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1089ブログ

東博の仲間になった作品たち――令和5年度新収品

東京国立博物館(以下、東博)の収蔵品は、12万件に及びます。
明治5年(1872)の創立以来、150年の歴史のなかで少しずつ収集し、収蔵品を増やしてきました。
そもそも、博物館の役割として、資料の収集、保管、展示、調査研究が挙げられますが、資料なくしては展示も成り立たず、「収集」はその根幹に関わる重要な業務といえます。

といっても、どうやって収集するのでしょうか。
もっとも基本的な方法は、「寄贈」と「購入」です。
志のある所蔵者からご寄贈いただいたり、市場にある作品を購入したりすることで、基礎体力ともいえる収蔵品を増やす努力を続けています。

足しげく通っていただいているお客様のなかには、「この作品、前はなかったな」と気づかれる方がいらっしゃるかもしれません。
東博の収蔵品は、残念ながら日本・東洋の豊かな造形文化を伝えるには完璧ではありません。
少しずつ作品の仲間を増やしていくことで、より魅力的な展示ができるようになっていくのです。

さて、こうして増えた仲間たちは、毎年1年分の寄贈・購入作品のなかから選りすぐり、翌年度に新収品展としてみなさまにお披露目の場を設けております。
令和5年度分として現在、平成館企画展示室で特集「令和5年度新収品」を開催し、計22件の新収品をご覧いただけます(2024年11月10日(日)まで)。
本ブログではその一部をご紹介しましょう。


展示室入口



加彩官人 中国 北魏時代・6世紀 香取敬三氏・香取亜紀子氏寄贈(TG-3118)

会場入口でお出迎えするのは、中国・北魏時代(6世紀)の俑「加彩官人」です。
俑とは、亡くなった方とともにお墓に埋葬される人形で、これは焼き物に彩色を施しています。
冠を被った人物を表わし、すらりとした立ち姿が印象的。
高さが60センチに及ぶ、この時期の俑としては破格の大きさを誇る点でも大変貴重です。



源氏物語図屏風(若菜上) 伝土佐光則筆 江戸時代・17世紀(A-12490)

続いて、「源氏物語図屏風(若菜上)」が右手の書画を展示したケースに彩を添えます。
『源氏物語』はさまざまな名場面が屏風や絵巻といった絵画作品に表わされましたが、これは第34帖「若菜上」のなかで、貴公子の柏木が女三宮と出会う蹴鞠の様子を描きます。
中央で蹴鞠をする4人の人物のうち、後ろを振り返るのが柏木。
猫が御簾から飛び出したために、ちらっと姿が見えているのが女三宮で、バッチリ目が合ってますね。
江戸時代前期(17世紀)のやまと絵師土佐光則の作と伝えられます。



重要文化財 太刀 長船則光 室町時代・長禄3年(1459)(F-20269)

左手のケースは、重要文化財に指定される「太刀」から展示が始まります。
こちらは、通常は柄に覆われて見えない茎(なかご)という部分に銘文が記され、美作国鷹取庄黒坂(現岡山県勝田郡勝央町黒坂)の領主とみられる鷹取泰佐(たかとりたいすけ)が、長禄3年(1459)に、名刀の製作地として知られる備前長船の刀工則光(のりみつ)を招いて製作させたことがわかります。
東博で刀剣の魅力を伝えるうえで、欠かせない仲間になることでしょう。


 
振袖 黒金通し縮緬地流水に百花模様 昭和時代・20世紀 小塚四郎氏・和子氏寄贈(I-4606)

こちらのケースでひときわ目を惹くのは、友禅染の振袖です。
全面に金の箔糸を織入れた豪華な生地に、流水を背景として梅や木蓮、藤、牡丹といった華やかな花々をあしらいます。
ラメ箔糸なども駆使した、近代の着物の名品として数えられるでしょう。


特別展「きもの KIMONO」図録表紙


担当者から教えてもらって、「あ!」と驚いたのですが、じつは2020年の特別展「きもの KIMONO」の図録表紙にも採用された作品でもあります。
当時、わたしも展示室で大胆なデザインに圧倒されましたが、ご縁があり、その後東博の仲間になったことをとても嬉しく思います。


これに限らず、新収品はさまざまなご縁があってこの場にあります。
今後、それぞれのジャンルの展示室で活躍することと思いますが、同期生と一緒にひとつの展示室でご覧いただけるのはこれが最初で最後になるでしょう。
この貴重な機会に、ぜひ新しい仲間たちをご覧いただければ幸いです。

 
特集「令和5年度新収品」展示室風景

 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 西木政統 (列品管理課) at 2024年10月21日 (月)

 

もうひとつの図譜の魅力―特集「江戸時代の図譜文化―堀田正敦編『禽譜』とその魅力」番外編

本館15室で10月上旬まで開催していた特集「江戸時代の図譜文化―堀田正敦編『禽譜』とその魅力」(2024年10月6日(日)まで)を担当した研究員の長倉です。
本特集では、江戸時代初期における解説文中心の「譜」から、徐々に図が加わる「図譜」へと変遷していく歴史的過程と、図譜制作者が本草学者だけでなく、大名、絵師、医師などに広がっていく様子を魅力として紹介していました。
このブログでは、私自身が感じている、もう一つの魅力を紹介したいと思います。


特集「江戸時代の図譜文化―堀田正敦編『禽譜』とその魅力」の展示風景

図譜の説明文をよく読んでみると、説明文を書いている人物は、実際に対象をみているのではなく図をもとに解説していることに気づきます。

(図1)禽譜 水禽1(きんぷ すいきん)(部分)
堀田正敦編 江戸時代・18~19世紀写
図1の解説文
解説には、「未た親く見ず。松山侯の写真を謄写し後寛政五年阿魯斉主人齎来る所の図中にこの鳥あり。(後略)」とあります。

 


(図2)禽譜 水禽1(部分)
左側の解説には「仙台侯の蔵図中になり。其図を見るに常のカモより稍大。(後略)」とあります。


さらに他の図の書き込みをみると、いくつかの図を照会、比較しながら解説していることもうかがえます。


(図3)禽譜 水禽1(部分)
左側の解説には「これもサクガモ一種と見ゆ。黄水鴨の名は毛色を以名をつけしものにや」とあります。



(図4)禽譜 水禽1(部分)
こちらの解説文にも「これも薩州侯の蔵図を伝写せしもの也。(後略)」とあります。


また、解説文を読んでいると、同じ筆跡が同一の図譜の中のあちこちにあることに気づきます。

(図5)禽譜 水禽1(部分)
図5の解説文拡大図

 

(図6)禽譜 水禽1(部分)
図6の解説文拡大図

 

(図7)禽譜 水禽1(部分)
図7の解説文拡大図

 

これらはわずかな事例ながら、図譜を著した人物の考えや、図譜の編纂の過程を示すものと考えられます。
図7の文章の終わりに「栗瑞見」と名前が記載されているように、この3例は幕府奥医師であった栗本丹洲(1756~1834)による解説です。丹洲は独特の文字ゆえ、容易に気付きます。ちなみに、丹洲は多くの図譜を残していることから、他の図譜でもこの文字を追いかけることができます。

(図8)栗氏図森(りっしずしん)(部分)
栗本丹洲著、狩野惟信他画 江戸時代・18~19世紀

(図9)栗氏図森(りっしずしん)(部分)
栗本丹洲著、狩野惟信他画 江戸時代・18~19世紀

(図10)鴆説(ちんせつ)
栗本丹洲著、増島蘭園跋 江戸時代・文政2年(1819)序

図譜に書き込まれた文章は、比較的読みやすい文字で書かれています。今後も図譜をご紹介していきます。図だけでなく解説文にも注目していただき、皆さまにとっての「魅力」を発見していただければと思います。

カテゴリ:書跡特集・特別公開

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posted by 長倉絵梨子(書跡・歴史担当研究員) at 2024年10月17日 (木)

 

能面を写すということ、変えるということ

本館14室では特集「能面に見る写しの文化」(10月20日(日)まで)を開催しています。


本館14室の様子

作り手の学びや、普段なかなか見ることができない秘仏の霊験あらたかな姿を写し引き継ぐための手段として、美術工芸の世界ではお手本を真似てコピーを作る「写し」が行われてきました。
「写し」は能面でも行われ、名物面とされた古面の「写し」が、特に江戸時代以降多く作られました。 
能面では鑿跡(のみあと)や傷、作者を示す焼印なども写すことが多いことが知られています。
ただし、能面の調査を重ねていくと、「写し」のなかにも様々なバリエーションがあることがわかってきました。特にわかりやすいのが、精度の違いです。

では、「写し」の精度に注目して、こちらのふたつの面を見てみましょう。

 

同じ名物面をもとにした、「写し」同士を見比べる

(図1)能面 大悪尉 「丹後州/愛若大夫廿三枚之内」刻銘(朱入り)
安土桃山~江戸時代・16~17世紀 大聖寺藩前田家伝来 文化庁蔵
(図2)能面 大悪尉 「福来作」銘 江戸時代・17~18世紀 上杉家伝来

 

ふたつとも大悪尉(おおあくじょう)という面で、荒ぶる神の役などに使われます。
じつはこの2面はともに、宝生家(ほうしょうけ)に伝わる名物面である大悪尉の「写し」です。
どちらも宝生家の能面をもとにした「写し」なのに、この2面は似ていません。


図1と図2を比較すると、図1が宝生家の能面により近く、本面の特徴をよくとらえています。
頬の肉付きの柔らかさや、顔の皺(しわ)の表現なども感じられるのではないでしょうか。
図1の面の面裏には「丹後州/愛若大夫廿三枚之内」と書かれていて、この面を細川家お抱えの猿楽師(さるがくしゃ)であった愛若大夫(あいわかだゆう)がかつて所持していたことがわかります。
大名家であった細川家は、この「写し」のもととなった名物面を所蔵する宝生家と関係が深かったためか、本面の実物を見る機会に恵まれたか、宝生家の名物面に関する情報を多く持っていたとも考えられます。
よって、こちらは比較的精度の高い「写し」といえます。
対して図2の面は、やはり大名であった上杉家が収集したものです。
しかし、当時の上杉家は経済難にあり、おそらく作者は名のある面打ではなく、実際に宝生家のものを見る機会にも恵まれなかったと想像されます。
よって、比較的「写し」の精度が低くなってしまったのかもしれません。
このように、同じ面の「写し」であっても似ていないことはよくあります。

 

よく似たふたつの面を見比べる

続いて、よく似たふたつの能面を見比べてみましょう。

(図3)能面 鼻瘤悪尉 「文蔵作/満昆(花押)」金字銘
室町時代・16世紀
(図4)能面 鼻瘤悪尉 「杢之助打」朱書 江戸時代・17~18世紀


どちらも鼻瘤悪尉(
はなこぶあくじょう)という種類の面で、両者の顔立ちはよく似ています。

 

図3の面裏
図4の面裏


図3の面裏には「文蔵作」と書かれています。ただしこれは、文蔵本人が書いたのではなく、世襲面打家である大野出目家(おおのでめけ)の5代洞水満昆(とうすいみつのり)によって文蔵の作であると鑑定されたという鑑定銘です。
図4の面裏には 「文蔵作正写杢之助打」つまり、文蔵作の面を杢之助が写したと記されています。 杢之助が図3の鼻瘤悪尉をもとに写したものが図4の面であると解釈できます。
ちなみに杢之助とは、世襲面打家である大野出目家の5代洞水満昆もしくは7代友水庸久(ゆうすいやすひさ)のことです。
2面とも、大野出目家にあったものかもしれません。
杢之助が文蔵作とされる鼻瘤悪尉を実際に見ながら写したからこそ「写し」の精度が高く、よく似ているのでしょう。

さて、文蔵作とされる鼻瘤悪尉をX線CT撮影したところ、かつて割れてしまい、修理されていることがわかりました。
その修理の痕が面裏に貼られたテープ状の布です。
図4の裏面にも布がはられているのは、文蔵作の鼻瘤悪尉の修理痕まで写したということでしょう。
舞台で使用する際には見えないはずの面裏の修理痕まで写すことは、その面の歴史にまで敬意を持っているということなのかもしれません。

このX線CT撮影でもうひとつ、不思議なことがわかりました。

(図5)CT画像
(図6)CT画像
(図7)

 

図5と図6のCT画像は、文蔵作とされる鼻瘤悪尉(図3)の上瞼のあたり(図7)の断面です。
木目が見える部分は木で作られています。図6の黄色くマークしたところは木ではなく、木屎漆(こくそうるし)と考えられます。
また、面裏の口の部分にも布が貼ってありました。これは下唇に別の材を矧(は)いでいるので、本来はもっと大きく口を開けていたと考えられます。
そもそも能面を作るのに大きな木材は必要ありません。
比較的小さな木材があれば形作ることができるので、多くの面は木の彫りで顔の起伏を表し、その上に絵具で彩色しています。
ところが能面のX線CT撮影を行っていると、起伏の少ないなだらかな形の仮面の表面に、木屎漆などで厚く盛り上げ、頬や眉間、眉などの顔の起伏を作る例があることが分かってきました。
文蔵作とされる鼻瘤悪尉もその一つで、もともとあった別の面に木屎漆を盛って改造した可能性があるといえそうです。
「写し」には精度の違いがあること、写す際には元になった面への敬意があると考えられます。
その敬意があったからこそ、一から新しい面を作るのではなく、改造という手間のかかる方法を選んだのかもしれません。

特集「能面に見る写しの文化」では、他にも「写し」のいくつかのバリエーションを紹介しています。
とても細かなことではありますが、ぜひ展示室で、面に対する人々の心に、思いをはせていただければと思います。

カテゴリ:特集・特別公開

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posted by 川岸 瀬里(教育普及室長) at 2024年09月26日 (木)

 

特集「没後100年・黒田清輝と近代絵画の冒険者たち」

2024年は、画家の黒田清輝が没してから100年という節目の年にあたります。そこで、黒田清輝の代表作で、通常は黒田記念館特別室で年3回の公開以外は展示されることのない《智・感・情》を中心に、東京国立博物館の誇る近代絵画の名品との特集展示「没後100年・黒田清輝と近代絵画の冒険者たち」(2024年10月20日(日)まで)を組むこととなりました。

《智・感・情》の展示が決まったのは、鹿児島市立美術館で開催された大回顧展「鹿児島市立美術館開館70周年記念 没後100年 黒田清輝とその時代」展など、今年開催された黒田関連の展覧会への貸出がなく展示できる状態の代表作であったから、という裏話的な事情もありますが、現存する完成作の中では最大級であり、後世への影響も大きかったこの作品を展示の核とすることで、「近代絵画の冒険者たち」という全体のテーマも決まっていきました。


展示中の《智・感・情》 黒田清輝筆 明治32(1899)


本展では、裸体の人物を描くという日本にはなかった手法を持ち込んだ《智・感・情》を糸口として、明治以降、西洋絵画に学んだ画家たちの試みを取り上げました。
東京国立博物館の所蔵する近代の絵画作品は、日本に美術館がなかった時代に収蔵されたものが多数を占めます。これらは、全国津々浦々に美術館があり、充実したコレクションを見ることのできる現在からは想像もつかないほど「美術」という存在が不確かなものであった頃、画家たちがどのように道を切り開いてきたかを伝えてくれます。

《智・感・情》は、人間の裸体を写実的に描き、何らかの理念を象徴させるというそれまでの日本にはない内容を持つ絵画でした。
当時の多くの洋画家たちがまずは日本で絵画の基礎を学んだのに対し、黒田が絵画の勉強を本格的に始めたのは(幼少期の短期間の経験は別として)フランスに留学してからのことです。裸体の人体デッサンを基礎とするアカデミックな教育を受けたことが、黒田のその後のスタイルを決めました。
人体デッサンは黒田が教鞭を執った東京美術学校(現在の東京藝術大学)の西洋画科でもカリキュラムに組み込まれ、画家育成の基礎と位置付けられていきます。


裸体習作 黒田清輝筆 明治21(1888)


1909年に開催された第3回文部省美術展覧会(文展)に発表された吉田博《精華》は、黒田のライバルと目された吉田の描いた数少ない裸体画の大作です。白百合を持ち、ライオンたちに何事かを告げるかのように指で示す少女は、「美の威厳」を表しているとも解釈されています。
裸体画への批判にしばしばみられるのが、人物が裸体である必然性がなく場面として不自然であるというもので、例えば東京勧業博覧会で一等賞を受賞した中村不折《建国剏業(けんこくそうぎょう)》には、鎧を着け忘れたのかといった皮肉が寄せられました。洞穴で猛獣と向かい合う人物という設定にはキリスト教絵画からの影響が指摘されていますが、裸体の聖性を高める演出になっていると言えそうです。


精華 吉田博筆 明治42(1909)


中村不折《建国剏業》明治40(1907)年(焼失。展示していません)


展示会場の本館特別2室のサインにも選ばれたラグーザ玉《エロスとサイケ》は、日本ではなくイタリアで描かれました。玉は旧姓を清原といい、日本画を学んでいましたが、1876年に創立された工部美術学校の教諭として来日したヴィンチェンツォ・ラグーザに教わり、西洋絵画に転向しました。
ラグーザは故郷のパレルモで美術工芸学校を創立する計画を持っており、玉とその姉夫妻を教師として雇うという契約を結び、共に帰国しました。玉は水彩画と蒔絵の教師となり、さらにパレルモ大学美術専門学校で油彩画を含む美術の専門教育を受けました。姉夫妻が日本に帰った後に玉はラグーザと結婚し、「エレオノーラ」という洗礼名を受けます。《エロスとサイケ》には「O. E. Chiyovara」(お玉、エレオノーラ、清原)というサインがあり、玉の油彩画が目に見えて表現力豊かなものとなっていった1910年代に描かれたものと考えられています。


エロスとサイケ ラグーザ玉筆 明治~大正時代、20世紀


今回の特集展示では、「歴史資料」として収蔵されているために近代絵画の展示室では展示されたことのない織田東禹《コロポックルの村》も出品しています。
織田は古代の貝塚発掘に興味を持ち、人類学者の坪井正五郎などに取材して水彩画としてはかなりの大作となる本作を完成させました。1907年の東京勧業博覧会の美術部門に応募された本作は、あまりに前例のない作品であったため美術部門での審査を拒否され、結局石器時代の日本を描いた教育的資料として展示されました。その後、好古家としても知られた華族の二条基弘、徳川頼貞の手を経て東京国立博物館に収蔵されています。


コロポックルの村 織田東禹筆 明治40(1907)


黒田清輝の作品を多数所蔵している黒田記念館は、もとは彼が美術の奨励事業に充てるために遺した遺産によって1930年に設立された「美術研究所」でした。黒田の画業を顕彰するだけではなく、美術の研究を目的とした機関としての研究所の方向性を決めたのは美術史学者の矢代幸雄です。
美術作品の良質な図版が美術の研究に不可欠だと考えた矢代は、ヨーロッパで学んだ経験をもとに国内外の美術作品の写真を集め、それらは東京文化財研究所に現在も引き継がれています。本展に出品した黒田の日記や矢代の主著『“Sandro Botticelli”』といった東京文化財研究所の所蔵資料は、美術を社会に根付かせるという黒田の理想が受け継がれていることを示すものでもあるのです。


“Sandro Botticelli”  矢代幸雄著 大正14年(1925) 東京文化財研究所蔵



本館特別1室に展示される《智・感・情》

特集「没後100年・黒田清輝と近代絵画の冒険者たち」は、本館特別1室・特別2室にて2024年10月20日(日)まで開催中です。 ぜひご覧ください。

 

 

カテゴリ:特集・特別公開絵画

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posted by 吉田暁子 (東京文化財研究所) at 2024年09月19日 (木)

 

写実を超えたリアルさを求めてー人形作家・平田郷陽

生人形をご存じでしょうか。
「生」を「なま」と読む方も多いのですが、「いきにんぎょう」と呼びます。「活人形」と書かれることもあり、つまり「生きているように見える人形」のことです。
幕末には、見世物興行の1つとして人気を博し、等身大の人形を制作して、いかに生身の人間に見えるかを技の見せどころとしました。
浅草で初めて生人形の見世物興行を開催した松本喜三郎(まつもときさぶろう、1825~1891)や、安本亀八(やすもと かめはち、初代:1826~1900、二代:1857~1899、三代:1868~1946))といった作家が名手として知られていました。眉毛やまつ毛、瞳や歯のリアルさにはびっくりですよね(図1)。


(図1)生人形足利時代将士体立姿(いきにんぎょうあしかがじだいしょうしたいたちすがた)
三代安本亀八作 明治時代・20世紀 日英博覧会事務局寄贈


二代平田郷陽(ひらたごうよう、以下郷陽)の父である初代平田郷陽は、高名な生人形作家・安本亀八に弟子入りしました。生人形作家となった父の後を継ぎ、郷陽も14歳の時から生人形制作に携わりました。
本館14室で開催している特集「人間国宝・平田郷陽の人形―生人形から衣裳人形まで―」(9月1日(日)まで)では、郷陽の創作人形を多数展示しています。
郷陽が制作する人形は、「普段私たちが目にしている伝統的な日本人形とは何かが違う」と思われるでしょう。例えば「薬玉」(図2)。元禄風の風俗を振袖の模様にいたるまで丁寧に仕立てられ、一見すると伝統的な衣裳人形です。しかし、肌の生々しい色合い、手足の先の爪にいたるまでの細部の写実性、目の周りにはまつ毛まで植え付けられていて、衣裳人形でありながら生人形のリアリズムを併せ持っています。


(図2)薬玉(くすだま)
二代平田郷陽作 昭和8年(1933) 平田多惠子氏寄贈


郷陽は子どもと女性の造形にこだわった作家でした。その中でも有名な作品がこの「泣く子」(図3)。木彫彩色とは思えない写実性。注目すべきは、まだ歯が生えていない歯茎や舌の表現、眉間や頬の皺、動きある手足の表現です。展示室で実際に見ていただくことをお勧めしたい、超絶技巧です。


(図3)泣く子(なくこ)
二代平田郷陽作 昭和11年(1936) 平田多惠子氏寄贈


「これまで玩具や年中行事の飾り物として扱われてきた人形を、芸術として高めたい」という思いが郷陽にはありました。リアリズムはその1つの手法だったのでしょう。
しかし、戦後になると、郷陽の造形に変化があらわれました。これまでの写実性から離れ、人体に量感を持たせ大胆にデフォルメした木彫に、手足を彩色で、胴部分を木目込み(きめこみ、これも伝統的な日本人形の手法です)にして、現代的な造形を求めるようになりました。この時代には特に女性像を得意とし、母性や女性の心情などを見事に表現しました。
かつては一人の女優の生人形を制作するために、目の前でその女優の顔のパーツを採寸したというエピソードがあるほどに、写実性にこだわりを持ってきた郷陽。しかし、晩年の郷陽の作品には、真正の女性の姿はリアリズムではなく、そのしぐさやたたずまいにあるということを見ることができます。「抱擁」(図4)で母親が赤子に唇を寄せる姿、手札を眺めつつ思案する「おんな」(図5)の姿勢など、1つ1つの造形には、女性の心情にまでイメージが膨らみます。

 

(図4)抱擁(ほうよう)(部分)
二代平田郷陽作 昭和41年(1966) 平田多惠子氏寄贈
(図5)おんな
二代平田郷陽作 昭和39年(1964) 平田多惠子氏寄贈

 

特集「人間国宝・平田郷陽の人形―生人形から衣裳人形まで―」は、ご遺族のご意向により、当館に一括で寄贈を受けたことで実現しました。小さな展示室ですが、郷陽の代表作の数々をご覧いただける貴重な機会です。
ぜひ展示室で、郷陽の技が生み出す美をご覧ください。


特集「人間国宝・平田郷陽の人形―生人形から衣裳人形まで―」の展示風景

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 小山 弓弦葉(工芸室室長) at 2024年07月23日 (火)