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1089ブログ

中国書画精華―日本におけるコレクションの歴史

東洋館8室では、特集「中国書画精華―日本におけるコレクションの歴史」が開催中(後期展示:2023年11月28日(火)~2023年12月24日(日))です。
「中国書画精華」は、東京国立博物館でおこなっている毎年秋恒例の中国書画名品展です。
今年は日本におけるコレクションの歴史を切り口に、「古渡(こわた)り」「中渡(なかわた)り」「新渡(しんわた)り」といった観点から作品を紹介しています。


東洋館8室 展示風景

中国絵画では、室町時代以前に日本に渡ったものを「古渡り」と呼びます。今回の展示では、室町以前の伝来が裏付けられる作品に加え、『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』など、足利将軍家の中国絵画趣味を伝える書物に名前が載っている画家の作品を、「古渡り」のカテゴリーで紹介しています。


重要文化財 羅漢図軸
蔡山(さいざん)筆
元時代・14世紀 中国
[展示中、12月24日まで]

羅漢図軸 寄進銘

例えば、元時代の怪奇趣味を体現する画家、蔡山による、どこか不気味な「羅漢図軸」は、右下の「奉三宝弟子左兵衛督源直義捨入」という寄進銘により、足利尊氏(1305~1358)の弟、直義(1306~1352)が、貞和2年(1346)に高野山 金剛三昧院(こんごうさんまいいん)に寄進した十六羅漢図の一つであることがわかっています。

次に、「中渡り」ですが、中国絵画分野では、「古渡り」と「新渡り」の中間、主に江戸時代に伝わったものを指しています。厳密にいえば、江戸時代に伝わったのか、それ以前から日本にあったのかは定かでありませんが、後世に大きな影響を与えた足利将軍家の中国絵画趣味の体系には入っていない作品を紹介しています。


重要文化財 天帝図軸
元~明時代・14~15世紀 中国 霊雲寺蔵
[展示中、12月24日まで]


天帝図軸 部分(玄天上帝)

天帝図軸 部分(四元帥)

江戸時代に日本にあったことが裏付けられる作品として、霊雲寺ご所蔵の「天帝図軸」があります。霊雲寺は、元禄4年(1691)、5代将軍徳川綱吉(1646~1709)により、徳川将軍家の祈願寺として湯島に創建された名刹です。
本作には、北斗七星の旗と剣、玄武を従える玄天上帝が描かれ、その周りに、青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)を持った関元帥(関羽)、黒衣の趙元帥、火炎に包まれる馬元帥、青顔の温元帥が配されます。画家の名は伝わりませんが、細かな描写と華やかな彩色が見事な、道教絵画の名品です。


天帝図軸 箱蓋裏(箱蓋裏を拡大して見る

天帝図 竹沢養渓(たけざわようけい)、養竹(ようちく)摸 天明8年(1788)
(注)現在、展示されていません。

霊雲寺の4世住職法明(1706~63)による、箱の蓋裏の書付(1754年)によれば、本作は狩野探幽(1602~74)の旧蔵で、御用絵師を務めた狩野家から8代将軍徳川吉宗(1684~1751)に献上されたものといいます。吉宗はこれの摸本を作らせたのち、原本を霊雲寺の3世住職慧曦(1679~1747)に下賜(かし)したそうです。
狩野家ではこれの摸本を代々作っていたようで、当館にも、狩野惟信(かのうこれのぶ・1753~1808)の弟子、竹沢養渓、養竹の摸本が伝わっています。

さて、清の衰退にともない、中国本土に秘蔵された名画が多く流出した近代には、古渡り、中渡りとは異なる、本場の文人趣味を体現する作品が日本にやってきます。
これら新渡りとして、高島菊次郎(1875~1969)蒐集の揚州八怪(ようしゅうはっかい)の作品を紹介します。揚州八怪は、清の最盛期に商業都市揚州(江蘇省・こうそしょう)で活躍した在野の書画家たちの総称です。その後の文人画の動向を決定づけた彼らの書画は、中国で大変珍重されたため、近代以前の日本人はその真跡を見ることはほとんどできなかったと思われます。


秋柳図巻(しゅうりゅうずかん) 黄慎(こうしん)筆 清時代・雍正13年(1735) 中国 高島菊次郎氏寄贈[展示中、12月24日まで]


秋柳図巻 拡大図

高島菊次郎は大正から昭和にかけての著名なコレクターです。王子製紙社長として活躍しながら、中国書画を多く収集しました。当館に寄贈された高島コレクションには、揚州八怪の一人、黄慎(1687~1768?)の優品が含まれています。
「秋柳図巻」は、王士禎(おうしてい・1634~1711)の著名な詩「秋柳」に想を得た作品で、葉の落ちた柳の枝に見られる、洗練されたすばやい筆さばきが見所です。本場の中華文人の洗練された筆墨を初めて目にした、日本の愛好家の興奮が想像されます。

以上、駆け足で古渡り、中渡り、新渡りについて紹介しました。これらを通覧することで、日本における中国絵画鑑賞伝統の層の厚さを体感していただければ幸いです。

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 植松瑞希(絵画・彫刻室) at 2023年12月01日 (金)

 

和鏡の文様を愉しむ

1089ブログ「和鏡への道のり」では和鏡の成り立ちと特色についてお話しさせていただきました。
今回は、和鏡の文様についてもう少し詳しくご紹介いたします。

特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」展示会場の写真
特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美
平成館企画展示室にて2023年11月19日(日) まで。


中国・唐の時代の鏡と宋の時代の鏡を掛け合わせて発展させ、日本人の好みに合わせた文様(もんよう)を施すことで平安時代・11世紀後半頃に成立したと考えられるのが和鏡(わきょう)です。
和鏡には今日、日本の伝統意匠として知られるような様々な文様が見られます。和鏡の極致とも称される、山形県鶴岡市の羽黒山(はぐろさん)にある出羽三山神社(でわさんざんじんじゃ)の御手洗池(みたらしいけ)から出土したいわゆる「羽黒鏡(はぐろきょう)」のうちにそれらを探し、和の文様を愉(たの)しみたいと思います。

和の文様の代表格ともいえるのが、「松喰鶴(まつくいづる)」の文様です。松の折枝(おりえだ)を銜(くわ)えた鶴が優雅に舞う文様は、鏡の他に箱や櫃(ひつ)などの調度品にも用いられました。元を辿るとペルシアの咋鳥文(さくちょうもん)が中国・唐に伝わって流行し、奈良時代に日本に伝えられた文様が原形です。正倉院宝物にもよく見られ、含綬鳥(がんじゅちょう)や花喰鳥(はなくいどり)として知られています。これが日本でめでたい鳥とされる鶴に置き換わり、同じくめでたい植物である松を銜えるようになったのが松喰鶴で、代表的な吉祥文様の一つです。

松喰鶴鏡(まつくいづるきょう)に見られるように、和鏡の文様としては、中央の鈕(ちゅう 紐を通すための孔(あな)を開けたつまみ)を挟んで鶴が向かい合い、優雅に旋回する文様が定番で、王朝文化の花開いた平安時代らしい優美な趣に満ちています。


松喰鶴鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15441)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)


構図の源流には、唐で作られた瑞花双鳳八花鏡(ずいかそうほうはちりょうきょう)や、これらを元に日本で構成された瑞花双鳳八稜鏡がありますが、余分な要素を削ぎ落とし、洗練させた文様構成は、高度な発展を遂げた貴族文化の結晶といえます。


国宝 興福寺鎮壇具 瑞花双鳳八花鏡
奈良市興福寺中金堂須弥壇下出土 唐時代・8世紀(E-14255)
(本館1室にて2023年10月31日から12月3日まで展示)

重要文化財 瑞花双鳳八稜鏡
平安時代・11~12世紀(E-19934)
(展示の予定はありません)



続いてご紹介するのは、本館14室で行われている特集「日本の伝統模様『秋草』」でも取り上げられている秋草の文様です。
秋草は「もののあはれ」を催させる存在として、日本文化に重要な位置を占めてきました。源氏物語絵巻に代表される王朝絵巻でも、登場人物の心象を表すモチーフとして重視されています。秋草は鏡の文様としても頻繁に用いられており、萩や薄(すすき)、秋の七草には入っていませんが菊などがよく見られます。

秋草蝶鳥鏡(あきくさちょうとりきょう)を見てみましょう。
ここでは土坡(どは 土の盛られたところ)あるいは水流の一部のようなところから、左に薄が穂を垂れ、右側では円周に沿って三角形の花房を付けた萩と円形の花弁を広げた菊とが勢いよく伸びています。鈕の左には仲睦まじく飛び交う2羽の鳥が配置されています。これは鈕を挟んで整然と向かい合う構図だったものが崩れ、2羽の鳥という要素が残り、番(つがい)の鳥としてめでたいモチーフに昇華されていったものと思われます。
この鏡には縁の内側に界圏(かいけん)が一条めぐらされていますが、本来文様を構成する上で内区と外区を分けるために施されたはずの界圏の上に鳥や植物が乗っかっており、ほとんど意味をなさなくなっています。しかしながら、よく見ると、外区の左に1頭の蝶、上と右に蜻蛉(せいれい)が表されているのがわかります。これらは唐鏡の外区にしばしば表されていたモチーフで、ここでは古い要素が残されているのが確認されます。
蝶の盛りは春、蜻蛉はカゲロウとみれば夏でしょうか、徒花(あだばな)のように外区に残るこれらの虫は、秋を迎えいよいよ終焉を迎えようとする存在であり、一層、儚(はかな)さやものがなしさを催させるモチーフであったと想像されます。


秋草蝶鳥鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15419)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)



最後にご紹介するのは、先に見た秋草蝶鳥鏡をさらに展開させたような水辺に生える植物を主題とした文様です。身近な野辺(のべ)の風景を、文様的な意匠化された要素を排し、絵画のように表したこうした文様は、同時代のやまと絵山水に通じるものといえます。この時代のやまと絵の遺例は極めて限られることから、それらを補う存在であるともいっても過言ではないものです。

水辺芦双鷺鏡(みずべあしそうろきょう)は、下方に水流を大きく表し、その周囲に草を配置しています。水流の上流に当たるのでしょうか、右の鳥の足下には岩のようなものも確認されます。岩の右から松が伸びているようで、水景と樹木と岩を備えた山水図のような構成になっていることがわかります。呼び合うような大振りの鷺も存在感があります。また、梅花蝶鳥鏡(ばいかちょうとりきょう)は、鈕の下方を水流が横切り、周囲に草が生えています。鈕を通って華奢(きゃしゃ)な梅の木が表されており、大きく枝を広げています。鳥は梅の枝を避けて配置されているようです。梅を主役にした構図は、シンメトリーやバランスを重視してモチーフを配置する文様的な構成ではなく、絵画的な構成を選択した結果であると思われます。


水辺芦双鷺鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15414)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)

梅花蝶鳥鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15406)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)



これらは平安時代の末に作られたと考えられる作例ですが、少し時代がくだって鎌倉時代に作られたと考えられる洲浜萩双鳥鏡(すはまはぎそうちょうきょう)を見てみましょう。こちらでは下方に水辺にできる洲浜が広がり、波のようなものも表されています。そこから大樹のように萩が枝を広げており、それを避けるかのように2羽の鳥が鈕の左に表されています。花が咲き鳥が舞う理想郷を想起させるとともに、樹木状の植物が文様の主役になってきていることがわかります。またその中で、洲浜と水の存在は、「場所」を意識させるものとして、非常に重要と思われます。浮遊する文様が居場所を見つけたといってもよいでしょうか。そこにはある種の「風景」が存在しているのです。


洲浜萩双鳥鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 鎌倉時代・13世紀(E-15442)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)



鎌倉時代から、南北朝時代を経て、室町時代に至るいわゆる中世には、蓬莱鏡(ほうらいきょう)と呼ばれる、東海の理想郷・蓬莱山(ほうらいさん)を表したとされる文様を施した鏡が流行しました。鎌倉時代の作である蓬莱鏡はその典型例で、下方に波と洲浜が広がり、右方には岩と松が存在感を示し、鈕の左には2羽の鶴が洲浜の上に羽を広げています。鈕は亀形となり、岩の下方に配置された亀とともに、鶴亀文様を構成しています。左方の洲浜と右方の岩から伸びた竹は、松とともに松竹文様を構成しており、常に緑を保つ常磐木(ときわぎ)と長寿を象徴する鶴亀とで、蓬莱山を表しています。身近な野辺の景色と思われた山水描写は、年月を経て、理想の世界へと昇華していったと考えられるのです。
蓬莱文様は、江戸時代にも婚礼調度などに盛んに用いられました。古い家ではまだ、蓬莱文様の鏡や柄鏡(えかがみ)が眠っているかもしれません。その源流は平安時代の鏡に見られる水辺の文様へと辿ることができるのです。


蓬莱鏡
鎌倉時代・13世紀(E-19965)
(本館3室にて展示中。2023年12月3日まで)



この他にも、山吹や桜、楓(かえで)などの身近な植物を主題にした文様や網を張ったような文様(網代文<あじろもん>)など、いろいろな文様がありますので、心になじむ和の文様を愉しんでいただければと思います。

ところで、羽黒鏡は、羽黒山にある出羽三山神社の御手洗池から、大正初年から昭和初年にかけて4度にわたって行われた池の工事に伴い発見されたもので、ご神体と考えられた池に、祈願や報賽(ほうさい お礼参り)のために宝物を投げ入れる「投供(とうぐ)」の儀礼によって奉納されたと考えられています。洗練された作風から、平安京で作られたと考えられており、いずれも直径10センチメートル前後と小振りなのは、出羽三山修験(しゅげん)の行者などに託し、運搬しやすいように取り計らわれたためかもしれません。
ここでは紹介できなかったような多種多様な美しい文様が見られるのは、都の貴顕(きけん 身分が高い人)が思い思いに、自分の最も好んだ一面に願いを託したためかもしれません。

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 清水健(工芸室) at 2023年10月24日 (火)

 

常盤山文庫の墨跡コレクション

東洋館8室にて開催中の特集「創立80周年記念 常盤山文庫の名宝」(2023年10月22日まで)は、閉幕まで残りわずかとなりました。
本展をご紹介してきましたリレーブログも6回目、これで最後となります。
最終回は、世界に誇る常盤山文庫の墨跡(禅僧の書)コレクションについてお伝えしたいと思います。

常盤山文庫初代理事長の菅原通濟氏(すがはらみちなり、1894~1981)が蒐集し、長男の2代目理事長菅原壽雄氏(すがはらひさお、1923~2008)がその普及と拡充に尽力された墨跡コレクションは、中国の宋・元時代、日本の鎌倉・室町時代の徳の高い僧侶の書を主とし、国宝2件、重要文化財21件、重要美術品18件を含みます。

なかでも宋元の墨跡は、当時海を渡って学んだ日本の禅僧が、修行の過程で師僧たちから授かり苦難の果てに持ち帰ったものや、帰朝後も続いた交流のなかで送られたものが少なくありません。

たとえば、コレクションの代表作の一つ「禅院牌字 巡堂」は、東福寺開山として知られる円爾(えんに、1202~1280)が、南宋での修行から帰朝後、博多の承天寺の開堂に際して、師であり南宋禅宗界の重鎮であった無準師範(ぶじゅんしばん、1177~1249)から送られた一群の額字・牌字(扁額・牌の手本用の書)のうちの1件です。現在、京都国立博物館で開催中の特別展「東福寺」(2023年12月3日まで)の出品作品、国宝「禅院額字幷牌字(ぜんいんがくじならびにはいじ)」(東福寺蔵)とともに、かつて東福寺に伝来した由緒をもち、寺外に出る際の控えとして制作されたと思われる精緻な模本が東福寺に伝わります。


重要文化財 禅院牌字 巡堂(ぜんいんはいじ じゅんどう)
無準師範筆 南宋時代・13世紀 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
[展示は終了しました]



同じく円爾が帰朝後に、同門の中国僧、剣門妙深(けんもんみょうしん、生没年不詳)から送られ、かつて東福寺に伝来した書簡「円爾宛尺牘」は、繊細な筆致で無準師範の訃報と遺言を伝える内容です。
また、「白雲恵暁宛雅号偈」は、円爾の弟子の白雲恵暁(はくうんえぎょう、1228~1297)が南宋での修行中に、無準師範門、つまり法系上の叔父にあたる断谿妙用(だんけいみょうよう、生没年不詳)から授かったものです。雅号(がごう、字(あざな)とも)の「白雲」にちなんだ偈(げ、仏教に関する詩のこと)を躍動感のある筆致で書写し、白雲恵暁が中国でも日本に帰っても、大空に漂う白雲のように自由をもって求道し、迷いの者たちを導くようにと願った内容です。
これらは、南宋・鎌倉時代における日中間の禅宗交流を示す重要な資料として、更には、南宋時代の確かな書としてもたいへん貴重です。


重要文化財 円爾宛尺牘(えんにあてせきとく)
剣門妙深筆 南宋時代・淳祐9年(1249) 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
[展示は終了しました]



重要文化財 白雲恵暁宛雅号偈(はくうんえぎょうあてがごうげ)
断谿妙用筆 南宋時代・咸淳5年(1269) 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
[展示は終了しました]



一方、コレクションには、中国の師僧が渡来して、日本で書写した墨跡もみられます。
「看経榜断簡」は南宋時代の禅僧、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう、1213~1278)の墨跡です。蘭渓道隆は、渡来僧として初めて本格的な禅宗をもたらした人物で、鎌倉時代の寛元4年(1246)に来日し、建長5年(1253)には執権北条時頼(ほうじょうときより、1227~1263)に迎えられて鎌倉の建長寺の開山となるなど、博多・京都・鎌倉の寺院で禅の発揚に尽力しました。
重厚で端整な字姿の本作は、時頼の子、執権北条時宗(ほうじょうときむね、1251~1284)の治世が久しく安寧に続くことを祈願した内容で、法会に際して読む経典名などを堂内に掲示した書の一部とみられます。


重要文化財 看経榜断簡(かんきんぼうだんかん)
蘭渓道隆筆 鎌倉時代・13世紀 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
[展示中、2023年10月22日まで]



「看経榜断簡」は江戸時代初期、もと神宮の外宮神官を務める家柄であった久志本家に伝わり、禅僧の沢庵宗彭(たくあんそうほう、1573~1645)と儒学者の林羅山(はやしらざん、1583~1657)が当時書写した添幅が付属します。沢庵宗彭は、本作が「建長開山大覚禅師(蘭渓道隆)」の真筆に疑うところなし、と述べ、林羅山は、北条時頼・時宗が蘭渓道隆に帰依したことや本文の内容について記しています。
コレクションの墨跡には、伝来過程で制作されたこのような付属品が少なからず見られます。作品の来歴を知る重要な資料であるばかりでなく、歴史上著名な人物の手になることもあり、付属品自体が鑑賞の対象とされることもありました。


附 久志本式部少輔宛証状(くしもとしきぶのしょうあてしょうじょう)
沢庵宗彭筆 江戸時代・17世紀 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
[展示中、2023年10月22日まで]



附 久志本式部少輔宛識語(くしもとしきぶのしょうあてしきご)
林羅山筆 江戸時代・寛永15年(1638) 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
[展示中、2023年10月22日まで]


コレクションの代表作「遺偈(棺割の墨跡)」は、渡来僧が日本で生涯を閉じようとした際の末期の書です。筆者は元時代の禅僧、清拙正澄(せいせつしょうちょう、1274~1339)。鎌倉時代の嘉暦元年(1326)に来日し、翌年、建長寺の住持となり、のちに後醍醐天皇(1288~1339)の勅命によって建仁寺、南禅寺の住持を務めました。清拙正澄は暦応2年(1339)正月17日、66歳で没しましたが、本作はまさにその日に書写されました。
「毘嵐空を巻いて海水立つ(世界の初め・終わりに起こるという暴風が空を巻いて吹き荒れ、海の水が立ち上る)」の句から始まり、ときおり線が震えながらも凛とした筆致で書き進め、末2行目の日付でやや筆が乱れますが、末行の法諱「正澄」を毅然とした態度で書写しています。そして最後の花押(かおう)は意に満たなかったのか、再度筆を入れなおし、残す気力を筆墨に込めるかのようにして書き終えています。
同じく清拙正澄の建仁寺住持期の墨跡「活侍者宛餞別偈」が厳しい印象の字姿であるのに対して、本作はどこか穏やかさを覚える字姿であり、最期を迎えた清拙正澄の心境が表れているようにも思われます。


国宝 遺偈(棺割の墨跡)(ゆいげ かんわりのぼくせき)
清拙正澄筆 南北朝時代・暦応2年(1339) 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
[展示中、2023年10月22日まで]



重要美術品 活侍者宛餞別偈(かつじしゃあてせんべつげ)
清拙正澄筆 南北朝時代・14世紀 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
[展示は終了しました]



宋元の墨跡は、日本において禅宗寺院にとどまらず、禅を尊んだ武家や禅の精神に拠りながら発展した茶の湯の世界などでも珍重され、現代まで大切に伝えられてきました。
一方、本場の中国には宋元の墨跡はほとんど遺されていません。その背景には、王朝交代時の戦乱の規模や禅宗寺院を取り巻く環境など、日本との様々な違いが想像されます。
このような貴重で魅力ある作品を数多有する常盤山文庫の墨跡コレクションは、世界屈指と言っても決して過言ではないでしょう。

 

カテゴリ:特集・特別公開「創立80周年記念 常盤山文庫の名宝」

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posted by 六人部克典(東洋室) at 2023年10月21日 (土)

 

和鏡(わきょう)への道のり

現在、平成館企画展示室では特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」(2023年11月19日まで)を開催しております。同じような大きさの円い鏡ばかりが並んでおりますが、そのみどころについて、1089ブログで2回に分けてご紹介したいと思います。


特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」展示会場

 「和服」、「和食」、「和室」、「和風」……、「和」は美称として頭に「大」をつけることもあり(「大和」)、「やまと」すなわち日本を指すことばとしてなじみのあるものです。現在当館で開催中の特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」のタイトルにある「やまと絵」も、「大和絵」と記されることもあり、中国絵画の主題や様式を反映した「唐絵(からえ)」や「漢画」に対して、日本的な主題や様式を示す絵画に対して用いられてきたものです。
それでは一般の方にはちょっとなじみの薄い「和鏡」とは、一体どういったものでしょうか。

日本において前近代には鏡は銅(青銅)で作られるのが一般的で、顔を写す面とは反対の面(鏡背<きょうはい>)には様々な装飾が施されました。銅鏡は溶かした銅を型(かた)に入れて作る鋳物(いもの)なので、型に表した文様(もんよう)を鋳出(いだ)して装飾することがよく行われました。中国・漢の時代には幾何学的な文様や観念的な神仙世界の文様が好まれましたが、唐の時代になると、鳥や花といったモチーフが大きく生き生きと鏡背に表されるようになりました。和鏡のルーツはこの唐代の鏡(唐鏡<とうきょう>)に求められます。

唐の鏡は飛鳥から奈良時代に、遣唐使によって日本にもたらされました。奈良にある興福寺の中金堂の地下から発見された瑞花双鳳八花鏡(ずいかそうほうはっかきょう)は唐鏡と考えられるもので、中央にある鈕(ちゅう 紐などを通すためのつまみ)を挟んで左右に鳳凰(ほうおう)が向き合って表され、上下には中国風の花文様が配置されています。
他にも瑞雲双鸞八花鏡(ずいうんそうらんはっかきょう)のように、鈕の左右に鸞(らん)という想像上の鳥が向き合って表され、上下に雲、界圏(かいけん)と呼ばれる円い線の外側(外区)に雲や蝶が配置された鏡もあります。こちらは日本で唐鏡を型にとって作られた(これを「踏み返し」といいます)鏡のようで、コピーを繰り返した画像のように文様がぼやけてきているのが特徴です。
こうした唐代の鏡やこれを模倣した鏡(唐式鏡<とうしききょう>)が和鏡の遠いご先祖様に当たるといえます。


国宝 興福寺鎮壇具 瑞花双鳳八花鏡
奈良市興福寺中金堂須弥壇下出土 中国・唐時代・8世紀(E-14255)
(本館1室にて2023年10月31日から12月3日まで展示)

瑞雲双鸞八花鏡
兵庫県宍粟市山崎町金谷出土 奈良時代・8世紀 柴尾清平氏寄贈(E-14306)
(本館1室にて展示中。2023年10月29日まで)



平安時代になると、踏み返しから脱却し、唐鏡をお手本にした鏡が日本で作られるようになります。平安時代に主流となる瑞花双鳳八稜鏡(ずいかそうほうはちりょうきょう)は、鈕の左右に向かい合う鳳凰、上下に中国風の花文様(瑞花)が表され、外区には花唐草(はなからくさ)の文様がめぐっています。これは基本的には先に見た瑞花双鳳八花鏡と瑞雲双鸞八花鏡の構成を踏襲していますが、中国に例がなく、唐鏡を元にしてこれを翻案し、日本で創出されたと考えられます。


重要文化財 瑞花双鳳八稜鏡
平安時代・11~12世紀(E-19934)

(展示の予定はありません)


また、907年に唐が滅んだ後、五代十国の興亡を経て、960年に強大な帝国を築いた宋の時代に作られ、民間の貿易船などによってもたらされた鏡(宋鏡<そうきょう>)も和鏡のご先祖様に当たります。
これら宋鏡の特徴は、鏡胎(きょうたい)が薄く作られていることや内区と外区を分ける界圏がないこと、鈕がとても小さく文様などが表されないところにあります。中国からもたらされた京都・清凉寺(せいりょうじ)の本尊・釈迦如来立像(しゃかにょらいりゅうぞう)の胎内に納められていた鏡や獅子唐草文六花鏡(ししからくさもんろっかきょう)はそうした特徴を備えた作例です。


獅子唐草文六花鏡
宋時代・10~13世紀 中国(TE-81)
(展示の予定はありません)



これら唐鏡には見られない特色も和鏡に反映されており、唐鏡と宋鏡をルーツに、平安時代・11世紀後半頃に、和鏡が成立したと考えられるのです。
つまり、和鏡は、中国の鏡が年月をかけて、日本風にアレンジされたものということができます。そしてその主題も、中国の鏡やこれを模倣した鏡に見られたような瑞花や鳳凰といった空想上の存在から、秋草や松、鶴や雀といった身近に存在する植物や鳥へと移っていったのです。

今回特集して展示している、山形県鶴岡市の羽黒山(はぐろさん)にある出羽三山神社(でわさんざんじんじゃ)の御手洗池(みたらしいけ)から出土したいわゆる「羽黒鏡(はぐろきょう)」は、そうした和鏡の極致を示すものとしてよく知られています。
例えばその中の一つである菊楓蝶鳥鏡(きくかえでちょうとりきょう)では、鈕を挟んで植物文と鳥がそれぞれ向かい合い、界圏で内区と外区が分かれる構図は維持しながらも、植物は菊に、鳥は雀のような小鳥に替わっています。蝶が外区に留まっているのも唐鏡の要素を色濃く残している点で興味深い作例です。
同じ主題で他の作例も見てみましょう。菊枝双鳥鏡(きくえだそうちょうきょう)では、同じく界圏を残す形式ながら、界圏を無視して菊花が勢いよく伸びていき、鳥は向かい合うのではなく、並ぶように飛んでいます。ここでは既に唐鏡の構図が完全に崩れているのがわかります。


菊楓蝶鳥鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15432)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)

菊枝双鳥鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15420)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)



また、界圏がなく、鈕の小さい宋鏡の系譜に位置づけられる菊枝双鳥鏡(きくえだそうちょうきょう)では、文様的な構成を脱却し、一幅の絵画のように菊と小鳥が表されています。このような構図の自由さも和鏡の魅力の一つです。こうした絵画的な構図は同時代の他の工芸品にも見られるもので、当時のやまと絵はもちろん、これに影響を与えた中国・宋代の絵画の様式を受け継いでいると考えられます。


菊枝双鳥鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15395)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)


 「和」というと、純粋に日本で創造されたように思われがちですが、中国の先進的な文化を受容し、それを基礎にして作り上げられたのが和鏡の形状であり、鏡背文様の構図であるといえます。とはいえ、和鏡の文様に感じられる心和むような安堵感や自由な構図には、自然の豊かな東方の島国で育まれてきた日本人の好みが深く刻み込まれているのではないでしょうか。

次回は羽黒鏡にみる和の文様についてご紹介したいと思います。
第2回「和鏡の文様を愉しむ」へ移動する

 

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 清水健(工芸室) at 2023年10月17日 (火)

 

博物館で秋草さがし・・・

秋になると、当館の正面玄関前で、紫と白の萩の花がお客様をお迎えします。

正面玄関前に咲く萩(2023年10月5日現在)

この萩は「秋の七草」の1つです。
春の七草ほど知られていないかもしれませんが、じつは万葉歌人である山上憶良が和歌で詠った奈良時代から、日本人は秋草を愛好してきました。
春の七草は食べられますが、秋の七草は食べることはできません。その代わり、その花を楽しんできました。なんとも風流ですね。

ただ、自然に咲く花を愛でたばかりではなく、蒔絵や陶磁の器、鏡などの金工細工、着物に施された刺繡や織物などにも、平安時代の昔から江戸時代にいたる長い歴史の中で、秋草の模様が表されてきました。


秋草蝶鳥鏡(あきくさちょうとりきょう)
東京都八王子市中山 白山神社経塚出土 平安時代・12世紀
平安時代の銅鏡に装飾された模様です。「尾花」と称された薄や萩、菊、藤袴などが咲く秋の野に、蝶と鳥が飛び交っています。



秋草蒔絵見台(あきくさまきえけんだい)
安土桃山~江戸時代・16~17世紀
安土桃山時代に流行した高台寺蒔絵では、菊、萩、桔梗といった秋草模様が特に好まれました。



鼠志野秋草図額皿(ねずみしのあきくさずがくさら)
美濃 安土桃山~江戸時代・16~17世紀
志野焼の特徴である鼠色の地に、白く藤袴らしき秋草が浮かびあがります。


工芸品それぞれの表現を見くらべてみても、さまざまなデザインがあって面白いですね。
本館14室で行われている特集「日本の伝統模様「秋草」」(10月11日(水)~2023年11月19日(日))では、これら日本の工芸品に表された秋草の模様を秋の七草を中心に紹介しています。

日本の模様は、中国から影響をうけたものが多く、中国の模様は基本的に吉祥模様です。生活を彩る模様には、幸せを願い、身を守る役割がありますから、吉祥模様が多いのは当たり前ですね。
ところが、秋草模様にはほとんど、吉祥の意味はありません。それなのに、どうして日本人は秋草模様を愛好し続けたのでしょう?

その秘密を、本特集でご紹介しています。
皆さんもご存じの清少納言や兼好法師がつぶやいていますよ。
本館14室で無料配布しているパンフレット(オールカラーA4・全4ページ)を見ながら、その秘密を探ってみませんか?

また、本館14室での展示のほかにも、当館ではこの秋の時期に、さまざまな展示室で秋草模様の工芸品を展示しています。


小袖 白綾地秋草模様(こそで しろあやじあきくさもよう)
尾形光琳筆 江戸時代・18世紀
本館2階10室「浮世絵と衣装―江戸(衣装)」で展示している尾形光琳直筆の通称〈冬木小袖〉。桔梗・薄・萩・菊などが描かれています。
展示期間:2023年10月3日(火)~2023年12月3日(日)


当館のどこで秋草模様が展示されているかも、本館14室の特集「日本の伝統模様「秋草」」でご案内しています。
私たちの祖先が愛でてきた秋草、庭に咲く花とともに、博物館に咲く工芸品の秋草を探し歩いてみてはいかがでしょうか。


本館14室の展示風景

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 小山 弓弦葉(工芸室室長) at 2023年10月12日 (木)