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1089ブログ

聖徳太子ゆかりの「七種宝物」

聖徳太子1400年遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」では聖徳太子ゆかりの七種宝物(しちしゅのほうもつ)を展示しています。
七種宝物と聞いて、知っている方は少ないでしょう。しかし、江戸時代以前の法隆寺においては聖徳太子信仰の中心をなす極めて重要な宝物として扱われていました。
明治11年(1878)に献納宝物として皇室に納められて以降、現在に至るまで個々の作品としては有名であっても、七種宝物という信仰上の枠組みにおいて紹介されることはほとんどなくなりましたが、献納時の目録である「法隆寺什物器目録」の筆頭にこの七種宝物が列記していることからも、その重要さが知られます。
さて、この七種宝物ですが、聖徳太子に由来する「と、されている」作品で、法隆寺東院の舎利殿に伝来しました。あえて「と、されている」としたのは、今日の美術史学からみて聖徳太子の時代に作られたとは言えないためですが、少なくともこの中のいくつかは、平安時代以来、聖徳太子に由来するもっとも重要な宝物と考えられてきました。
舎利殿は聖徳太子が数え2歳(今でいう1歳)の折、「南無仏」と称え手を合わせたところ、その手のひらから出現した仏舎利(「南無仏舎利(なむぶつしゃり)」)を本尊とする建物です。
 
南無仏舎利 [舎利塔]南北朝時代・貞和3~4年(1347~1348)[舎利据箱]鎌倉時代・13世紀 奈良・法隆寺蔵
 
建物に入ると大きな厨子があり、その向かって右側面の扉を開けると南無仏舎利が安置されているのですが、左側面の扉の中は仕切りを設けた戸棚となっています。七種宝物はこの中に安置されていたと考えられ、いわば本尊に次ぐような存在だったことが分かります(ちなみに正面の扉を開けたところには「聖徳太子勝鬘経講讃図(しょうとくたいししょうまんぎょうこうさんず)」〈8月11日(水)から展示〉が掲げられていたと考えられます)。
現在、七種宝物のうち、6点は法隆寺献納宝物として東博にあり、1点は宮内庁が所蔵しているのですが、特別展では東博所蔵の6点を通期展示とし、8月11日(水)からの後期展示では宮内庁所蔵の一点を加えて、7点全てが一堂に会します。
それでは個々の宝物とその由来についてみていきましょう。
 
1.糞掃衣(ふんぞうえ)
 
重要文化財 糞掃衣 奈良時代・8世紀 東京国立博物館蔵
 
別名で衲袈裟(のうげさ)とも呼ばれています。糞掃衣とはその名の通り、「糞を掃除するのに使うような汚い布でできた袈裟」を意味します。なぜそのようなものが尊いのかと言えば、これこそ出家者が物質に対する執着から離れていることを示すものとしてお釈迦様が定めた「最上の袈裟」であり、これを着用すれば神々も賛嘆するとされているためです。
そして法隆寺伝来のこの糞掃衣こそ、お釈迦様が着用されたそのものであるとされてきました。伝承によると、お釈迦様は勝鬘夫人(しょうまんぶにん)(「勝鬘経」の主人公)にこの袈裟を授け、その後、中国に伝来していたところを遣隋使の小野妹子(おののいもこ)が持ち帰ったとされます。聖徳太子は勝鬘夫人の生まれ変わりとされており、太子がこの日本においてはじめて勝鬘経の教えを説いた折(勝鬘経講讃)この袈裟を着用したと伝えられます。
 
2.梵網経(ぼんもうきょう)
 
重要文化財 梵網経(下巻部分) 平安時代・9世紀 東京国立博物館蔵 8月9日(月・休)までは上巻、8月11日(水)からは下巻を展示
 
平安時代に記された紺紙金泥経(こんしきんでいきょう)の名品で、聖徳太子の自筆として伝えられました。昨日記されたかと思うほど、大変に金の発色と保存状態のよい経典なのですが、注目したいのはその本文ではありません。展示会場でご覧いただくと分かりますが、この経典の表紙部分に薄汚れた茶色い付箋のようなものが付いています。実はこれ聖徳太子の「手の皮」と伝えられているんです。


下巻題箋部分
 
どうして手の皮なんかお経につけたのと不思議でしょうが、これは「梵網経」に写経のあり方として「皮をはいで紙となし、血を刺して墨となし、髄(ずい)をもって水となし、骨を折って筆となす」という壮絶な方法が記されていることに由来します。
実際この「梵網経」の皮とされている部分を見ると毛穴があり、また不浄な動物の皮をお経に貼ることはないと考えられるため、実際に人間の皮膚なのでしょう。
ちなみにこの皮を拝めば死んだ後に三悪道と呼ばれる「地獄・餓鬼・畜生」の世界に生まれ変わることはないとされています。
 
3.五大明王鈴(ごだいみょうおうれい)
 
重要文化財 五大明王鈴 中国 唐・8~9世紀 東京国立博物館蔵
 
別名で古代真鈴(こだいしんれい)とも呼ばれています。中国の唐時代に作られた密教法具で、表面には五大明王の姿が浮き彫りで表わされています。どうみても仏教の遺物なのですが、どうしたわけか神代のものとされ、聖徳太子が仏教とともに神道を崇めるしるしとされています。
伝承によると、聖徳太子が生まれた時、その御殿の棟に光明を発して出現したと言われています。
 
4.八臣瓢壺(はっしんのひさごつぼ)
 
「法隆寺什物図」(東京国立博物館蔵)に描かれた「八臣瓢壺」。「八臣瓢壺」は8月11日(水)から展示
※「法隆寺什物図」は展示していません
 
 
別名で賢聖瓢(けんじょうのひさご)とも呼ばれています。一見して焼き物の壺に見えますが、ヒョウタンでできた大変に珍しい壺です。どのように作ったのか詳細は不明ですが、おそらくまだヒョウタンが青く小さなうちに、文様を刻んだ型を外側から被せたのでしょう。やがてヒョウタンが成長すると、型に圧迫されて、表面にレリーフが浮かび上がるという仕組みです(是非、どなたか再現実験をしてみてください)。
孔夫子(こうふうし)・栄啓期(えいけいき)・東園公(とうえんこう)・綺里季(きりき)・夏黄公(かおうこう)・甪里(ろくり)先生・鬼谷(きこく)先生・蘇秦(そしん)・張儀(ちょうぎ)の9人が表わされていますが、このうち、栄啓期については臣家の出身ではないため、八臣瓢壺と呼ばれます。儒教に由来するその内容から、この国で儒教が盛んになるしるしと伝えられてきました。
なお、この作品は宮内庁が所蔵されており、後期から展示されます。
 
5.御足印(ごそくいん)
 
御足印 奈良時代・8世紀 東京国立博物館蔵
 
なんだかシミだらけのマットのようなもので、どこか宝物なんだろうと思われるでしょうが、じつはこのシミ、聖徳太子の足跡とされています。
聖徳太子が未来の衆生、つまり我々と縁を結ぶために残した足跡であり、またこの足跡が見えるかどうかによって、日本の仏教が盛んであるか滅亡しそうであるかのしるしにもなっているとされます。どうですか?みえますでしょうか?
会場でご覧になって頂くともう少しよく分かりますが、向かって左側に左足のような窪んだシミが観察できます。江戸時代に記された「斑鳩古事便覧(いかるがこじびんらん)」という書物には足跡の大きさは「七寸二分」(約21.8)とあり、この窪んだシミの大きさと一致します。
 
6.梓弓(あづさゆみ)
 
重要文化財 梓弓 奈良時代・8世紀 東京国立博物館蔵
 
梓真弓(あづさのまゆみ)とも呼ばれています。太子が所持した怨敵退治の弓と伝えられ、男子にあっては弓箭(きゅうせん)の難、つまり武器によって傷つけられる災難を防ぎ、女子にあっては難産を防ぐとされています。
大きな木の棒でできており、これを引くにはよほどの腕力が必要と思われます。なお、著名な美術史家であり歌人・書家としても有名な会津八一(あいづやいち)(1881~1956)は、その著書『南京新唱(なんきょうしんしょう)』のなかでこの宝物を次のように歌っています。
 
みとらしのあづさのまゆみつるはけて
ひきてかへらぬいにしへあはれ
 
「みとらし」とは聖徳太子がお手に取られたという意味、「つるはけて」は弦を掛けることをいいます。太子がお手にとられた梓真弓に弦を掛け、引いて放たれた矢が戻ってこないように遠い彼方に去った昔が偲ばれるということでしょうか。
 
7.六目鏑箭(むつめのかぶらや)
 
重要文化財 六目鏑矢 奈良時代・8世紀 東京国立博物館蔵
 
六目鏑箭とともに、箭(や)と利箭(とがりや)、彩絵胡簶(さいえのやなぐい)(すべて通期展示)がセットとして伝えられています。蝦夷(えみし)および仏教に敵対したとされる物部守屋(もののべのもりや)を退治した時に用いたものとされ、天下泰平をもたらす宝物と伝えられています。
鏑箭とは蕪(かぶ)のような形をした中空の部品(鏑)をつけた箭のことで、矢が空中を飛んでいる時に鏑の穴に空気が通ることで音が鳴るというものです。宝物の場合、その穴が6つあるので六目鏑箭と呼ばれます。戦場では戦闘開始の合図として用いられたと言われており、魔除けの意味から、現代でも神社の授与品とされる場合があります。
 
いかがでしたでしょうか。大変バラエティーに富んだ内容ですが、先ほどの手の皮といい、足跡といい、聖徳太子その人に「触れたい、感じたい」という熱烈な信仰心が伺えます。実際に太子に由来するとは考えにくいものではありますが、史実を超え、信仰心の中で夢見られた、いわば「精神としての真実」というような聖徳太子の姿をここに見ることができます。

カテゴリ:2021年度の特別展

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posted by 三田覚之(工芸室主任研究員) at 2021年08月02日 (月)

 

聖徳太子の実像に迫る二つの宝物

こんにちは、工芸室の三田です。今年は聖徳太子の1400年遠忌ということで、特別展「聖徳太子と法隆寺」を開催しております。そもそも遠忌というのは、没後に引き続き行われる追善(ついぜん)の仏事で、一般にはごく丁寧な場合でも50回忌が限度であるのに対し、高僧や聖徳太子のような人物に対しては、100年、500年、1000年といったように、節目節目で大きな法要が開かれます。
よく今年は聖徳太子が亡くなって1400年目のように勘違いされていますが、没年が622年ですので、実際は1399年目です。これは亡くなった年の法要(1回目)を起点として、翌年を一周忌(2回目)、二年目を三回忌(3回目)と数えるためで、聖徳太子の場合、没後1399年目の2021年が1400年遠忌という計算です。
さて、そんなメモリアルイアーだからこそ、まさに100年に一度と言ってよい最大規模の法隆寺展を開催することができました。このブログでは展示を担当した立場から、いくつかの作品について見どころをご紹介したいと思います。

まず注目頂きたいのが「夾紵棺断片」です。


夾紵棺断片(きょうちょかんだんぺん) 飛鳥時代・7世紀 大阪・安福寺蔵

大阪の安福寺が所蔵されているもので、お寺の居住部分にあたる庫裡(くり)の床下から発見されたということです。その後、なかなかいい板だということで床の間の敷板として使われていたところ、昭和33年(1958)に、周辺の古墳調査のため同寺に寄宿していた猪熊兼勝氏によって見出されました。
聖徳太子が活躍した7世紀、天皇や皇族の棺として、布と漆を貼り重ねて作った夾紵棺が使用されていました。「紵」とはカラムシという植物繊維のことで、普通にはこれで作った織物を30枚程度漆で重ねて作られています。ところがこの断片は極めて珍しいことに絹を45層も重ねて作られており、より高級な素材で密度が大変高く仕上げられているのが特徴です。


夾紵棺断片断面

絹を使った夾紵棺は他に例がなく、7世紀の中でもまったく異質な遺物と言えます。
江戸時代に活躍した安福寺の珂憶(かおく)和尚は聖徳太子を深く崇敬し、太子のお墓である叡福寺の御廟に仏舎利を寄進したことが安福寺の記録から知られますが、あるいはこの時に叡福寺から太子の棺の断片を拝領したのかもしれません。
ところで、この断片は幅が98.5センチあり、猪熊氏はこれが棺の短辺にあたると考察されました。一方で長辺を裁断したものという説もあることから、今後とも断層画像の撮影など更なる調査が必要なのですが、この棺の短辺と考える説にはとても魅力があります。
それというのも、明治時代に聖徳太子の陵墓が調査された際、棺を乗せた石の台が計測されており、その110.6センチという幅は、これが棺の短辺とした場合にちょうどピッタリのサイズなのです。できすぎた話かもしれませんが、他に例のない非常に丁寧な造りからしても、なかに納められたのは相当の貴人に相違なく、聖徳太子はまさにそのイメージに合致します。
はたしてこれが本当に聖徳太子の棺の断片であるかどうか、蓋然性は極めて高いものの、本当のところはわかりません。その解決は今後の研究に委ねられていますが、聖徳太子に直接結びつく可能性の高い遺物として今後とも注目されます。

前期展示のなかでも特に有名で、ファンのみなさんが多いのは奈良・中宮寺が所蔵する「天寿国繡帳」でしょう。


国宝 天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう) 飛鳥時代・推古天皇30年(622)頃 奈良・中宮寺蔵 8月9日(月・休)まで展示

聖徳太子が亡くなられた後、「天寿国」に旅立って行かれた太子のお姿を見たいと願った橘妃の願いによって作られました。現在も画面の左上に「部間人公」<聖徳太子の母である孔部間人公主(あなほべのはしひとのひめみこ)の名前部分>という文字を亀の甲羅に表わした部分がありますが、もとは100匹の亀形に400文字の銘文が記されており、平安時代にそれを写し取った記録から制作の経緯がわかります。
それによると、「天寿国」は人間の目には見えない世界であるから、せめてお姿を描くことで偲びたいと橘妃が願い、これを受けて妃の祖母に当たる推古天皇が宮中の女官に命じて、カーテンに「天寿国」の様子を刺繡で表わさせたものと知られます。
現在はバラバラになった断片を一つの画面に貼り合わせた状態にありますが、よく見ると色鮮やでよく残されている部分と、いかにも古く色あせて糸もボロボロの部分が確認できます。じつはこれ、鮮やかな部分が飛鳥時代の原本、ボロボロの部分は鎌倉時代に作られた模本なのです。
どういうことかというと、鎌倉時代の文永11年(1274)、中宮寺の信如という尼僧が法隆寺の蔵から「天寿国繡帳」を発見するのですが、当時すでに朽ち始めていたため、後世にその姿を残すべく模本を作ったのです。やがて新旧2種類の作品はともに断片と化し、江戸時代になってそれらを取り混ぜて貼ったのが現在の姿なのですが、こうして長い時間を経てみると、新しく作った模本の方がより劣化するという逆転現象が起きたのでした。
断片と化してもほとんど色あせることなく、制作当時の輝きを保ち続ける原本の部分からは、飛鳥時代の非常に高度な染色技術が知られます。おそらく極めてよい材料を使い、何度も何度も重ねて染め上げたのでしょう。また驚くほど緻密な刺繡も、その堅牢さが保存に役立ったと考えられます。聖徳太子を思って祈りながら刺繡をした人々のひたむきな様子が目に浮かびませんか。橘妃や推古天皇が手を合わせて祈った感動を、1400年経た我々が共有できるというのは、本当に奇跡だと思います。

この特別展では聖徳太子その人と同時代の文物に注目した展示に始まり、徐々に聖徳太子信仰が高揚していく様子を展示物とともにご覧いただけます。この特別展を通じて、いつの時代も聖徳太子をもとめ、その人に近づきたいという心の表れを感じ取っていただければ幸いです。

※会期は9月5日(日)まで、会期中展示替えがあります。
※入館は事前予約制。詳細は展覧会公式サイトにてご確認ください

カテゴリ:2021年度の特別展

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posted by 三田覚之(工芸室主任研究員) at 2021年07月28日 (水)

 

聖徳太子1400年遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」開幕したほ!



ほほーい! ぼくトーハクくん、7月13日(火)から開幕した聖徳太子1400年遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」を見にいくほ!
事前予約はしたかな。日時指定券の予約が必要だから、忘れずにね.。
ばっちり予約したほ。ところで、聖徳太子といえば、みんなも冠位十二階、憲法十七条、遣隋使などの言葉と一緒に一度は聞いたことがある人は多いと思うほ。
そうだね。聖徳太子は政治制度を整えて、仏教を深く研究して、日本の文化を大きく飛躍させたのよ。
そして、その聖徳太子が創建したのが法隆寺だほ。
世界最古の木造建築があって、建築・美術・文学などあらゆる分野において、日本を代表する文化財を守り伝えてきたわ。
看板とかに書いてある言葉「和を以て貴しとなす」、これも聞いたことあるほ。
憲法十七条の1つ目の言葉だわ。仏教の教えよりも先にこの言葉がくることからも、聖徳太子の人柄が想像できるような気がするわ。

さっそく会場に行くほ。これは聖徳太子だほ?


重要文化財 如意輪観音菩薩半跏像(にょいりんかんのんぼさつはんかぞう) 平安時代・11~12世紀 奈良・法隆寺蔵

聖徳太子が創建した大阪の四天王寺のご本尊を模刻した作品よ。もともとのご本尊は今はないけど、平安時代以降、聖徳太子を観音の化身とする信仰があって、その模刻像が多数つくられたのよ。
これも聖徳太子のイメージの一つってことほか。だから最初にあるのかもほ。

トーハクくん、これはわかるかな。


聖徳太子二王子像(模本)(しょうとくたいしにおうじぞう もほん) 狩野<晴川院>養信筆 江戸時代・天保13年(1842) 東京国立博物館蔵

見覚えあるほ!聖徳太子と聞くと、これをイメージするほ。
御物「聖徳太子二王子像」の模本なのよ。幕末の幕府御用絵師、狩野<晴川院>養信が模写したわ。昔のお札でもこのイメージが使用されていて、長い間みんなに親しまれてきたのよ。

これはなんだほ。どこにも聖徳太子がいないほ。


夾紵棺断片(きょうちょかんだんぺん) 飛鳥時代・7世紀 大阪・安福寺蔵

これは聖徳太子の棺(ひつぎ)かもしれない作品よ。
なんでだほ?
ポイントは横幅らしいわ。この横幅は夾紵棺としては最大の大きさで、大阪の叡福寺(えいふくじ)の北古墳にある、聖徳太子の石製の棺台が唯一設置することが可能な大きさと指摘されているのよ。
ところで、夾紵棺ってなんだほ?
織物を漆で固めて作った棺のことよ。この夾紵棺断片は45層もの絹が貼り重ねられているらしいわ。

これはいつもは法隆寺宝物館で展示している国宝の「灌頂幡」だほ。


国宝 灌頂幡(かんじょうばん) 飛鳥時代・7世紀 東京国立博物館蔵

ほかにも普段は法隆寺宝物館に展示されている作品がこの展覧会で展示されているわ。特別展会場に展示されていると、普段とは違った見方ができるかもしれないわ。
見終わったら、法隆寺宝物館の展示室に行くのもおすすめだほ。『8Kで文化財 国宝「聖徳太子絵伝」2021』を実施しているほ!あっ大きい布があるほ。


国宝 天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう) 飛鳥時代・推古天皇30年(622)頃 奈良・中宮寺蔵 8月9日(月・休)まで展示

聖徳太子が亡くなった後に行くことになった国と伝えられる「天寿国」の様子が緻密な刺繍で表されているわ。聖徳太子周辺の信仰が絵画的表現として反映されている貴重な作品よ。

あっ、かわいらしいお像があるほ。


聖徳太子立像(二歳像)(しょうとくたいしりゅうぞう にさいぞう) 鎌倉時代・徳治2年(1307) 奈良・法隆寺蔵

聖徳太子が数えで二歳の時に、「南無仏」(なむぶつ)と唱えた伝説上の姿を表しているわ。
2歳には見えない、キリっとした眉毛と鋭い目だほ。これも聖徳太子だほ?


聖徳太子像(孝養像)(しょうとくたいしぞう きょうようぞう) 室町時代・弘治2年(1556) 奈良・法隆寺蔵 8月9日(月・休)まで展示

聖徳太子が16歳の時に、お父さんの用明天皇が病気になった時、治るようお祈りしていたというお話にもとづく肖像画よ。
ユリノキちゃん、こっち、こっち、とても立派なお像があるほ。


国宝 聖徳太子および侍者像(しょうとくたいし じしゃぞう) 平安時代・保安2年(1121) 奈良・法隆寺蔵

これは真ん中にあるのは聖徳太子のお像で、周りには聖徳太子の子どもの山背大兄王(やましろのおおえのあに)や聖徳太子の仏教の先生の恵慈法師(えじほうし)などがいるわ。聖徳太子はきりっとした表情だけど、周りの人はどこかユーモアのある表情に見えるわね。
いろんな年齢の聖徳太子が見れたほ。ほかの人は、例えば肖像画だとおじいちゃんの時のみとかで、いろんな年齢の姿をあらわした作品は少ないと思うけど、どうしてだほ?
うーん、想像だけど、様々な年での伝説や実績が語り継がれてきたからじゃないかしら。そういった様々な伝説や実績が、作品としての表現につながったのかもね。
ほー。さすが、日本の歴史上での有名人物だほ。お、塔の上に水晶がのっているほ。なんだほ?


南無仏舎利(なむぶつしゃり) [舎利塔]南北朝時代・貞和3~4年(1347~48) [舎利据箱]鎌倉時代・13世紀 奈良・法隆寺蔵

聖徳太子立像(二歳像)の作品で、聖徳太子が二歳の時に「南無仏」と唱えた伝説があるって話したけど、続きがあって、その時に聖徳太子の手からこぼれ落ちたのが、お釈迦様の遺骨と伝えられていて、それが納められているのよ。

すごい伝説だほ! あっ、こっちには大きな鈴みたいなものがあるほ。


重要文化財 五大明王鈴(ごだいみょうおうれい) 中国 唐・8~9世紀 東京国立博物館蔵

聖徳太子ゆかりの7種の宝物のひとつで、密教の法具らしいわ。8月11日(水)からの後期展示ではこの7種の宝物すべてをみることができるのよ。

楽しみだほ。こっちにはおみこしみたいなものがあるほ。


舎利御輿(しゃりみこし) 室町時代・15~16世紀 奈良・法隆寺蔵

聖徳太子がお亡くなりになった日、旧暦の2月22日には法隆寺で聖霊会(しょうりょうえ)という儀式をするんだけど、このおみこしは十年に一度とかの大きな儀式で使用されるものよ。
周りにあるお面は何か関係あるほ?仮装大会でもするほか?
このおみこしをかつぐ人たちがレプリカのお面をつけるわ。儀式の様子をイメージして展示したのよ。

ポスターとかで見たことあるお像だほ。


国宝 薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう) 飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺蔵

めったに法隆寺の外に出ることがない、今回大注目の作品よ。優しく微笑んでいるような表情、台座にまで垂れている衣、光背の唐草模様、見どころ満載だね。

これもすごいほ、お像が中から飛び出ているみたいだほ。


国宝 伝橘夫人念持仏厨子(でんたちばなぶにんねんじぶつずし) 飛鳥時代・7~8世紀 奈良・法隆寺蔵

もともとは厨子の中にある阿弥陀三尊像を別々に展示しているのね。このお像は、とても薄い銅で作られているみたいで、その技術が生み出す曲線の美しさに要注目ね。

ふー、たくさん見たほ。あらためて聖徳太子って凄い人だなって思ったほ。そして、その聖徳太子ゆかりの宝物を守り伝えてきた法隆寺も凄いお寺なんだと思ったほ。
聖徳太子に思いを寄せることで、今の世界、未来の世界を生きるヒントが見つかるかもしれないわ。


※会期は9月5日(日)まで、会期中展示替えがあります。
※入館は事前予約制。詳細は展覧会公式サイトにてご確認ください

カテゴリ:トーハクくん&ユリノキちゃん2021年度の特別展

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posted by トーハクくん&ユリノキちゃん at 2021年07月19日 (月)

 

「聖林寺十一面観音」、搬出の舞台裏

6月22日(火)より開幕した、特別展「国宝 聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」
本ブログでは、タイトルにある国宝 十一面観音菩薩立像を聖林寺のお堂から搬出した時のことをご紹介します。

 
国宝 十一面観音菩薩立像 奈良時代・8世紀 奈良・聖林寺蔵

奈良県桜井市の小高い場所に位置する聖林寺の国宝 十一面観音菩薩立像は、明治元年(1868)に同市の大神神社(おおみわじんじゃ)の境内にあった寺から移されました。
高さ209.1センチ、台座の高さと合わせると約3メートルにもなります。
搬出のポイントは、この像の「材質」と「構造」です。詳しくみていきましょう。


お堂のなかの様子

まずは、像のまわりに鉄骨の足場を組み上げます。
お堂の中にはガラス戸がありますが取り外せないため、限られた空間のなかで作業をしました。
像にとても近い場所での作業は、より一層の緊張感がありました。


梱包された像
頭や手、全身を薄い和紙や柔らかい布で丁寧に梱包し、ベルトや木の板を使って像を木枠に固定します。

ここが1つ目のポイント、「材質」です。
この像は、木でおおよその形をつくり、表面にペースト状の練り物を盛り上げて成形する、木心乾漆造(もくしんかんしつづく)りという技法でつくられています。
一般的な木造の像であれば、像に直接触れて数人で持ち上げることもできますが、木心乾漆造りの場合は表面が練り物なので、人の手では不均等に圧がかかって表面の脱落につながるリスクがあります。
そこで、表面を綿布団(わたぶとん)で保護した上、面積の広いベルトで木枠に固定することで、圧力を分散させてリスクを取り除きます。

そしていよいよ持ち上げ作業開始。周囲の足場に設置したクレーンで木枠ごと持ち上げ、像を台座から離していきます。
真上に少しずつ、少しずつ持ち上げていきます。
すると、、、、


像と台座が離れた瞬間
2本の木の棒が出てきました!
これは像の足裏から突き出た足枘(あしほぞ)というもので、立った形式の像を台座に固定させるための支柱の役割を果たします。


国宝 十一面観音菩薩立像の台座

ここが2つ目のポイント、「構造」です。
この像の足枘の長さはおよそ60センチもあり、他の像と比べて非常に長く、しかもそれに対して像の頭から天井までの高さがあまりありません。
そのため台座の各部位のうち、蓮肉(れんにく)と葺軸(ふきじく)という部位を像と一緒に持ち上げました。
それにより、本来は約60センチ持ち上げなければならないところを25センチほどで済みました。
加えて、足枘を敷茄子(しきなす)という部位から抜き切ったところで止め、敷茄子から下の台座を手前に引き出すことで、像を持ち上げる高さを最小限にしました。



像の足元側の木枠にロープをくくり付けて持ち上げていきます。
同時に、像を持ち上げた頭側のクレーンのロープを下げていき、立っている像をだんだんと寝かせていきます。
足元側を上げる作業と頭側を下げる作業。この2つを同時に、息を合わせて慎重に行ないます。


横になった像
そしてやっと像が寝ている状態になりました。次はいよいよお堂から像を運び出します。



お堂から寺のなかを通って山門(寺の入り口)までは急な階段を通らねばなりません。
そこで今回は木の生えていたところを整備してお堂から直接外へと搬出するようにしました。
小高い場所に立つ聖林寺のお堂から下の平地までは、ずっと坂道が続きます。
まず、車が入れる場所までは人の手で運びます。周りや足元に注意しながら慎重に運んでいきます。




この像を東京まで運ぶ車は大型で寺までは上がって来れないため、途中で一旦、屋根のないより小さい車へ移し替えました。
ゆっくりゆっくりと下っていきます。




そして無事に平地に到着。東京へと運ぶ美術品専用車へ移し替えました。


本堂からの景色

ところで、もし雨が降っていたらこの日に像の搬出を行なうことができませんでした。
数日前の天気予報ではこの日は雨予報だったので、私たちも気が気でありませんでしたが、しかし当日は驚くほど気持ちのいい青空が広がりました。

冒頭に記しましたように、この像は明治元年(1868)に大神神社の境内にあった寺から移されました。しかし当時は車もなく、道もアスファルトで整備されていません。当時の人々がこの像をどれほど大切に運んだか、その情景にあらためて思いを馳せました。

搬出の舞台裏、いかがでしたでしょうか。
奈良の地を初めて離れた「聖林寺十一面観音」。東京で公開されるまたとないこの機会をぜひお見逃しなく!

カテゴリ:2021年度の特別展

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posted by 増田政史(絵画・彫刻室) at 2021年07月09日 (金)

 

特別展「国宝 聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」開幕しました!

本館特別5室にて特別展「国宝 聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」(会期:2021年6月22日(火)~9月12日(日))が開幕しました。
本展は、昨年の夏開催予定としていましたが、1年延期となりようやく開くことができ関係者一同安堵しています。


2020年2月27日(木)に開催した報道発表会時の様子
右:聖林寺 倉本明佳住職 左:東京国立博物館 浅見龍介学芸企画部長(本展担当)

展覧会最大のみどころは、奈良時代(8世紀)に造られた数少ない天平彫刻のなかでも名品と言われる、
奈良県桜井市にある、聖林寺所蔵の国宝「十一面観音菩薩立像」をご覧いただけることです。
奈良県を出るのは初めてのことです。


国宝 十一面観音菩薩立像(部分) 奈良時代・8世紀 奈良・聖林寺蔵

普段聖林寺のお堂では正⾯からの拝観ですが、
会場では優雅な表情、均整のとれた体、姿勢、しぐさなど360度さまざまな角度からご覧いただけます。
また、お像を展示しているケースのガラスは大変透過度が高いため、ケースに入っていないように見えるかもしれません(上記画像もケース越しに撮影しています)。

仏教伝来以前の日本では、神は山、滝、岩や樹木などに宿ると信じられ、本殿などの建築や神の像はつくらず、自然のままを拝んでいました。
その形が現在も続いているのが、奈良県にある三輪山を御神体とする大神神社(おおみわじんじゃ)です。
奈良時代以降、大神神社には、仏教の影響を受けて神社に付属する寺(大神寺<おおみわでら>、後に大御輪寺<だいごりんじ>に改称)や仏像がつくられました。

明治元年、新政府により神仏分離令が発せられると、寺や仏像は苦難にさらされます。
もとは大御輪寺にあった国宝「十一面観音菩薩立像」(聖林寺蔵)、国宝「地蔵菩薩立像」(法隆寺蔵)、「日光菩薩立像」「月光菩薩立像」(ともに正暦寺蔵)は、
大御輪寺の住職や周辺の人々によって近傍の寺院にうつされましたが、本展で約150年ぶりに再会します。

この他にも、三輪山には人々が入ることができない禁足地があり、本展ではそこから出土した古代の祭祀を物語る子持勾玉や土製模型なども展示しています。



今後も本展の見どころをブログでご紹介していきます。
次回は、国宝「十一面観音菩薩立像」を聖林寺から搬出した舞台裏をご紹介します。
どうぞお楽しみに!


本館エントランス左が入口となります。

本展は、事前予約制(日時指定券)です。
予約不要の「当日券」を会場にて若干数ご用意しますが、「当日券」は販売終了している可能性があります。
また、混雑緩和のため1日を、(1)9時30分~12時00分/(2)12時00分~14時30分/(3)14時30分~16時30分に区切り、その時間枠内にご入場いただけます。
指定時間枠内であればいつでも入場いただけますが、各時間枠の開始時刻直後は混雑が予想されます。
開始時刻から多少遅れてのご来館がおすすめです。
詳しくは展覧会公式サイトをご覧ください。

特別展「国宝 聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」

本館 特別5室
2021年6月22日(火) ~ 2021年9月12日(日)

展覧会詳細情報

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カテゴリ:2021年度の特別展

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posted by 江原香(広報室) at 2021年06月30日 (水)