木県真岡市京泉塚原 鶏塚古墳出土 古墳時代・6世紀 (橋本庄三郎氏他3名寄贈)

やはり、これらの水鳥形埴輪は水面を泳ぎながらの活動に適したガン・カモ類の水鳥の特徴をよく捉えた造形といえそうです。
そういえば、アヒルをモデルにしたキャラクターの人気者、ディズニーのドナルド・ダックを想い起こさせますね。

一方、この中に“一羽”、一風変わったポーズの水鳥形埴輪に眼が止まります。
頸部から上を欠いています(判りにくくて恐縮です)が・・・よく見ると、頸部はかなり太めで、しかもまっすぐに斜め上を向いています。脚にはやはり水掻きが表現され、止まり木に掴まっていることが眼を惹きます。
決定的なのは、頸部にはどうやら蝶結び(!)の紐が表現されているようで、野生の鳥ではないことは云うまでもありません。

鵜形埴輪
鵜形埴輪 古墳時代・5世紀 大阪府茨木市太田茶臼山古墳出土 宮内庁蔵
(左:側面、中:背面、右:止まり木と水掻きのある脚)


実は、1990年代になってこのような水鳥形埴輪は、鵜飼いの鵜の姿を象った埴輪であることが明らかとなりました。
群馬県高崎市保渡田八幡塚古墳では、高く挙げた嘴に(ナント)魚を咥(くわ)えている例が見つかり、まさに「ウ飲み」する一瞬の姿を写した鵜形埴輪であったことが判りました。
しかも、頸部には鈴をあしらった紐が巻かれ、鵜飼の場面を表現した儀礼的な造形であるらしいことも注目されました。
鵜飼いはまさに人間社会の中に組み込まれた動物ですから、他の野生の水鳥を象った埴輪とはまったく異なった役割を果たしていたことでしょう。(詳しくは次回のテーマ:狩猟の埴輪で解説する予定です)


鵜形埴輪実測図(群馬県保渡田八幡塚古墳出土)
[若狭徹論文 2002『動物考古学』19、動物考古学研究会より]


すると、水面を浮かびながら泳ぎ回る自然の姿を彷彿とさせるガン・カモ類を象った水鳥形埴輪は、どのような意味をもっていたのでしょうか?

8世紀に成立した『記紀』『風土記』には、次のような不思議な物語が残されています。

    『日本書紀』垂仁天皇二十三年九~十月条
「[前略] 誉津別王(ホムチワケノミコ)は、是(コレ)生年(ウマレノトシ)既に三十、[中略] 猶(ナホ)泣つること兒(ワカゴ=幼児)の如し。常に言(マコトト)はざること、何由(ユヘ)ぞ。 [後略]
誉津別皇子侍り。時に鳴鵠(クグヒ)有りて、大虚(オホゾラ)に度(トビワタ)る。皇子仰ぎて鵠(クグヒ)を観(ミ)て曰(ノタマ)はく、「是何物ぞ」とのたまふ。天皇(スメラミコト)、皇子の鵠を見て言(アギトフ)ふこと得たりと知(シロ)しめして喜びたまふ。[後略]」

鵠(クグヒ)は白鳥の古名です。
特別な存在の貴種として期待されて育てられたホムチワケノミコの伝承は、言葉を話せなかったホムチワケが、空高く飛ぶ白鳥の姿を見て魂を揺さぶられ、言葉を取り戻すという物語です。
ほかに、あのヤマトタケルが伊吹山の神との戦いに破れ、命を落とした時、白鳥となって飛び去ったという『記紀』にみえるよく知られた物語を思い出された方も多いと思います。
古代においては、鳥は人間の魂と深く関係していたと考えられていたようです。

一方、このような存在を「見る」ということについては、もう一つ興味深い記録があります。

    『万葉集』巻1、第36番歌
「(持統天皇が)吉野の宮に幸しし時、柿本朝臣人麿の作る歌
やすみしし わが大王(おほきみ)の 聞(キコシ)めす 天(アメ)の下に [中略]
水激(ミナタギ)つ 滝の都は 見れど飽(ア)かぬかも」

7世紀の古代国家成立前夜、壬申の乱(672年)を勝ち抜いた夫・天武天皇の後を継いで即位した持統天皇は、短い在位(687~696年)中に31回も吉野を訪れています。
これは当時、神仙世界とも考えられ、後に修験道の聖地ともなる深山の激流を「見る」ことによって魂が揺さぶられ、底知れない自然の力を身に着けるためであったという説が有力です(一見涼しそうですが・・・、イヤ暑い“夏場”ばかりではないのですから真剣です)。

亡き夫・天武の意志を継いだ女帝持統の並々ならぬ覚悟が伝わってくるようです。
古代の人々は白鳥や激流といった生命力の根源のような存在から、普段身近に存在しないパワーを取り入れる手段として、「見る」という呪術的行為にあくなき情熱を燃やしていたようです。

今回の展示では残念ながら欠いているのですが、弥生時代の銅鐸にも登場する細長い嘴と長い頸や脚をもつ、ツル・サギ類を象ったと考えられる水鳥形埴輪は、古墳時代後期の6世紀にならないと出現しません。
これらの埴輪が現れた頃には、同じ墳丘に多数の人物・動物形埴輪が賑やかにたて並べられた時期で、おそらくこれまでご紹介したガン・カモやウ形のような鳥形埴輪とは、まったく違った物語(性格)を背景にもった造形にちがいありません。

ツル・サギ類の絵画(銅鐸)、鵜と魚の絵画(銀象嵌大刀)
左:ツル・サギ類の絵画(国宝 袈裟襷文銅鐸 伝香川県出土 弥生時代(中期) 前2~前1世紀)
右:鵜と魚の絵画(国宝  銀象嵌銘大刀 熊本県玉名郡和水町 江田船山古墳出土 古墳時代・5~6世紀)



いずれにしても、水鳥形埴輪は当時の人々の“想い”を反映した造形であったようです。
季節毎に現れる渡り鳥が大空を高く飛ぶその姿は、いつの時代でも人々の憧れや想像力を掻き立てたことでしょう。
野生であれ、家禽であれ、これらの鳥たちは人間の(勝手な想像に違いありませんが・・・)世界観や社会の一部を“体現”してきた動物で、いわば当時の人々の心象風景であったのかもしれません。

埴輪の鳥たちと向かい合う(「見る」)ことによって、(ほんの一瞬でも・・・心を開放して)当時の人々の想いに少しでも近づいて「パワー」を受け留めて頂ければ幸いです。

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2012年09月01日 (土)

 

特集陳列「動物埴輪の世界」の見方2─鳥形埴輪・鶏編

夏休みを挟んで開催される今回の特集陳列「動物埴輪の世界」(平成館考古展示室、2012年7月3日(火)~10月28日(日))は、大人から子供まで多くの皆さんに是非、ご覧頂きたいと思っています。
前回のブログで説明しましたように、展示は主に鳥形埴輪 →猪・犬形埴輪 → 馬形埴輪の順に構成されていますが、今回はこのうち、最初に“群れ”をなすように展示されている鳥形埴輪についてご紹介します。

猪・犬や馬はいわゆる4つ足の哺乳動物ですが、爬虫類から進化したと考えられる鳥類は四肢のうち、前肢を大きく変化させて、地上から空に活動の場を拡げた動物の代表です。
その活動は空中はもちろん水中や地上にと、(マサに・・・)“飛躍的”に拡がったため、多様な環境に適応した実にさまざまな姿を獲得した動物でもあります。

埴輪の鳥は、このうちいくつかの種類が表現され、明確に造り分けられています。
その訳(理由)はおいおい触れるとして、まずは鳥形埴輪の種類を見ておきましょう。

「動物埴輪の世界」展示風景
鳥形埴輪展示部分(左から:鶏形・水鳥形埴輪)

埴輪の鳥には、主に地上で暮らす鶏と、水上を主な生活の舞台にする水鳥を象ったものがあります。
このうち、鶏形埴輪は古墳時代前期(3世紀後半~4世紀後半)には出現し、実はすべての形象埴輪のうち、家形埴輪と並んでもっとも早く出現します。水鳥形埴輪は古墳時代中期(4世紀末~5世紀末頃)からしか認められません。他に、6世紀以降には猛禽類の鷹形の埴輪も造られました。

一方、鶏形埴輪は埋葬施設が設けられた古墳の墳頂部から出土するのに対し、水鳥形埴輪はしばしば古墳の周濠に築かれた中島などから出土します。
一口に鳥形埴輪といっても、埴輪としての意味と役割は複雑で、その性格は大きく異なっていたことが窺えます。また、いずれも人物埴輪や他の動物埴輪よりいち早く出現することも注目されます。

それでは、最初は鶏形埴輪から見てゆきましょう。
展示ケースの一番はじめに、スッと伸びる円筒部上に美しい姿を見せているのは、栃木県鶏塚古墳の鶏形埴輪です。この埴輪が出土したことで、古墳の名前が付けられたほどの優品です。

頭部には目立つ鶏冠(とさか)と嘴(くちばし)下の肉髥(にくぜん)が付けられ、大ぶりの尾部などからも、一見して立派な雄鶏(おんどり)を象っていることが判ります。
この古墳には別の鶏形埴輪もたてられていたようで、頭部の特徴からさらに雄鶏と雌鶏が認められ、併せて4羽の鶏形埴輪が出土しています。

鶏形埴輪
埴輪 鶏(写真左・雄鶏)、(写真・左:雄鶏、右:雌鶏) 栃木県真岡市京泉塚原 鶏塚古墳出土 古墳時代・6世紀(橋本庄三郎氏他3名寄贈)

一方、鶏形埴輪のもう一つの大きな特徴は、多くが止まり木を掴んだ脚の表現を伴うことです。前3本、後ろに1本の脚指で止まり木をしっかりと掴み、なかに蹴爪(けづめ)まで表現されたリアルな例もあります。
昼間は地上で活動し、夜間は危険を避けるために高い木に止まる鶏の習性を見事に捕らえた造形と考えられます。
このように見れば、鶏形埴輪は餌を探しついばむ「昼間」の姿ではなく、「夜間」の生態を写した造形といえそうです。

鶏形埴輪実測図(奈良県纏向坂田遺跡出土・4世紀)
鶏形埴輪実測図(奈良県纏向坂田遺跡出土・4世紀)
[清水真一論文1996『奈良県立橿原考古学研究所論集』11より]


これらの特徴から、鶏形埴輪は奈良時代の『記紀』に登場する「常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)」の性格と大変よく似ているという説が有力です。

『日本書紀』神代上第七段本文
「[前略] (天照(アマテラス)大神が)発愠(イカリ)まして、乃(スナハ)ち天石洞(アマイハヤ)に入り
まして、磐戸(イハト)を閉(サ)して幽(コモ)り居(マ)しぬ。故、六合(クニ)の内常闇(トコヤミ)に
して、昼夜の相代(アヒカハルワキ)も知らず。[中略] 時に、八十万神(ヤオロズノカミタチ)、天
安河邊に会ひて、[中略] 遂に常世の長鳴鳥を聚(アツ)めて、互いに長鳴きせしむ。[後略] 」

天照大神が弟神の須佐之男(スサノヲ)命の暴虐ぶりに機嫌を損ね、天岩屋戸に隠れてしまってこの世が闇夜となった有名な一節で、困り切った八百万神が集まり知恵を絞って常世長鳴鳥を集めたり、さまざまな祭祀を行った結果、高天原(タカマガハラ=天)と葦原中国(アシハラナカツクニ=地上)に光と秩序が戻った、という日本神話のハイライトシーンの一つです。

ここに太陽を出現させる存在として、常世長鳴鳥(鶏)が登場しています。もちろん神話的な表現ですが、当時の人々にとって太陽の復活と信じられた朝日は、鶏が鳴いて初めて登ると考えられていたことが窺えます。

おそらく、人々は夜明け前に鳴く雄鶏の不思議な能力に畏敬の念を抱き、鶏は太陽神(日神)信仰を支えた時告(ときつげ)鳥として重要視されたことでしょう。
一方、「時の管理」はいつの世でも人々を支配する者の特権です。飛鳥時代の朝廷でも、660(斉明6)年に都城の建設に先駆けて漏刻(ろうこく=時計)が製作され、平安時代に至るまで朝廷が人々に時を知らせたと記録されています。
鶏形埴輪は首長の祭祀権と支配権の象徴として、いち早く形象埴輪群の中心として製作されたようです。

鶏形埴輪
埴輪 鶏(左・雄鶏) 群馬県伊勢崎市赤堀今井町毒島995 赤堀茶臼山古墳出土 古墳時代・5世紀
鶏形埴輪展示全景(右

キジ科の鶏は、紀元前5000頃にはすでに中近東やエジプトで飼われ、紀元前2000年以降にはインド、中国でも前漢代(BC.3~AD.1)には家禽として相当普及していたことが知られています。
日本列島では、鳥形土製品・木製品や骨格資料などによって弥生時代から確認できますが、食肉・採卵用の実用種は江戸時代以降の輸入種で、名古屋コーチンなどのいわゆる地鶏は、明治~大正年間に輸入された中国原産種と日本古来の在来種の品種改良によってつくられた品種です。

動物学の分類では、在来種はすべて鑑賞用などの非実用種に限られるといいますので、日本列島では永らく人間社会に深く関わる動物として位置づけられてきたようです。
今年も猛暑が続き夏も真っ盛りですが・・・、ビールのお供に焼き鳥(♪~)という「定番」はごく最近に成立した風景で、現代人の“常識”だけでは古代の鶏の姿はなかなか見えてこないようです。
是非“先入観”を振り払って、これらの鶏たちを虚心に見つめて頂ければ、我々の祖先の視線に一歩でも近づいて頂くことができるのではないかと思います。

次回は、水鳥形埴輪についてご紹介します。


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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2012年08月20日 (月)