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1089ブログ

大彦コレクションと友禅染─第2次友禅染ブームと、加賀染、久隅守景のことなど

今、トーハクでは、江戸時代の小袖がずらりと展示されています(画像1)。「小袖」というのは現在の着物の原型です。江戸時代までは袖口を小さく縫い狭め、袂がある長着を「小袖」と呼んでいました。これらの小袖コレクションを蒐集したのは、明治期から大正期にかけて業界で名を馳せた呉服商、野口彦兵衛(1848~1925)です。明治8年に独自の友禅染を売る「大彦(だいひこ)」という店を日本橋に立ち上げた彦兵衛。明治20年代の終わりにはそのデザインが「東京一本立」と称されるほど、京阪とは異なる趣向をもった個性的な染め模様であったようです。
 

展示風景
画像1:本館特別1室・2室で展示中の特集「呉服商「大彦」の小袖コレクション」


「大彦染」と称された彦兵衛の店のきものは江戸時代から続く日本の伝統技法「友禅染」で染めたものです。だから彦兵衛が蒐集した小袖コレクションにも友禅染が多いのでしょう(画像2)。しかし、彦兵衛が江戸時代の友禅染を参考に「大彦染」のデザインを考案した、というわけではないようです。彦兵衛は小袖のほかにも、人形や武具、インド更紗などを蒐集していましたが、当時の「大彦染」は「更紗染に工夫がある」や「絵画と更紗風とを調和し巧みに意匠を付したるものなり」などと評されているように、むしろ彼のもう1つのコレクションであるインド更紗から影響をうけていたことがうかがえます(画像3)。

大彦染
画像2
左:振袖 白縮緬地梅樹衝立鷹模様 野口彦兵衛旧蔵
 江戸時代・18世紀 (展示中)
右:小袖 浅葱縮緬地唐山水模様
 野口彦兵衛旧蔵 江戸時代・18世紀 (展示中)
当館所蔵の友禅染の名品は、まず、「大彦」のコレクションであるといっていい

彦根更紗
画像3
彦根更紗 紫地立木小鳥文様更紗 
野口彦兵衛旧蔵 南インド・18世紀 彦根藩井伊家伝来 (展示中)
彦兵衛が大正期に井伊家から購入した。彦兵衛は「更紗きちがい」と言われるほどに更紗を集めていたと言われるが、関東大震災で焼けてしまったという。

実は、彦兵衛が活躍した明治期の友禅染は、江戸時代から続くものとは随分異なっていました。友禅染の始まりは、江戸時代前期、京都・知恩院門前で店を構えていた宮崎友禅が描く大和絵風の扇絵が都で大流行、その扇絵(画像4)を小袖の模様にも染めるようになったことがきっかけでした。貞享年間(1684-1687)にこの友禅模様は一大ブームを引き起こしますが、元禄期(1688-1707)には廃れてしまいます。しかし、友禅風の模様を染めていた技法のことは、ブームが終わってからも「友禅染」と言われ続けました。絵画的な模様を色彩豊かに染め、しかも色落ちしない、という点が友禅染のセールスポイントでしたが、江戸時代後期にかかる頃には、その特色も省みられなくなります。町人に対するたび重なる贅沢禁止令によって町方の女性たちが華やいだ色小袖を着用することが難しくなり、江戸時代末期には、手彩色で手間隙のかかる友禅染は豪商の妻子が晴着に染める程度で、市井の人々が着用することはほとんどなかったのでした。

友禅筆の扇絵
画像4
蛍図扇面 宮崎友禅筆 江戸時代・17世紀(この作品は展示されていません)
宮崎友禅自筆と伝えられる扇。江戸時代、宮崎友禅は京都の扇工として知られていた。

ところが、明治期に化学染料が日本に輸入されるようになると、友禅染にも大きな変革期が訪れました。化学染料を糊に混ぜ、型染で反物に模様を定着させる「写し友禅」「型友禅」が京都で生産されるようになりました。手描き友禅ほど手間隙をかけずに量産ができ、江戸時代の友禅染よりは安価で友禅染が着られるようになり、一般女性の間でも、友禅染の華やかな着物が着られるようになったのです。「大彦」の時代は、いわば第2次友禅染ブームといっていいでしょう。

友禅染が再び注目を集めるようになった明治期以降、その歴史についてもこれまでにない新たな説が取り沙汰されるようになりました。江戸時代後期に活躍した戯作者・考証学者である柳亭種彦の説「友禅は京都の染物屋で、加賀(現在の石川県金沢市)生まれの人であり、加賀染をよくする」(『足薪翁記(そくしんおうき)』)が広まり(しかし、柳亭の説は何を典拠に記したのかは定かではありません)、友禅染は加賀が発祥の地である、と考えられるようになったのです。大正9年には、金沢の龍国寺で宮崎友禅の墓碑が発見され、京都で加賀染を発展させた友禅が故郷に帰り、その染技法を地元の染屋に伝授した、という伝説が「裏付け」られました(画像5)。さらに伝説は膨らんで、加賀染は、一時期加賀に在留した狩野派の絵師・久隅守景(画像6)が九谷焼の色絵を元に発明した技法で、それを守景から直接伝授された宮崎友禅が京都に出て大成させた、という説まで登場しました(野村正治郎『友禅研究』)。確かに、地元・金沢の史料を見ると、友禅染で染めた着物のことを「色絵」と呼んでおり(享保三年御用御染物帳)、また、久隅守景が描いたという色絵九谷焼の磁器も残っているのですが…。想像を膨らませた妄説と言われても、仕方がありません。

紫式部観月図友禅染絵
画像5
左:友禅染掛幅石山寺観月図 江戸時代・享保5年(1720)(この作品は展示されていません)

右:左下拡大図
加賀で染物業を営んでいた太郎田屋5代、茂平(茂兵衛)が宮崎友禅の指導のもと、製作したと伝えられる。染絵の左下に「享保伍庚子六月十五日於加州/御門前町染所茂平」と染め抜かれる。「加州」とは加賀のこと。

納涼図
画像6
国宝 納涼図屏風(部分)  久隅守景筆 江戸時代・17世紀(
この作品は展示されていません
宮崎友禅は加賀生まれと言われ、狩野派の絵師に絵画を学んだと言われている。それもまた、狩野探幽の弟子だった久隅守景と関連付けられる理由の一つである。

面白いのは、彦兵衛がコレクションの友禅染に付けた付箋には例外なく「加賀染」と記していることです(写真7)。なぜ、「友禅染」とは言わずにあえて「加賀染」と称したのでしょうか。

彦兵衛自筆の紙札
画像7:小袖 浅葱縮緬地唐山水模様(写真2の右)に付属する彦兵衛自筆の紙札
紙札には「享保頃 加賀染潟模様 唐縮緬 地空色 唐画山水」と記される。

今でも「大彦」の友禅染の特徴は、糸目糊で輪郭線を描き、色を挿していく江戸時代以来の伝統的な技法(画像8)であるといわれています。新規の型友禅が出回った明治期以降、宮崎友禅が活躍していた時代の本物の友禅染の手本として、江戸時代の友禅染を蒐集することは彦兵衛の「大彦染」にとって、欠かせないものでした。それは「大彦流にして…蓋し始祖友禅の遺志を得たるものか」という批評にも表れています。だからこそ彦兵衛は、コレクションの中にある江戸時代の友禅染に、その源流である「加賀染」の名を用いたのではないでしょうか。

伝統的な技法
画像8
左:「振袖 白縮緬地梅樹衝立鷹模様(
画像2 左)」部分
右:「小袖 浅葱縮緬地唐山水模様(画像2右)」部分
細く白い輪郭線は、糸目糊を置いた跡である。繊細でゆるぎのない線を糊で描くには、相当の熟練がいる。



この特集では、彦兵衛が「加賀染」と呼んだ友禅染の優品がお披露目されます。是非、この機会に日本独自の染模様をご堪能いただきたいと思います。
 

特集「呉服商「大彦」の小袖コレクション」
2015年6月9日(火)~8月2日(日)  本館 特別1室・特別2室
※前・後期で展示替あり
前期:6月9日(火)~ 7月5日(日)
後期:7月7日(火)~ 8月2日(日)

関連事業
月例講演会「呉服商『大彦』の小袖コレクションについて」
2015年6月27日(土) 13:30~15:00 (開場は13:00を予定)
平成館大講堂

ギャラリートーク「呉服商『大彦』の小袖コレクション」
2015年7月14日(火) 14:00~14:30
東洋館地下  TNM&TOPPANミュージアムシアター

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 小山弓弦葉(工芸室主任研究員) at 2015年06月25日 (木)

 

平成26年度新収品の公開

文化財の収集は博物館の重要な使命のひとつです。
平成26年度、新しくトーハクに収蔵された作品を紹介する特集「平成26年度新収品」が5月19日(火)より本館特別2室にて始まりました。
※トーハクにおける作品収集の方法については、過去の記事「トーハクの作品収集」(2013年7月)をご参照ください。


今回は、日本をはじめ、中国、韓国、インドネシア、イラン、エジプトまでのアジアのさまざまな地域からの文化財40件を展示します。
そのなかから、ここでは4件を紹介いたします。

良忍上人によって始められた融通念仏の功徳を描く「融通念仏縁起絵」の断簡。本図は、融通念仏の教えが畜類にも広まったという場面です。同縁起絵の古様を示すものとして貴重です。

重要美術品  融通念仏縁起絵断簡
重要美術品  融通念仏縁起絵断簡 橋本辰二郎旧蔵 南北朝時代・14世紀


しだれ桜の下、豪華な装いの若い娘と侍女。生彩な目、精緻な髪の生え際、眉、着物の文様の入念な描写が秀逸なこの作品は、円山応挙門下の奇才、長澤芦雪が描いた希少な日本美人画です。


桜下美人図 長澤芦雪筆 江戸時代・18世紀



愛知県の関戸家に伝わった「古今和歌集」古写本の一部。染紙を色変わりで配し、珍しいカタカナを交えた平安時代の優美な書です。

古今和歌集巻第一断簡(関戸本) 伝藤原行成筆 平安時代・11世紀
古今和歌集巻第一断簡(関戸本) 伝藤原行成筆 平安時代・11世紀

こちらの作品については、月例講演会「書の楽しみ―特集「新収品」の関戸本古今和歌集を中心に」(5月23日(土)  13:30~より平成館大講堂)にてご紹介いたします。


ササン朝ペルシア帝国で盛行したガラス器です。東大寺正倉院宝物の白瑠璃碗のように、このような器はシルクロードを経て東西の遠隔地にも伝えられました。

円形切子碗 イラン ササン朝時代・6世紀 百瀬治氏・富美子氏寄贈
円形切子碗 イラン ササン朝時代・6世紀 百瀬治氏・富美子氏寄贈



このほか、平安・鎌倉時代の銅鏡や中国の帯鉤など、一括でご寄贈いただいた作品もご覧いただけます。
会期は5月31日(日)までと短いので、ぜひお見逃しなく!
 

カテゴリ:news特集・特別公開

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posted by 奥田 緑(広報室) at 2015年05月19日 (火)

 

平成27年度の新指定 国宝・重要文化財が展示されます!

毎年恒例の「新指定展」。今年は何が出るのか、心待ちにされている方も多いのではないでしょうか。

今年も新たに彫刻2件が国宝に、また、絵画8件、彫刻7件、工芸品4件、書跡・典籍4件、古文書5件、考古資料6件、歴史資料9件の計46件が重要文化財の指定を受けることになりました。

特集「平成27年 新指定 国宝・重要文化財」(2015年4月21日(火)~5月10日(日) 本館8室・11室)にて、これら46件を展示します(写真パネルのみの展示含む)。
※絵画、工芸品、書跡・典籍、古文書、考古資料、歴史資料は本館8室、彫刻は11室で展示します。
詳しくは、展示作品リストをご覧ください。

ここでは、国宝に指定された2件をはじめ、主な作品を紹介いたします。


国宝  木造虚空蔵菩薩立像 平安時代・9世紀 京都・醍醐寺蔵
国宝  木造虚空蔵菩薩立像 平安時代・9世紀 京都・醍醐寺蔵

当館に寄託されているので、展示室でご覧になったことがあるかもしれません。
これまでは聖観音菩薩立像とされていましたが、最近の研究で虚空蔵菩薩像として伝えられていたことがわかりました。
こうした新知見もふまえて国宝に指定されることになりました。


国宝  木造弥勒仏坐像 平安時代・9世紀 奈良・東大寺蔵
国宝  木造弥勒仏坐像 平安時代・9世紀 奈良・東大寺蔵

東大寺法華堂伝来の弥勒仏です。高さ39cmと小さな像とは思えない雄大な造形により「試みの大仏」(大仏を造るにあたっての試作品)とも呼ばれています。
平安時代前期の彫刻の名作として国宝に指定されました。



重要文化財  色絵竜田川文透彫反鉢 尾形乾山作 江戸時代・18世紀 神奈川・岡田美術館蔵
重要文化財  色絵竜田川文透彫反鉢 尾形乾山作 江戸時代・18世紀 神奈川・岡田美術館蔵


尾形乾山が得意とした反鉢といわれる器形の内外に、古くから紅葉の名所として和歌に詠まれてきた竜田川をモチーフに描いています。
乾山の色絵の代表作として貴重です。


重要文化財  法隆寺金堂壁画写真ガラス原板 昭和10年(1935) 奈良・法隆寺蔵
重要文化財 
法隆寺金堂壁画写真ガラス原板 昭和10年(1935) 奈良・法隆寺蔵

昭和10年(1935年)に、文部省法隆寺国宝保存事業部の事業として撮影された原寸大分割写真原版です。
後の模写作成の基礎資料として活用されるほど精緻で、高品質であるため、その学術的価値が評価されました。

 

後世に伝えるべく新たに加わった国民みんなの宝。
この機会に改めて日本の歴史や文化について、考えてみませんか。
 

カテゴリ:news特集・特別公開

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posted by 奥田 緑(広報室) at 2015年04月21日 (火)

 

「南京の書画」を楽しむ(2)―南京・保寧寺を訪ねて―

先週、南京に出張した合間に、前回ブログでもご紹介した古林清茂の住した保寧寺の跡を訪ねることが出来ましたのでご紹介します。

保寧寺は明代には廃寺となってしまい、現在は存在していません。しかし、その場所を知る史料がいくつか残されています。まずは元時代の南京の地図を見てみましょう。ここには、南京城の西南に「保寧寺」の文字が見えます。

 

これで大体の位置はわかりますが、南京は今でも人口700万人を擁する大都市。これだけでは具体的な場所までわかりません。注目すべきは、そのとなりにある「鳳凰台」の文字です。
「鳳凰台」とは六朝の昔、鳳凰が集まってきたという伝説から名付けられた小さな丘です。ここで古林清茂「賦保寧寺跋」を見てみましょう。


重要文化財  保寧寺賦跋 馮子振筆、古林清茂跋 中国 元時代・泰定4年(1327)

前半では元時代の有名な文人である馮之振が、「鳳凰台」を訪ねて感慨にふけり、この場所が六朝時代から佛教寺院のあった聖地であった歴史を記しています。
というのもこの丘には昔、瓦官寺という有名なお寺があり、しかも李白などの文人が訪れ金陵(南京)の街を眺めて詠んだ「金陵の鳳凰台に登る」という有名な詩の舞台でもあったからです。
どうやら、瓦官寺の付近、鳳凰台と呼ばれる丘の上に「保寧寺」はあったようです。
今、南京の地図を見てみると、その名も「鳳台路」という地名が残っていました。そこまでを日本で調べて、南京へと旅立ちました。


地図上で「く」字型に曲がっているのが南京城の城壁とその外堀。ちょうど東南角に「鳳台路」がのびています

南京に入ってすぐ、地元の文物局と友人たちに保寧寺の場所について尋ねると、「鳳台小学校」というのがあると言われ、翌日早速、友人の車にのって市内から西南に向かうと、ちょうど集慶路から上り坂になっており、期待がいやがおうにも高まります。

 
集賢路から南京城の城壁(集慶門)が見えます。左に曲がると、そこは「鳳遊寺」という一画でした。

地元の人にこの辺にお寺はあるかと聞くと、曲がったところにあるという答え。

 
果たしてそこは小さな丘になっており、「古瓦官寺」が建っていました。しかしこれは、最近建てられたお寺です。

お坊さんに「この辺にあった「保寧寺」というお寺について知りませんか」と訊ねても、「知らない」との答え(よくあること)。
しかし、この丘に鳳凰台があったのは間違いありません。さらに進んでいくと、南京城壁にたどりつき、そこからその小さな丘が望めました。

 
南京城壁の東南と、保寧寺はここにあったはず(!)

今では紡績工場になっていましたが、ちょうど再開発が進んでいるのか、中にまで入ることが出来ました。
この丘が鳳凰台、そして保寧寺の旧在地でしょう。

 
中央のちょっと小高くなっている丘が鳳凰台。記録によれば保寧寺のなかにこの「鳳凰台」は保存されていたようです。

明時代の「金陵梵刹志」巻四八によれば、三国時代の呉の孫建の赤烏四年(241)に西域から来た康僧会によって建てられたこのお寺は、祇園寺、長慶寺、南唐には奉先寺、北宋に保寧寺と名を替えながら存続し、宋代には五百人もの僧が修行した大寺でした。
もし将来この場所が発掘されたならば、きっと長い歴史を物語る文物が出土するに違いありません。しかし現在のところ、その栄華を伝える文物はわずかに日本に招来された墨蹟のみです。
この保寧寺に関する重要な文物が日本には残されており、その法灯が今も受け継がれているとは、同行してくれた中国の友人たちも驚きであったようです。

 
(左)現在、復元が進められている南京のシンボル・大報恩寺塔。来年オープン予定だそうです。
(右)1721年にヨーロッパで描かれた大報恩寺塔(パネル展示)。ここから出土した阿育王塔は、「中国王朝の至宝」展でも展示され、大きな話題となりました。


保寧寺はその後まもなく廃絶してしまいますが、それは元末の戦乱が南京を巻き込んだことや、彼の有力な弟子が二人とも日本に渡ってしまったこととも関係しているのかもしれません。
残された文物は、長い歴史の一部分でしかありませんが、その一片が残っていることによって、過去と現在が、そして変化していく都市や人々が、現在もまた再び結びつけられていきます。それが博物館で研究することの醍醐味でもあります。そんなことを実感した保寧寺跡訪問でした。

古林清茂「賦保寧寺跋」は、特集「南京の書画―仏教の聖地、文人の楽園―」(2015年2月24日(火)~4月12日(日)、東洋館8室)で展示中です。
ぜひじっくりとお楽しみください。

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 塚本麿充(東洋室研究員) at 2015年03月22日 (日)

 

「南京の書画」を楽しむ(1)―人々をつなぐ美しき古都・南京へようこそ―

皆様は「南京」と聞いてどのようなイメージをお持ちになるでしょうか。昔、私が南京に留学しようと思ったのは、修士論文で南京で栄えた六朝の芸術論をとりあげたものの、中国には全く行ったことがなく、文字だけではわからない本当の中国を見てみたい、是が非でも行ってみたいという渇望があったからです。

…しかし、今だからこそ告白しますが、まだ当時は明確な目標もなく、将来も迷っていました。しかし南京での二年間の留学生活は、私に中国の書画文化の素晴らしさと奥深さを教えてくれ、「この道しかない」と思うようになりました。明代の城壁に囲まれた美しい南京の街と、そこで育まれた書画文化が、私に人生をくれました。今回、その素晴らしい南京の書画をご紹介できる今回の特集「南京の書画―仏教の聖地、文人の楽園― 」(2015年2月24日(火)~4月12日(日)、東洋館8室)を開催することができ、心よりの幸せと感謝を感じております。


会場風景
会場は東洋館8室。第一章:佛教の聖地―宋元時代の南京―、第二章:明朝の副都―明代初期の南京―、第三章:遺民の都―明末清初の南京―、第四章:江南文人の繁栄―清代の南京―、第五章:モダンと伝統―近代の南京―、の五章構成です。

  南京の書画700年の歴史を48件の名品からご紹介するこの展観は、美しい「長江」のイメージから始まります。上海から長江を上って行くと、「十朝の都」南京につきます。南京は豊かな江南の大地の中心に位置し、六朝から南唐、明、太平天国、中華民国と、十朝の首都となりました。その歴史は長く、文化は限りなく豊かです。中国書画の歴史は南京なしには語れません。
 
朱翰之「三山書院図巻」個人蔵

朱翰之「三山書院図巻」個人蔵
朱翰之「三山書院図巻」個人蔵
長江に臨んだ三山書院からは多くの俊英が育ちました。悠久の長江の流れは、江南の歴史文化の揺籃地です。


古写真
20世紀初頭の長江埠頭(左)と、秦淮河の繁華街(右)。東京国立博物館所蔵の豊富な古写真のなかから、南京の風景も同時に紹介しています(パネル展示)。

 
今回の展示は五章で構成されますが、日本との交流も見所の一つです。展示は元代の留学僧からはじまり、明清の文人文化の成熟を経て、近代の美術留学生までを紹介します。
 
重要文化財 保寧寺賦跋
重要文化財  保寧寺賦跋 馮子振筆、古林清茂跋 中国 元時代・泰定4年(1327) 
作品の前にたたずめば、師弟の会話が聞こえてきそうです。


南京に住んでいた高僧・古林清茂が、日本から来た留学僧・月林道皎に与えたこの作品には、当時の子弟の会話が記されています。月林道皎は「日本は遠い海の外にあるが文物は豊かです。もし今日この馮子振の墨蹟をいただけたならば、なんと光栄なことでしょう」と言いました。そこで大切な馮子振の作品に古林清茂自身が跋を書き足し、修行を終えた月林道皎に与えたのがこの作品です。この作品が海を渡ったことが、師の答えそのものだったように思います。

この日本僧は師から「月林」という美しい道号を与えられて帰国しますが、その心の中には南京の清らかな月が輝き続けていたに違いありません。

 

また今回、南京の建築を彩っていた瓦類も出陳されています。ご注目いただきたいのはこの作品。

南京聖廟巴瓦破片  中国  明時代・14~17世紀
南京聖廟巴瓦破片  中国  明時代・14~17世紀
よく見ると裏に朱書きの文字が。。。


 慶應二年(1865)の冬、清朝に渡った高橋藍川(由一)が収拾した南京聖廟の瓦です。翌年の夏、高橋から中国の話を聞いた竹内鼎が裏に事の顛末を記しています。時に慶應三年の秋。今まで文献でしか知り得なかった「中国」の一部分に触れ得た、という幕末人の興奮が伝わってくるようです。
 
左:驢図 徐悲鴻筆 中国  中華民国25年(1936)  林宗毅氏寄贈/右:後赤壁図  傅抱石筆 中国 中華人民共和国・1964年  個人蔵
左:驢図 徐悲鴻筆 中国  中華民国25年(1936)  林宗毅氏寄贈
右:後赤壁図  傅抱石筆 中国 中華人民共和国・1964年  個人蔵

フランスと日本への留学から帰った二人は、ともに南京で活躍しましたが、一人は南京に終生住みつづけ、一人は北京へと活動の中心を移しました。

 展示の最後を飾るのは徐悲鴻、張大千や傅抱石と行った、日本への美術留学生です。彼らは南京にあった中央大学で教鞭をとっていました。特に傅抱石は帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)で金原省吾に学び、帰国後は南京画壇の中心として活躍しました。古林清茂と月林道皎、傅抱石と金原省吾。700年の時を超え南京は、人々の交流の舞台でもあったのです。

展示風景
南京の書画だけがこれだけの規模で集まるのは、おそらく国内初の試みとなるでしょう。

「南京」と「日本」。文字だけでは分かりませんが実は深い縁、それも700年以上も前から、書画の深い縁で繋がって来ました。私たちの眼の前にのこされた作品は、文字記録だけでは知ることのできない、豊かな交流の歴史を教えてくれます。なぜ先人たちはかくも飽くことなく書画を学び、伝えてきたのか。それは、国境を越えて人々を結びつける力、それが中国の書画にあることを、知っていたからのように思います。

…まずは展示の最初と最後だけをお話ししましたが、まだまだ南京の書画には深い魅力があります。その具体的なお話しは、また次回に。南京を舞台にした中国書画の奥深い魅力を、ぜひご堪能ください。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 塚本麿充(東洋室研究員) at 2015年03月06日 (金)