聖徳太子1400年遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」では聖徳太子ゆかりの七種宝物(しちしゅのほうもつ)を展示しています。
七種宝物と聞いて、知っている方は少ないでしょう。しかし、江戸時代以前の法隆寺においては聖徳太子信仰の中心をなす極めて重要な宝物として扱われていました。
明治11年(1878)に献納宝物として皇室に納められて以降、現在に至るまで個々の作品としては有名であっても、七種宝物という信仰上の枠組みにおいて紹介されることはほとんどなくなりましたが、献納時の目録である「法隆寺什物器目録」の筆頭にこの七種宝物が列記していることからも、その重要さが知られます。
さて、この七種宝物ですが、聖徳太子に由来する「と、されている」作品で、法隆寺東院の舎利殿に伝来しました。あえて「と、されている」としたのは、今日の美術史学からみて聖徳太子の時代に作られたとは言えないためですが、少なくともこの中のいくつかは、平安時代以来、聖徳太子に由来するもっとも重要な宝物と考えられてきました。
舎利殿は聖徳太子が数え2歳(今でいう1歳)の折、「南無仏」と称え手を合わせたところ、その手のひらから出現した仏舎利(「南無仏舎利(なむぶつしゃり)」)を本尊とする建物です。
南無仏舎利 [舎利塔]南北朝時代・貞和3~4年(1347~1348)[舎利据箱]鎌倉時代・13世紀 奈良・法隆寺蔵
建物に入ると大きな厨子があり、その向かって右側面の扉を開けると南無仏舎利が安置されているのですが、左側面の扉の中は仕切りを設けた戸棚となっています。七種宝物はこの中に安置されていたと考えられ、いわば本尊に次ぐような存在だったことが分かります(ちなみに正面の扉を開けたところには「聖徳太子勝鬘経講讃図(しょうとくたいししょうまんぎょうこうさんず)」〈8月11日(水)から展示〉が掲げられていたと考えられます)。
現在、七種宝物のうち、6点は法隆寺献納宝物として東博にあり、1点は宮内庁が所蔵しているのですが、特別展では東博所蔵の6点を通期展示とし、8月11日(水)からの後期展示では宮内庁所蔵の一点を加えて、7点全てが一堂に会します。
それでは個々の宝物とその由来についてみていきましょう。
1.糞掃衣(ふんぞうえ)
重要文化財 糞掃衣 奈良時代・8世紀 東京国立博物館蔵
別名で衲袈裟(のうげさ)とも呼ばれています。糞掃衣とはその名の通り、「糞を掃除するのに使うような汚い布でできた袈裟」を意味します。なぜそのようなものが尊いのかと言えば、これこそ出家者が物質に対する執着から離れていることを示すものとしてお釈迦様が定めた「最上の袈裟」であり、これを着用すれば神々も賛嘆するとされているためです。
そして法隆寺伝来のこの糞掃衣こそ、お釈迦様が着用されたそのものであるとされてきました。伝承によると、お釈迦様は勝鬘夫人(しょうまんぶにん)(「勝鬘経」の主人公)にこの袈裟を授け、その後、中国に伝来していたところを遣隋使の小野妹子(おののいもこ)が持ち帰ったとされます。聖徳太子は勝鬘夫人の生まれ変わりとされており、太子がこの日本においてはじめて勝鬘経の教えを説いた折(勝鬘経講讃)この袈裟を着用したと伝えられます。
2.梵網経(ぼんもうきょう)
重要文化財 梵網経(下巻部分) 平安時代・9世紀 東京国立博物館蔵 8月9日(月・休)までは上巻、8月11日(水)からは下巻を展示
平安時代に記された紺紙金泥経(こんしきんでいきょう)の名品で、聖徳太子の自筆として伝えられました。昨日記されたかと思うほど、大変に金の発色と保存状態のよい経典なのですが、注目したいのはその本文ではありません。展示会場でご覧いただくと分かりますが、この経典の表紙部分に薄汚れた茶色い付箋のようなものが付いています。実はこれ聖徳太子の「手の皮」と伝えられているんです。
下巻題箋部分
どうして手の皮なんかお経につけたのと不思議でしょうが、これは「梵網経」に写経のあり方として「皮をはいで紙となし、血を刺して墨となし、髄(ずい)をもって水となし、骨を折って筆となす」という壮絶な方法が記されていることに由来します。
実際この「梵網経」の皮とされている部分を見ると毛穴があり、また不浄な動物の皮をお経に貼ることはないと考えられるため、実際に人間の皮膚なのでしょう。
ちなみにこの皮を拝めば死んだ後に三悪道と呼ばれる「地獄・餓鬼・畜生」の世界に生まれ変わることはないとされています。
3.五大明王鈴(ごだいみょうおうれい)
重要文化財 五大明王鈴 中国 唐・8~9世紀 東京国立博物館蔵
別名で古代真鈴(こだいしんれい)とも呼ばれています。中国の唐時代に作られた密教法具で、表面には五大明王の姿が浮き彫りで表わされています。どうみても仏教の遺物なのですが、どうしたわけか神代のものとされ、聖徳太子が仏教とともに神道を崇めるしるしとされています。
伝承によると、聖徳太子が生まれた時、その御殿の棟に光明を発して出現したと言われています。
4.八臣瓢壺(はっしんのひさごつぼ)
「法隆寺什物図」(東京国立博物館蔵)に描かれた「八臣瓢壺」。「八臣瓢壺」は8月11日(水)から展示
※「法隆寺什物図」は展示していません
別名で賢聖瓢(けんじょうのひさご)とも呼ばれています。一見して焼き物の壺に見えますが、ヒョウタンでできた大変に珍しい壺です。どのように作ったのか詳細は不明ですが、おそらくまだヒョウタンが青く小さなうちに、文様を刻んだ型を外側から被せたのでしょう。やがてヒョウタンが成長すると、型に圧迫されて、表面にレリーフが浮かび上がるという仕組みです(是非、どなたか再現実験をしてみてください)。
孔夫子(こうふうし)・栄啓期(えいけいき)・東園公(とうえんこう)・綺里季(きりき)・夏黄公(かおうこう)・甪里(ろくり)先生・鬼谷(きこく)先生・蘇秦(そしん)・張儀(ちょうぎ)の9人が表わされていますが、このうち、栄啓期については臣家の出身ではないため、八臣瓢壺と呼ばれます。儒教に由来するその内容から、この国で儒教が盛んになるしるしと伝えられてきました。
なお、この作品は宮内庁が所蔵されており、後期から展示されます。
5.御足印(ごそくいん)
御足印 奈良時代・8世紀 東京国立博物館蔵
なんだかシミだらけのマットのようなもので、どこか宝物なんだろうと思われるでしょうが、じつはこのシミ、聖徳太子の足跡とされています。
聖徳太子が未来の衆生、つまり我々と縁を結ぶために残した足跡であり、またこの足跡が見えるかどうかによって、日本の仏教が盛んであるか滅亡しそうであるかのしるしにもなっているとされます。どうですか?みえますでしょうか?
会場でご覧になって頂くともう少しよく分かりますが、向かって左側に左足のような窪んだシミが観察できます。江戸時代に記された「斑鳩古事便覧(いかるがこじびんらん)」という書物には足跡の大きさは「七寸二分」(約21.8)とあり、この窪んだシミの大きさと一致します。
6.梓弓(あづさゆみ)
重要文化財 梓弓 奈良時代・8世紀 東京国立博物館蔵
梓真弓(あづさのまゆみ)とも呼ばれています。太子が所持した怨敵退治の弓と伝えられ、男子にあっては弓箭(きゅうせん)の難、つまり武器によって傷つけられる災難を防ぎ、女子にあっては難産を防ぐとされています。
大きな木の棒でできており、これを引くにはよほどの腕力が必要と思われます。なお、著名な美術史家であり歌人・書家としても有名な会津八一(あいづやいち)(1881~1956)は、その著書『南京新唱(なんきょうしんしょう)』のなかでこの宝物を次のように歌っています。
みとらしのあづさのまゆみつるはけて
ひきてかへらぬいにしへあはれ
「みとらし」とは聖徳太子がお手に取られたという意味、「つるはけて」は弦を掛けることをいいます。太子がお手にとられた梓真弓に弦を掛け、引いて放たれた矢が戻ってこないように遠い彼方に去った昔が偲ばれるということでしょうか。
7.六目鏑箭(むつめのかぶらや)
重要文化財 六目鏑矢 奈良時代・8世紀 東京国立博物館蔵
六目鏑箭とともに、箭(や)と利箭(とがりや)、彩絵胡簶(さいえのやなぐい)(すべて通期展示)がセットとして伝えられています。蝦夷(えみし)および仏教に敵対したとされる物部守屋(もののべのもりや)を退治した時に用いたものとされ、天下泰平をもたらす宝物と伝えられています。
鏑箭とは蕪(かぶ)のような形をした中空の部品(鏑)をつけた箭のことで、矢が空中を飛んでいる時に鏑の穴に空気が通ることで音が鳴るというものです。宝物の場合、その穴が6つあるので六目鏑箭と呼ばれます。戦場では戦闘開始の合図として用いられたと言われており、魔除けの意味から、現代でも神社の授与品とされる場合があります。
いかがでしたでしょうか。大変バラエティーに富んだ内容ですが、先ほどの手の皮といい、足跡といい、聖徳太子その人に「触れたい、感じたい」という熱烈な信仰心が伺えます。実際に太子に由来するとは考えにくいものではありますが、史実を超え、信仰心の中で夢見られた、いわば「精神としての真実」というような聖徳太子の姿をここに見ることができます。
カテゴリ:2021年度の特別展
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posted by 三田覚之(工芸室主任研究員) at 2021年08月02日 (月)