特別展「はにわ」(2024年10月16日(水)~12月8日(日)、平成館 特別展示室)を担当しております、主任研究員の河野正訓です。
古墳時代が専門で、普段は埴輪など古墳時代の作品(遺物)のお世話係をしています。
今回の特別展「はにわ」では、チーフを務めるとともに、主に群馬県方面を担当しています。
そのため、ご出品いただくための調整や、東京国立博物館や巡回する九州国立博物館へ作品を安全に輸送する事前調査のため、何度も群馬県に通いました。
前々から思っていたのですが、その事前調査で改めて感じたのは、群馬県の埴輪熱がすごいことです!
ほとんどの博物館で埴輪が展示され、かつ埴輪の展示スペースはかなりのウェイトを占めています。
例えば、群馬県立歴史博物館では、常設展示の入口を入ってすぐに、群馬県高崎市の綿貫観音山(わたぬきかんのんやま)古墳出土品が一括して展示されている部屋があります。
群馬県立歴史博物館の展示室内(河野正訓撮影)
実はこの空間にあるものすべて国宝なのです!豪華な展示室です。
ここで一つ、重大発表をします。
このたび、国宝の綿貫観音山古墳出土品一括のうち、6件の作品をご出品いただくことが決定しました!
ほとんど県外にも出品されたことがない作品なので、今回の特別展「はにわ」はとても貴重な機会です。
その中から、「埴輪 挂甲の武人」をご紹介したいと思います。
国宝 埴輪 挂甲の武人
群馬県高崎市 綿貫観音山古墳出土 古墳時代・6世紀 京都・文化庁蔵(群馬県立歴史博物館保管)
(注)特別展「はにわ」出品予定
綿貫観音山古墳の「埴輪 挂甲の武人」は、全身に防具を装着しています。特に注目してほしいのは頭です。
パイナップルのような突起付冑(異形冑)を装着しており、かなり珍しいです。この冑は朝鮮半島で類例が確認されており、綿貫観音山古墳からはよく似た鉄製冑が横穴式石室内から出土しています。そのため、この武人は亡くなった王(被葬者)を表現した埴輪ではないかと考える研究者もいます。
「埴輪 挂甲の武人」といえば、東京国立博物館所蔵の国宝の埴輪 (群馬県太田市飯塚町出土)が有名です。
今回の特別展「はにわ」では、国宝「埴輪 挂甲の武人」とよく似た4体の兄弟埴輪が国内外から集結するまたとない機会となっています。
史上初!「埴輪 挂甲の武人」5体勢揃い!
この綿貫観音山古墳の「埴輪 挂甲の武人」が国宝になったのは令和2(2020)年9月です。この新旧の国宝が、今回の特別展「はにわ」で共演します。貴重な機会をお見逃しなく。
さて、綿貫観音山古墳は群馬県立歴史博物館から歩いて行ける距離にあります。史跡公園となっておりますので、古墳に登り、石室を観察することもできます。
群馬県は古墳大国や古墳王国と呼ばれるほど、たくさんの古墳が造られました。公園として県民に愛され、観光地としても多くの人が訪れます。
また、県内各地の博物館や資料館では古墳時代の展示が充実しています。
群馬県高崎市の綿貫観音山古墳(河野正訓撮影)
群馬県内の古墳をいくつか紹介します。
藤岡市では、近畿地方の影響を直接受けたかのような精巧な5世紀の埴輪が出土した、白石稲荷山(しろいしいなりやま)古墳が有名です。古墳の近くには藤岡歴史館があります。
群馬県藤岡市の白石稲荷山古墳(河野正訓撮影)
高崎市では、日本を代表する古墳の一つ、保渡田八幡塚(ほどたはちまんづか)古墳があります。復元された姿は、古墳時代当時の光景を眼前にみせてくれます。
とりわけ、古墳の堤の上に埴輪群像のレプリカが置かれており、圧巻です。古墳の横には、かみつけの里博物館があります。
群馬県高崎市の保渡田八幡塚古墳(河野正訓撮影)
前橋市でおすすめの古墳は、大室(おおむろ)古墳群です。大室古墳群の中でも前二子(まえふたご)古墳と後二子(うしろふたご)古墳では横穴式石室内を見学できますし、中二子(なかふたご)古墳や小二子(しょうふたご)古墳にはレプリカの埴輪が立っています。古墳群内にある大室はにわ館には、大室古墳群からの出土品のほか、前橋市民によって製作された復元埴輪が数多く展示されています。
なお、粕川歴史民俗資料館でも埴輪を展示しています。
群馬県前橋市の中二子古墳(河野正訓撮影)
伊勢崎市でおすすめの古墳は、赤堀茶臼山(あかぼりちゃうすやま)古墳です。東京帝室博物館に勤務した考古学者・後藤守一(ごとう しゅいち)を中心に発掘がされ、家形埴輪をはじめ数多くの埴輪が見つかっています。
なお、古墳に行くために、細い道を通ります。かろうじて車でも行けるのですが、運転にはお気を付けください。
古墳からは離れていますが、伊勢崎市には相川考古館をはじめ、赤堀歴史民俗資料館でも埴輪を数多く展示しています。
群馬県伊勢崎市の赤堀茶臼山古墳(河野正訓撮影)
最後に、太田市でおすすめの古墳は、東日本最大規模の太田天神山(おおたてんじんやま)古墳と言いたいところですが、あえて塚廻(つかまわり)古墳群第4号古墳を紹介します。
発掘調査の成果から、帆立貝式古墳に埴輪群像のレプリカが置かれており、見応えがあります。塚廻古墳群出土の埴輪は、群馬県立歴史博物館に多く展示されています。
また、太田市の埴輪は、とりわけ新田荘歴史資料館で見学することができます。
群馬県太田市の塚廻古墳群第4号古墳(河野正訓撮影)
このように、群馬県には魅力的な古墳がたくさんあり、出土した埴輪は博物館や資料館で見学することができます。ここで紹介した以外にも見学可能な古墳や、埴輪を展示している博物館・資料館がたくさんあります。さすが古墳王国!
ぜひ群馬県を訪れていただき、日中は古墳や博物館に足を運んで、疲れたら夜は伊香保温泉や水上温泉などの温泉宿に宿泊してみてはいかがでしょうか。
なお、夏場の古墳巡りは熱中症にくれぐれもお気を付けください。
10月16日(水)から始まる特別展「はにわ」では、群馬の古墳から出土した様々な埴輪をはじめ、全国約50か所の所蔵・保管先から個性豊かな埴輪が一堂に会します。
開幕まで残り2か月を切りました。東京国立博物館では約半世紀ぶりとなるはにわ展に、ぜひご注目ください!
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posted by 河野正訓(学芸研究部調査研究課考古室主任研究員) at 2024年08月20日 (火)
早いもので本日(8月14日)から、創建1200年記念 特別展「神護寺―空海と真言密教のはじまり」の後期展示が始まりました!
第2会場入り口
絵画と書跡はおおよそ展示替えを行いました。
後期の見どころをご紹介します。
こちらの神護寺展作品リストとともにご覧ください。
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posted by 古川 攝一 (教育普及室) at 2024年08月14日 (水)
踊る埴輪&見返り美人 修理プロジェクト 「見返り美人図」修理報告2
当館を代表する名品「埴輪 踊る人々」と「見返り美人図」を、皆様からの寄附で未来につなぐ「踊る埴輪&見返り美人 修理プロジェクト」。
いただいたご寄附で修理が進む様子をシリーズでお知らせしています。
昨年度末で「埴輪 踊る人々」の修理が完了し、現在は「見返り美人図」の修理が進められています。
1089ブログ「踊る埴輪&見返り美人 修理プロジェクト『見返り美人図』修理報告1」では、修理前の調査などについてお伝えしましたが、今回はその後進められた実際の修理の様子などをご紹介できればと思います。
まずは、第2回修理監督時の見返り美人図をご覧ください。
修理のために解体され、本紙のみとなっている見返り美人図
この写真に写っているのは、「本紙」と呼ばれる、絵が描かれている作品の本体部分です。
普段、展示室で見ているのは掛け軸の状態なので、こうして絵の部分だけになっていることに驚きます。
まるで掛け軸から、絵の部分だけを切り取ってしまったように見えますが、そうではありません。
一見平面的に見える掛軸ですが、本紙を支えたり保護したり装飾したりするために、紙や裂(きれ、絹の布地)を数層貼り合わせた構造になっています。
見返り美人図は、「絹本(けんぽん)」という書画を制作する際に使う絹の布地に描かれていますが、この絹本を裏紙などと貼り合わせているのは、可逆性のあるでんぷん糊(のり)。水分を与えれば外すことができるので、こうして本紙だけを分離することができるわけです。
…ん?でも、何かが違いますね。
なんだか全体的に色が薄い…?なぜでしょう?
答えは…よ~く見てください。
回転させると、わかりやすいかもしれません。
こちらが上下を通常の向きに合わせた画像。
描かれている女性が逆向きに見返っていますね。
そう。この時点では見返り美人図は裏返しの状態となっていたのでした。
「逆」見返り美人。修理がなければ見ることができない、貴重な姿です。
この状態になるまでに、見返り美人図には以下のような修理作業が行われました。
(1)絵具部分の剥落止め(1回目)、クリーニング
(2)掛軸装の解体
(3)絵具部分の剥落止め(2回目)、養生
(4)古い総裏紙(そううらがみ)の除去
(5)本紙の表打ち
(6)古い増裏紙(ましうらがみ)、古い肌裏紙(はだうらがみ)の除去
それぞれの工程について、簡単に見ていきたいと思います。
(1)絵具部分の剥落止め(1回目)、クリーニング
まず絵の具が剥落する危険がある箇所に、水に溶いた膠(にかわ)などで1回目の剥落止めを行います。
膠は日本画で絵具を定着させるために使われる接着剤。
剥落は経年劣化によって膠の接着力が低下してきていることも原因なので、膠を補うことでこれ以上傷みが進行することがないように処置するわけです。
また、クリーニング、と言っても、もちろん強い洗剤を使うわけにはいきません。
作品を傷つけないように、乾いた筆や刷毛などで表面の汚れを除去したのち、ポリエステルの化繊紙(化学繊維紙)の上から湿らせ、吸い取り紙に汚れを吸着させるという方法を使って、やさしく汚れが取られました。
クリーニングの様子。吸着した汚れがうすく見えています。
(2)掛軸装の解体
掛け軸についている、表装裂(ひょうそうきれ)や上下の棒(八双と軸棒)などを取り外します。
解体の様子
(3)絵具部分の剥落止め(2回目)、養生
本紙の作業に入る前に、再度、絵具部分に2回目の剥落止めと養生を行います。
養生に使われるのは化繊紙。これを「布海苔(ふのり)」と呼ばれる海藻から抽出したのりで接着します。
なぜに海藻? と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、この布海苔、水分を加えると剥がれてくれるという性質があり、養生のように、後から剥がさなければならないものの接着に重宝されているのです。
ちなみに、接着以外にも汚れを洗浄する効果があり、(1)のクリーニングの際にも用いられているそうです。
(もうひとつちなみに、海藻の布海苔は食べられるそうです。)
養生の様子
(4)古い総裏紙(そううらがみ)の除去
冒頭でもご紹介した通り、通常掛け軸には、3~4層の異なる和紙が裏打ちされていますが、見返り美人図の場合は3層の裏打ちがありました。まずは3層の一番外にある裏打ち紙、総裏紙を外します。
本紙を裏返して、裏面から水を塗り、総裏紙を取り外します。
総裏紙除去の様子
(5)本紙の表打ち
再度表に返して、本紙の表面を保護するために一時的な化繊紙を貼ります。この作業を「表打ち」と言います。
表打ちは、直後の工程で行われる増裏紙、肌裏紙の除去を安全に行うためのもの。
肌裏紙まで除去すると、本紙は絹一枚の非常に不安定な状態になるため、あらかじめ表側から保護しておくというわけです。
また、表打ちをすることで本格修理時にしかできない裏側からの調査も安定した状態で行うことができます。
表打ちの様子。表打ちに使われているのもやはり布海苔。
(6)古い増裏紙(ましうらがみ)、古い肌裏紙(はだうらがみ)の除去
最後に、外から2番目の増裏紙、本紙に直接裏打ちされている肌裏紙を除去します。
見返り美人図の裏打ち紙は、経年によって硬くなっており、これが作品全体に折れが発生する原因にもなっていました。
また、ちょうど顔の部分に紙の継ぎ目があったり、のりの劣化によって裏打ち紙から本紙が浮いてしまっており、それらが絵の具部分剥落につながる可能性も指摘されていました。
剥がされた古い裏打ち紙は捨てられるわけではなく、作品が修理されて伝えられてきた歴史の記録として残します。
剥がされた裏打ち紙。灰色のほうが肌裏紙、白いほうが増裏紙です。
ここまでくれば、もう一息。
これから、新しい裏打ちをしてから本紙の折れへの対処を行い、今回の作業を逆回しするように、元の掛け軸へと仕立て直していくことになります。
最後に、もう一度見返り美人図を裏側から見てみましょう。
今回、裏側からの調査で確認されたのが、絹本の裏側からの彩色を施す「裏彩色」という技法。
従前から裏彩色があるのではないか、と言われていたそうですが、
裏側から改めて観察することで、顔や帯の部分に裏彩色があることが正式にわかりました。
文化財はこうした修理の機会がなければ、解体して調べるということはなかなかできません。
そういった意味でも皆様からいただいたご支援のありがたさを改めて感じています。
調査と並行しながらも、着実に進む見返り美人図の修理。
今後も皆様とともに完了までの進捗を見守って参りたいと思います。
次の報告もどうぞお楽しみに。
カテゴリ:保存と修理
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posted by 田村淳朗(総務部) at 2024年08月05日 (月)
九つの区画に整然と分けられ、規則的な仏の配置を見せる金剛界。
国宝 両界曼荼羅(高雄曼荼羅)
【金剛界】後期展示(8月14日~9月8日)
そして、大日如来を中心に密教の仏たちが広がるように配置される胎蔵界です。
国宝 両界曼荼羅(高雄曼荼羅)【胎蔵界】
大きさも違います。これは、金剛界と胎蔵界が別々に成立し、展開してきたためです。
ともにインド発祥ですが、空海の師匠である、唐の都・長安の青龍寺(せいりゅうじ)にいた恵果(けいか)のときに、金剛界と胎蔵界がセットになったと考えられます。
会場内のパネル
唐櫃の蓋裏には朱漆で銘が記され、徳治3年(1308)8月に後宇多天皇によって高雄曼荼羅の修理がなされたのち、寛政5年(1793)、光格天皇と後桜町(ごさくらまち)上皇によって再び修理を行った旨が記されています
高雄曼荼羅図像 鎌倉時代・13世紀 東京国立博物館蔵 場面替えあり
また、現在見えにくくなっている銀泥部分を復元した動画、曼荼羅そのものの解説映像などもあり、曼荼羅の世界に没入することができます。
「映像で解説する高雄曼荼羅」のコーナー
密教の仏に包まれる不思議な感覚、ぜひ会場で味わってみてください!
館内には日傘などのご用意がありますが、無理せず休みながらお越しください。
また、会場内は少し肌寒くなっておりますので羽織るものをご持参いただくと良いかもしれません。
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posted by 古川 攝一 (教育普及室) at 2024年08月02日 (金)
生人形をご存じでしょうか。
「生」を「なま」と読む方も多いのですが、「いきにんぎょう」と呼びます。「活人形」と書かれることもあり、つまり「生きているように見える人形」のことです。
幕末には、見世物興行の1つとして人気を博し、等身大の人形を制作して、いかに生身の人間に見えるかを技の見せどころとしました。
浅草で初めて生人形の見世物興行を開催した松本喜三郎(まつもときさぶろう、1825~1891)や、安本亀八(やすもと かめはち、初代:1826~1900、二代:1857~1899、三代:1868~1946))といった作家が名手として知られていました。眉毛やまつ毛、瞳や歯のリアルさにはびっくりですよね(図1)。
(図1)生人形足利時代将士体立姿(いきにんぎょうあしかがじだいしょうしたいたちすがた)
三代安本亀八作 明治時代・20世紀 日英博覧会事務局寄贈
二代平田郷陽(ひらたごうよう、以下郷陽)の父である初代平田郷陽は、高名な生人形作家・安本亀八に弟子入りしました。生人形作家となった父の後を継ぎ、郷陽も14歳の時から生人形制作に携わりました。
本館14室で開催している特集「人間国宝・平田郷陽の人形―生人形から衣裳人形まで―」(9月1日(日)まで)では、郷陽の創作人形を多数展示しています。
郷陽が制作する人形は、「普段私たちが目にしている伝統的な日本人形とは何かが違う」と思われるでしょう。例えば「薬玉」(図2)。元禄風の風俗を振袖の模様にいたるまで丁寧に仕立てられ、一見すると伝統的な衣裳人形です。しかし、肌の生々しい色合い、手足の先の爪にいたるまでの細部の写実性、目の周りにはまつ毛まで植え付けられていて、衣裳人形でありながら生人形のリアリズムを併せ持っています。
(図2)薬玉(くすだま)
二代平田郷陽作 昭和8年(1933) 平田多惠子氏寄贈
郷陽は子どもと女性の造形にこだわった作家でした。その中でも有名な作品がこの「泣く子」(図3)。木彫彩色とは思えない写実性。注目すべきは、まだ歯が生えていない歯茎や舌の表現、眉間や頬の皺、動きある手足の表現です。展示室で実際に見ていただくことをお勧めしたい、超絶技巧です。
(図3)泣く子(なくこ)
二代平田郷陽作 昭和11年(1936) 平田多惠子氏寄贈
「これまで玩具や年中行事の飾り物として扱われてきた人形を、芸術として高めたい」という思いが郷陽にはありました。リアリズムはその1つの手法だったのでしょう。
しかし、戦後になると、郷陽の造形に変化があらわれました。これまでの写実性から離れ、人体に量感を持たせ大胆にデフォルメした木彫に、手足を彩色で、胴部分を木目込み(きめこみ、これも伝統的な日本人形の手法です)にして、現代的な造形を求めるようになりました。この時代には特に女性像を得意とし、母性や女性の心情などを見事に表現しました。
かつては一人の女優の生人形を制作するために、目の前でその女優の顔のパーツを採寸したというエピソードがあるほどに、写実性にこだわりを持ってきた郷陽。しかし、晩年の郷陽の作品には、真正の女性の姿はリアリズムではなく、そのしぐさやたたずまいにあるということを見ることができます。「抱擁」(図4)で母親が赤子に唇を寄せる姿、手札を眺めつつ思案する「おんな」(図5)の姿勢など、1つ1つの造形には、女性の心情にまでイメージが膨らみます。
特集「人間国宝・平田郷陽の人形―生人形から衣裳人形まで―」は、ご遺族のご意向により、当館に一括で寄贈を受けたことで実現しました。小さな展示室ですが、郷陽の代表作の数々をご覧いただける貴重な機会です。
ぜひ展示室で、郷陽の技が生み出す美をご覧ください。
特集「人間国宝・平田郷陽の人形―生人形から衣裳人形まで―」の展示風景
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posted by 小山 弓弦葉(工芸室室長) at 2024年07月23日 (火)