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43年ぶりの再会「婦人相学十躰 ポッピンを吹く娘」

特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」は5月20日(火)より後期展示がはじまっています。

前期展示から大幅な展示替えを行ない、新たな装いで皆さまをお迎えしています。
 
さて、ここでは後期展示の目玉作品のひとつをご紹介します。
特別出品「婦人相学十躰 ポッピンを吹く娘」です。
 
「婦人相学十躰 ポッピンを吹く娘」 喜多川歌麿筆 寛政4~5年(1792~93)頃
 
美人画の名手、喜多川歌麿の代表作として、教科書や切手で目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。
ポッピンというビードロ(ガラス)細工のおもちゃで遊ぶ若い町娘が、ふいに声をかけられたのか、勢いよく身体を振り向けた瞬間が描かれています。
版元・蔦屋重三郎のプロデュースにより寛政4~5年(1792~93)頃に制作され、歌麿が一躍人気絵師となるきっかけともなった重要な作品です。
 
実はこの作品、当初の展示予定には入っていませんでした。
現在の所蔵者のご厚意により情報提供いただき、急遽、後期展示から特別出品できる運びとなったのです。
 
展覧会を準備していると、思いがけないところから作品や資料の情報が寄せられ、研究が進むことがある…などと言われることがありますが、今回はまさにそれを体感した出来事でした。
 
では、この作品の注目ポイントを3つご紹介しましょう。
 
(1)タイトルに注目!世界的にも稀少な一枚
 
「あれ、この作品、前期にも展示されていたのでは?」とお気づきの方もいらっしゃるかもしれません。
たしかに前期にも「ポッピンを吹く娘」が展示されていましたが、それはこちらの作品です。
 
 
「婦女人相十品 ポッピンを吹く娘」 喜多川歌麿筆 寛政4~5年(1792~93)頃 東京国立博物館蔵
(注)現在は展示されておりません 
 
右上のタイトルにご注目いただくと、こちらには「婦女人相十品」とあります。
 
実は、このシリーズには不思議な出版の経緯があり、タイトルの意味からして本来は10人の女性の姿を描いた10図揃を目指していたと考えられています。
しかし、「婦人相学十躰」という名称で「浮気之相」「面白キ相」「団扇を持つ娘」「指折り数える女」「ポッピンを吹く娘」の5図が出版された段階で、何らかの事情により、シリーズ名が「婦女人相十品」へと変更されたとみなされています。
 
 
「婦人相学十躰 面白キ相」 喜多川歌麿筆 寛政4~5年(1792~93)頃 東京国立博物館蔵
 
そして、「婦女人相十品」として4図(「ポッピンを吹く娘」「文読む女」「煙草の煙を吹く女」「日傘をさす娘」)が刊行された時点で制作が中断されたようです。
 
つまり、「ポッピンを吹く娘」は、両方のシリーズ名で出版されたことが確認されている非常に珍しい作品なのです。
 
浮世絵は版画のため、制作当時には何百枚、何千枚と摺られたものもありますが、現代にまで残っているのはごく一部です。
なかでも、「婦人相学十躰」のタイトルをもつ「ポッピンを吹く娘」は、世界的にもきわめて稀で、今回出品されたものが確認されるまでは、ホノルル美術館が所蔵する1点のみが知られていました。
一方、「婦女人相十品」は、東京国立博物館やメトロポリタン美術館などに所蔵されていますが、それでも確認されているのは数点程度に過ぎません。
 
つまり本展は、前期で「婦女人相十品」、後期で「婦人相学十躰」の「ポッピンを吹く娘」がご覧いただける、またとない貴重な機会となりました。
 
(2)色彩の美しさに注目
 
浮世絵版画に使われている色材は光にとても弱く、現在に伝わる過程でどうしても退色は免れません。
しかし本作品は、当時の色彩がしっかりと残っている点が見どころです。
とくに、女性の着物や髷に使われている紫色などは非常に美しく、鮮やかに残っています。
おそらく代々、大切に保管され、日光などに当たらないよう丁寧に扱われてきたのでしょう。
200年以上前の制作当時、蔦重と歌麿が力を合わせて作り上げた当時の色彩を、今に伝えてくれる一枚です。
 
(3)約43年ぶりに確認された作品
 
作品の裏面にある印から、本作品がエルンスト・ル・ヴェールの旧蔵品であることがわかりました。
エルンスト・ル・ヴェールは、1895年にパリのセーヌ通りに画廊を開いた人物で、当時ヨーロッパで広がったジャポニスムの影響のもと、浮世絵を愛好していました。
明治時代には何度か日本を訪れたとされ、数百枚にのぼる浮世絵を収集したと伝えられています。
今回、本作が再び確認されたのは、1981年に展示されて以来、およそ43年ぶりのことです。
 
どうぞこの貴重な機会に、「ポッピンを吹く娘」の魅力をじっくりとお楽しみください。
特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」は2025年6月15日(日)まで開催しております。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ絵画「蔦屋重三郎」

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posted by 村瀬 可奈(日本絵画) at 2025年05月29日 (木)

 

特別展「蔦屋重三郎」10万人達成!

平成館特別展示室で開催中の、特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」(6月15日(日)まで)は、来場者10万人を達成しました。

これを記念し、東京都からお越しの須貝さんご夫婦に、当館館長藤原誠より記念品と図録を贈呈いたしました。

 

記念品贈呈の様子。須貝さんご夫妻(左)と藤原館長(右)

 

お二人とも大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)を毎週ご覧になっていて、上野公園のポスターを見て本展覧会を知り、ご来館いただいたとのことです。

また、特別展をきっかけに初めて東博にお越しくださったとのことで、あわせて東博コレクション展も楽しんでいただけたようです。

江戸の街の様相とともに、蔦重こと蔦屋重三郎の出版活動を約250作品を通して紹介する本展。今週からは後期展示もはじまりました。
後期展示では、蔦重がプロデュースした喜多川歌麿作品の中でも、大変貴重な初期のシリーズ作品「婦人相学十躰 ポッピンを吹く娘」が特別公開されています。
この機会をどうぞお見逃しなく!

 

カテゴリ:news絵画「蔦屋重三郎」

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posted by 田中 未来(広報室) at 2025年05月23日 (金)

 

1200年前から変わらない空気感、冬の大覚寺へ

 開創1150年記念 特別展「旧嵯峨御所 大覚寺―百花繚乱 御所ゆかりの絵画―」(~3月16日(日))の閉幕まで、残りわずかとなりました。

 
すでに展覧会をご覧いただいた方の中には、本展をきっかけに「大覚寺を訪れてみたい」と思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。
そこで今回は、大覚寺についてご紹介します。
 
京都府の北西、右京区嵯峨にある大覚寺は、平安時代のはじめに、嵯峨天皇が離宮・嵯峨院をつくったことにはじまります。
その後、嵯峨天皇の皇女・正子内親王(まさこないしんのう)が父や夫の淳和天皇(じゅんなてんのう)を供養するためお寺にしたいと願い、大覚寺が開創されました。
 
 
渡月橋は嵯峨天皇の行幸の際に架けられたという説も
 
JR京都駅から嵯峨嵐山駅まで、嵯峨野線に乗車して約16分。
年間を通して観光客でにぎわう嵐山エリアですが、大覚寺へは駅の北口から、閑静な住宅街を通って向かいます。
 
 
 
 
 
 
駅からゆっくり歩いて20分ほどで表門に到着。この日は時折雪が降り、しんとした静けさを肌で感じつつ、参拝口へ。
 
 
表門
 
大覚寺は、歴代天皇や皇族の方が門跡(住職)を務められたことから、門跡寺院として高い格式を誇ります。
 
 
いけばな発祥の地であり、嵯峨御流の総司所(家元)としても知られています。
 
また、大覚寺の周辺環境は見渡す限り電柱などの遮蔽物がなく、昔ながらの景色が今も変わらず楽しめることから、時代劇をはじめドラマや映画のロケ地としても親しまれてきました。
 
 
式台玄関と臥龍(がりょう)の松
 
それでは、さっそく境内へ入っていきます。
大覚寺の特徴として、建物のほとんどが移築されてきたものであることが挙げられます。
 
狩野山楽による襖絵「牡丹図」や「紅白梅図」のある宸殿(しんでん)は、江戸時代に後水尾天皇と結婚した和子(東福門院)の女御御所が移築されたものと伝わります。
 
 
宸殿(重要文化財)の外観(東側から)
 
 
宸殿「牡丹の間」(襖絵は復元模写)
 
大覚寺の建物に現在はめられている襖絵は、昭和中期に描かれた復元模写です。
 
今回の特別展では、大覚寺が霊宝館に保管する240面の障壁画(オリジナル)から、14か年計画で進んでいる修理作業のうち、修理を終えたものを中心に、前後期併せて123面が出品されています。
 
 
第4章の展示風景
 
障壁画をパノラマティックに展覧する本展の趣と異なり、大覚寺では、襖絵が当時の生活のなかでどのように使用されていたかを、間近に体感することができます。
 
 
宸殿「紅梅の間」(襖絵は復元模写)
 
 
蔀戸(しとみど:戸板を上下に開け閉めする建具)の蝉飾りは職人による手作りで、一匹一匹が異なる造形をしています。
 
宸殿の北西に位置する正寝殿も、重要文化財に指定されている建物です。
こちらは安土桃山時代の遺構と考えられており、本展で再現展示をしている「御冠の間」も正寝殿にあります。
大覚寺の中興の祖・後宇多法皇が院政を敷き、南北朝講和の舞台になったと伝えられます。
 
 
正寝殿「御冠の間」(襖絵は復元模写)
(特別な許可を得て撮影しています。(注)現在当館で展示中のため不完全な部分があります)
 
 
正寝殿「御冠の間」の再現展示
 
本展でもとりわけ愛らしさが際立つ「野兎図」は、正寝殿の腰障子に描かれています。
 
 
正寝殿「狭屋(さや)」に描かれた兎(野兎図は復元模写)
(特別な許可を得て撮影しています)
 
なお、今夏には通常非公開である正寝殿の特別公開が行われます(6月21日(土)~8月3日(日)まで)。
詳しくは大覚寺のウェブサイトをご確認ください。
 
宸殿と心経前殿を結ぶ回廊は「村雨の廊下」と名付けられ、縦の木柱を雨に、折れ曲がった廊下を雷に見立てているとのこと。
 
 
防犯を兼ねて天井は低く、床は鴬張りになっています。
 
大正14年に建てられた心経殿には、嵯峨天皇をはじめ、天皇直筆の書(宸翰:しんかん)の般若心経が奉安されています。
ちなみに、心経殿を建てる際に資金集めをしたのが実業家の渋沢栄一。ここにも歴史の一端が垣間見えます。
 
 
勅封心経殿
 
 
心経前殿(御影堂)

心経殿を拝するための心経前殿は、大正天皇即位に際し建てられた饗宴殿を移築したもの。
移築の際に、大覚寺の本堂を移動させたため、もともと本堂のあった場所が石舞台となっています。
 
 
石舞台と勅使門(奥)
 
心経前殿を過ぎ奥へ進むと、明治の廃仏毀釈の際に京都東山から移築された、安井門跡蓮華光院の御影堂(安井堂)があります。
本展の見どころのひとつ、重要文化財の刀剣「薄緑<膝丸>」は、安井堂が大覚寺に移築された際に共に納められたと伝わっています。
 
 
重要文化財 太刀 銘 □忠(名物 薄緑〈膝丸〉)(たち めい  ただ(めいぶつ うすみどり〈ひざまる〉))
鎌倉時代・13世紀 京都・大覚寺蔵 通期展示
 
安井堂に隣接するのは、現在の大覚寺の本堂にあたる五大堂。本堂には、大覚寺の本尊である不動明王を中心とした五大明王が祀られています。
大覚寺には平安時代後期、室町~江戸時代、近代の3組の五大明王があり、そのうちの2組の五大明王が、本展に出品されています。
 
 
 
 
五大堂では写経体験も。己を見つめなおす時間を設けるのもおすすめです。
 
明円作の重要文化財「五大明王像」は普段は厨子に入っているため、ガラスケース越しにじっくりと見られる本展の貴重な機会をお見逃しなく。
 
 
重要文化財 五大明王像のうち不動明王
明円作 平安時代・安元3 年(1177) 京都・大覚寺蔵 通期展示
 
五大堂から眺める大沢池は、1200年前から変わらない風景が心を打ちます。
周囲約1キロメートルの日本最古の人工池で、日本三大名月鑑賞地としても親しまれています。
 
 
五大堂から大沢池をのぞむ
 
池の周りは散策コースとして、15分ほどで一周できます。
鴨や鷺(さぎ)、鵜(う)や、カイツブリなど多くの野鳥をはじめ、梅林や竹林もあり、春は桜、秋は紅葉と、四季折々でさまざまな風景が楽しめます。
 
 
令和6年2月には開創1150年記念事業の一環として、新たに名古曽橋が開通しました。
 
歴史の厚みが感じられる独特の空気感は、現地に行ってこそ得られる特別な体験です。
今回ご紹介したのは一部ですが、大覚寺の静寂さや宮廷文化の華やかな雰囲気が伝われば幸いです。
 
 
 
本展は大覚寺の貴重な寺宝の中から、障壁画の原品や、貴重な密教美術の名品を一挙に見られるまたとない機会です。会期は3月16日(日)まで。
 
ぜひ、特別展「大覚寺」と京都の大覚寺、どちらにも足をお運びください!
 
 

カテゴリ:彫刻絵画刀剣「大覚寺」

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posted by 田中 未来(広報室) at 2025年03月10日 (月)

 

特集「没後100年・黒田清輝と近代絵画の冒険者たち」

2024年は、画家の黒田清輝が没してから100年という節目の年にあたります。そこで、黒田清輝の代表作で、通常は黒田記念館特別室で年3回の公開以外は展示されることのない《智・感・情》を中心に、東京国立博物館の誇る近代絵画の名品との特集展示「没後100年・黒田清輝と近代絵画の冒険者たち」(2024年10月20日(日)まで)を組むこととなりました。

《智・感・情》の展示が決まったのは、鹿児島市立美術館で開催された大回顧展「鹿児島市立美術館開館70周年記念 没後100年 黒田清輝とその時代」展など、今年開催された黒田関連の展覧会への貸出がなく展示できる状態の代表作であったから、という裏話的な事情もありますが、現存する完成作の中では最大級であり、後世への影響も大きかったこの作品を展示の核とすることで、「近代絵画の冒険者たち」という全体のテーマも決まっていきました。


展示中の《智・感・情》 黒田清輝筆 明治32(1899)


本展では、裸体の人物を描くという日本にはなかった手法を持ち込んだ《智・感・情》を糸口として、明治以降、西洋絵画に学んだ画家たちの試みを取り上げました。
東京国立博物館の所蔵する近代の絵画作品は、日本に美術館がなかった時代に収蔵されたものが多数を占めます。これらは、全国津々浦々に美術館があり、充実したコレクションを見ることのできる現在からは想像もつかないほど「美術」という存在が不確かなものであった頃、画家たちがどのように道を切り開いてきたかを伝えてくれます。

《智・感・情》は、人間の裸体を写実的に描き、何らかの理念を象徴させるというそれまでの日本にはない内容を持つ絵画でした。
当時の多くの洋画家たちがまずは日本で絵画の基礎を学んだのに対し、黒田が絵画の勉強を本格的に始めたのは(幼少期の短期間の経験は別として)フランスに留学してからのことです。裸体の人体デッサンを基礎とするアカデミックな教育を受けたことが、黒田のその後のスタイルを決めました。
人体デッサンは黒田が教鞭を執った東京美術学校(現在の東京藝術大学)の西洋画科でもカリキュラムに組み込まれ、画家育成の基礎と位置付けられていきます。


裸体習作 黒田清輝筆 明治21(1888)


1909年に開催された第3回文部省美術展覧会(文展)に発表された吉田博《精華》は、黒田のライバルと目された吉田の描いた数少ない裸体画の大作です。白百合を持ち、ライオンたちに何事かを告げるかのように指で示す少女は、「美の威厳」を表しているとも解釈されています。
裸体画への批判にしばしばみられるのが、人物が裸体である必然性がなく場面として不自然であるというもので、例えば東京勧業博覧会で一等賞を受賞した中村不折《建国剏業(けんこくそうぎょう)》には、鎧を着け忘れたのかといった皮肉が寄せられました。洞穴で猛獣と向かい合う人物という設定にはキリスト教絵画からの影響が指摘されていますが、裸体の聖性を高める演出になっていると言えそうです。


精華 吉田博筆 明治42(1909)


中村不折《建国剏業》明治40(1907)年(焼失。展示していません)


展示会場の本館特別2室のサインにも選ばれたラグーザ玉《エロスとサイケ》は、日本ではなくイタリアで描かれました。玉は旧姓を清原といい、日本画を学んでいましたが、1876年に創立された工部美術学校の教諭として来日したヴィンチェンツォ・ラグーザに教わり、西洋絵画に転向しました。
ラグーザは故郷のパレルモで美術工芸学校を創立する計画を持っており、玉とその姉夫妻を教師として雇うという契約を結び、共に帰国しました。玉は水彩画と蒔絵の教師となり、さらにパレルモ大学美術専門学校で油彩画を含む美術の専門教育を受けました。姉夫妻が日本に帰った後に玉はラグーザと結婚し、「エレオノーラ」という洗礼名を受けます。《エロスとサイケ》には「O. E. Chiyovara」(お玉、エレオノーラ、清原)というサインがあり、玉の油彩画が目に見えて表現力豊かなものとなっていった1910年代に描かれたものと考えられています。


エロスとサイケ ラグーザ玉筆 明治~大正時代、20世紀


今回の特集展示では、「歴史資料」として収蔵されているために近代絵画の展示室では展示されたことのない織田東禹《コロポックルの村》も出品しています。
織田は古代の貝塚発掘に興味を持ち、人類学者の坪井正五郎などに取材して水彩画としてはかなりの大作となる本作を完成させました。1907年の東京勧業博覧会の美術部門に応募された本作は、あまりに前例のない作品であったため美術部門での審査を拒否され、結局石器時代の日本を描いた教育的資料として展示されました。その後、好古家としても知られた華族の二条基弘、徳川頼貞の手を経て東京国立博物館に収蔵されています。


コロポックルの村 織田東禹筆 明治40(1907)


黒田清輝の作品を多数所蔵している黒田記念館は、もとは彼が美術の奨励事業に充てるために遺した遺産によって1930年に設立された「美術研究所」でした。黒田の画業を顕彰するだけではなく、美術の研究を目的とした機関としての研究所の方向性を決めたのは美術史学者の矢代幸雄です。
美術作品の良質な図版が美術の研究に不可欠だと考えた矢代は、ヨーロッパで学んだ経験をもとに国内外の美術作品の写真を集め、それらは東京文化財研究所に現在も引き継がれています。本展に出品した黒田の日記や矢代の主著『“Sandro Botticelli”』といった東京文化財研究所の所蔵資料は、美術を社会に根付かせるという黒田の理想が受け継がれていることを示すものでもあるのです。


“Sandro Botticelli”  矢代幸雄著 大正14年(1925) 東京文化財研究所蔵



本館特別1室に展示される《智・感・情》

特集「没後100年・黒田清輝と近代絵画の冒険者たち」は、本館特別1室・特別2室にて2024年10月20日(日)まで開催中です。 ぜひご覧ください。

 

 

カテゴリ:特集・特別公開絵画

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posted by 吉田暁子 (東京文化財研究所) at 2024年09月19日 (木)

 

高雄曼荼羅を写す

前回のブログ「密教の仏たちに包まれる―高雄曼荼羅の世界―」でご紹介しましたように、現存最古の両界曼荼羅である「高雄曼荼羅」は、平安時代にはすでに、空海が直接筆を執った特別な曼荼羅と認識されていました。


国宝 両界曼荼羅(高雄曼荼羅)(りょうかいまんだら、たかおまんだら)の展示風景
平安時代・9世紀 京都・神護寺蔵 
【金剛界】後期展示(8月14日~9月8日)

曼荼羅に描かれた仏たちは、密教の仏のお手本、規範であり、「白描(はくびょう)」という、墨の輪郭線を駆使した手法でその姿形が写し取られました。会場では平安時代後半から鎌倉時代の作品を展示しています。


重要文化財 高雄曼荼羅図像(たかおまんだらずぞう) 金剛界 巻上、巻中(部分)
平安時代・12世紀 奈良・長谷寺蔵 金剛界は
後期展示(8月14日~9月8日)

密教の仏は、たくさんの顔や手があったり、持ち物も複雑です。仏の姿ですから間違いは許されません。会場に並ぶ作品を見ると、一発勝負の緊張感を味わうことができます。

重要文化財 三十七尊羯磨形図像(さんじゅうしちそんかつまぎょうずぞう)(部分)

鎌倉時代・13世紀 京都・醍醐寺蔵 後期展示(8月14日~9月8日)

 
高雄曼荼羅はこれまで、鎌倉時代、江戸時代、そして現代(平成28年から6年かけてなされました)と、三度の修理が行われました。

江戸時代の修理の後、修理を企画した光格天皇と後桜町(ごさくらまち)上皇によって、原寸大の模本が制作されました。


両界曼荼羅(りょうかいまんだら)
右から【胎蔵界】江戸時代・寛政7年(1795)【金剛界】江戸時代・寛政6年(1794)
 京都・神護寺蔵 通期展示

「高雄曼荼羅」は、紫色に金銀が生える美しい作品です。今回行われた修理の際に分析が行われ、「紫根(しこん)」という非常に高価で希少な染料が使われていたことが明らかとなりました。「紫根」は紫色の染料ですので、高雄曼荼羅も描かれた当初は、模本に見られるような色味をしていたと考えられます。
 
江戸時代後半にかけて、原寸大だけでなく、数多くの模本が制作されました。空海ゆかりの曼荼羅の規範として、変わらず尊ばれていたことがうかがえます。
 
なかでも「両界曼荼羅」(京都・知恩院蔵)は、江戸時代後半の京都で活躍した仏画師、高橋逸斎(たかはしいっさい)が描いた作品です。


両界曼荼羅(りょうかいまんだら)右から胎蔵界、金剛界
江戸時代・文政11年(1828)
 京都・知恩院蔵 通期展示
 
本作品の魅力はなんといっても超絶技巧というべきその描写です。4メートルを超える大きさの高雄曼荼羅を1.8メートルの大きさに圧縮しているので、描写密度が半端ないのです。
 

両界曼荼羅 胎蔵界の部分
 
描線も美しく、高橋逸斎の持つ技術の高さが感じられます。

表装部分も描いています!


両界曼荼羅の表装部分
 
このほか会場には、高雄曼荼羅の仏を版木にした作例も展示しています。


高雄曼荼羅版木(たかおまんだらはんぎ)
明治3年(1870)
 京都・仁和寺蔵 通期展示

これは、当館に所蔵される京都・高山寺伝来の白描図像を下絵に版に起こされました。会場で久々の再開が果たされたのです!
 
高雄曼荼羅図像(たかおまんだらずぞう)
鎌倉時代・13世紀 
東京国立博物館蔵 通期展示
 
このように、平安時代後半から高雄曼荼羅の仏たちは様々に写されました。そこには、正しい仏を広めたいという高雄曼荼羅への人々の熱い想いを感じることができます。

高雄曼荼羅をご覧になった後は、ぜひこうした「写し」の作例もじっくりご覧ください。
「高雄曼荼羅」では見えにくい、気づきにくいモチーフを発見できるかもしれません。


重要文化財 高雄曼荼羅図像の賢劫千仏(げんごうせんぶつ)部分
 

同じく重要文化財 高雄曼荼羅図像 前期展示の胎蔵界ではカニが描かれていました※現在は展示されておりません
 
創建1200年記念 特別展「神護寺空海と真言密教のはじまり」の会期は残りわずかです(9月8日(日)まで)。

高雄曼荼羅や本尊「薬師如来立像」は、空海の時代から伝えられてきた神護寺の至宝です。今に伝えられたことの奇跡と軌跡、是非お見逃しなく!



 
 

 

カテゴリ:news絵画「神護寺」

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posted by 古川 攝一 (教育普及室) at 2024年08月30日 (金)

 

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