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1089ブログ

特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」閉幕

東京国立博物館(以下、東博または当館)の創立150年を記念した特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」は、1週間の会期延長をへて、12月18日(日)に閉幕しました。
翌日から作品撤収が始まり、展示作品たちはそれぞれの収蔵庫に戻りました。
また、キリンのファンジも国立科学博物館の筑波研究施設へと帰っていきました。
約2か月間の会期を無事に終えることができて、職員一同ほっとしています。

本展には、開幕初日から多くの方が御来場くださり、誠にありがとうございました。
会期中の総来場者数は約35万人にのぼり、国宝をはじめとする東博の名品と150年の歴史を御覧いただくことができました。
しかしながら、事前予約制としたため、見に行きたくてもチケットが手に入らなかった方も多いと思います。

当館所蔵の国宝たちは、本館や東洋館、法隆寺宝物館などの総合文化展で定期的に展示されていますので、いつかまた見ることができます。
さっそくこの正月には、国宝「松林図屛風」が展示されます(創立150年記念特集 戦後初のコレクション 国宝「松林図屛風」のページに移動)。
しかも写真撮影ができますので、ぜひ推しの国宝たちに会いに来てください。
そして、本展は終了しましたが、創立150年の記念事業は来年3月まで続きます。
次の特別展も鋭意準備中ですので、どうぞ御期待ください。

最後になりましたが、本展の開催にあたり、御協力と御支援をいただきましたすべての皆様に厚くお礼申し上げます。






作品撤収後の展示室。祭りの後のような寂しさを感じます。
 

カテゴリ:東京国立博物館創立150年2022年度の特別展

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posted by 佐藤寛介(登録室長) at 2022年12月27日 (火)

 

サムライの芸術・日本刀と国宝刀剣の間

皆様こんにちは。東京国立博物館(以下、東博または当館)の刀剣担当研究員の佐藤です。
東博の創立150年を記念した特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」(~12月11日(日))も、お陰様で連日大盛況のうちに会期終盤に差し掛かってきました。
今回の1089ブログでは、本展のキーワードである「89件の国宝」と「150年の歴史」と並んで、大きな注目を集めている国宝刀剣19口(注1)と「国宝刀剣の間」を切り口に、その見方や見どころを紹介します。
 (注1)刀剣の数え方の単位には、振、本、などいくつかあり、東博では口を用いています。
 

1 国宝刀剣の間 ~国宝刀剣19口で最高の刀剣鑑賞体験~
本展では、東博史上はじめて、所蔵する国宝89件すべての公開が実現しました。このうち刀剣19口については、一つの展示室で全件全期間ご覧になることができます。
これが名付けて「国宝刀剣の間」で、これまで東博が培ってきた刀剣展示のノウハウを結集して、理想の刀剣展示室を目指しました。
刀剣の配置は、「童子切安綱」を導入部に、「三日月宗近」を中央部に独立して配置し、続く17口を時代、産地、種別によってグループ分けして壁面の三方に配置して、あたかも国宝刀剣に囲まれるような空間としました。
壁面造作は黒色で統一し、全体照明を最小限にすることで刀身の姿を浮き上がらせ、さらに手に取って見るのと同等のクオリティで鑑賞できるよう、ガラス面と刀身の距離、高さを設定し、見どころである地鉄(注2)や刃文(注3)が引き立つよう、刀身の角度と部分照明を微調整しました。さらに展示ケース内には、外観からは見えませんが、作品保護のための調湿材と地震対策の免震装置を組み込んでいます。
このように、日本刀の世界にどっぷり没入してもらえるよう徹底的にこだわり抜いた「国宝刀剣の間」の実現には、私自身がこのような刀剣展示を見てみたいという気持ちと、写真や言葉では伝えきれない日本刀の美を皆様に理解してもらいたい、という思いがありました。
 (注2)刀身の表面に表われた木目のような模様。刀身を製作する工程である「折り返し鍛錬」により生まれる。
 (注3)刀身の刃に表われた明るい文様。刃を強化する熱処理である「焼入れ」により生まれる。
 


東京国立博物館が所蔵する国宝刀剣19口


国宝刀剣の間
誰も見たことがない国宝刀剣だけの展示空間。刀剣の展示方法にも注目してください。中央の「三日月宗近」は、刀身の両面を見てもらえるよう特製ケースとアクリル製刀掛けで展示しています。
その他の刀剣は、木製刀掛け+正絹白布の伝統的な展示方法です。個人的な好みもありますが、この伝統的な展示方法は刀剣を格調高く上品に見せることができるので、なるべく続けたいと思います。
ただし、白布を美しく整えるのは手間と技術が必要です。

 


国宝 太刀 銘 安綱(名物 童子切安綱) 平安時代・10~12世紀
安綱は鉄産地である伯耆国(鳥取県)を拠点とした日本刀成立期の名工で、本作はその最高傑作に挙げられます。
「童子切」の号は、源頼光が酒呑童子という鬼を本作で斬ったという伝説に由来します。古来より名刀として知られ、天下五剣の一つに数えられます。

 


国宝 太刀 銘 三条(名物 三日月宗近)三条宗近 平安時代・10~12世紀 渡邊誠一郎氏寄贈


国宝 太刀 銘 三条(名物 三日月宗近) 拡大
京・三条で活躍した日本刀成立期の名工宗近の代表作。古雅で優美な太刀姿を示し、「三日月」の号は三日月形の刃文があることに由来します(写真下)。
天下五剣の一つに数えられる名刀で、豊臣秀吉の正室高台院、将軍徳川秀忠が所持し、徳川将軍家に伝来しました。

 

2 日本刀の美 ~感覚的で抽象的な日本独特の美~
近年の刀剣ブームにより、世代や性別をこえた新しい刀剣ファンが生まれ、日本刀の美に魅了されています。一方で、実物の刀剣の見どころを理解するのは難しく、専門用語も難解で、近寄り難い印象があるのは確かです。また、どれも同じに見えて違いや良さが分からない、という方も多いでしょう。私は、日本刀の美は、感覚的で抽象的な日本独特のものだと考えています。
その理由として、次の三つが挙げられます。一つ目に、刀剣は武器です。その武器としての「切る」という機能を極限まで追求することで生れた機能美が、日本刀の美の源泉にあります。二つ目に、伝統的な素材と製作技術によって生まれた地鉄や刃文といった鉄の美的な要素が、高度な研磨技術によって引き出されています。それゆえに「鉄の芸術」とも呼ばれ、日本だけでなく世界的にも高く評価されています。三つ目に、刀剣は日本の歴史や文化とも深く関わっています。「武士の魂」という言葉の通り武士の心の拠り所となり、また、神仏の力が宿る神器として信仰の対象となり、さらに権威の象徴として贈答に用いられました。このように、優れた日本刀は単なる武器を越えた存在であり、日本美術工芸においても大きな位置を占めています。この感覚的で抽象的な日本刀の美を、我々の祖先たちは古くから愛でてきました。
そして、長い刀剣鑑賞の歴史の中で、理解しがたい日本刀の美を表現するために培われたのが専門用語であり、いわば、日本刀の美を論理的、具体的に理解するための道標といえます。今回の「国宝刀剣の間」もまた、奥深い日本刀の世界に皆様を誘い、その美をより深く理解していただくための最高の道標を目指したものであります。
 

3 国宝刀剣の見どころ ~造形と由来伝来~
国宝刀剣は、美術的価値と歴史的価値を兼ね備えた名刀です。そして、その造形や由来伝来にもとづく尊称である「号」を与えられたものが多くあります。さらに、「名物」という冠が付せられた刀剣は、刀剣研磨・鑑定の権威である本阿弥家が江戸時代にまとめた『享保名物帳』に掲載されたもので、現在でも高い評価を受けています。
その典型例として、国宝「太刀 銘 備前国包平作(名物 大包平)」を紹介します。作者の包平は、備前(岡山県)で活躍した刀工です。力強く長大な刀身、精美な地鉄、冴えた刃文と、三拍子揃った完全無欠の名刀であり、日本刀の横綱とも称されます。号の由来として、『享保名物帳』に「寸長く大きなる故」とあり、その雄大な造形への畏敬の念が込められています。江戸時代には岡山藩主池田家に伝来し、歴代当主に引き継がれた、まさに伝家の宝刀です。


国宝 太刀 銘 備前国包平作(名物 大包平)古備前友成 平安時代・12世紀
 

4 地域による作風の違い
そして、国宝刀剣19口を一堂に展示した「国宝刀剣の間」ならではの、もう一つの貴重な鑑賞体験として、刀剣の作風が地域によって異なることを、見比べることで直感的に理解できます。
今回の国宝刀剣は、主に三つの地域、山城(京都)、備前(岡山)、そして相模(神奈川)で製作されたもので、ここで培われた刀剣の作風を、山城伝、備前伝、相州伝といいます。
これらの作風を一言で表現するならば、山城伝は「優美」、備前伝は「華麗」、相州伝は「覇気」といえます。この作風の違いは、それぞれの地域文化に根差していると考えられます。
まず、山城伝は京都で生まれたが故に貴族の美意識と価値観を色濃く反映しており、その作風はあくまで優美です。備前伝は万人好みの華麗な作風を追求し、さらに良質の鉄資源に恵まれていたことから、日本最大の刀剣産地として栄えました。 そして、相州伝は武士の都である鎌倉で生まれたので、武士好みの覇気あふれる作風に徹しました。この作風の違いを、「国宝刀剣の間」で実物を通して確かめていただきたいと思います。

山城伝「優美」


国宝 太刀 銘 来国光 嘉暦二年二月日 来国光 鎌倉時代・嘉暦2年(1327)
国光は京・来派の名工です。本作は地刃の出来栄えと健全さから代表作に挙げられ、精美な地鉄に端正な広直刃の刃文を焼入れています。
徳川将軍家に伝来し、徳川家達から東宮(大正天皇)に献上されました。

 

備前伝「華麗」


国宝 太刀 銘 吉房(岡田切) 福岡一文字吉房 鎌倉時代・13世紀
絢爛豪華な作風で知られる吉房の最高傑作として名高い名刀。「岡田切」の号は、織田信長の次男信雄が、家臣の岡田重孝を本作で斬ったことに由来します。
明治時代に益田孝から東宮(大正天皇)に献上されました。

 

相州伝「覇気」


国宝 刀 金象嵌銘 城和泉守所持 正宗磨上本阿(花押) 相州正宗 鎌倉時代・14世紀
地刃の鍛えと沸の美を強調した相州伝の大成者として名高い正宗の典型作。その号は、城和泉守昌茂が所持し、本阿弥光徳が正宗の作と極めたことに由来します。
弘前藩主津軽家の伝来品で「津軽正宗」とも呼ばれます。

 

5 太刀と刀
次に、博物館や美術館での刀剣展示では、刀身の刃を下にしたものと、刃を上にしたものがあります。意外に知られていませんが、これは刀剣の種類の違いを表わしています。
刃を下にして刀身の反りが上に向いた状態で展示されているのが太刀、刃を上にして刀身の反りが下を向いた状態で展示されているのが刀なのです。
この違いは、刀剣を刀装(拵)に収納して、左腰に装着している状態を示しています。
つまり、太刀は刃を下にして腰帯から吊り下げて装着します。これを「佩(は)く」といいます。刀は刃を上にして腰帯に通して装着します。これを「指す」といいます。
一見、同じ形状をした刀身であっても、太刀と刀では装着の仕方が根本的に異なるのです。
そして、太刀と刀では、一般的に太刀は刀身が長く、刀は太刀に比べると刀身が短いといえます。さらに、時代によって主に使用された年代が異なります。
大きな流れとして、およそ500年前の戦国時代を境に太刀から刀へと移行していきます。これには主に二つの理由が連動していると考えられます。一つ目が、刀剣を扱う技術、つまり剣技の進化です。太刀の場合は、1:鞘から抜刀して、2:構え直して、3:攻撃する、という3段階が必要です。一方、刀の場合は、1:鞘から抜刀して、2:そのまま攻撃する、ことができます。太刀より刀の方が一段階すばやく攻撃でき、その一瞬が生死を分かつということが経験的に理解されるようになり、刀剣の主流は太刀から刀へと変化していきます。二つ目が、合戦のあり方、すなわち戦闘方法の変化です。太刀は平安時代後期の日本刀成立期から、その当時の戦闘方法の主流である少数精鋭の騎馬戦で用いられました。互いに馬上で戦いますので、刀身の長い方が有利なことから、太刀は自ずと刀身が長くなります。一方、戦国時代になると戦闘方法は徒歩集団戦が主流となり、密集した状態での乱戦となります。
そのため、抜きやすく扱いやすい、刀身の短い刀が用いられるようになりました。
さらに、話がややこしくなりますが、本展で展示している国宝刀剣19口のうち、刀は3口ありますが、実はいずれも本来は鎌倉時代に製作された太刀で、戦国時代に刀へと仕立て直されたものなのです。
この太刀から刀への仕立て直しを磨上げといいます。長大な太刀を扱い易いよう短く切り詰めるのですが、鋒を切り詰めては武器としての機能を損なってしまいます。そこで柄に納める茎の方を切り詰めて、刀身の手元側を新たに茎に成形し直すのです。
そして、重要なこととして、戦国武将たちは、当時つくられた刀ではなく、古い時代につくられた名刀を手挟むため、太刀を磨上げて刀にしたのです。ここに、刀剣が持つ権威の象徴としての性格が表われています。
 


国宝 太刀 銘 備前国友成造 古備前友成 平安時代・11~12世紀 山本達郎氏寄贈
友成は古備前といわれる初期の備前刀工。本作は、やや細身の刀身に、小丁子に小乱を交えた刃文を焼入れています。将軍徳川家宣から江戸幕府老中で常陸国笠間藩主の井上正岑が拝領し、同家に伝来しました。
 


国宝 刀 無銘 正宗(名物 観世正宗) 相州正宗 鎌倉時代・14世紀
正宗の代表作の一つとして名高く、躍動感のある地刃の働きが見どころ。号は能楽の観世家が所持していたことに由来し、明治維新の際に徳川慶喜が有栖川宮熾仁親王へ献上し、高松宮家に伝えられました。
 

6 武将と名刀
そして、先ほどの太刀を磨上げて刀にする話と関係しますが、腕に覚えのある武将、名のある武将ほど名刀を求めました。その代表例として、国宝「太刀 銘 長光(大般若長光)」を紹介します。
本作は、備前(岡山)を拠点に日本最大の刀工流派として栄えた長船派を確立した名工長光の代表作です。「大般若」の号は、この太刀の代付が六百貫という破格の高値だったことから、六百巻からなる大般若経になぞらえたことに由来します。刀身はがっしりとした太刀姿で、よく鍛えられた地鉄に、華やかな刃文を焼入れています。本作は足利将軍家の伝来品で、後に織田信長が所持し、姉川合戦の武功により徳川家康へ贈られ、さらに長篠合戦の武功により奥平信昌が賜った、まさに武勲の象徴といえます。このように、名刀は武家としての歴史や家格を表わすものでもあるのです。
 


国宝 太刀 銘 長光(大般若長光) 長船長光 鎌倉時代・13世紀
 

7 東京国立博物館の国宝刀剣
現在、国宝に指定されている刀剣は計122口(刀装を含む)あります。東博はこのうち19口を所蔵しており、一つの博物館が所蔵する数としては全国最多で、当館所蔵の国宝89件に占める分野別の比率でも絵画に次いで高いです。
その理由は東博の歩んできた150年の歴史にあります。東博所蔵の国宝刀剣19件の来歴は、大きく次の四つに分けられます。

(1)購入したもの  2口
 短刀 銘 吉光(名物 厚藤四郎)
 太刀 銘 長光(大般若長光)
(2)寄贈を受けたもの  3口
 太刀 銘 三条(名物 三日月宗近)渡邊誠一郎氏寄贈
 刀 無銘 貞宗(名物 亀甲貞宗)渡邊誠一郎氏寄贈
 太刀 銘 備前国友成造 山本達郎氏寄贈
(3)文化財保護委員会及び文化庁が購入し、管理換されたもの  7口
 太刀 銘 安綱(名物 童子切安綱)
 太刀 銘 備前国包平作(名物 大包平)
 短刀 銘 行光
 刀 金象嵌銘 城和泉守所持正宗磨上本阿(花押)
 刀 無銘 正宗(名物 観世正宗)
 太刀 銘 助真
 太刀 銘 長光
(4)宮内省から移管されたもの  7口
 梨地螺鈿金装飾剣
 太刀 銘 定利
 太刀 銘 来国光 嘉暦二年月日
 群鳥文兵庫鎖太刀 刀身銘 一(上杉太刀)
 太刀 銘 吉房
 太刀 銘 吉房(岡田切)
 太刀 銘 備前国長船住景光 元亨二年五月日(小龍景光)

このうち、7件と数が多い(3)は当館の独立行政法人化(2001年)により現在は行われていません。次に、同じく7件の(4)が東博の歴史と深く関わっています。
これらは江戸時代から戦前にかけて、将軍家、大名家、公家、政治家、実業家などから皇室や皇族に献上されたもので、とくに刀剣を愛好された明治天皇の存在が大きかったとみられます。
そして、明治19年(1886)に宮内省の所管となった当館に収蔵され、昭和22年(1947)に国立博物館への移管という形で引き継がれることになりました。
 


国宝 群鳥文兵庫鎖太刀 刀身銘 一(上杉太刀) 福岡一文字派 鎌倉時代・13世紀
上杉氏から三嶋大社(静岡県三島市)に奉納されたという伝承から上杉太刀と呼ばれ、三嶋大社から明治天皇に献上されました。刀装(写真上)は、帯執に兵具鎖を用いた兵庫鎖太刀で、群鳥文を表わした蒔絵と金物の装飾が見どころです。付属する刀身(写真下)は、「一」の銘と作風から、備前(岡山)の福岡一文字派の作と考えられます。

以上、特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」の大きな見どころである国宝刀剣19口と「国宝刀剣の間」を切り口に、その見方や見どころを紹介しました。
創立150年というメモリアルイヤーだからこそ実現した「国宝刀剣の間」で、一つずつじっくり鑑賞するのもよし、時代や地域による作風の違いを見比べるのもよし、それぞれの刀剣がもつ物語に思いを馳せるのもよし、国宝刀剣のオーラを全身で浴びながら、その魅力にどっぷり没入していただきたいと思います。
そして、総合文化展での定期的な公開の機会はこれからもあります。 ぜひ、博物館での本物との出会いを通して、日本刀のもつ美しさ、気高さ、凄味を、感じていただければと思います。最後になりましたが、「国宝刀剣の間」の実現にあたり、技術面で御尽力いただきました会場造作業者の皆様、そして同僚の酒井元樹研究員に深く感謝いたします。

カテゴリ:東京国立博物館創立150年刀剣2022年度の特別展

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posted by 佐藤寛介(登録室長) at 2022年12月02日 (金)

 

最先端の西洋建築にふさわしいのは?

東京国立博物館創立150年記念 特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」(~12/11まで)はいよいよ会期後半となりました。
今回は絵画に関わる作品を紹介いたします。

「国宝」と銘打って、所蔵の国宝がすべて展示されるということなので、どうしても国宝にばかり目が行きがちですが、第2部「東京国立博物館の150年」でも魅力ある絵画作品が展示されています。

ここでは、「赤坂離宮花鳥図画帖」をご紹介いたします。
この作品はもともと東宮御所として建てられた現在の迎賓館赤坂離宮の花鳥の間の内壁を飾る、七宝の花鳥図の下絵として描かれた作品です。
赤坂離宮に実際に嵌められている七宝は渡辺省亭(わたなべ せいてい、1851~1918)の原画に基づくものですが、下絵の段階では省亭とともに荒木寛畝(あらきかんぽ、1831~1915)も描いていました。

下絵とは言っても、両者ともそのまま本画として通用する完成度です。
今回、両者を交互に並べて展示していますが、そうして見てみると、両者の感覚の違いが見えてきます。
 


赤坂離宮花鳥図画帖

荒木寛畝の作品は、伝統的な東洋画の描法に洋画の写実味を加えた精緻な描写で鳥たちを描いています。
花鳥図といいつつも草花の描写は背景の一部としてで、あくまで鳥がメイン。
そのため、各鳥の姿がもっともよく見えるようにポーズをとったような姿が多くなっています。
それが格式ばった感じを与え、緻密な描写と相俟って、ややもすると硬さや重さを感じる画面となっているように思われます。
楕円形の画面ですが、それぞれが一幅の掛軸となっても違和感ありません。むしろ、掛軸作品としての意識のまま描いているようにも見えます。


赤坂離宮花鳥図画帖 雁(かり) 
荒木寛畝筆 明治39年(1906)頃 昭和13年(1938)宮内省より引継 東京国立博物館蔵
展示:2022年11月15日~12月11日


一方、渡辺省亭の作品は、鳥をメインにしたものもありますが、その多くは小型の鳥たちが草花や樹木の中で戯れ、憩う姿を描いたものです。
あたかも自然の中で鳥が枝先に止まった一瞬をカメラでとらえたかのような構図です。
省亭も写実的な描写をしていますが、鳥の描写は一見精緻に見えながら、寛畝のように羽を一枚一枚しっかりとした線で描く描写ではなく、スピード感のある筆触や絵具の濃淡を活かした色面を巧みに用いて立体感や羽毛の質感表現がなされ、そこにペン画のような軽やかなタッチで必要最小限の線描を載せる描写です。
植物の描写も軽やかな線描と暈しを効果的に用いて花や葉、茎を描き、樹木の枝や幹といった、存在感のあるものは輪郭線を用いず、色の濃淡、暈しのみで表現することで、画面全体に軽やかさが生まれているように思われます。


赤坂離宮花鳥図画帖 鶫に黄櫨・竜胆(つぐみ はにし りんどう) 
渡辺省亭筆 明治39年(1906)頃 昭和13年(1938)宮内省より引継 東京国立博物館蔵
展示:2022年11月15日~12月11日

雁 翼の拡大図
鶫 翼の拡大図
黄櫨・竜胆の拡大図


このように比べてみると、どちらも西洋画の写実の意識を持って制作している点は共通していますが、 寛畝は伝統的な重厚感のある感覚が強く、省亭は伝統に基づきながらもより瀟洒で親近感のある感覚が強く出ているように感じます。
省亭の作品は欧米の方にも受け入れられやすい画風と言えます。その点は、図案家として輸出用の七宝工芸の図案を描き、仕事の関係でパリに滞在して現地で印象派関係の人々と交流した経験をもつ省亭の経歴が大きく活かされているのでしょう。
花鳥の間の天井画はフランス人画家によるもので、他の部屋の天井画もフランス人画家の手になるものです。それらとのバランスを考えても、当時の日本における西洋建築の先端を行く、ネオ・バロック様式による宮殿建築の装飾の原画として省亭の原画が採用されたのもわかる気がします。


創作の場としての博物館

もう1点、絵画作品ではないのですが、絵画作品に影響を与えたものとして、キリン剝製標本にも触れさせて頂きます。


キリン剝製標本 明治41年(1908) 国立科学博物館蔵

この剝製は、明治40年(1907)に、初めて生きたまま日本に来た雌雄のキリンの雄のものです。雄はファンジ、雌はグレーという名前でした。
そのころ、博物館は上野動物園も所管しており、そこで飼育、公開され人気を博したそうです。
しかし、キリンを飼育するのは初めてのことだったため、設備が十分でなく、日本の冬の寒さによって、翌年春に二頭とも死亡してしまいました。
死亡後に剝製標本にされて、博物館に収蔵され、天産部(自然史、自然科学系の部門)の資料として公開されました。


当時の展示の様子

日本における初期の剝製標本として貴重な資料であるのですが、実はこのファンジ、絵画創作のモデルともなっていたのです。
現在千葉市美術館の所蔵となっている、石井林響(いしいりんきょう、1884~1930)が描いた「王者の瑞」という2曲1双の屏風がそれです。
千葉市美術館学芸課長の松尾知子様からご教示頂きました。
 


王者の瑞 石井林響筆 大正7年(1918) 麻本着色2曲1双 千葉市美術館所蔵

石井林響は、千葉県山辺郡土気本郷町(現千葉市)出身の日本画家で橋本雅邦に師事しました。
本作は第12回文展出品作品で、唐代中期を代表する文人・韓愈の「獲麟解」(『古文観士』)の一節「麟為聖人出也。」に基づく、聖人のために麒麟が出現した場面を描いています。
通常、麒麟は、ビールの商標でご存知のような姿に描かれますが、林響は実際の動物のキリンをモデルにしました。
本作のもととなったと考えられるスケッチが林響のスケッチ帖の1冊にあり、動物園にキリンがいなかったので、博物館で特別に保管庫を開けてもらいスケッチを行ったという話が伝えられているそうです(松尾知子『生誕135年 石井林響』美術出版社、2018)。
スケッチのキリンの姿とファンジの姿を比べると、確かにファンジをモデルにしたことがわかります。

スケッチしたキリン
ファンジ


この屛風は本展には展示されていませんが、博物館の収蔵品が、新たな創作の源となっていたことを物語る興味深い事例として挙げさせて頂きました。
このほかにも、縄文土器と岡本太郎、埴輪と版画家の齋藤清など、博物館の収蔵品も見てインスパイアされ、自身の新たな境地を開いていった作家がいます。
これらの事例は、収集・保管・展示を通して、常に社会と関りを持ち続けている博物館の役割の一端を物語るものです。

今回の展覧会も、皆さんの文化財への関心や、モノの見方、創作意欲を触発するきっかけとなれば幸いです。

カテゴリ:絵画東京国立博物館創立150年2022年度の特別展

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posted by 沖松健次郎(列品管理課長) at 2022年11月24日 (木)

 

漆工の国宝 水の流れはどこへゆく

東京国立博物館創立150年記念 特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」前期展示(~11月13日)の「舟橋蒔絵硯箱」「片輪車螺鈿手箱」はご覧いただけましたでしょうか。
本展第2展示室の中心に2点が対峙する形で展示されておりましたが、会場の様子を見ていると、知名度・人気とも若干「舟橋」の方に軍配があがるかな? という印象でした。


国宝 舟橋蒔絵硯箱 江戸時代・17世紀

同 蓋表部分


異様なかたちと存在感に目が行きがちですが、その地文様は、大きめの粉を打ち込んだ金地に付描(漆で線を加えて金粉を蒔く技法)によって曲線を連ねた波文様。この表現、じつはお向かいに展示されていた「片輪車螺鈿手箱」の地文様と全く同じなのです。
今見ても新鮮な造形は、鎌倉時代に好まれた技法・様式がベースになっていることが、両者を見るとお分かりいただけるかと思います。

 


国宝 片輪車螺鈿手箱 鎌倉時代・13世紀

同 身側面部分


さて、片輪車の文様については、以前にも2021年に執筆した「博物館に初もうで」のブログですこしご紹介したことがありますが、なかなかにややこしい問題を含んでいます。

片輪車とは、牛車の車輪が水流や地面から、半分だけぴょこんと頭を出した状態のものを構成した文様です。
斜めに倒れた状態の車輪を描いているので、楕円形に歪んでいるのが約束事になっています。何がややこしいって、どうして車輪なんてものを主題にしたのでしょうか?またその理由は、時代を経ても不変だったのでしょうか?

もちろん現代でも意味の分からないモチーフ選択は随所に転がっています。私も変なレスラーのマスクがデザインされたTシャツを持っていますが、まあ意味はわからない。どんなものでもデザインソースにはなりえますし、理由があると思い込むのも危険かもしれません。

しかし「片輪車螺鈿手箱」のような沃懸地螺鈿の最高級品に、よくわからんモチーフのデザインを採用するでしょうか。
蒔絵師がひねくれもので、「こんなものを描いてやれ」と奇抜なデザインで進行させる…という可能性も、当時の制作体制を考えるとあり得ないでしょう。実際に大枚をはたく注文主が、その作品の使用目的から意匠の方向性を決定し、ゴー! を出さない限り施工は進まないのです。

「片輪車螺鈿手箱」のデザインを見ると、片輪車の配置は整理され、すでに文様として成熟の域にあることが窺えます。
つまり本作が制作された鎌倉時代、片輪車は生まれてから時を経た伝統文様であり、最高級品にもふさわしい格式を持つものと見なされていました。

工芸品の文様には、吉祥や願望などの具体的な意味を込める場合のほかに、直接的な意味よりも伝統や格式が重視される場合もあります。片輪車が生まれたのは平安時代後期と考えられるので、当時としてはそれほど長い伝統ではないですが、少なくとも平安時代に先例があったことは本作の意匠選択の大きな理由になっていたはずです。

その先例が、本展後期(11月15日(火)~12月11日(日))に展示される「片輪車蒔絵螺鈿手箱」です。

テレビや出版物などメディアで紹介されることも多く、片輪車の手箱と言えばこちらの方が、圧倒的に認知度が高いかと思います。丸みを帯びて優しくふくらむ蓋の甲面、厚い夜光貝を大きく扱う螺鈿の表現など見どころの豊富な作品です。なかでも揺らめく線を引き連ねて描く水流はすばらしく、よくぞ見事に意匠化したものだと思います。

 


国宝 片輪車蒔絵螺鈿手箱 平安時代・12世紀

同 蓋表部分


この線、近づいてよく見ると必ずしも巧緻さを感じる線ではありません。どちらかというとユルくてたどたどしい、何やら書道をはじめたばかりの人が筆で書いた線のようにも見えます。

しかしそんな線で統一して緩急つけながら描くことで、全体に調和した動きをもたらしているのです。
ふつう蒔絵の名品に描かれる波は均整のとれた鋭い線で構成されており、蒔絵師は皆そうした線が引けるように一生懸命修行します。この独特の調子を出すのは、逆に難しいのではないでしょうか。

当館では江戸時代に制作された本作の模造も所蔵していますが、やはり模造作者も一流の蒔絵師、どうしても線を美しく引いてしまいます(模造品は本展では出品されません)。

 


片輪車蒔絵螺鈿手箱
法隆寺献納宝物 江戸時代・17~18世紀

同 側面部分


平安時代の蒔絵には、どこか抜けたような味わいがあって、語りつくせない魅力があります。
前期に鎌倉時代の「片輪車螺鈿手箱」をご覧になった方も、その先例がまとう雰囲気の違いをお楽しみいただければと思います。

ところでこの作品、正徳四年(1714)に貨幣改鋳事件に伴って処罰を受けた銀座年寄の所蔵品売立に関する記録から、このとき流罪となった深江庄左衛門が所持していたらしいことが指摘されています。同じく銀座年寄であった中村内蔵助は尾形光琳の庇護者として知られていますね。そして深江庄左衛門の息子、芦舟が絵師として師事したのもまた、尾形光琳でした。

当時すでに名物として知られていた「片輪車蒔絵手箱」は、意外と光琳に近い文化圏に存在していたわけです。
もしかしたら、光琳も目にして何らかの刺激を受けていたかもしれません。

本展後期、「片輪車蒔絵手箱」に対峙して展示されるのはこの尾形光琳作「八橋蒔絵螺鈿硯箱」です。

 


国宝 八橋蒔絵螺鈿硯箱 江戸時代・18世紀

同 下段内面


橋と燕子花を描きながら、そこにあるはずの水流は省略されています。
上段の硯箱を外し、下段の中を覗き込んではじめて、内側全面に滞りなく続く流麗な曲線が展開し、見えなかった水の流れが現れる趣向です。

あまり知られていないかも知れませんが、実は底部にも同じ水流の描写があります。きわめて鋭く伸びやかな線で構成された水流は、「片輪車蒔絵螺鈿手箱」とは逆の意味で印象的です。蓋を閉めても、使用者の脳裏には波の影がのこります。蓋を開け、硯を使用し、中を見てからもとに戻す、この過程すべてが本作の鑑賞体験です。
残念ながら展覧会場では蓋を開けると全体像が見えず、閉めると内面が見えません。
あらかじめ、この波の姿を脳裏に刻み込んだ上で、どうぞ会場に足をお運びください。

カテゴリ:工芸東京国立博物館創立150年2022年度の特別展

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posted by 福島修(特別展室) at 2022年11月14日 (月)

 

天皇専用の乗り物――鳳輦(ほうれん)

このたびの特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」(~12月11日(日))では天皇専用の乗物である鳳輦を展示しています。
東京国立博物館(以下、東博)は、明治19年(1886)から昭和22年(1947)まで宮内省の所管であり、帝国博物館、のちに東京帝室博物館と称していた時期がありました。
東博の鳳輦は、その時分に宮内省から東博に引き継がれました。


鳳輦
江戸時代・19世紀
屋形の下部に轅(ながえ)という二本の担ぎ棒を付け、屋根の上に鳳凰像を置きます。
駕輿丁(かよちょう)という担ぎ手が担いで移動します。移動の際には、さらに轅を増やし、屋根の四隅から緋綱を垂らしました。

 
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天皇が外出されることを行幸と申します。現在はギョウコウと発音しますが、古くはギョウゴウと濁って発音したこともありました。
その理由は、上皇が出かけられることを御幸と申し、こちらをゴコウと澄んで発音したので、耳で聞いた時に区別しやすくしたのです。

行幸の際、天皇は人が担ぐ輿(こし)型の乗物に乗られました。
昔の宮廷では、牛が牽(ひ)く牛車が用いられていたイメージがありますが、
そういった動物が牽くような乗物に主上(おかみ)をお乗せ参らすわけにはいかん、という理屈であったようです。
そして天皇の乗物には、鳳輦、葱華輦(そうかれん)、腰輿(ようよ)がありました。そのなかで最も格式が高いのが鳳輦です。
屋根の上に皇位を示す鳳凰の像が立っているので、この名前があります。
天皇の御即位の際に高御座(たかみくら)という御座が用いられますが、鳳輦と高御座とは、屋根に鳳凰を立てたり、側面に紫綾の帳(とばり)を垂らすなどの共通点があります。


高御座
今上陛下の御即位の際に東博で公開された高御座と御帳台(みちょうだい)。
手前が天皇の御座の高御座。全体を黒漆塗りとし、八角形の屋形の屋上に鳳凰像を置き、側面に紫綾の帳を垂らす形式です。

 
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そして略儀の乗物として葱華輦があります。屋根の上に葱(ねぎ)の花、つまりネギ坊主の形をした宝珠があるので、この名前があります。
それから内裏のなかでのちょっとした移動や非常時などに用いる腰輿があります。
こちらは御腰輿といい、オヨヨと発音しました。内裏(だいり)が火災などに遭ったときでも、天皇は輿型の乗物で避難する作法でした。
当館の国宝である平治物語絵巻の六波羅(ろくはら)行幸巻には、幽閉されていた二条天皇が内裏を脱出して六波羅の平清盛邸に向かわれる際に、見張りの目をごまかすため、天皇が女装して牛車に乗られる場面が描かれていますが、これなどは宮廷の礼法の裏をかいたトリックでしょう。


国宝 平治物語絵巻 六波羅行幸巻 鎌倉時代・13世紀
源氏と平氏の武力抗争となった平治の乱を描いた絵巻。源氏側によって幽閉された二条天皇が女装して牛車に乗って内裏を脱出する場面であり、見張りの者が牛車のなかを点検しています。

 
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江戸幕府が開かれると、幕府は朝廷が勢力を持たないよう、ことさらに天皇が目立たないようにして、江戸時代には行幸が行なわれませんでしたが、江戸末期になって尊王運動が盛んになると、内裏の宮殿を平安時代の往時を念頭においた復古調で造営して、天皇が鳳輦を用いて内裏に入られる儀式が行なわれました。
東博の鳳輦は、孝明天皇が現在の京都御所に当たる安政度内裏が新造された際の遷幸(せんこう)や、攘夷(じょうい)祈願のために賀茂社(かもしゃ)へ行幸された際に用いられたものです。

孝明天皇紀附図 安政2年11月23日 新内裏遷幸図
孝明天皇紀附図 文久3年3月11日 賀茂行幸図 個人蔵

孝明天皇の生涯を描いた図絵。天皇が新造された内裏に入る場面と、攘夷祈願のために賀茂両社に行幸する場面です。賀茂行幸の時は雨天となり、鳳輦の屋根に黄色い雨皮(あまがわ)を被せました。

 
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この鳳輦は、孝明天皇が崩御(ほうぎょ)されたのち、明治天皇が東京へ行幸される際にも用いられました。
鳳輦を担ぐには、担ぎ手として80人を揃えて、そのうち40人が担いで、残りは交代人員となります。
そして屋根の四隅の環金具に緋色の綱を付けて、バランスをとりながら進行しました。
このように大仰なものであれば、必ずしも乗り心地の良いものでもなかったようです。
そのせいか、東幸に際して、明治天皇は基本的には板輿(いたごし)という小型の乗物を用いられました。
東幸の最終日には、品川から増上寺まで板輿に乗られ、そこから鳳輦に乗りかえて、江戸城に入られたのでした。

明治時代になると、文明開化の機運がみなぎり、近代国家にふさわしく、明治天皇は洋装されて馬車に乗られるようになり、鳳輦は博物館に引き継がれました。
最近、同僚の沖松健次郎さんが調査されたところによると、東博の創立として位置付けられている明治5年(1872)の湯島聖堂(ゆしませいどう)での博覧会の出品目録の草稿に鳳輦が記載されており、どうやら東博に引き継がれる前から展示されていたらしく、もしかすると東博の最初の展示作品のひとつであったかもしれません。
いずれにせよ、かつては東博で展示されていた鳳輦ですが、博物館の展示体系が変遷したり、その巨大さによる展示の困難さといった物理的な事情などもあり、国立博物館となってからは展示する機会がなかったのですが、このたびの創立150周年を好機と捉えて展示する運びとなりました。この機会にじっくりと御覧いただきたく思います。

当館には鳳輦のほか、葱華輦や御腰輿、また明治天皇が用いられた馬車なども引き継がれていますので、やがてはこれらも御覧いただける機会があればと思っています。


旧本館陳列場
東博の旧本館は大正12年(1923)の関東大震災で崩壊しました。旧本館には輿車(よしゃ)の展示室があり、鳳輦や牛車などが展示されていました。手前にある小型の輿は御腰輿です。

カテゴリ:東京国立博物館創立150年2022年度の特別展

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posted by 猪熊兼樹(特別展室長) at 2022年11月07日 (月)

 

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