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聖徳太子のさまざまな姿

聖徳太子1400年遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」は9月5日(日)まで開催しています。今回は展覧会のみどころの一つ、聖徳太子のさまざまな姿を紹介します。

聖徳太子は、赤ん坊から少年の姿、青年・壮年期の姿と、実にさまざまな年齢で表わされ、それぞれの姿が独立して信仰の対象となってきました。数ある日本の仏教祖師のなかでも、肖像のバリエーションは群を抜いて豊富といえるでしょう。
現存していませんが、奈良時代の宝亀2年(771)には大阪・四天王寺の絵堂に太子伝が描かれたといいますから、そこには既にさまざまな年齢の太子が表わされていたことでしょう。平安時代以降になると、太子伝の決定版である「聖徳太子伝暦(しょうとくたいしでんりゃく)」が普及したことで、生涯の各エピソードが知られるようになり、豊かな造形化へと結び付いていきました。


聖徳太子伝暦 南北朝時代・観応2年(1351) 奈良・法隆寺蔵 8月11日(水)からは下巻を展示

聖徳太子の姿というと、かつて紙幣の肖像に採用された御物の「聖徳太子二王子像」(しょうとくたいしにおうじぞう)が有名ですね。トーハク会場では江戸時代の模本を展示しています。


聖徳太子二王子像(模本) 狩野<晴川院>養信筆 江戸時代・天保13年(1842年) 東京国立博物館蔵

奈良時代に描かれたこの肖像は、仏像や中国の皇帝像に一般的な三尊形式をとり、礼拝の対象として相応しい姿にまとめられています。この肖像については平安時代の『七大寺巡礼私記』をはじめ、鎌倉時代の記録もあることから、一部で知られていたことはわかりますが、有名になったのは法隆寺から皇室に献納された明治時代以降のことです。つまり、われわれが聖徳太子としてすぐにこの姿をイメージするようになった歴史は、意外と浅いのです。

では、歴史的に日本人は聖徳太子の姿をどのように思い描いてきたのでしょうか。まず注目したいのは、特別展会場第1室に入って最初にみなさんをお迎えする法隆寺聖霊院の秘仏「如意輪観音菩薩半跏像」(にょいりんかんのんぼさつはんかぞう)です。


重要文化財 如意輪観音菩薩半跏像 平安時代・11~12世紀 奈良・法隆寺蔵

このお像、実は聖徳太子の「ほんとうの姿」として信仰されてきました。聖徳太子は少なくとも平安時代には観音菩薩の化身(けしん)」・生まれ変わりとして信仰されるようになり、特に大阪・四天王寺の本尊がその観音菩薩であるとされました。四天王寺の本尊は救世観音(ぐぜかんのん)や如意輪観音と呼ばれ、太子信仰の中心に位置しましたが、中世なって失われ、いまは昭和の再興像が安置されています。
法隆寺の「如意輪観音菩薩半跏像」はまさにこの四天王寺本尊を平安時代に写し取ったものであり、現存最古の模刻像として重要な作品です。聖徳太子は観音菩薩の化身である。そうした信仰上のイメージが太子信仰の基本としてあります。

本特別展では特に太子のさまざまな姿を第2室に集めました。「聖徳太子立像(二歳像)」(しょうとくたいしりゅうぞう にさいぞう)は、太子が数え2歳(いまでいう1歳)の旧2月15日、お釈迦様の涅槃を記念するこの日に東の空を拝み「南無仏」と称えたところを表わしています。


聖徳太子立像(二歳像) 鎌倉時代・徳治2年(1307) 奈良・法隆寺蔵

キリリとした表情に赤ん坊ではありえないだろう真剣な祈りが表現されていますね。ちなみに、この時太子の手のひらからは仏舎利(お釈迦様の左目の骨とされる)がこぼれ落ちたといい、「南無仏舎利」(なむぶつしゃり)として絶大な信仰を集めてきました。


南無仏舎利(部分) [舎利塔]南北朝時代・貞和3~4年(1347~48) [舎利据箱]鎌倉時代・13世紀 奈良・法隆寺蔵

今回の特別展はこの「南無仏舎利」の存在を間近に確認できる極めて貴重な機会ですので、是非こちらにもご注目ください。

また「聖徳太子立像(孝養像)」(しょうとくたいしりゅうぞう きょうようぞう)は、父である用明天皇の病気平癒を祈り、仏に香を捧げる16 歳の姿と伝えられます。


重要文化財 聖徳太子像(孝養像) 鎌倉時代・13世紀 奈良・法隆寺蔵 8月11日(水)から展示

ただし、こうした姿の像を16歳とするようになったのは鎌倉時代後期になってからのことで、平安時代には年齢を限定して考えていなかったようです。
現品が残されておらず、また史料も乏しいのですが、大阪・四天王寺の聖霊院(しょうりょういん)には「童像」(どうぞう)と呼ばれる太子像があり、おそらくこの姿の起源になっていると考えられています。四天王寺は仏教の受容をめぐって起きた蘇我氏と物部氏の戦において、当時16歳の太子が戦勝祈願として同寺の建立を発願したことに起源しています。
あくまで個人的な想像ですが、本来この香炉を捧げて仏に誓いを立てるような姿は、四天王寺建立発願の場面を意図したものではなかったでしょうか。その当否はともあれ、あくまで「童像」であった姿が、聖徳太子の伝記における特定のエピソードと結び付き、孝養像との理解が後から加えられたのでしょう。

伝説との関りでもう一つ面白いのが「聖徳太子像(水鏡御影)」(しょうとくたいしぞう みずかがのみえい)です。


聖徳太子像(水鏡御影) 鎌倉時代・14世紀 奈良・法隆寺蔵 8月9日(月・祝)まで展示

笏(しゃく)を手にもって胡坐をかいた正面向きの太子像ですが、なんと聖徳太子が水鏡に映った自らの姿を描いたもの、つまり自画像に基づく図像として伝えられてきました。大阪の四天王寺にも「楊枝御影」といってほぼ同じ図像の絵画があり、こちらもやはり太子の自画像と伝えられています。

さて、いわば聖徳太子公認の聖徳太子像といったところですが、この図像(描かれたスタイル)を立体化させたのが、法隆寺聖霊院の秘仏本尊である聖徳太子坐像(しょうとくたいしざぞう)です。


国宝 聖徳太子および侍者像のうち聖徳太子 平安時代・保安2年(1121) 奈良・法隆寺蔵

聖霊院はその名の通り、聖徳太子の御霊をまつる極めて重要な場所で、いまもこの像は太子その人として厳重な管理のもと篤い尊崇を集めています。
今年は聖徳太子の1400年遠忌ですが、このお像は今を去ることちょうど900年前、500年遠忌に際して開眼供養されました。聖徳太子その人を再現しようとする意志にあふれた像で、様々な仕掛けが見て取れます。
まずは目に注目。会場ではよくわかりませんが、上下の瞼には点々と針孔(はりあな)が並んでいます。じつはこれまつ毛を植え付けた痕なのです。いわばエクステ。瞳にも色ガラスが嵌められており、リアルな太子が再現されています。
次に注目したいのは口元です。彫刻の参考となった図像を伝える「聖徳太子像(水鏡御影)」では口を閉じていますが、このお像はわずかに口を開いています。これは聖徳太子が仏の教えを述べているところを表しているのですが、何故そう言えるのかというと、体内に仕掛けがあるのです。
この像の体内には飛鳥時代に作られた観音菩薩立像が納められており、その頭の位置がちょうど太子の口元にくるように工夫されています。つまり聖徳太子が観音菩薩の化身として仏法を説かれているという姿なのです。
この像の体内にはまた「法華経」(ほけきょう)、「維摩経」(ゆいまきょう)、「勝鬘経」(しょうまんぎょう)という特に太子が重視したお経が納められており、まさにその教えを説いていることを示しているのでしょう。これに関してもう一つ面白いのが、ジャラジャラと飾りが垂れた冕冠(べんかん)というものを太子が被っている点です。「聖徳太子像(水鏡御影)」にはなかった冕冠ですが、これは太子が「勝鬘経」という女性を主人公としたお経を解説する姿を表わした「聖徳太子勝鬘経講讃図」(しょうとくたいししょうまんぎょうこうさんず)に必ず表わされているものなのです。


重要文化財 聖徳太子勝鬘経講讃図 鎌倉時代・13世紀 奈良・法隆寺蔵 8月11日(水)から展示


「聖徳太子像(水鏡御影)」は笏を手に取る政治家としての姿、「聖徳太子勝鬘経講讃図」の太子は仏法を説く宗教家としての姿ですが、聖霊院の太子像はその両方を兼ね備えた極めて独自性の強い姿として作られました。「聖徳太子全部のせ」ともいうべき太子その人の決定版ともいうべき姿をここに見ることができます。


いかがでしたでしょうか。聖徳太子におけるさまざまな姿のバリエーション。その背景には伝説に満ちた太子の生涯、また人々が求めた仏に等しい太子のイメージがありました。聖徳太子というと「1万円札の人」というイメージが広く定着しましたが、江戸時代以前の日本における太子イメージはもっと豊富で面白いものでした。是非とも会場ではさまざまな姿を通じて聖徳太子のエピソードに思いを馳せて頂けると、よりこの特別展が楽しいものになると思います。

カテゴリ:2021年度の特別展

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posted by 三田覚之(工芸室主任研究員) at 2021年08月13日 (金)