日中文化交流協定締結40周年記念 特別展「三国志」(7月9日(火)~9月16日(月・祝))は、8月2日(金)午後、来場者10万人に達するのを記念したセレモニーを実施しました。
多くのお客様に足をお運びいただきましたこと、心より御礼申し上げます。
記念すべきお客様は、埼玉県久喜市からお越しの手塚大地さん。
手塚さんには記念品として、本展図録と関羽像のトートバッグ、俑の下敷きなど、本展オリジナルグッズを贈呈しました。
特別展「三国志」10万人記念セレモニー
右から、当館館長の銭谷眞美、手塚大地さん、トーハクくん
手塚さんは、中学生の時に友人と遊んだ三国志のカードゲームから三国志に興味を持たれたそうです。
本展で一番楽しみにしているのは、三国志の時代に使われた武器の展示とのこと。
手塚さんは現在、中学校で理科の先生をされており、「三国志展は全作品撮影できる点も楽しみです。撮影した写真を昼休みに子供たちに見せてあげたいです」とお話しくださいました。
特別展「三国志」では三国志の時代にまつわる貴重な出土品を、ご覧いただけます。
また、本展は全作品撮影ができます。(ただし、映像作品は除きます。撮影の注意事項についてはこちらをご確認ください)
展示も撮影もぜひ、お楽しみください!
暑い日が続きますが、皆様のご来館を心よりお待ちいたしております。
カテゴリ:2019年度の特別展
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posted by 長谷川 悠(広報室) at 2019年08月02日 (金)
特別展「三国志」の掉尾(ちょうび、“最後”)を飾る作品の一つが蟬文冠飾(せみもんかんしょく)(作品No.159)です。
蟬文冠飾 青銅製、金 西晋時代・3世紀
2003年、山東省臨沂市王羲之故居洗硯池1号墓出土
臨沂市博物館蔵
大変小さな作品ですが、粒金を駆使した超絶技巧に驚かされる作品です。
詳細については展示室の題箋や図録解説に委ねることにします。
ここで取り上げたいのは、なぜ蟬というおおよそ冠の飾りに似つかわしくない昆虫がモチーフに採用されたかについてです。
古代の中国人にとって蟬は、「含蟬(がんぜん)」として、死ぬ時に口に含ませられた昆虫でした。
土の中で長い時間過ごす蝉の幼虫は、羽化して自由に空を飛び回ります。それを不老不死の仙人になぞらえたのでしょうか。
考古資料にも蝉の造形は枚挙に暇がありません。まさに神仙思想の賜物だったのです。
ところで蟬と同じく昆虫モチーフの造形が古代エジプトにもあります。
それはスカラベ。またの名をフンコロガシ。
当時の人々が神聖視した一種の甲虫です。
日本ではあまり見かけませんが、後ろ足を使って糞をころがすさまを、太陽が東からのぼって西に沈み、ふたたび東から現れることに見立てたのでしょう。
エジプトには顔がスカラベとなったケペル神がいたほか、数多くの護符も出土しています。こちらは不老不死というよりも死んだ後の再生に重きが置かれています。
あるいは周期的に氾濫して大地に豊穣をもたらすナイルが念頭にあったのかもしれません。
さて、不老不死か再生かという究極の問題は、人類が避けられない「死」とどう向き合ったかが結晶しています。
エジプトと中国の古代の墓に描かれた彩色壁画をみても、両者の違いは歴然です。
エジプトでは死後のさまざまな儀式と再生への道のりが主要画題の一つになっているのに対し、中国では墓の主(被葬者)が生前同様に来世でも生活する場面がほとんどなのです。
すこしややこしい言い方ですが、死を境として現世と来世とを全く別物ととらえるか、いったん仙人になるための一時休止期間と捉えるかという死生観が根底にあるのではないでしょうか。
死後の復活で思い出されるのが聖書です。受難後に復活したイエス・キリストによってすべて人間の罪が贖われることは敬虔な信仰生活を送る上で重要な教義でした。
エジプトと中国の間にあるメソポタミアでは、英雄ギルガメッシュが不老不死を求めて旅をし、叶わずに永遠の眠りにつきました。
南アメリカのアンデスでは死と生の世界はシャーマンの助けをかりて交流しました。
さらにアフリカのガーナでは、個人の人生にちなんだ棺がオーダーメイドされています。
死生観を反映したさまざまな「死のイメージ」に注目すると、人間の共通性と多様性とが時空を越えて浮かび上がってくるようです。
蟬文冠飾に戻りましょう。
この磚室墓からは9件の蟬文冠飾が出土し、その中には成人に達しない子供も含まれていたといいます。
親にとって早すぎるわが子の死はさぞかし痛恨事だったにちがいありません。
せめて来世だけでも、仙人のように世界を自由に飛び回ってほしいと願う親の思いがこの作品には結実しているのだと思います。
展示されている蟬文冠飾
日中文化交流協定締結40周年記念
特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
日中文化交流協定締結40周年記念 特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
カテゴリ:研究員のイチオシ、2019年度の特別展
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posted by 河野一隆(調査研究課長) at 2019年08月01日 (木)
2019年、今年も暑い夏の季節がやってきましたね。
トーハクではそんな夏の暑さにも負けない、この夏一番アツい展覧会、特別展「三国志」が絶賛開催中です!
三国志は、小説、漫画、人形劇、ゲームなど様々なかたちで多くの人々に長年親しまれてきました。
本展は三国志に登場するあの武将、あの戦い、あの名場面にまつわる選りすぐりの文物を中国各地から集めました。
その数、161件。なんと8割以上が日本初公開となります!
本物の文物を見ることで、「三国志の時代は本当にあったんだ!」とリアルに感じられます。
それでは「リアル三国志」の世界を少し覗いてみましょう。
入口には「会場内全作品撮影OK」の看板が。
な、なんと、今回の特別展「三国志」は全作品写真撮影OKなのです!(ただし、映像作品を除きます)
フラッシュ使用禁止など、ルールを守って展示と撮影をお楽しみください。
撮影の注意事項の詳細はこちらをご確認ください。
会場に入るとまずは、「プロローグ 伝説のなかの三国志」。
本展メインビジュアルの関羽像(かんうぞう)が出迎えます。
関羽像
青銅製 明時代・15~16世紀 新郷市博物館蔵
威厳のある凛々しい顔立ち、引き締まった体躯、堂々としたたたずまい、必見の「美関羽」です。
本展担当研究員いわく、右下から見るのがベストアングルとのこと。(目が合うのだそうです)
続く、「第1章 曹操(そうそう)・劉備(りゅうび)・孫権(そんけん) 英傑たちのルーツ」では魏・蜀・呉の基盤を作った曹操、劉備、孫権それぞれのルーツが垣間見える文物が並びます。
貨客船
土製 後漢~三国時代(呉)・3世紀 2010年、広西チワン族自治区貴港市梁君垌14号墓出土 広西文物保護与考古研究所蔵
貨客船(かきゃくせん)は漢から三国時代にかけて、呉の沿岸部の墓で出土した船形模型です。
対外交易がさかんだった海洋国家・呉ならではのものです。
複数の船室、波よけの壁などの船の構造や、船を漕ぐ人々の様子が詳細に作られており、呉の孫権を支えた、高度な海洋技術がうかがえます。
「第2章 漢王朝の光と影」では、漢王朝の栄華から、衰退、三国時代の幕開けを伝えます。
穀倉楼(こくそうろう)は河南省焦作市より集中的に出土した穀物倉庫の模型です。
一級文物 五層穀倉楼
土製、彩色 後漢時代・2世紀 1973年、河南省焦作市山陽区馬作出土 焦作市博物館蔵
大きくてとてもゴージャス!
このような壮麗な穀物倉庫が建てられるくらい、この土地は豊かな穀倉地帯であったのでしょう。
後漢王朝のラストエンペラーである献帝(けんてい)は、魏の文帝・曹丕(ぶんてい・そうひ)に皇帝の位を譲りました。
その後、献帝は一貴族として余生を過ごすことになるのですが、その時に曹丕からあてがわれたのがこうした穀物倉庫の模型が出土する山陽(河南省焦作市)だったのです。
後漢が滅んだ後も献帝は厚遇されていたことが分かります。
「第3章 魏・蜀・呉 三国の鼎立(ていりつ)」の見どころはこちら。
なんということでしょう!展示室の天井や壁には、雨あられのごとく降り注ぐ大量の矢が!その数1500本!
三国志の時代の、水上戦の様子をイメージした大迫力の展示空間が広がります。
ここでは、当時の戦いで使用された武器をご鑑賞いただけます。
一級文物 弩(ど)
[弩機]青銅製 [木臂]木製 三国時代(呉)・黄武元年(222)1972年、湖北省荊州市紀南城出土 湖北省博物館蔵
弩は現在でいうクロスボウのような武器で三国志の時代で多用されました
※三国志の時代の武器について詳しくは、こちらのブログもご覧ください。
さらに、展示室内にはコーエーテクモゲームスのゲームシリーズ「真・三國無双」に登場する張飛が愛用した武器の蛇矛(じゃぼう)を再現する展示企画も。
『三国志演義』によると、張飛の蛇矛は一丈八尺(約4メートル)と記されており、これに基づき再現しました。
実際のところ、三国時代の出土例は無く、張飛の時代に蛇矛が存在していたかはわかっていません。
本展は、三国時代から数百年以上前のものとされる雲南省で出土した蛇矛を、再現した蛇矛と並べて展示しています。
是非、見比べてみてください。
再現した「真・三國無双」の張飛の蛇矛
蛇矛
青銅製、鍍錫 石寨山文化期・前2世紀 1956年、雲南省昆明市石寨山3号墓出土 雲南省博物館蔵
「第4章 三国歴訪」では魏・蜀・呉、三国の特色や風土を感じましょう。
例えば、中国で副葬品として用いられた人形である、俑を見てみると三国の違いがよくわかります。
蜀の俑を見てみましょう。
舞踏俑(ぶとうよう)(右)
石製 後漢~三国時代(蜀)・2~3世紀 重慶市出土 四川博物院蔵
舞踏俑(左)
石製 後漢~三国時代(蜀)・2~3世紀 重慶市出土 重慶中国三峡博物館蔵
表情にご注目ください。ニコニコしています!笑顔が素敵な人っていいですよね。
蜀の地の豊かさを表していると考えられます。
魏と呉の俑も展示されていますので、比較して見るのも面白いです。
※魏の俑は第5章にあります。
そしてついに本展のクライマックス、「第5章 曹操高陵と三国大墓」。
三国志研究史上、最大の発見となる魏の王、曹操のお墓である、曹操高陵(そうそうこうりょう)からの貴重な出土品に出会えます。
展示室内には曹操高陵の墓室の一部を実寸大で再現したエリアが!
厳かな雰囲気をヒシヒシと感じられます。
本展会場に実寸で再現した曹操高陵の内部
ここには、曹操高陵から出土した白磁の容器、罐(かん)が展示されています。
一級文物 罐
白磁 後漢~三国時代(魏)・3世紀 2008~2009年、河南省安陽市曹操高陵出土 河南省文物考古研究院蔵
白磁の誕生は、6世紀後半の隋の時代と考えられていますが、本品はこれを300年以上さかのぼります。
小さいながらも、とても丁寧に作られているのがわかります。
※曹操高陵について詳しくは、こちらのブログもご覧ください。
最後は「エピローグ 三国の終焉 - 天下は誰の手に」。
本展をしめくくるのは世界一短い『三国志』、「晋平呉天下大平」磚(「しんごをたいらげてんかたいへい」せん)。
「晋平呉天下大平」磚
土製 西晋時代・280年 1985年、江蘇省南京市江寧区索墅磚瓦廠1号墓出土 南京市博物総館蔵
「晋が呉を平らげ、天下太平となった」という、意味の言葉が刻まれています。
三国を統一したのは魏、蜀、呉のどこでもなく、司馬一族の西晋王朝(せいしんおうちょう)でした。
この一言に、壮大な戦いの結末が込められていると思うととても感慨深いです。
展示室内のところどころに、NHK『人形劇 三国志』で使用された川本喜八郎作の人形や、横山光輝作の漫画、『三国志』の原画などの貴重な作品が展示されており、こちらも見逃せません!
左から「孫権」「劉備」「曹操」
飯田市川本喜八郎人形美術館蔵 (c)有限会社川本プロダクション
横山光輝『三国志』原画 新書判第1巻「桃園の誓い」
光プロダクション蔵 (c)横山光輝/光プロ
ここまでで、「三国志分からない……」と不安に思う方、ご安心ください!
展示室の各所にある、「入門講座」というパネルをご覧ください。三国志の基礎知識を分かりやすく解説しています。
入門講座6パネル
三国志ファンの方もそうでない方も楽しめる、見どころ満載の特別展「三国志」。
この夏、ぜひ足をお運びください。
【もっと、楽しむ!特別展「三国志」】
公式サイトでも公開中のスペシャル企画、「特別展『三国志』武将メーカー」が体験できるブースがあります。
武将メーカーコーナー
顔写真をもとにコーエーテクモゲームスの「三國志」「真・三國無双」シリーズの武将ビジュアルと合成されることで、
新たな「名」や「エピソード」などを持った架空の武将が誕生します。
もしも、あなたが三国志の時代の武将だったら?という夢を叶えてくれます。
特別展「三国志」のテーマ“リアル三国志”とあわせて、“もしも三国志”もお楽しみください!
日中文化交流協定締結40周年記念
特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
日中文化交流協定締結40周年記念 特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
カテゴリ:2019年度の特別展
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posted by 長谷川悠(広報室) at 2019年07月30日 (火)
特別展「三国志」では、三国志の時代(後漢時代末から三国時代)の武器も多数展示しています。
では、三国志の時代の英雄豪傑達は、どのような武器を使ったのでしょうか。
三国故事図(さんごくこじず)より、馬超(ばちょう)は渭水(いすい)にて曹操を追撃、許褚(きょちょ)が馬の鞍で矢を防ぐ様子を描いた場面
絹本着色 清時代・18~19世紀
天津博物館蔵
三国時代が終わって間もなく書かれた歴史書である『三国志』には、武器に関しては、拍子抜けするくらいわずかな記述しかありません。
『三国志』からわかるのは、弓や弩(ど)が多用されたことと、城攻めの特殊な兵器が工夫された(実態は不明)ことくらいです。
有名な武将が愛用したのは刀なのか、矛なのか、弓なのか、そうしたことは全くと言っていいほど記録されていません。
関羽が日本の薙刀のような形の青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)を使ったとか、張飛が刃が曲がりくねった蛇矛(じゃぼう)なるものを用いたとか言う話は、当時の歴史書にはなく、のちの時代の創作です。
この時代の武器は考古資料から探るほかありません。
古代中国の武器、厳密には武器の刃先は、青銅製から鉄製へと進化しました。
青銅は硬いのですが折れやすいという欠点がありました。
そのため青銅製の武器は、剣のようにまっすぐに突き刺すようにして敵を攻撃します。
一方、鉄は折れにくいが柔らかいのが特徴ですが、技術の発達によって硬く折れにくい鋼鉄が作れるようになると鉄製の武器が普及していきました。
大体、前漢時代、前2世紀から前1世紀のころには、鉄剣が銅剣にとってかわります。
後漢時代の1世紀から2世紀ころになると、一点だけを攻撃する剣に代って、振り回すことによって広い範囲を効率よく攻撃することができる刀が普及しました。
三国志の時代はすでに長い鉄刀が一般化していました。
鉄刀のなかには金象嵌を施した装飾的なものもあり、鉄刀は身分の象徴でもあったようです。
一定以上の地位にある武人が、鉄刀を愛用していたことはたしかでしょう。
環頭大刀(かんとうたち)
鉄製 後漢~三国時代(蜀)・3世紀
1990年、四川省綿陽市何家山出土
綿陽市博物館蔵
三国志の時代に特徴的な武器に、鉤鑲(こうじょう)があります。
鉄製の小型の盾から鉄の棒が突き出すちょっと変わったものです。
鉤鑲
鉄製 後漢~三国時代(蜀)・3世紀
1998年、四川省綿陽市白虎嘴崖墓出土
綿陽市博物館蔵
当時の墓の石壁には、右手に刀、左手に鉤鑲をもつ姿が刻まれたものがあり、左手の鉤鑲で相手の刃を受け止め、その隙に右手の刀で攻撃したものと思われます。
鉤鑲が流行したのは短期間でしたがその理由はよくわかりません。
想像ですが、初期の鉄刀は比較的軽量で片手で扱うことができ、そのために片手でもった鉤鑲でも受け止めることができたが、殺傷力を増すため刀が重くなると刀は両手で扱わなければならなくなって鉤鑲は廃れたのかもしれないと思います。
皆様も実物を見て考えてみると面白いと思います。
三国志の時代の武器の花形といえば、弩ということになるでしょう。
一級文物 弩
[弩機]青銅製 [木臂]木製
三国時代(呉)・黄武元年(222)
1972年、湖北省荊州市紀南城出土
湖北省博物館蔵
最近はクロスボウなどというようですが、私(60代ですが)の前後の世代の方なら「ウィリアムテルの弓」というほうが通りがよいのではないかと思います。
木製の腕の先に弓を水平に取り付け、引き絞った弦は青銅製の発射装置(弩機といいます)に引っかけておき、狙いを定めて引き金を引くと矢が飛び出します。
弩は、腕だけでなく、両足まで利用して全身の力で弦を引きます。
腕力だけで引いた弓とは比べものにならないほど強い矢を、正確に発射することができるわけです。
しかし矢継ぎ早に射ることはできず、また馬上での操作も困難という欠点があります。
『三国志』には弩についてはやや多くの記述があります。
平地での戦いでは、使いかた次第で効果を発揮したり不首尾に終わったりしたようです。
弩が威力を発揮したのは水上戦や攻城戦のように、弩を持つ兵士がさほど走り回らなくてもよい状況であったようです。
『三国志』の時代に弩が多用されたのは、水上戦や攻城戦が多かったという事情があったためでもあるのでしょう。
弩もほどなく廃れました。騎馬隊が戦いの主力となるなどの戦法の変化があったためと考えられています。
水上戦をイメージした展示空間の中に展示される弩
『三国志』には、城の攻防戦には特別な機械が導入され、曹操や諸葛亮なども工夫をした話が記録されています。
しかし残念ながら具体的な形状などは記録がありません。
近年の考古学調査で、その一端が見え始めました。
呉が攻めた魏の合肥新城(ごうひしんじょう)の遺跡では、漬け物石ほどの大きさの丸い石が発見されています。
丁寧に加工されているところをみると、専用の投石機で狙いを定めて投げ込んだものと思われます。
石球
石製 三国時代(魏)・3世紀
2004年、安徽省合肥市合肥新城遺跡出土
合肥盧陽董鋪湿地公園管理処蔵
考古学的調査の進展により、三国志の時代の武器も少しずつ確かな姿を現わしつつあります。
日中文化交流協定締結40周年記念
特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
日中文化交流協定締結40周年記念 特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
カテゴリ:研究員のイチオシ、2019年度の特別展
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posted by 谷 豊信(特任研究員) at 2019年07月25日 (木)
三国志のなかでも抜群の知名度を誇る曹操。
そのお墓(曹操高陵 (そうそうこうりょう))がみつかったのは今から10年ほど前のことでした。
特別展「三国志」では、2016年に刊行された発掘報告書をもとに、曹操高陵の墓室を実寸で再現しています。
本展会場に実寸で再現した曹操高陵の内部
この墓をご覧になって、立派な墓と感じる方もいれば、意外と簡素だなと思われる方もおられることでしょう。
私たち研究者も、そうした点に強い関心を抱いています。
なぜなら、西晋時代の陳寿が著した正史『三国志』に、曹操は自身の葬儀を簡素にするようにとの遺言が記されているからなのです。
遺令の内容は次の通りです。
天下はいまだ安定していない状況である。
よって、古制にしたがうこともままならない。
葬儀が終われば皆は早々に喪を解くように、
将兵は持ち場を離れてはならない。
役人は職務を遂行せよ。
遺体を飾る必要はない。
金玉珍宝の類いを墓におさめるな。
これによると、墓室の大小は曹操がいう薄葬とは直接的な結びつきはないのかもしれません。
ただこれまで知られている魏の有力者の墓とくらべると、曹操高陵は抜きんでて大きいというわけではなさそうです。
あらためて遺令をみてみましょう。
遺体を飾るなというくだり、そして金玉珍宝を墓に入れるなという最後の一文。
これらは考古学的に検証ができそうです。
遺体を飾るなというのは、原文では「時服」にせよと言っています。
いうなれば「普段の装いのまま葬れ、特別なあつらえは不要である」と言っているのです。
では、特別にあつらえた死装束とはどのような服だったのでしょうか。
漢時代、王などの貴族が葬られる際は、軟玉の板を銀や銅の糸で綴じ合わせた「玉衣」を着せるならわしでした。
亳州市博物館の展示室でみた玉衣(曹氏一族墓出土)
ところが、曹操高陵の中からはその断片すら検出されませんでした。
後漢時代の王クラスの墓の発掘事例をみますと、盗掘に遭っている場合でも少量の玉衣片はみつかるものです。
その痕跡すら確認されなかった以上、曹操は玉衣に覆われることなく葬られたといえそうです。
次に金玉珍宝とはどのようなものをいうのでしょうか、後漢時代の王クラスの墓にはまばゆいばかりの金粒細工による品々が納められました。
特別展「三国志」では、後漢時代の金製獣文帯金具(きんせいじゅうもんおびかなぐ)を展示しておりますが、こうした文物がまさに当時いわれたところの「金玉珍宝」であったと考えられます。
一級文物 金製獣文帯金具
金製、貴石象嵌 後漢時代・2世紀
2009年、安徽省淮南市寿県寿春鎮古墓出土
寿県博物館蔵
曹操の墓からは、若干の金糸などが出土しているものの、「金玉珍宝」と言えるものは見つかっていません。
ここでひとつ留意しておきたいことがあります。曹操高陵は過去に何度も盗掘に遭っているということです。
金目のものはすでに持ち去られている可能性があるのです。
そうした可能性を完全に排除することはできませんが、現在知り得る情報に基づけば、曹操の遺言は実行にうつされたと判断できます。
それでは、曹操の墓からどのようなものが出土したのでしょうか。
詳しくは会場でご覧いただきたいと思うのですが、曹操高陵からは用途不明のものが多数出土しています。
まるで曹操が研究者の力量を試しているかのようです。
なかでも際立っているのが瑪瑙円盤(めのうえんばん)です。
瑪瑙円盤
瑪瑙製 後漢~三国時代(魏)・3世紀
2008~09年、河南省安陽市曹操高陵出土
河南省文物考古研究院蔵
木星を思わせる美しい縞模様。表面は丁寧に磨き上げ、周囲は面取り加工を施しています。
何かにはめ込んだのか、そのまま使ったのか。使ったとしてその用途は何なのか。
いまだ答えにはたどり着けていません。
開閉器(かいへいき)も謎に満ちています。
開閉器
青銅製、鍍銀 後漢~三国時代(魏)・3世紀
2008~09年、河南省安陽市曹操高陵出土
河南省文物考古研究院蔵
下半の砲弾型の部分が左右に開く仕組みになっているのですが、具体的な用途となると皆目見当もつきません。
こうした謎めいたものに出会ったとき、私たち考古学者はどうするのかというと、とにかく実物をよく観察するのです。
答えに近づくヒントは、インターネットの中でも文献の中でもなく、往々にしてそのモノに込められているからです。
また、よく観察しておくことで、何か別の資料を見たときに思わぬ共通点に気づくこともあるのです。
特別展「三国志」は始まったばかり。
これからも実物をじっくり観察し、なんとか謎の解明につなげたいと思っています。
日中文化交流協定締結40周年記念
特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
日中文化交流協定締結40周年記念 特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
カテゴリ:研究員のイチオシ、考古、2019年度の特別展
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posted by 市元塁(東洋室) at 2019年07月18日 (木)