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1089ブログ

びょうぶとあそぶ―松林図のちょっとツウな楽しみ方

皆様にご好評いただいています、親と子のギャラリー「びょうぶとあそぶ」も残すところあと2週間余りとなりました。もうご覧いただけましたか?

今回は、松林図のちょっとツウな楽しみ方についてお届けします。

国宝 松林図屏風の複製と映像のインスタレーションをお楽しみいただいている第一会場「松林であそぶ」には、松林図屏風10分というサインを出しています。
実は、そのうち
6分間が 「映像の時間
4分間は 「屏風の時間」 です。

「映像の時間」には、高さ5メートル、直径15メートルの半円形のスクリーンを使って、松林の外に広がっていたかもしれない広い風景とその四季のうつろい、さらに、松林の中の世界をご覧いただいています。

映像の時間
映像の時間


屏風の時間は、映像ぬきの屏風だけの時間です。なかには映像が終わるとその場を立ってしまうお客様がおられるのですが、実はこの屏風の時間も「びょうぶとあそぶ」の大切な一部分なのです。

映像が終了すると同時に、屏風の形にきれいにマッピングされたプロジェクターの光が、松林図を暗がりのなかにふわっと浮かび上がらせます。

屏風の時間
屏風の時間

少し硬質な光で、きっと今までに見たことのない松林図の表情が出ていると思います。直前まで繰り広げられていた映像で刺激された想像力を自由にはばたかせて、自分だけの松林図屏風の世界に遊んでいただける時間です。
やがて、照明は徐々に暗くなります。この暗くなる瞬間をお見逃しなく。松林の表情が劇的に変わります。
そして、ほどなく照明は完全に落ちて、会場の地灯りだけに。昔の日本建築のなかで眺める松林図は、もしかしたら、この暗がりに溶け込みそうな松林図だったかもしれません。

「松林図であそぶ」で展開される、ドラマチックな4分、屏風の時間を、ぜひご堪能ください。


「びょうぶとあそぶ」公式サイトでは、このほかにもびょうぶの楽しさが広がる情報を発信中。ぜひ、アクセスしてみてください。

 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ教育普及特集・特別公開

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posted by 小林 牧(博物館教育課長) at 2017年08月16日 (水)

 

【トーハク考古ファン】考古展示室にも仏像あり!

考古展示室にも仏像が展示されていることをご存知でしょうか?
それは…

「ここだほ!」

テーマ展示「塼と塼仏」/考古展示室

トーハクくん、大正解! そうです。考古展示室では塼仏(せんぶつ)を展示しています。

さて、開催中の特別展「タイ ~仏の国の輝き~」、皆さんはご覧になりましたでしょうか。
タイを代表する仏教美術品が一堂に会する貴重な展覧会です。
会場には古代から現在までのタイの歴史と文化に関する作品が展示されていますが、こちらの塼仏はご覧になりましたか?

塼仏
バンコク国立博物館蔵
8月27日
(日)まで特別展「タイ ~仏の国の輝き~」で展示中

これはタイのトラン県カオサイ洞窟出土の塼仏です。
涙滴形の中に、蓮華の上に足を組んだ4臂の観音菩薩像が型押しされており、9世紀頃のものと考えられています。
タイを含め、マレー半島ではこうした塼仏が洞窟や山の上から出土しており、僧侶が修行した場所ではないかと推測されています。

そもそも、塼とは現在でいうレンガやタイルのようなもの。粘土を焼き固めて作られました。
この塼に仏像を表したものが塼仏です。寺院の壁をタイルのようにして飾りました。

通常、塼仏は笵型に粘土を押し当てて作られます。そのため、形や図像が同じものがたくさんあります。
これまでの研究成果によれば、以下の工程で作られていたと考えられます。

(1)原型をつくる
木や金属を素材として原型をつくります。塼仏そのものを原型とする例も考えられます。

(2)笵型をつくる
原型に粘土を押し当て笵型を作り、細かな表現を加えます。

塼仏笵(せんぶつはん)
奈良県桜井市 山田寺跡出土 飛鳥時代・7世紀
東京国立博物館蔵
12月25日(月)まで展示中/考古展示室


(3)笵型の乾燥・焼成

(4)塼仏をつくる
(3)で作った笵型に粘土を押し当てて、乾燥したら型から粘土を外します。

(5)塼仏を乾燥させ、焼き固めます


(6)仕上げ
表面に金箔を貼ったり、彩色を施す場合があります。金箔が剥がれないように、表面に漆が塗られていたようです。

塼仏は大きく形によって、方形と火頭形と分けられ、また、仏様の配置から独尊、三尊などに分けられます。
「方形三尊塼仏」のように、本尊と脇侍だけでなく飛天が舞う例などもあります。


重文 三尊像塼仏(さんぞんぞうせんぶつ)
奈良県高取町 南法華寺出土 飛鳥時代・7世紀
東京国立博物館蔵
11月26日(日)まで展示中/考古展示室



独尊像塼仏(どくそんぞうせんぶつ)
奈良県明日香村 紀寺跡出土 飛鳥時代・7世紀
東京国立博物館蔵
12月25日(月)まで展示中/考古展示室


塼仏の構図は唐代に類例があり、7世紀後半に始まる遣唐使によって日本に伝えられた可能性が高く、日本ではもっぱら7世紀後半から8世紀前半にかけて、近畿地方を中心に流行したようです。

さて、考古展示室の塼仏をよく見ると、表面が赤茶色のものや焦げ痕のようなものが付着しているもの、表面がざらざらと荒れているものなどがあります。
 
三尊像塼仏残欠(さんぞんぞうせんぶつざんけつ) ※写真右は部分拡大
奈良県明日香村 橘寺出土 飛鳥時代・7世紀
東京国立博物館蔵
12月25日(月)まで展示中/考古展示室

これは、何らかの熱を受けたためと考えられます。
先ほど「塼仏の制作工程」(6)でご紹介したように、塼仏には金箔や彩色が施されていたので、おそらくは、もともと寺院で飾られていたものが、火災によって表面の金箔や彩色がなくなり、焦げ痕が残されたのでしょう。
なかには、熱によって表面の金箔が溶けて、ごく微小の金粒となって残されている場合もあります。展示室では難しいですが、実物を手に取りルーペでよく観察すると金粒がかすかに輝いて見えます。

モノに残された痕跡は、それがどのような経緯で現在に伝わったかを推測するヒントとなるので、考古学では資料観察がとても重要なのです。


形や模様だけじゃなくて、キズや付着物にも注目だほ

さまざまな国と地域の作品を見比べられるのも、トーハクの魅力の一つです。
特別展「タイ」と考古展示室は同じ平成館にある展示室。
特別展をご覧になった後は、考古展示室の仏教考古学関連の作品をぜひ見比べてみてください。
きっと新たな発見があると思います。

※今後SNS(Twitter, Facebook, Instagram)でトーハクの塼仏を紹介していきます。「#1089考古ファン」で検索してみてください。

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 井出浩正(特別展室主任研究員) at 2017年08月15日 (火)

 

スコータイへの旅

本ブログでは、特別展「タイ ~仏の国の輝き~」の第2章にあたるスコータイへ皆さんをご案内します。

 
本展では、タイの仏教文化の歴史が最初期から現代までたどれる充実した内容となっています。各時代を通じて仏像のスタイルは様変わりしていくのですが、来館された方々の感想として「どの仏像もほほえんでいる」という声が非常に多く聞かれます。

 
「仏陀坐像」(スコータイ時代・15世紀、サワンウォーラナーヨック国立博物館蔵) 

 
「仏陀遊行像」(スコータイ時代・14~15世紀、サワンウォーラナーヨック国立博物館蔵) 

確かにその通りです。担当者の一人として展覧会の準備のために眉根を寄せて仏像とにらめっこしていた自分には、仏さまの慈悲の姿が見えてなかったことをお客様の声から気づかされました。  

タイの仏教美術は、13世紀のスコータイ王朝の成立とともに上座仏教を中心とする形へ大きく舵を切りました。仏像のスタイルもスリランカなどの影響を受けた優美な姿へと変わっています。展覧会でも遊行仏をはじめとするスコータイ仏の美しさを楽しんでいただけたことでしょう。ひときわ優しい笑みを浮かべるスコータイ仏の故郷とは、どのような場所なのでしょうか。

 

バンコクから飛行機で北行すること約1時間、小さなスコータイの空港へと降り立つと・・・


 
空港の職員が皆サファリルックでお出迎え。

建物は吹き抜けで、おまけに滑走路と建物の間にはなぜかシマウマなどの動物たちが、と観光気分は否が応でも盛り上がります。いや、そうじゃなくて仕事で来ているのだとこの空港に来るたびに自分に言い聞かせる羽目に。  

東西1.8km、南北1.6kmの四角い城壁に囲まれたスコータイ中心部は、現在は大規模な歴史公園として整備されています。都城の中心に位置するワット・マハータートはスコータイ最大の規模を誇る王室の寺院で、スリランカからもたらされた仏舎利を安置していました。



独特の蓮蕾型の仏塔を中心に堂宇が建ち並び、寺内の仏塔はおよそ200基を数えます。



実はここの本尊は現在、バンコクにあるワット・スタットの仏堂に安置されています。

 
右は特別展「タイ」会場風景 「ラーマ2世王作の大扉」(ラタナコーシン時代・19世紀、バンコク国立博物館蔵) 


そう、展覧会にも出品された巨大な大扉のある寺院です。700年の時を超えて仏への信仰が今の人々へ受け継がれているのです。  

もう1ヶ所、城壁の外にあるワット・シーチュムをみてみましょう。ここは巨大な坐仏で有名です。堂正面中央のスリットのように開いた隙間から、優しさに満ち溢れたお顔立ちの大仏がみえます。



堂内に入ると、高さ15mを超える仏の威容に圧倒されます。

堂の壁の中には細い階段があって上へ昇ることができ、上から仏さまを拝めるのです。

普段は仰ぎ見るばかりの仏がまた違った表情を見せてくれます。ただし、その高さはちょっとコワいですが。  

さて、1279年に即位したラームカムヘーン王の碑文には、「水に魚あり、田に稲あり」とあり、当時の人々の豊かな暮らしぶりがうかがえます。それを裏付けるかのようにスコータイの都城の内外にはたくさんの寺院が残されています。これらの寺では今でも多くの人が訪れ、それぞれの祈りを捧げています。
 

 

※優しい微笑みのスコータイ仏は、東京国立博物館 平成館で8月27日(日)まで開催中の日タイ修好130周年記念特別展「タイ ~仏の国の輝き~」でご覧いただけます。

カテゴリ:研究員のイチオシ2017年度の特別展

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posted by 小泉惠英(九州国立博物館 研究員) at 2017年08月10日 (木)

 

山田長政ゆかりの地を訪ねて

泰平の世に、日本を飛び出し、活躍の地を求めてアユタヤーに雄飛した人びとがいました。
彼らのなかで最も有名な人物が、駿河出身とされる山田長政(?~1630)です。


「山田長政像」(江戸~明治時代・19世紀 、静岡浅間神社蔵) 
洋装に身を包んだ長政の肖像。なぜ洋装なのかはよくわかっていません。

同時代の資料が少なく、なかば伝説的な人物のように扱われることの多い長政ですが、彼の名は江戸幕府初期に活躍した以心崇伝(いしんすうでん)が著した外交実務の記録『異国日記』に、「山田仁左衛門」の名で登場します。また、彼の故郷にある静岡浅間神社には、長政が奉納した絵馬の写しが伝わっています。


静岡浅間神社


「山田長政奉納戦艦図絵馬写」(浅間大祝高孝寄進、江戸時代・寛政元年(1789)、静岡浅間神社蔵) 
荒波をものともせず進む軍艦。甲板に多数の鎧武者とともに長政が描かれています。

長政は、勇猛な日本人義勇軍を率いて活躍し、時の国王に重用されますが、宮廷内の諍いに巻き込まれてしまい、最後はタイ南部の六昆(リゴール)の地で暗殺されたといわれています。


「カティナ(功徳衣)法要図」(ラタナコーシン時代・1918年、タイ国立図書館蔵) 
法要図に描かれた日本人義勇軍。薙刀を手にしています。

山田長政終焉の地である六昆は、ナコーンシータンマラートと名を変えて今に至っています。タイ南部を代表する都市です。

さてこの地に、長政を偲ぶものはあるのでしょうか。


この街には、現在でも長政が活躍したアユタヤー王国時代に作られた城壁が残っています。煉瓦(れんが)を平積みに積んだ高くて堅固な城壁です。

ナコーンシータンマラートは城塞都市だったんですね。
もしかしたら、長政もかつて見上げた風景かも知れません。  

ほかに何かないでしょうか…街を歩いてみます。ナコーンシータンマラートは、目抜通りこそ車の往来が激しくて、とてもせわしないですが、少し裏手にまわるとのんびりとした風情があります。この日は、歩いている途中に眠りこけている犬を何匹も目にしました。  

遂に見つけました!
山田長政邸宅跡に残る井戸です!! 本当かどうかはわかりません!!! 
内側を煉瓦で積み上げた横長の井戸ですね。

今も井戸の底には水をたたえています。
井戸のすぐそばにパン屋さんがありましたが、そこの看板に「RIGOR」と書いてありました。「リゴール」、つまり六昆ですね。  

ナコーンシータンマラートで美味しかったのは、地元特産の貝料理でした。

日本でいうと、これはたぶんサルボウとイガイですね。長政も亡くなる前にお腹いっぱい食べることが出来たのでしょうか。駿河人は海産物が大好きなのです。ちなみに、このコラムの筆者も駿河人です。  


長政の故郷、静岡では毎年10月に「日・タイ友好 長政まつり」が開催されています。今年で32回目を迎えます。のんびりとしたお祭りです。興味のある方は行ってみて下さい。 今年は10月8日(日)開催だそうです。長政公も出迎えてくれます。





※今回ご紹介した作品は、東京国立博物館 平成館で8月27日(日)まで開催中の日タイ修好130周年記念特別展「タイ ~仏の国の輝き~」でご覧いただけます。



 

カテゴリ:研究員のイチオシ2017年度の特別展

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posted by 望月規史(九州国立博物館 研究員) at 2017年08月04日 (金)

 

三日月宗近を見る

暑い日が続きますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
さて、今回ご紹介します刀剣は、名物「三日月宗近」。

三日月宗近
国宝 太刀 三条宗近(名物 三日月宗近)

豊臣秀吉の夫人、高台院の形見として徳川幕府第二代将軍・徳川秀忠へと伝わり長く将軍家に伝来しました。
作者の宗近は平安時代の終わりに京都の三条で活躍したとされる刀工で、この太刀の由来は焼刃の模様である刃文(はもん)に三日月状のものがあることにちなみます。

三日月状の刃文
三日月状の刃文(打ちのけ)


刀身の下半分から茎(なかご、刀身の柄)にかけて強い反りがある一方で鋒(きっさき、刀身の先端)側の上三分の一ほどには反りがほとんどみられず、幅が細いこともあいまって、反りの曲線美が際だった形状となっています。形自体は基本的には作者の意図したものと考えますが長い時代のなかで研磨が施され、このような形状になったとものと推定されます。華奢(きゃしゃ)な印象ですが、それほど大切に扱われてきたことを示しています。


地鉄(じがね)をみてみましょう。
地鉄とは鋼(はがね)を何度も折り返す刀剣の製作工程によって表面にあらわれる木材の木目に似た模様、あるいは鋼の様子そのものを指します。三日月宗近の地鉄は、所々に大きな板目がみられ一見精緻(せいち)には思えませんが鋼はスポットライトにかざすと明るく反射し板目の下にみえる鋼は、それ自体が凝縮して密度が高くなったような印象を受けます。

三日月宗近の地鉄
三日月宗近の地鉄(大きな板目とその下の明るく反射する鋼)

この地鉄の明るさと凝縮した質感こそ宗近から続く京都の刀匠たちの共通した特徴で細くなった太刀に大きな存在感を与えているといってもよいでしょう。

 
最後に刃文はどうでしょうか。
様々な形が入り交じった小模様なものです。慎ましさや素朴さを与えます。名の由来になっている三日月状の「打ちのけ」と呼ばれる部分も不規則です。江戸時代の大坂の刀工である津田助広が得意とした、寄せては返す波のような刃文と比べると、よくそれがわかるでしょう。

三日月宗近と津田助広の刃文
三日月宗近(画像上)と津田助広(画像下)の刃文の違いを見比べる

三日月宗近の刃文は大模様ではないものの刃文をつくる「沸(にえ)」と呼ばれる粒子は同時代の備前国の刀工より明るく反射するものでこの特徴もやはり後の京都の刀工へ受け継がれていくものです。

 
と、やや難しくなってしまいましたが、これが、現時点で私が思う三日月宗近の特徴とその意味です。
私も最初は「三日月形の刃文があって、有名な人々が持っていたから国宝なんだ」と思っていました。しかし、その後十五年ほど勉強をしていくうちに、現在まで伝えさせる「魅力」をごくわずかですが感じるようになりました。
すぐわかる美しさも感銘を与えますが、段々とわかる美しさはより大きな感銘を与えます。

ぜひ展示室に足をお運びいただき、実物をご覧ください。

 
【展示情報】
刀剣
会場:本館13室
期間:2017年7月19日(水)~2017年10月15日(日)

カテゴリ:研究員のイチオシ

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posted by 酒井元樹(工芸室主任研究員) at 2017年07月21日 (金)