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1089ブログ

いよいよのびのび、自在置物!

長雨と湿気に、気分もやや沈みがち・・
そんな中、ここだけはホットなエナジー(表現が古い?)が満ちみちています。それは、刀剣が展示されている部屋。連日の盛況には、ただ驚くばかりです。
この機会に初めてトーハクを訪れたという方も少なくないようですが、ツイッターなどでの感想の中に、「刀剣だけでなく他の総合文化展(平常展示)の展示物も良かった!」との声を目にして、とても嬉しく感じます。永い歴史をもつ当館には、優れた美術作品や歴史資料が伝わってきました。担当の研究員は、その中からさらに厳選して作品を展示しています。あなたのその熱いまなざしなら、きっと他の分野でも、名品の名品たるゆえんを感じ取っていただけるはずです!
ということで、いささか前のめり、かつ我田引水ぎみですが、今回は本館13室金工の部屋で現在展示している、「自在と置物」(7月26日(日)まで)についてご紹介します。

自在置物とは、鉄、銀、銅などの金属で、タカ、ヘビ、エビ、カニ、コイ、カマキリ、クワガタ、チョウなどの動物を形づくったものです。たんに形にあらわすというのではなく、各パーツを細かく独立させて作り、組み立てられています。プラモデルを想像してみてください。ただ、プラモデルのパーツは、溶かしたプラスチックを金型に流し込んで成形しますが、自在置物の場合はすべて手作り。それも金属の塊や板を熱しては叩くことを繰り返し、形に仕上げているのです。その姿はきめわてリアル。しかも胴体や関節の曲げ伸ばしなど、自由自在に動かすことができます。パーツが細かく分かれているので、自由でなめらかな動きが可能となるのです。


左:自在鷹置物 明珍清春作 江戸時代・18~19世紀 東京国立博物館蔵
右:自在伊勢海老置物 明珍宗清作 江戸時代・18~19世紀 東京国立博物館蔵


こうした一連の作品は「自在置物」(略して自在ということも多い)と呼ばれていますが、この呼び名が定着したのは、実はそう古いことではありません。現在も13室で展示していますが、明治時代末に購入した里見重義(さとみしげよし)作の、銀製の龍の箱に、「純銀製自在 龍」と記され、これを当時の台帳に「自在龍置物」として登録したこともあり、昭和58年(1983)当館での特別展「日本の金工」において、同種の作品に「自在○○置物」という名称を使ったことが、ひとつのきっかけとなったのです。当館には、自在の代表的作品が少なくありません。金工を担当してこられた先輩方の研究と尽力によって、当館には「自在置物」の名品が集まり、そして美術作品としても認知されるようになったということを、強調しておきたいと思います。


左:自在龍置物 里見重義作 明治40年(1907) 東京国立博物館蔵
右:自在龍置物の箱の蓋表


自在置物は江戸時代以降、さかんに作られるようになります。制作を担ったのは、鎧(よろい)や兜(かぶと)、あるいは当世具足(とうせいぐそく)などの、いわゆる甲冑(かっちゅう)を制作した甲冑師たちでした。江戸も時代が進み、戦乱の無い泰平な世情の中で、甲冑の仕事は少なくなり、甲冑以外の道具や調度品を手がけるなかに、こうしたいわば「動物のフィギュア」もあったのです。しかし、当時どのように使われていたのかは、よくわかっていません。ある作品では「文鎮」(ぶんちん)と記録していた例があり、一部の小型作品については、文鎮としても使われたようです。しかし大型の作品は、すでに「重し」の範疇を超えています。用途を離れた純粋な鑑賞作品、つまり「置物」という性格は、かなり強かったのではないでしょうか。これは自在置物に限らず、江戸時代、特に中期以降の仏具や、香炉、水滴などの調度品にも、ある程度共通していえることです。一応は用途をもつけれど、多彩で高度な金工技法を駆使し、動植物や人物故事などのモチーフを精巧に表し、それ自体が鑑賞芸術として成立している作品があります。


左:花籠形釣香炉 江戸時代・18世紀 東京国立博物館蔵
右:五具足 村田整珉作 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵


さらには、当時中国や西欧からもたらされ発展した本草学(ほんぞうがく)や博物学(はくぶつがく)の影響も大きくあずかっていたことでしょう。動物・植物・鉱物などを詳細に観察し、精密な図絵に写し取り、分類研究することで、ひいては医療や農耕、漁労などへの応用をはかっていく学問です。

江戸時代の自在置物は、ほとんどが鉄製です。茶釜のように溶かした鉄を鋳型に流し込んで作る鋳造(ちゅうぞう)という技法もありますが、甲冑や刀剣などは、鉄の塊や板を熱して赤め叩くことを繰り返す鍛造(たんぞう)により成形します。いったん形を作ってしまえば、固く頑丈なのですが、そこまでもってくるのに、たいへんな手間と時間、そして技能を必要とします。見方を変えれば、鉄を鍛造して組み上げる「自在置物」は、同じ材質と技法で甲冑を作っていた甲冑師たちにとっては、まさに「お手の物」でした。江戸時代の自在置物には、「明珍」という姓をもつ作者の名が記された作品があります。この明珍は甲冑師の一派で、大名の所在する各地で活躍していました。今回の展示の中にも、明珍姓の作品がいくつかありますが、その一つが当館の誇る「自在龍置物」です。


上:自在龍置物 明珍宗察作 江戸時代・正徳3(1713) 東京国立博物館蔵
下:寝ころんだところです。


全長135センチをはかり、自在置物としては大型の部類に入る作品です。鉄の鍛造でパーツを作り、表面に黒漆を焼き付け、鋲(びょう)で留めて組んでいます。胴から尻尾にかけては、径のことなる円筒を重ねていくやり方で、ヘビの構造と同様です。大型でやや重くはありますが、かなりフレキシブルな動きをさせることが可能です(動画をご覧下さい)。
もちろん龍は実在の動物ではないのですが、東洋では古代から、様々に表現されてきました。そうした従来の図像の約束ごとにしたがい、それをリアルに再現したということになるでしょう。この作品は、大型であること、動きのなめらかさ、バランスの取れた造形など、自在置物としても最高峰といってよいと思うのですが、もう一つ重要なことに、制作年代と作者の名前が判明する点があります。のどの部分に刻まれた銘文から、正徳3年(1713)、「武江」(武蔵野国江戸)の神田に住む、当時31歳の「明珍紀宗察」が作ったことがわかります。正徳3年は、現存する自在置物の年記としては最古です。


自在龍置物のあごの銘文


またこの明珍宗察(むねあき/むねあきら)は、甲冑師としても実績を残しました。宗察は江戸の明珍家本家の宗介に師事し、広島藩浅野家や福井藩松平家の甲冑を制作しています。灯台もと暗し、実は当館にも、宗察の手がけた甲冑の部品があることがわかりました。籠手の部分の金具2点です。いずれも鉄の鍛造で作られており、背面から打ち出すことにより、表はレリーフ状に浮き上がっています。龍の爪や角には、金や銀が象嵌されています。薄い鉄板の打ち出しと細部の表現から、優れた技術が見て取れるのですが、本品には「於武江 明珍式部紀宗察作之」「享保六辛丑年二月吉祥」と刻まれています。自在龍制作から8年後の享保6年(1721)、変わらず江戸住まいであった宗察の手になるものです。そういえば、龍のボサボサッとしたようなひげの表現は、両者通じるところがありますね。この後宗察は以後も甲冑師として活動したようで、子の宗寅と合作した延享5年(1748)の甲冑が知られています。


左上:甲冑金具(籠手部分) 明珍宗察作 江戸時代・享保6(1721) 東京国立博物館蔵 ※この作品は展示されていません
左下:鉄板の打ち出しで、龍や雲などの文様をレリーフ状に表します。
中・右:甲冑金具の銘文


自在置物は、明治時代以降も制作されました。海外における博覧会での出品や工芸品の輸出などの時勢にあって、精巧な自在置物は海外で高く評価されます。今なお海外に多数の自在置物が所在しているのは、そのためです。明治期における自在のプロデュースを精力的に行なったのが、今回の展示でも作品を紹介している、高瀬好山(たかせこうざん)でした。当館にはこれまで、好山の自在がなかったのですが、昨年ご好意によって作品のご寄贈、ご寄託にあずかることができ、本当に有難く感じております。(なお今回展示している高瀬好山作の自在蟷螂置物をご寄贈くださった森山寿様からは、明珍宗察の動向についても、貴重なご教示をいただきました。)


左:自在蟷螂置物 高瀬好山作 大正~昭和時代・20世紀 東京国立博物館蔵 (森山寿氏寄贈)
右:蟷螂拳 VS 蛇拳!

自在置物は、その所在や伝来もふくめ、今後新しい事実の発見や確認が期待される分野だと思います。興味を抱かれる方も、年々増えているように感じます。自在置物の世界が、いよいよのびのびと広がっていくことを願っています。

 
 

「自在龍置物」を実際に動かしてみた動画です。

 

カテゴリ:研究員のイチオシ

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posted by 伊藤信二(広報室長) at 2015年07月03日 (金)

 

特集「清時代の書」の見どころ

梅雨の時期、皆様はいかがお過ごしでしょうか。私はお昼休みに、展示室に向かうことがあります。快適な空間で作品を楽しむ、この時期には、何よりの幸せを感じます。現在、東洋館8室で開催中の特集「清時代の書」(2015年6月9日(火)~2015年8月2日(日))も、会期の半ばを過ぎました。天候不順、ジメジメして気分も晴れない…本展には、そんな時期だからこそ見ていただきたい作品が展示されています。

展示風景
篆書・隷書・楷書・行書・草書、そして篆刻に印譜と、様々な作品が展示室を彩ります。


本展の舞台となるのは、中国・清時代(1616~1912)も乾隆帝による最盛期を過ぎた18世紀末から19世紀にかけて。書の分野では、この頃より碑学派(ひがくは)と称される一派が隆盛します。法帖を中心に学んできた従来とは異なり、彼らが書の拠り所としたものは、古代の青銅器や石碑など金石に見られる銘文の字姿でした。当時、全盛を迎えていた考証学(こうしょうがく/客観的・実証的に儒家古典を研究する学問)。その進展により金石が再注目され、広く研究されていたことが背景にありました。
これら金石の書のなかには、南北朝時代の石碑など以前は書としての価値が見出されず、お手本とされなかったものや、漢時代以前の篆書・隷書など生気に満ちた表現の開拓により、新たな息吹が吹き込まれ、再び脚光を浴びたものがあります。
碑学派は書の鑑賞と表現の幅を拡充させ、清時代の書を百花繚乱のごとく彩りました。


乙瑛碑と高貞碑
左:乙瑛碑(部分) 中国 後漢時代・永興元年(153)
 東京国立博物館蔵高島菊次郎氏寄贈)※本展出品作品ではありません。
高貞碑(出土初拓、部分) 中国 北魏時代・正光4年(523) 台東区立書道博物館蔵 ※本展出品作品ではありません。台東区立書道博物館「不折が愛した中国・南北朝時代の書―439年から589年、王朝の興亡を越えて―」にて7月20日(月・祝)まで展示中。

本展では、そんな碑学派隆盛の礎をなした鄧石如(とうせきじょ、1743~1805)・包世臣(ほうせいしん、1775~1855)・呉熙載(ごきさい、1799~1870)の、師弟3代にわたる系譜にスポットを当てています。

鄧石如
左:鄧石如像(『清代学者象伝』第2集) パネル展示
草書五言聯 鄧石如筆 中国 清時代・嘉慶9年(1804) 個人蔵
生涯、仕官せず、各地を歴遊して、書と篆刻で身を立てた鄧石如。言葉数は少なく、高潔で実直な人柄だったようです。生命感にあふれた鄧石如の書を見ていると、どこか力が湧いてくるような気がします。


包世臣
左:包世臣像(『清代学者象伝』第2集) パネル展示
楷書嬌舞倚床図便面賦軸 包世臣筆 中国 清時代・18~19世紀 東京国立博物館蔵
経世家として、また書の理論家として才を発揮した包世臣。小柄で精悍な人物だったようです。絹本に書かれたこの作品は、爽やかな墨の色合いに目を奪われます。

呉熙載像
左:呉熙載像(『清代学者象伝』第2集) パネル展示
篆書張茂先励志詩四屛 呉熙載筆 中国 清時代・19世紀 東京国立博物館蔵青山杉雨氏寄贈
生涯、仕官せず、書画篆刻や書籍の棗刻などを生業とした呉熙載。誠実で情に厚い人柄だったようです。しなやかさのある呉熙載の篆書を見ると、あたかも心地よい風が吹き抜けていくような気がします。


師弟とは言っても、それぞれの関係は異なります。鄧石如と包世臣は、師友の間柄に近く、実は生涯に2度ほど会ったにすぎません。しかし、この2度の出会いこそが、後に鄧石如の書の評価を不動のものとするきっかけになったのです。
初めての出会いは、嘉慶7年(1802)、鄧石如60歳、包世臣28歳のときのこと。鎮江(江蘇省)で鄧石如を知った包世臣は、書の教えを乞うべく、10日余りも彼のところを訪れました。それほどまでに自身を突き動かす何かを、鄧石如の人と書に感じたのでしょう。そして、鄧もまた、30以上も歳の離れた若者の熱意に、きっと心を許したにちがいありません。鄧石如は、包世臣を自身の書のよき理解者だとし、包もまたそれを自負していました。翌年、両者は揚州(江蘇省)で再会を果たしますが、これが終世の別れとなります。
鄧石如の没後、包世臣は、その生涯を「完白山人伝」として記し、伝授された技法を「述書」にとどめます。そして、当代の書を9つのランクに分けて評価した「国朝書品」において、包は唯一、鄧石如の書を第1等に置き、鄧の書が自身の理想を体現したものであることを世に示したのでした。

篆書白氏草堂記六屛
篆書白氏草堂記六屛 鄧石如筆 中国 清時代・嘉慶9年(1804) 個人蔵
鄧石如の篆書は、隷書とともに神品(第1等)に置かれました。


包世臣よりも24歳年少の呉熙載は、若くして包の入室の弟子となります。呉熙載は包世臣の字、慎伯(しんぱく)にちなんで、室号を師慎軒(ししんけん)とするほど、師を慕い、尊敬してやみませんでした。
既に呉が21歳のときには、包世臣の書法を会得し、包から、自身の書と見分けがつかない、とまで言われるようになっていました。呉熙載の素質と、ひたむきに努力する人柄を認めた包世臣は、愛弟子として、また書を深く語り合える数少ない者として、彼に様々な技法を授けたのです。そこには、師の鄧石如から学んだことも多分に含まれていたでしょう。
呉熙載の書を見てみると、楷書・行書・草書の3体は包世臣のものと酷似し、篆書・隷書・篆刻は鄧石如の作に範をとっていることが分かります。包世臣が著述で師を顕彰したように、呉熙載は自身の作品を通して、何よりも二人の師のことを世に伝えたかったのではないでしょうか。


楷書淮南子主術訓横披 呉熙載筆と臨孝女曹娥碑冊 包世臣筆
左:
楷書淮南子主術訓横披 呉熙載筆 中国 清時代・19世紀 個人蔵

臨孝女曹娥碑冊(部分)包世臣筆 中国 清時代・道光20年(1840) 東京国立博物館蔵(高島菊次郎氏寄贈)


隷書七言聯 呉熙載筆と隷書崔子玉座右銘横披 鄧石如筆
左:隷書七言聯 呉熙載筆 中国 清時代・19世紀 個人蔵
隷書崔子玉座右銘横披 鄧石如筆 中国 清時代・嘉慶7年(1802) 個人蔵


彼らの後を受けて、趙之謙(ちょうしけん、1829~1884)・徐三庚(じょさんこう、1826~1890)・呉昌碩(ごしょうせき、1844~1927)といった人物が碑学派を隆盛に導きます。碑学は楊守敬(ようしゅけい、1839~1915)の来日によって、明治時代に日本にも伝わり、日中双方において近現代の書を語るうえでは不可欠と言えるほど、絶大な影響を及ぼしました。
3家の人柄に思いを馳せつつ、近現代の書との結節点、清時代の書をごゆっくりお楽しみください。


台東区立書道博物館では、碑学派も学んだ南北朝時代の書が展示されています。こちらも是非、お見逃しなく。
「不折が愛した中国・南北朝時代の書―439年から589年、王朝の興亡を越えて―」
2015年3月24日(火)~2015年7月20日(月・祝)
前期:3月24日(火)~5月17日(日)  後期:5月19日(火)~7月20日(月・祝)

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 六人部克典(登録室アソシエイトフェロー) at 2015年07月02日 (木)

 

「クレオパトラとエジプトの王妃展」王妃のプロフィール(3)~ネフェルトイティ~

「クレオパトラとエジプトの王妃展」で注目の王妃について、紹介するシリーズです。
第3回目のヒロインは、アメンヘテプ4世(後にアクエンアテンと改名)の王妃ネフェルトイティ(ネフェルティティ)。
クレオパトラとともに、「絶世の美女」と称されることの多い人物です。彼女の生きた時代をご紹介します。

前回はアメンヘテプ3世と王妃ティイについての紹介しましたが、その跡を継いだのが、この2人の息子であったアメンヘテプ4世です。
彼はアテン神を唯一神とする宗教改革を行い、アマルナに新都を建設したことで知られています。
名前もアメンヘテプ(意味:アメン神は満足する)から、アクエンアテン(意味:アテン神に有益な者)と改名しています。
この王を正妃として支えたのが、王妃ネフェルトイティでした。


王妃ネフェルトイティのレリーフ
出土地不詳
新王国・第18王朝時代
アクエンアテン王治世(前1351~前1334年頃)
アル・タニコレクション
(C)Alexander Braun
アメンヘテプ4世とその家族が、アテン神を崇拝する様子がよく描かれました。
このレリーフもそうした場面の一部であるかもしれません



アテン神信仰の始まり
新王国時代の王は、広大な領土から集められる富を、国家の守護神であるアメン神に捧げました。
その結果、アメン神の神官たちの力が次第に大きくなり、政治的な影響力をもつようになります。
これは、王にとっては頭の痛い問題でした。
そこで白羽の矢が立ったのが、太陽神であるアテン神です。
すでにアメンヘテプ3世が、人造湖の完成式典で「輝くアテン」という名の船に乗り、自らの王宮を「ネブマアトラーはアテンの輝き」と呼ぶなど、アテン神を意識することで、アメン神官団を牽制していることがうかがえます。

 
アテン神のレリーフ ※写真右は部分
出土地不詳
新王国・第18王朝時代
アクエンアテン王治世(前1351~前1334年頃)
アル・タニコレクション
(C)Alexander Braun

アテン神は空に輝く日輪の神で、地上に降り注ぐ光はアテン神の手として描かれました

アメンヘテプ4世は、父王アメンヘテプ3世の治世30年を祝う祭礼に際して、カルナクにアテン神殿を建設しました。
この神殿の壁面には、王妃ネフェルトイティが単独で描かれている場面があります。
通常、王妃は王に付き添ったかたちで描かれることを考えると、彼女が、先代の王妃ティイと同様に、政治や儀式の中で重要な役割を担っていたことがうかがわれます。


アマルナへの遷都
アメンヘテプ3世の跡を継いで即位したアメンヘテプ4世は、アクエンアテンと改名し、アテン神を唯一神とする宗教改革に乗り出しました。
治世5年頃には、宗教的な伝統やしがらみと決別するために、アマルナの地に新しい王都を建設しました。
アマルナでは宗教改革とともに、ありのままの姿を表現する写実的な美術表現が発展しました。
アメンヘテプ4世が目指す新しい国づくりの一環であったと考えられます。


王妃の頭部
テル・アル=アマルナ出土
新王国・第18王朝時代
アクエンアテン王治世(前1351~前1334年頃)
ドイツ ベルリン・エジプト博物館蔵
Staatliche Museen zu Berlin - Ägyptisches Museum und Papyrussammlung, inv.-no. ÄM 21245,
photo: Sandra Steiß


アマルナ様式の彫像で、王妃を表したものと考えられています。
碑文がないために、残念ながら誰の像であるかはわかりませんが、王妃ネフェルトイティのものであるかもしれません。
その他、アメンヘテプ4世には、王妃ネフェルトイティのほかにも、キヤという名の有力な王妃がいました。
この彫像は、キヤの像であるとする説もあります。
キヤはツタンカーメン王の母とも考えられている王妃です。

対外政策
今回の展覧会では、楔形文字が刻まれた2件の粘土板文書が展示されます。
これらはアマルナの王宮址で発掘され「アマルナ文書」と呼ばれる文書に属するものです。
アマルナ文書の大部分は、アメンヘテプ3世の治世後半からアクエンアテン王の治世に、エジプトが諸外国と交わした外交文書で、当時の国際情勢を今に伝える重要な資料です。


ミタンニ王トゥシュラッタから王妃ティイへの書簡
テル・アル=アマルナ出土
新王国・第18王朝時代
アクエンアテン王治世(前1351~前1334年頃)
大英博物館蔵
(C)The Trustees of the British Museum, all rights reserved


ミタンニ王国は、現在の北シリアにあった王国です。
当時、ミタンニ王は3代続けてエジプトの王室と婚姻関係を結んでおり、両国は親密な関係にありました。
写真の、トゥシュラッタ王の手紙は、王の母としてアマルナで暮らしていた王妃ティイに宛てたものです。
息子のアメンヘテプ4世に父王と同様の友好関係を維持するように、これまでの両国のやり取りをよく知っている王妃ティイから話してほしい、という内容です。
アメンヘテプ4世の時代は、おそらく宗教改革や新都の建設といった事業の余波もあり、エジプトの対外政策は消極的なものでした。

王妃ネフェルトイティの足跡は、「アマルナ文書」の中には残されていません。
また、彼女は、アクエンアテン王の治世後半には、エジプト側の記録からも忽然と姿を消してしまいます。
王妃ネフェルトイティの出自や経歴には不明な点が多く、今後の発見が期待されるところです。

カテゴリ:研究員のイチオシ2015年度の特別展

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posted by 小野塚拓造(特別展室アソシエイトフェロー) at 2015年06月30日 (火)

 

トーハクくんがいく!~本館16室で夏を先取り~

ほほーい! ぼく、トーハクくん。
研究員の井出さんに「このまえ約束したでしょ?」と言われて、本館16室にやってきたほ。
・・・実は約束を忘れかけていたんだほ(ボソッ)。
やあ、トーハクくん、よく来たねえ。今日もいいものを紹介するよ。
井出さん、よろしくお願いします!

さてさて、今回はどんないいものが見られるのでしょう?


今回の16室は「琉球の暮らし」。沖縄の島々の展示だよ。
夏といえば沖縄だほ。
そのとおり! 「16室で夏を先取り☆」が、今日のテーマなんだ。
ほー! 沖縄大好きほー!
(と、言っていますが、トーハクくんは沖縄には行ったことがありません)
じゃーん、まずはこれを見てよ。

 
紅型衣装 浅葱地波松梅紅葉模様
沖縄本島
第二尚氏時代・19世紀
展示期間:6月16日(火)~7月26日(日)
※7月28日(月)からは、別の紅型衣装を展示します。


キレイな着物だほ。
琉球といえば紅型(びんがた)さぁ(沖縄調)。涼しげな色で「夏」って感じでしょ?
柄もいろいろで楽しいほ。
そうそう、夏の柄という訳じゃないんだけど、きれいな浅葱(あさぎ) 色と柄の華やかさが、夏っぽいよね。
着るだけで、気分がアガりそうだほ!
沖縄の青空の下でこの着物は映えるだろうなぁ・・・。
ほー…。
(しばらく2人で妄想中です)


さて、次がぼくのイチオシだよ。ね、かわいいでしょ。


酒ヂューカー(右)と猪口(左)
沖縄本島
第二尚氏時代・19世紀


カニとトンボだほ! かわいいほ!!
鮮やかな色づかいと、ざっくりした絵の描きっぷりがいいよね。色づかいのせいかな、夏っぽいなーと思ったんだ。
ふたつ並んでいるとさらにかわいいほ。
実はね、このふたつはセットではないんだ。でも、ぼくだったらセットで使うかなと思って、こうやって展示してみたんだよ。どう、ぴったりでしょ?
ちゃんと考えて展示しているんだほ。やっぱり井出さんはまじめな人なんだほ。
もともと美術品ではなく、日常使いの道具だからね。使っているシーンを想像しながら見てもらえるいいな、と思っているよ。
教えてもらって良かったほ。あやうく通りすぎるところだったほ。
相変わらず、トーハクくんはまだまだだなぁ。
・・・!

そして、こっちもぼくのとっておき。
なんだほ? なにかの実・・・?
あ、わかる? これはヤシの実をくりぬいて作った泡盛の容器だよ。

 
ヤーシグヮー
琉球
第二尚氏時代・19世紀
展示期間:6月16日(火)~7月26日(日)
※7月28日(月)からは、別のヤーシグヮーを展示します。


ヤシの実! なるほー。夏っぽいんだほ。
ころんとしたフォルム、思わず手にとりたくなっちゃうと思わない?
実際によく手に馴染むし、薄くて軽いんだ。どんどん泡盛を注いじゃって、ついつい飲みすぎちゃいそうだなぁ。
井出さんはお酒が好きなんだほ。
それに、籐蔓の模様が丸いヤシの実に、これまたぴったりなんだよねぇ。
よく似合っているほ。
このヤーシグヮーは、泡盛を持ち運ぶための容器なんだ。言ってみれば、携帯用の徳利ってところかな。
ぼくのポシェットと似ているんだほ。


ちなみにトーハクくんのポシェットの中には、好物のはにわクッキーが入っています

この作品も決して目を引くような外見ではないけど、ぼくは好きだなぁ。
せっかく暮らしの道具を展示しているから、ひとつひとつを丁寧に見て、使ってみたいと思う作品を見つけてもらえるとうれしいな。
井出さん…(感動中)!
ところで、トーハクくんは沖縄に行ったことがある?
…行ったことがないほ。
確かに本州ではヤシの実は使わないし、南国らしい素材ではあるんだけど…沖縄にはたくさんヤシの木がはえているのかな? どうなのかな?
…?
いやあ、ぼくも実は沖縄に行ったことがないんだよね・・・。
!!!
なんくるないさー(行ったことがないけど沖縄調)。
やっぱり心配な人なんだほ。さっきの感動を返して欲しいほ…。

「琉球の暮らし」は、一部の作品の展示替えをして、6月16日(火)~7月26日(日)と7月28日(火)~9月13日(日)の展示です。
本館16室で琉球の展示をするのは、年に1回、今だけです。ぜひ夏を探しに来てください。
井出さん、今日はありがほーございました。
こちらこそ、今回も楽しかったよ。次は9月15日(火)からの「アイヌの暮らし」を見においでね。
はっ、まさか16室ブログをシリーズ化させるつもりなんだほ!?
にやり。


ブログシリーズ化をねらう井出さんの、意外なしたたかさを知ってしまったトーハクくんなのでした

カテゴリ:研究員のイチオシ

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posted by トーハクくん at 2015年06月26日 (金)

 

大彦コレクションと友禅染─第2次友禅染ブームと、加賀染、久隅守景のことなど

今、トーハクでは、江戸時代の小袖がずらりと展示されています(画像1)。「小袖」というのは現在の着物の原型です。江戸時代までは袖口を小さく縫い狭め、袂がある長着を「小袖」と呼んでいました。これらの小袖コレクションを蒐集したのは、明治期から大正期にかけて業界で名を馳せた呉服商、野口彦兵衛(1848~1925)です。明治8年に独自の友禅染を売る「大彦(だいひこ)」という店を日本橋に立ち上げた彦兵衛。明治20年代の終わりにはそのデザインが「東京一本立」と称されるほど、京阪とは異なる趣向をもった個性的な染め模様であったようです。
 

展示風景
画像1:本館特別1室・2室で展示中の特集「呉服商「大彦」の小袖コレクション」


「大彦染」と称された彦兵衛の店のきものは江戸時代から続く日本の伝統技法「友禅染」で染めたものです。だから彦兵衛が蒐集した小袖コレクションにも友禅染が多いのでしょう(画像2)。しかし、彦兵衛が江戸時代の友禅染を参考に「大彦染」のデザインを考案した、というわけではないようです。彦兵衛は小袖のほかにも、人形や武具、インド更紗などを蒐集していましたが、当時の「大彦染」は「更紗染に工夫がある」や「絵画と更紗風とを調和し巧みに意匠を付したるものなり」などと評されているように、むしろ彼のもう1つのコレクションであるインド更紗から影響をうけていたことがうかがえます(画像3)。

大彦染
画像2
左:振袖 白縮緬地梅樹衝立鷹模様 野口彦兵衛旧蔵
 江戸時代・18世紀 (展示中)
右:小袖 浅葱縮緬地唐山水模様
 野口彦兵衛旧蔵 江戸時代・18世紀 (展示中)
当館所蔵の友禅染の名品は、まず、「大彦」のコレクションであるといっていい

彦根更紗
画像3
彦根更紗 紫地立木小鳥文様更紗 
野口彦兵衛旧蔵 南インド・18世紀 彦根藩井伊家伝来 (展示中)
彦兵衛が大正期に井伊家から購入した。彦兵衛は「更紗きちがい」と言われるほどに更紗を集めていたと言われるが、関東大震災で焼けてしまったという。

実は、彦兵衛が活躍した明治期の友禅染は、江戸時代から続くものとは随分異なっていました。友禅染の始まりは、江戸時代前期、京都・知恩院門前で店を構えていた宮崎友禅が描く大和絵風の扇絵が都で大流行、その扇絵(画像4)を小袖の模様にも染めるようになったことがきっかけでした。貞享年間(1684-1687)にこの友禅模様は一大ブームを引き起こしますが、元禄期(1688-1707)には廃れてしまいます。しかし、友禅風の模様を染めていた技法のことは、ブームが終わってからも「友禅染」と言われ続けました。絵画的な模様を色彩豊かに染め、しかも色落ちしない、という点が友禅染のセールスポイントでしたが、江戸時代後期にかかる頃には、その特色も省みられなくなります。町人に対するたび重なる贅沢禁止令によって町方の女性たちが華やいだ色小袖を着用することが難しくなり、江戸時代末期には、手彩色で手間隙のかかる友禅染は豪商の妻子が晴着に染める程度で、市井の人々が着用することはほとんどなかったのでした。

友禅筆の扇絵
画像4
蛍図扇面 宮崎友禅筆 江戸時代・17世紀(この作品は展示されていません)
宮崎友禅自筆と伝えられる扇。江戸時代、宮崎友禅は京都の扇工として知られていた。

ところが、明治期に化学染料が日本に輸入されるようになると、友禅染にも大きな変革期が訪れました。化学染料を糊に混ぜ、型染で反物に模様を定着させる「写し友禅」「型友禅」が京都で生産されるようになりました。手描き友禅ほど手間隙をかけずに量産ができ、江戸時代の友禅染よりは安価で友禅染が着られるようになり、一般女性の間でも、友禅染の華やかな着物が着られるようになったのです。「大彦」の時代は、いわば第2次友禅染ブームといっていいでしょう。

友禅染が再び注目を集めるようになった明治期以降、その歴史についてもこれまでにない新たな説が取り沙汰されるようになりました。江戸時代後期に活躍した戯作者・考証学者である柳亭種彦の説「友禅は京都の染物屋で、加賀(現在の石川県金沢市)生まれの人であり、加賀染をよくする」(『足薪翁記(そくしんおうき)』)が広まり(しかし、柳亭の説は何を典拠に記したのかは定かではありません)、友禅染は加賀が発祥の地である、と考えられるようになったのです。大正9年には、金沢の龍国寺で宮崎友禅の墓碑が発見され、京都で加賀染を発展させた友禅が故郷に帰り、その染技法を地元の染屋に伝授した、という伝説が「裏付け」られました(画像5)。さらに伝説は膨らんで、加賀染は、一時期加賀に在留した狩野派の絵師・久隅守景(画像6)が九谷焼の色絵を元に発明した技法で、それを守景から直接伝授された宮崎友禅が京都に出て大成させた、という説まで登場しました(野村正治郎『友禅研究』)。確かに、地元・金沢の史料を見ると、友禅染で染めた着物のことを「色絵」と呼んでおり(享保三年御用御染物帳)、また、久隅守景が描いたという色絵九谷焼の磁器も残っているのですが…。想像を膨らませた妄説と言われても、仕方がありません。

紫式部観月図友禅染絵
画像5
左:友禅染掛幅石山寺観月図 江戸時代・享保5年(1720)(この作品は展示されていません)

右:左下拡大図
加賀で染物業を営んでいた太郎田屋5代、茂平(茂兵衛)が宮崎友禅の指導のもと、製作したと伝えられる。染絵の左下に「享保伍庚子六月十五日於加州/御門前町染所茂平」と染め抜かれる。「加州」とは加賀のこと。

納涼図
画像6
国宝 納涼図屏風(部分)  久隅守景筆 江戸時代・17世紀(
この作品は展示されていません
宮崎友禅は加賀生まれと言われ、狩野派の絵師に絵画を学んだと言われている。それもまた、狩野探幽の弟子だった久隅守景と関連付けられる理由の一つである。

面白いのは、彦兵衛がコレクションの友禅染に付けた付箋には例外なく「加賀染」と記していることです(写真7)。なぜ、「友禅染」とは言わずにあえて「加賀染」と称したのでしょうか。

彦兵衛自筆の紙札
画像7:小袖 浅葱縮緬地唐山水模様(写真2の右)に付属する彦兵衛自筆の紙札
紙札には「享保頃 加賀染潟模様 唐縮緬 地空色 唐画山水」と記される。

今でも「大彦」の友禅染の特徴は、糸目糊で輪郭線を描き、色を挿していく江戸時代以来の伝統的な技法(画像8)であるといわれています。新規の型友禅が出回った明治期以降、宮崎友禅が活躍していた時代の本物の友禅染の手本として、江戸時代の友禅染を蒐集することは彦兵衛の「大彦染」にとって、欠かせないものでした。それは「大彦流にして…蓋し始祖友禅の遺志を得たるものか」という批評にも表れています。だからこそ彦兵衛は、コレクションの中にある江戸時代の友禅染に、その源流である「加賀染」の名を用いたのではないでしょうか。

伝統的な技法
画像8
左:「振袖 白縮緬地梅樹衝立鷹模様(
画像2 左)」部分
右:「小袖 浅葱縮緬地唐山水模様(画像2右)」部分
細く白い輪郭線は、糸目糊を置いた跡である。繊細でゆるぎのない線を糊で描くには、相当の熟練がいる。



この特集では、彦兵衛が「加賀染」と呼んだ友禅染の優品がお披露目されます。是非、この機会に日本独自の染模様をご堪能いただきたいと思います。
 

特集「呉服商「大彦」の小袖コレクション」
2015年6月9日(火)~8月2日(日)  本館 特別1室・特別2室
※前・後期で展示替あり
前期:6月9日(火)~ 7月5日(日)
後期:7月7日(火)~ 8月2日(日)

関連事業
月例講演会「呉服商『大彦』の小袖コレクションについて」
2015年6月27日(土) 13:30~15:00 (開場は13:00を予定)
平成館大講堂

ギャラリートーク「呉服商『大彦』の小袖コレクション」
2015年7月14日(火) 14:00~14:30
東洋館地下  TNM&TOPPANミュージアムシアター

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 小山弓弦葉(工芸室主任研究員) at 2015年06月25日 (木)