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三輪山信仰のはじまり

特別展「国宝 聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」は、いよいよ会期の終盤に入ってまいりました。
このブログでは三輪山信仰についてご紹介します。

三輪山は大神神社のご神体であり、円錐形の流麗な山容が印象的な山です。
三輪山のように信仰の対象となっている山を「神奈備(かんなび)山」と呼び、日本各地で三輪山のように整った形の山が多くその対象となっています。
私も4年前まで三輪山がある桜井市のお隣、橿原市に住んでいたころによく三輪山の姿を眺め、末広がりに緩やかな弧を描く山の稜線に魅了されました。


北側から見た三輪山

三輪山の山中に点在しているのが「磐座(いわくら)」と呼ばれる大きな岩々。本展覧会で紹介している山ノ神遺跡も数ある磐座のひとつです。
磐座は古くは大きな岩そのものが信仰の対象となったり、あるいは神が降り立つ場所として神聖視された代表的な祭祀遺跡の一つです。
神奈備山には現在神社がある場合が多いですが、祭祀遺跡がみつかることも多くあります。古くからの信仰の場である祭祀遺跡を下敷きにして、神を祀る場として神社が整備されていったのでしょう。
山ノ神遺跡のほかにも三輪山周辺には多くの祭祀遺跡があり、本展覧会では勾玉をはじめとする遺物を紹介しています。


山ノ神遺跡出土品 奈良県桜井市山ノ神遺跡出土  古墳時代・5~6 世紀  東京国立博物館蔵
「大岩の下」から出土したと伝わり、磐座での祭祀に用いられたものと考えられています。

山や大きな岩などの自然物に対する信仰は、あらゆるものに霊魂が宿るとする考え方〈アニミズム〉に根差した原初的な信仰のあり方です。
こうした考えは現在にも受け継がれ、「八百万(やおよろず)の神」という言葉を多くの方が耳にしたことがあるでしょう。
三輪山自体がご神体となっている大神神社は、そうした古来の信仰の在り方を今に受け継ぐ存在なのです。

そして三輪山が特に崇敬を集めた背景には古代の王権、国家との関わりがあるとみられます。
三輪山の周辺には、祭祀に関わる多くの遺物や遺構が見つかっている纒向(まきむく)遺跡や最古の大型前方後円墳である箸墓(はしはか)古墳といった、初期のヤマト王権を語るうえで欠かせない遺跡が存在しています。
三輪山でみつかる考古遺物にはおおよそこれらの遺跡と時期が重なるものまでがみられますが、いっぽうで三輪山の正面である西側を避けるように同時期の遺跡が分布することからも、初期のヤマト王権が三輪山の存在を意識していたとみる考えがなされています。


纒向遺跡の建物跡と三輪山(中央左寄り)


箸墓古墳と三輪山

大神神社の祭神である大物主神(おおものぬしのかみ)は神話や歴史書で疫病と関わる記載があり、古代の王権や国家との関わりを持つエピソードも語り継がれています。
日本書紀では崇神天皇の治世に疫病が流行した際、天皇の夢枕に大物主神が立ち自らを祀るように言い、その言葉に従ったところ疫病が収まったとされます。
また律令国家でも、祭祀を司る最高の官庁である神祇官(じんぎかん)が祀る「地祇(ちぎ)」(国土の神)の筆頭に大物主神が挙げられるなど、大神神社と国家の祭祀には深い関わりがありました。
奈良時代には称徳天皇が各地の神社に封戸(ふこ)を施入(神社に対して貢納や労役を行う人々を割り当てること)するなかで大神神社に別格の扱いを行っています。
これは疫病や凶作、兵乱など相次いだ災厄を克服しようとするなかで疫病に関わりのある大物主神を祀る大神神社を重視したものと考えられています。
このころ国家中枢で起こり始めた神仏習合のなか、大神神社の中にある大神寺(おおみわでら)(大御輪寺)に納められた十一面観音の現世利益(げんせりやく)の第一として「離諸疫病(りしょえきびょう)」があることも、大物主神への信仰と繋がるものなのです。

古代からの信仰を受け継ぐ十一面観音像。
現代を生きる私たちと同じように古代の人々が捧げた祈りに、皆様も思いをはせてみてはいかがでしょうか。

カテゴリ:2021年度の特別展

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posted by 山本 亮(考古室) at 2021年08月27日 (金)

 

再会した三輪山信仰の仏像

現在開催中の特別展「国宝 聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」では、タイトルにある十一面観音菩薩立像だけでなく、かつて一緒にまつられていた仏像も出品されています。
ブログ第5弾ではそれらの仏像を紹介していきます。

聖林寺の十一面観音菩薩立像は、三輪山をご神体とする大神神社の境内にあった、大御輪寺(だいごりんじ)という寺に江戸時代までまつられていました。明治元年(1868)の神仏分離令によって聖林寺へと移されたのですが、大御輪寺にはほかにも仏像がまつられていました。


国宝 地蔵菩薩立像 平安時代・9世紀 奈良・法隆寺蔵

現在、法隆寺にまつられる地蔵菩薩立像は、平安時代初期の一木造りの彫像の代表作です。
明治元年(1868)に十一面観音菩薩立像と一緒に大御輪寺から聖林寺へ移され、その後、明治6年(1873)に法隆寺の北室院(きたむろいん)へと移されました。大御輪寺、聖林寺、法隆寺の北室院は当時交流があったことが記録からわかるので、そういった縁によるものだったのでしょう。

さて、この像の足元にご注目ください。


地蔵菩薩立像 足元

台座の各部位のうち、蓮肉(れんにく)という部位を像と同じ木から彫り出しています。足先や衣の裾と蓮肉の材がつながっているのがおわかりになりますでしょうか。
このように両手を除いて頭頂から蓮肉までを一本の木から彫り出し、体の幅や奥行きもあるこの像は、重量感にあふれた堂々とした姿が魅力です。

衣の表現にも注目です。例えば右腕あたりの衣をご覧ください。

 
地蔵菩薩立像 右腕周辺の衣と書き起こし図

丸みのある襞(ひだ)と鋭い襞が交互に刻まれています。まるで大きい波と小さい波が連続して翻(ひるがえ)る様子であることから、翻波式衣文(ほんぱしきえもん)と呼ばれます。
翻波式衣文は平安時代前期の木彫像にみられる特徴で、当時流行した衣の襞の表現方法の一つです。この像は正面だけでなく側面や背面にもたくさんの襞が刻まれていて、見ごたえ抜群です。

次に、奈良市郊外に位置し、紅葉の名所で有名な正暦寺(しょうりゃくじ)にも大御輪寺から伝わった仏像があります。
 


(右)日光菩薩立像 平安時代・10~11世紀 奈良・正暦寺蔵
(左)月光菩薩立像 平安時代・10~11世紀 奈良・正暦寺蔵

それがこの日光菩薩立像と月光菩薩立像です。どちらも平安時代中期ごろにつくられた優品です。
日光菩薩と月光菩薩は薬師如来に付き従う仏で、正暦寺では本堂の薬師如来坐像の左右に安置されています。明治元年(1868)に正暦寺へ移されたときにはすでに日光菩薩と月光菩薩とされていたようですが、実はつくられた当時の本来の名称は分かっていません。
また現在は一対にされていますが、もとは別々につくられたと考えられています。
一見すると同じようにみえますが、両像の表現の違いはとくに顔に表われています。

 
(左)月光菩薩立像 顔、(右)日光菩薩立像 顔(上)日光菩薩立像 顔
(下)月光菩薩立像 顔

日光菩薩は瞼が広く、頬がふっくらとして丸みを帯びています。
一方、月光菩薩は鼻筋が通り、面長な顔立ちをしています。
一対の像とされ、日光菩薩・月光菩薩の名称が付けられたのは後の時代と思われますが、ふくよかな像の日光(太陽)、ほっそりした像の月光(月)という印象で、それぞれ太陽と月のイメージに合っていると言えるのではないでしょうか。
また、日光菩薩はケヤキから、月光菩薩はヒノキから彫り出しているという樹種の違いもあります。

三輪山のふもとの大御輪寺にまつられ、明治元年(1868)に離れ離れになったこれらの仏像が、本展で実に約150年ぶりに再会しています。かつての大御輪寺の様子を想像しながら、ぜひご覧ください。

カテゴリ:2021年度の特別展

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posted by 増田政史(絵画・彫刻室) at 2021年08月23日 (月)

 

三輪山信仰のみほとけとは?

開催中の特別展「国宝 聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」ブログ第4弾では国宝 十一面観音菩薩立像についてご紹介します。

聖林寺の国宝 十一面観音菩薩立像は、江戸時代までは、三輪山を御神体とする大神神社(おおみわじんじゃ)の境内にあった大御輪寺(だいごりんじ)に安置されていました。


覚 聖林寺蔵(本展では展示していません)

この文書は、聖林寺にあるものです。慶応四年すなわち明治元年(1868)に、本尊十一面観音、脇士(脇侍)地蔵菩薩像などを「御一新につき、当分拙寺(聖林寺)へ慥(たし)かに預かり置き候」と書かれています。
明治新政府の発した神仏分離令によって、神社にあった仏像や仏具など仏教的なものが排除されました。

ここに書かれた十一面観音像が、今回展示している像です。脇侍の地蔵菩薩像は明治6年に聖林寺から法隆寺に移されました。
この展覧会は、およそ150年前に離れてしまったこれらの像を同じ展示室に置いて、かつての大御輪寺の堂内の空間を再現することを意図したものです。


三輪山絵図(部分) 江戸時代・文政13年(1830) 奈良・大神神社蔵
中央上方の赤い柵で囲まれたところが拝殿があるところで左下方が現在若宮になっている旧大御輪寺です。


大御輪寺部分の拡大。三重塔は撤去されましたが、左の仏堂は現存します。

奈良時代から江戸時代まではこのように神社の境内に寺、あるいは寺の境内に神社があるのは普通でした。
詳しく話すと長くなるので簡単に言うと、仏教は多神教で、それぞれの土地の神を守護神として取り込んで、融合する性格だったというのが理由のひとつです。
日本古来の神を信仰する人々が最初は敵対しましたが、飛鳥時代から奈良時代に国家が仏教を重んじるようになって、神仏が合わせて信仰されるようになりました。

しかし、明治政府は神道を国家の宗教にしようと意図して、神と仏を分けること、寺院の財産を没収するなど寺院の勢力を削ぐ政策を実施しました。
それとともに、廃仏毀釈という仏堂、仏像や仏具などを破壊する運動が各地で巻き起こったと言います。


重要文化財 大神神社 若宮社 
瓦葺きで柱の上の組み物など仏堂の建築です。

大神神社の場合は、仏堂はそのまま若宮とされて残り、仏像は前述した2体のほか、不動明王坐像が桜井市の玄賓庵に、日光・月光菩薩像が仏具とともに奈良市の正暦寺に移されています。


国宝 十一面観音菩薩立像 奈良時代・8世紀 奈良・聖林寺蔵

そして、特に注目していただきたいのは、十一面観音像の両腕から垂れる帯状の天衣、左手に持つ花瓶と花、さらには台座、蓮弁の大半も奈良時代のものだということです。
これほどよい状態で保存されたのは、第1に大御輪寺で秘仏だった(最初に掲げた文書に秘仏とあります)こと、第2に大御輪寺から聖林寺に移される時に、丁寧に梱包されて慎重に運ばれたからでしょう。


左手に持つ水瓶
王子形と呼ばれる古い形の水瓶(法隆寺宝物館にたくさんあります)に挿し込まれた花の茎や葉は鉄線に乾漆(かんしつ:漆に木の粉などを混ぜたペースト状のもの)を付けて形を造っています。


台座 
蓮の花弁は1枚1枚作って台座に挿し込んでいいます。

そしてもう一つ、両腕から垂れる天衣(てんね:帯状の布)の末端と台座の隙間はわずかで、揺れたら折れる危険がありますが、この像はほとんど揺れません。
なぜなら、足の下から伸びる長い枘(ほぞ:足の裏につくり、台座にあけた穴に挿して倒れないようにするもの)が60センチもあり、台座の底面積も広いのでとても安定しているからです。


足の下から伸びる長い枘

現在、昭和34年に建てられた鉄筋コンクリートの観音堂の改修工事が始まっています。像が造られてから1200年以上を経ていますが、この先それ以上、人類の遺産として護り伝えて行かなければなりません。

カテゴリ:2021年度の特別展

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posted by 浅見龍介(学芸企画部長) at 2021年08月18日 (水)

 

聖徳太子のさまざまな姿

聖徳太子1400年遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」は9月5日(日)まで開催しています。今回は展覧会のみどころの一つ、聖徳太子のさまざまな姿を紹介します。

聖徳太子は、赤ん坊から少年の姿、青年・壮年期の姿と、実にさまざまな年齢で表わされ、それぞれの姿が独立して信仰の対象となってきました。数ある日本の仏教祖師のなかでも、肖像のバリエーションは群を抜いて豊富といえるでしょう。
現存していませんが、奈良時代の宝亀2年(771)には大阪・四天王寺の絵堂に太子伝が描かれたといいますから、そこには既にさまざまな年齢の太子が表わされていたことでしょう。平安時代以降になると、太子伝の決定版である「聖徳太子伝暦(しょうとくたいしでんりゃく)」が普及したことで、生涯の各エピソードが知られるようになり、豊かな造形化へと結び付いていきました。


聖徳太子伝暦 南北朝時代・観応2年(1351) 奈良・法隆寺蔵 8月11日(水)からは下巻を展示

聖徳太子の姿というと、かつて紙幣の肖像に採用された御物の「聖徳太子二王子像」(しょうとくたいしにおうじぞう)が有名ですね。トーハク会場では江戸時代の模本を展示しています。


聖徳太子二王子像(模本) 狩野<晴川院>養信筆 江戸時代・天保13年(1842年) 東京国立博物館蔵

奈良時代に描かれたこの肖像は、仏像や中国の皇帝像に一般的な三尊形式をとり、礼拝の対象として相応しい姿にまとめられています。この肖像については平安時代の『七大寺巡礼私記』をはじめ、鎌倉時代の記録もあることから、一部で知られていたことはわかりますが、有名になったのは法隆寺から皇室に献納された明治時代以降のことです。つまり、われわれが聖徳太子としてすぐにこの姿をイメージするようになった歴史は、意外と浅いのです。

では、歴史的に日本人は聖徳太子の姿をどのように思い描いてきたのでしょうか。まず注目したいのは、特別展会場第1室に入って最初にみなさんをお迎えする法隆寺聖霊院の秘仏「如意輪観音菩薩半跏像」(にょいりんかんのんぼさつはんかぞう)です。


重要文化財 如意輪観音菩薩半跏像 平安時代・11~12世紀 奈良・法隆寺蔵

このお像、実は聖徳太子の「ほんとうの姿」として信仰されてきました。聖徳太子は少なくとも平安時代には観音菩薩の化身(けしん)」・生まれ変わりとして信仰されるようになり、特に大阪・四天王寺の本尊がその観音菩薩であるとされました。四天王寺の本尊は救世観音(ぐぜかんのん)や如意輪観音と呼ばれ、太子信仰の中心に位置しましたが、中世なって失われ、いまは昭和の再興像が安置されています。
法隆寺の「如意輪観音菩薩半跏像」はまさにこの四天王寺本尊を平安時代に写し取ったものであり、現存最古の模刻像として重要な作品です。聖徳太子は観音菩薩の化身である。そうした信仰上のイメージが太子信仰の基本としてあります。

本特別展では特に太子のさまざまな姿を第2室に集めました。「聖徳太子立像(二歳像)」(しょうとくたいしりゅうぞう にさいぞう)は、太子が数え2歳(いまでいう1歳)の旧2月15日、お釈迦様の涅槃を記念するこの日に東の空を拝み「南無仏」と称えたところを表わしています。


聖徳太子立像(二歳像) 鎌倉時代・徳治2年(1307) 奈良・法隆寺蔵

キリリとした表情に赤ん坊ではありえないだろう真剣な祈りが表現されていますね。ちなみに、この時太子の手のひらからは仏舎利(お釈迦様の左目の骨とされる)がこぼれ落ちたといい、「南無仏舎利」(なむぶつしゃり)として絶大な信仰を集めてきました。


南無仏舎利(部分) [舎利塔]南北朝時代・貞和3~4年(1347~48) [舎利据箱]鎌倉時代・13世紀 奈良・法隆寺蔵

今回の特別展はこの「南無仏舎利」の存在を間近に確認できる極めて貴重な機会ですので、是非こちらにもご注目ください。

また「聖徳太子立像(孝養像)」(しょうとくたいしりゅうぞう きょうようぞう)は、父である用明天皇の病気平癒を祈り、仏に香を捧げる16 歳の姿と伝えられます。


重要文化財 聖徳太子像(孝養像) 鎌倉時代・13世紀 奈良・法隆寺蔵 8月11日(水)から展示

ただし、こうした姿の像を16歳とするようになったのは鎌倉時代後期になってからのことで、平安時代には年齢を限定して考えていなかったようです。
現品が残されておらず、また史料も乏しいのですが、大阪・四天王寺の聖霊院(しょうりょういん)には「童像」(どうぞう)と呼ばれる太子像があり、おそらくこの姿の起源になっていると考えられています。四天王寺は仏教の受容をめぐって起きた蘇我氏と物部氏の戦において、当時16歳の太子が戦勝祈願として同寺の建立を発願したことに起源しています。
あくまで個人的な想像ですが、本来この香炉を捧げて仏に誓いを立てるような姿は、四天王寺建立発願の場面を意図したものではなかったでしょうか。その当否はともあれ、あくまで「童像」であった姿が、聖徳太子の伝記における特定のエピソードと結び付き、孝養像との理解が後から加えられたのでしょう。

伝説との関りでもう一つ面白いのが「聖徳太子像(水鏡御影)」(しょうとくたいしぞう みずかがのみえい)です。


聖徳太子像(水鏡御影) 鎌倉時代・14世紀 奈良・法隆寺蔵 8月9日(月・祝)まで展示

笏(しゃく)を手にもって胡坐をかいた正面向きの太子像ですが、なんと聖徳太子が水鏡に映った自らの姿を描いたもの、つまり自画像に基づく図像として伝えられてきました。大阪の四天王寺にも「楊枝御影」といってほぼ同じ図像の絵画があり、こちらもやはり太子の自画像と伝えられています。

さて、いわば聖徳太子公認の聖徳太子像といったところですが、この図像(描かれたスタイル)を立体化させたのが、法隆寺聖霊院の秘仏本尊である聖徳太子坐像(しょうとくたいしざぞう)です。


国宝 聖徳太子および侍者像のうち聖徳太子 平安時代・保安2年(1121) 奈良・法隆寺蔵

聖霊院はその名の通り、聖徳太子の御霊をまつる極めて重要な場所で、いまもこの像は太子その人として厳重な管理のもと篤い尊崇を集めています。
今年は聖徳太子の1400年遠忌ですが、このお像は今を去ることちょうど900年前、500年遠忌に際して開眼供養されました。聖徳太子その人を再現しようとする意志にあふれた像で、様々な仕掛けが見て取れます。
まずは目に注目。会場ではよくわかりませんが、上下の瞼には点々と針孔(はりあな)が並んでいます。じつはこれまつ毛を植え付けた痕なのです。いわばエクステ。瞳にも色ガラスが嵌められており、リアルな太子が再現されています。
次に注目したいのは口元です。彫刻の参考となった図像を伝える「聖徳太子像(水鏡御影)」では口を閉じていますが、このお像はわずかに口を開いています。これは聖徳太子が仏の教えを述べているところを表しているのですが、何故そう言えるのかというと、体内に仕掛けがあるのです。
この像の体内には飛鳥時代に作られた観音菩薩立像が納められており、その頭の位置がちょうど太子の口元にくるように工夫されています。つまり聖徳太子が観音菩薩の化身として仏法を説かれているという姿なのです。
この像の体内にはまた「法華経」(ほけきょう)、「維摩経」(ゆいまきょう)、「勝鬘経」(しょうまんぎょう)という特に太子が重視したお経が納められており、まさにその教えを説いていることを示しているのでしょう。これに関してもう一つ面白いのが、ジャラジャラと飾りが垂れた冕冠(べんかん)というものを太子が被っている点です。「聖徳太子像(水鏡御影)」にはなかった冕冠ですが、これは太子が「勝鬘経」という女性を主人公としたお経を解説する姿を表わした「聖徳太子勝鬘経講讃図」(しょうとくたいししょうまんぎょうこうさんず)に必ず表わされているものなのです。


重要文化財 聖徳太子勝鬘経講讃図 鎌倉時代・13世紀 奈良・法隆寺蔵 8月11日(水)から展示


「聖徳太子像(水鏡御影)」は笏を手に取る政治家としての姿、「聖徳太子勝鬘経講讃図」の太子は仏法を説く宗教家としての姿ですが、聖霊院の太子像はその両方を兼ね備えた極めて独自性の強い姿として作られました。「聖徳太子全部のせ」ともいうべき太子その人の決定版ともいうべき姿をここに見ることができます。


いかがでしたでしょうか。聖徳太子におけるさまざまな姿のバリエーション。その背景には伝説に満ちた太子の生涯、また人々が求めた仏に等しい太子のイメージがありました。聖徳太子というと「1万円札の人」というイメージが広く定着しましたが、江戸時代以前の日本における太子イメージはもっと豊富で面白いものでした。是非とも会場ではさまざまな姿を通じて聖徳太子のエピソードに思いを馳せて頂けると、よりこの特別展が楽しいものになると思います。

カテゴリ:2021年度の特別展

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posted by 三田覚之(工芸室主任研究員) at 2021年08月13日 (金)

 

聖林寺 国宝 十一面観音菩薩像のCT調査

開催中の特別展「国宝 聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」ブログ第3弾では国宝 十一面観音菩薩立像のCT調査についてご紹介します。

当館には、非破壊で文化財の内部を見ることができるⅩ線CT装置があります。
文化財の研究や保存には大変に有用な装置ですが、得られたデータの分析には専用のソフトウエアが必要です。このソフトウエアが大変に高額で、気軽に購入できるものではありませんが、さいわい、機能が限定された無償版が提供されています。
これまではそれを使用していましたが、今年度、研究費が認められソフトウエアを購入することができました。
専用のソフトウエアを利用するとCT画像は簡単に見ることができますが、そこには多くの情報が詰まっているので、詳しく分析するのは容易ではありません。
そのため、分析作業は先延ばしになりがちで、展覧会出品作品の場合、分析結果を作品で確認できずに困ることがあります。

聖林寺の十一面観音菩薩立像は、展覧会の開幕前にCT撮影をしました。


十一面観音菩薩立像をCT装置に入れたときの様子

新しいソフトウエアがうれしくて、さっそく分析にとりかかりました。

仏像のCT分析で、最も期待されるのは納入品でしょう。
聖林寺の十一面観音立像は従来のⅩ線撮影が済んでいて、内部に空洞があること、しかし、そこには何もないことがわかっています。
とはいえ、Ⅹ線ではわからないものがCTで見つかることがあります。心のどこかに期待があります。

結果は…

やはり、納入品はありません。
そんなものと思って分析を続け、画像の表示モードを変更すると!

とつぜん杖のようなものが現れました。

 
十一面観音菩薩立像中心部分に杖のような一筋の線が見えます。

大発見!?


しかし、どこか不自然です。CT画像にはノイズが現れることがしばしばあるのです。
保存科学を担当する同僚に館内メールで意見を求めましたが、すでに帰宅したのか返事がありません。

その日はオリンピックが始まる4連休の前日でした。かすかな期待を胸に連休を過ごしたのです。
連休が明けて出勤し、しばらくすると返事がきました。「ノイズである。」

日本彫刻史上の金メダルは夢に終わりました。

カテゴリ:2021年度の特別展

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posted by 丸山士郎(企画課長) at 2021年08月05日 (木)