ミートパイがおいしい店なので期待して食べたら、牛の形をしているだけで肉が入っていなかった。
残念ではありますが、これは干支の縁起物にもかかわらず、あさましくもその肉が入っていることを期待した私の方に非があったのかも知れません。年賀状にかわいい牛の姿を描きつつ、「さあ、こいつの肉を食うか」という気分にはならないでしょう。
やはり干支の肉というのは、何となく禁忌に触れる感覚なのだろうか…。そんなことを思い悩む今年の正月でしたが、スーパーでは「丑年!お肉を食べよう!」みたいなコーナーができていて、どうもそんなに単純な話ではないようです。
何の話かというと、前回に引き続き特集「博物館に初もうで ウシにひかれてトーハクまいり」に関して、牛に対する視点のお話。
多くの現代人にとって、「ウシ」という言葉を聞いた時に思い浮かべるのは牛丼や焼き肉ではないかと思いますが(違いますか? 私はそうですが)、前近代から続く牛の霊力への信仰を完全に捨ててしまったわけではありません。スキヤキの名店で舌鼓を打ったあと、神社で撫牛像を撫でて病気平癒を願うなんてコースは観光の定番だったりします。牛は人にとって身近であるだけに、神様のような存在だったり、逆に神に捧げる犠牲だったり、あるいは労働力だったり、都合よくさまざまな役割を与えられてきました。
なかでもちょっと特殊な立場にあったのが、平安時代の牛です。というのは、ただの労働力ではなく、牛の姿形が人々の品評対象となり、その良し悪しが所有者の社会的身分を示す指標にもなったからです。その理由として挙げられるのが、貴族の乗り物「牛車」の流行でした。

平治物語絵巻(模本)院中焼討ノ巻(部分) 狩野栄信・中山養福模
江戸時代・19世紀 原本=鎌倉時代・13世紀
「平治物語絵巻」では、平治の乱発端の場面で、馳せ参じた牛車の行き交うなかに、ひときわ目立つ白い車体が見られます。これは檳榔樹の葉から糸を作り、白く晒したもので屋形(牛車の人が乗る部分)の全体を葺いた「檳榔毛車(びろうげのくるま)」です。上皇や親王、摂関など一部の人々にしか乗用が許されないため、まさに憧れの高級車でした。そんな貴紳を乗せた車を引くのですから、動力である牛も普通であってはいけません。ここでは上等な牛とされた黄褐色の「黄牛(あめうじ)」が引いているところもポイントです。

国宝 片輪車蒔絵螺鈿手箱 平安時代・12世紀
さて、牛車の文化があったからこそ生まれた意匠に「片輪車」があります。
平安時代に描かれた料紙装飾や経巻見返絵などの中には、牛車の車輪だけが地面に横たわっていたり、水流に半ば浸かっていたりする図像が見られます。これが後に「片輪車」と呼ばれる意匠の原型で、いずれも車輪の半分ほどが見えている状態にあり、楕円に歪んで描かれるのが約束事です。水流に浸かっているものについては、木製の車輪が干割れしないように水に漬けておくという習慣に伴う日常的な景観と説明されますが、水流が描かれない図像の場合はその説明が成り立ちません。
これに関しては実際の景観を表したというよりも、車輪を「わ」の音として読む「字音絵」として解釈したり、釈尊の説法を意味する転法輪と見たり、浄土の宝池に咲く蓮華の寓意と捉えたりする考え方があります。
ある図像というものは、見る側の文化的背景によって全く意味が違ってくるものです。
たとえば、ちょっと前までは市松模様を見ても何の関心も持たなかったのに、今では某炭焼きの少年を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。一様の解釈を当てはめるのではなく、成立時期や受容層により「片輪車」の意味するところも変わってくると考えた方が良いでしょう。

陣羽織 淡黄羅紗地片輪車模様 江戸時代・18世紀
中世以降、多額の維持費がかかる牛車の文化は次第に廃れてしまいます。それだけに牛車は失われた王朝文化の象徴として、憧れとともに記憶の中へ留まり続けることになります。
「片輪車」も形式化し、仏教的な寓意はすでに失われ、文様としては一種の吉祥モチーフとして扱われるようになっていきました。
ではただの「おめでたい文様」になってしまったのかというと、そうも言いきれない。近世には傾奇者に好まれた意匠であったとする指摘もあります。何より、この赤くズバッと背中に片輪車を配した陣羽織を見ると、その文様に託した強い主張を実感せざるを得ません。着用者は、この歪んだ車輪に何を見ていたのでしょうか。
| 博物館に初もうで ウシにひかれてトーハクまいり 本館 特別1室・特別2室 2021年1月2日(土)~2021年1月31日(日) |
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posted by 福島修(工芸室) at 2021年01月15日 (金)
あけましておめでとうございます。研究員の増田です。
丑年の本年は、牛を表わした作品や牛にまつわる作品を展示した特集「博物館に初もうで ウシにひかれてトーハクまいり」が本館特別1・2室で開催中です(2021年1月31日まで)。
本特集のタイトルは「牛に引かれて善光寺参り」という諺(ことわざ)をもとにしたもの。「身近に起こった出来事に導かれて、思いがけない縁が結ばれること」のたとえです。
このブログでは、皆様と当館とを結ぶ展示作品を紹介します。
今回は、宗教における牛についてお話ししていきます。
まず、牛は古代インドの神々の強大な力のシンボルとされました。

チューギェル立像 中国 清時代・18~19世紀
チューギェルとは古代インドの神ヤマが仏教に取り込まれた姿です。ヤマの象徴である牛の頭をしていて、大きな鼻や二本の立派な角が表わされています。手足を大きく広げて牛の上に乗る軽快な姿ですが、実は死者を厳しく処罰する強大な力を持ちます。
次に、中国の宋時代には、牛が仏教における悟りの象徴とみなされるようになります。

十牛図(模本) 陶山雅純摸 江戸時代・嘉永3年(1850) 原本=狩野探幽筆 江戸時代・17世紀
十牛図とは、人が牛を飼いならすまでの過程を禅の修行になぞらえ、悟りの境地に至るまでの十段階のプロセスを絵で示したものです。ここで牛は「悟り」や「真の自己」を表わすといいます。
最後に、日本の仏教説話では、人を仏のもとへ導く存在として牛が登場します。
本特集のタイトルのもとになった諺の善光寺に関する作品を紹介します。

善光寺如来絵詞伝一 釈卍空著 江戸時代・安政5年(1858) 徳川宗敬氏寄贈
お話のあらすじは次の通りです。
昔、ある老婆が布を干していると、どこからか牛が現われ、角に布を引っかけて走り去ってしまいます。老婆は牛を追いかけ、気づくと善光寺にたどり着き、そこで仏を信じる心を起こしました。
江戸時代には、このストーリーを記したさまざまな書物が制作・刊行されました。
ところで、善光寺の本尊である阿弥陀如来三尊像はインド伝来とされる秘仏ですが、鎌倉時代以降にはその姿を模した、いわゆる善光寺式の阿弥陀三尊像が数多く作られました。

重要文化財 阿弥陀如来および両脇侍立像(善光寺式) 鎌倉時代・建長6年(1254)
本像もその一つです。
阿弥陀如来が左手の人差し指と中指を伸ばす手のしぐさ、左右の脇侍が両手を胸前で重ね合わせる手のしぐさ、などが特徴です。さらに銅でつくられていることも他の模刻像と共通します。
古代インド、中国、そして日本における信仰の歴史のなかで、牛がどのような存在とされてきたかをギュウっとまとめて紹介しました。
これらの作品を通じて、ぜひトーハクと縁を結んでいただきたいと思います。
| 博物館に初もうで ウシにひかれてトーハクまいり 本館 特別1室・特別2室 2021年1月2日(土)~2021年1月31日(日) |
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posted by 増田政史(絵画・彫刻室) at 2021年01月08日 (金)
ただいま平成館の企画展示室では、特集「朝鮮王朝の宮廷文化」というテーマで、韓国の朝鮮時代の宮廷文化や、宮廷人を輩出した特権階層の両班(ヤンバン)の生活文化を紹介しています。

特集「朝鮮王朝の宮廷文化」の展示室風景
中国をはじめ、日本、韓国、ベトナムなどの東アジアの国々では、古代中国で発達した宮廷の規格を取り入れながら、各地で各民族の生活文化を加えた独特の宮廷文化をはぐくみました。朝鮮王朝の宮廷には、オンドルという床暖房があったり、材質や装飾は立派ながらも庶民と同じような形の調度を用いていました。いかに宮廷人といえども、決して地域や民族の生活様式から離れて生きてゆけないということです。

景福宮康寧殿
この宮殿は国王が日常生活を過ごすオンドル部屋です。韓国の伝統的な座礼スタイルです。

朱漆十二角小盤 朝鮮時代・19世紀
座礼で用いる各人用の食卓を小盤といい、S字形の足を虎の足に見立てて虎足盤(こそくばん)とよびます。

真鍮飯床器 朝鮮時代・19世紀
真鍮でできた食器と箸と匙です。このような金属製の食器は、現在の韓国でもおなじみです。
ソウルには、景福宮(キョンボックン)や昌徳宮(チャンドックン)など、朝鮮王朝の宮廷がいくつもあります。なかでも格式の高いのは景福宮で、平地にピシッとした直線的な設計で宮殿が配置されています。

景福宮
数あるソウルの宮廷のなかでも最も格式が高い景福宮。宮廷の向こうに見えるのは白岳山。
これに対して昌徳宮は、山のふもとに地形に応じてのびやかに宮殿が配置されていて、こちらのほうが韓国らしい趣があると言われています。

昌徳宮
昌徳宮の正殿の仁政殿。右手にみえる青瓦の宮殿は、国王が日常政務を行なった宣政殿。
この、のびのび感はソウルの旧市街の設計にも表われていて、東アジアの都らしく碁盤の目でありながら、城壁や道路は地形に合わせた自由な感じがあります。その街の真ん中にあるのが鐘閣(チョンガク。正式名は普信閣)です。

鐘閣(普信閣)
鐘閣は、たびたび建て替えられており、現在のものは世宗のころの規模で再建されています。

鐘閣の現在の鐘
20世紀後半から鐘閣にかけられている鐘。音響効果のために鐘の下の床は丸く掘られています。
鐘閣は、その名のとおり、鐘を吊るす建物です。ここの鐘は、もとは仁寺洞(インサドン)の円覚寺にあったのですが、寺がなくなってからは転々としたのち、現在の鐘閣の場所に落ち着きました。そして都城の門を開閉する合図として、午前4時の開門には仏教の三十三天にちなんで33回、午後10時の閉門には星座の二十八宿にちなんで28回鳴らされました。現在は、往時の鐘は国立中央博物館の庭に移されて、鐘閣には新しい鐘が吊るされており、新年を迎える大晦日に33回鳴らされています。

鐘閣の古い鐘
鐘閣の鐘は文化財保護のために新しい鐘と交代し、古い鐘は国立中央博物館の庭にあります。
鐘閣の東西には鐘路(チョンロ)という大路が伸びており、この周辺の繁華街を同じく鐘路と書いてチョンノと発音します。鐘路は、朝鮮時代には、雲のように人々が集まる商店街という意味で、雲従街(ウンジョンガ)とよばれていました。ここには六矣廛(ユギジョン)という6つの大商店があり、宮廷用品を納めていました。雲従街の大路を、特権階層の両班などが馬に乗って通りかかると、庶民としては平伏したり、何かとやっかいなので、大通りから外れた細い道を使ったわけですが、この裏道を「馬を避ける」という意味で、避馬通り(ピマッコル)といいました。

避馬通り(ピマッコル)
両班を避けるための裏道は、現在は庶民的な商店街になっています。左手にあるのが鐘閣。
かつて雲従街のランドマークであった鐘閣も、現代の高層化した都心ではすっかり目立たなくなってしまい、鐘閣の向かい側には、新たなランドマークがそびえています。鐘路(チョンノ)タワーといい、33階建のガラス張りの高層ビルで、最上階を3本の柱で支えて雲が浮かんでいるように見せるトップ・クラウドという現代建築です。

鐘路を西から東に向かって見たようす
右(南)が鐘閣、左(北)が鍾路タワー。このブログは鍾路タワーのスタバで書きました。
このタワーのなかにあるスターバックスは、六矣廛にちなんで店内を6つの空間構成にするこだわりです。鐘路では、新旧のランドマークが、いろいろなキーワードでつながりながら、歴史を超えて向かい合っているのです。
今回ブログでご紹介したような朝鮮王朝の宮廷に関わる調度や服飾をはじめ、宮廷人を輩出した特権階層の両班(ヤンバン)が用いた生活用具を、本特集で是非ご覧ください。
| 朝鮮王朝の宮廷文化 平成館 企画展示室 2020年2月4日(火) ~ 2020年3月15日(日) |
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カテゴリ:特集・特別公開
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posted by 猪熊兼樹(特別展室長) at 2020年02月18日 (火)
台東区立書道博物館との連携企画第17弾、「生誕550年記念 文徴明とその時代」は後期展示に入り、3月1日(日)の閉幕まであとわずかとなりました。鍋島主任研究員、六人部研究員に続く、しんがりブログをお届けします!
南宋の皇族であった趙孟頫(ちょうもうふ、1254~1322)は、26歳の時に祖国滅亡の憂き目に遭いましたが、その豊かな才能が元の初代皇帝フビライに認められ、元王朝に仕えることになりました。漢民族である南宋の皇族でありながら、故国を滅ぼした異民族の王朝に仕える忸怩(じくじ)たる思いを、趙孟頫は知人への書簡の中で切々と訴えています。
趙孟頫は高級官僚を務めながら、生涯をかけて壮大な書画のしかけに挑みました。彼は復古主義を提唱し、数々の素晴らしい書画を作ることで、伝統的な漢民族の優位性を天下に知らしめたのです。伝存する王羲之(おうぎし)の書が日ごとに減少するなか、多くの人々は趙孟頫の書を学ぶことで王羲之の書に近づこうとしたほど、趙孟頫の書は王羲之のそれに肉薄していました。楷行草は王羲之・王献之(おうけんし)を学び、精到な書風を誇りました ※図1参照。

図1:楷書漢汲黯伝冊 趙孟頫筆 元時代・延祐7年(1320) 永青文庫蔵

図1:楷書漢汲黯伝冊 文徴明補筆 明時代・嘉靖20年(1541) 永青文庫蔵

図1:楷書漢汲黯伝冊跋 文徴明筆 明時代・嘉靖20年(1541) 永青文庫蔵
趙孟頫67歳の書。書道博物館では、72歳の文徴明が帖末に記した跋文を展示しています。
趙孟頫が後世に与えた影響はとてつもなく大きく、明時代の初期にも多くの追随者がいました。しかし明時代の中期、趙孟頫の没後150年も過ぎた頃になると、さすがに趙孟頫流の書は形骸化してしまい、趙孟頫の書そのものを貶(おとし)める者が出てきました。文徴明(ぶんちょうめい、1470~1559)の先輩にして友人であった祝允明(しゅくいんめい、1460~1526)もその一人 ※図2参照。祝允明は趙孟頫の書を俗書と貶め、趙孟頫の書を学ぶことなく、直接、王羲之の書の拓本を学ぶことで、王羲之の真髄に近づこうとしたのです。祝允明のこのような立ち位置は、いわば新しい考えに基づく伝統派であったと言えます。
しかし、文徴明は終生にわたって趙孟頫を尊敬し、趙孟頫が歩んだ道を彼自身も歩もうとしました。趙孟頫が理想とした王羲之の書を、おそらく文徴明は趙孟頫の書を通して学び、趙孟頫が幾度となく書いた千字文を、文徴明もまた数え切れないほど揮毫しています ※図3参照。祝允明が新しい考えに基づく伝統派であるとするのなら、文徴明は古い考えを墨守した伝統派であったと言えるでしょう。

図3:草書千字文冊 文徴明筆 明時代・嘉靖14年(1535) 台東区立書道博物館蔵
文徴明は生涯におびただしい数の千字文を書き残しました。これは66歳の書。書道博展示。「福縁善慶」をあしらったトートバックは、書道博だけで販売しています。

図3:草書千字文巻 文徴明筆 明時代・嘉靖24年(1546) 東京国立博物館蔵 (青山杉雨氏寄贈)
文徴明76歳の書。東博展示。

高級官僚であった文徴明の父文林(ぶんりん)は、趙孟頫の書を学びました。文徴明が幼いころ、画を学んだ沈周や ※図4参照、書を学んだ李応禎や ※図5参照、文を学んだ呉寛 ※図6参照 たちはみな文林の同僚で、それぞれ文徴明より43歳、39歳、35歳も年上でした。悪友の祝允明や唐寅(とういん、1470~1523)が文徴明を騙して色街に連れ出し、あらかじめ示し合わせた妓女が文徴明に科(しな)を作ると、血相を変えて帰宅した堅物の文徴明は、一世代や二世代も古い流れを汲む道学先生の傾向がすこぶる強い人物であったようです。

図5:詔求直言表(停雲館帖より) 李応禎筆 明時代・15世紀 東京国立博物館蔵 (高島菊次郎氏寄贈)
李応禎は強い意志を持ち、気概に富んだ人物でした。22歳の文徴明が師事したとき、李応禎は61歳。東博展示。

図6:謝賜御書詩表巻跋 呉寛筆 明時代・15~16世紀 台東区立書道博物館蔵
文林は呉寛より10歳年下でしたが、同じ年に進士に及第し、昵懇の間柄でした。書道博展示。
歴史の波に翻弄され、一族だけでなく王朝の恨みまでをも晴らすかのように、壮大な挑戦を試みた趙孟頫と、実に恵まれた環境の中で摂生につとめ、90歳の最晩年まで郷里に閑居して努力に努力を重ねた文徴明は、両者ともその時代や境遇を象徴するかのような、えもいわれぬ書画の世界を築き上げ、後世に大きな影響を与えたのでした。
文徴明とほぼ同時代、文徴明より2つ年下で57歳の生涯を駆け抜けた王守仁は、王陽明と言った方が、通りが良いかも知れません。中国思想史上、朱子学を批判的に継承し、哲学の突破を実現した王守仁(王陽明)の書も、出陳されています ※図7参照。

図7:草書何陋軒記巻 王守仁筆 明時代・16世紀 東京国立博物館蔵 (高島菊次郎氏寄贈)
王陽明の哲学は、董其昌にも隠然たる影響を及ぼしました。東博展示。
文徴明が90歳の長寿を全うしたとき、上海に5歳の董其昌(とうきしょう、1555~1636)がいました。王陽明の哲学が右派と左派に分かれながら広く浸透し、文化が爛熟し情欲が解放された明時代の後半、董其昌は文徴明や趙孟頫を意識しながら、芸苑に新たな息吹を吹き込みます ※図8参照。

図8:謝賜御書詩表巻跋 董其昌筆 明時代・16~17世紀 台東区立書道博物館蔵
董其昌は文徴明や趙孟頫を乗り越えようとして、数々の名品に真摯に対峙しました。書道博展示。

図8:書画合壁冊 董其昌筆 明時代・崇禎2年(1629) 東京国立博物館蔵 (高島菊次郎氏寄贈)
董其昌は書画に対する考えが文徴明と異なりますが、文徴明がいたからこそ董其昌が活躍したと言えるでしょう。東博展示。

閉幕まであとわずか。文徴明とその時代の書画を通して、文徴明の来し方と行く末に思いを馳せていただければ幸いです。まだ見てない人も、前半の展示しか見てない人も、伝統と革新が入り交じり、文化の流れが大きく変貌しようとする明時代の中期に焦点を当てたこの企画を、お見逃しなく!

東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画
「生誕550年記念 文徴明とその時代」
2020年1月2日(木)~3月1日(日)
東京国立博物館 東洋館8室
2020年1月4日(土)~3月1日(日)
台東区立書道博物館
※ 前期:2月2日(日)まで、後期:2月4日(火)から

カテゴリ:研究員のイチオシ、特集・特別公開、中国の絵画・書跡
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posted by 富田淳(学芸企画部長) at 2020年02月14日 (金)
生誕550年記念 文徴明(ぶんちょうめい)とその時代 その2
トーハク(@東洋館8室)と台東区立書道博物館(書博)で毎年開催している恒例の連携企画は、現在の「生誕550年記念 文徴明とその時代」(前期:~2月2日(日)、後期:2月4日(火)~3月1日(日))で17回目となりました。年明けに開幕した本展も、一部展示替えを経て、2月4日からは後期展が始まります。展覧会は開幕したらあっという間、気付けば閉幕間近ということがよくあります。ぜひ、お見逃しなく。
さて、先日のブログでは、書博の鍋島稲子主任研究員が両館の展示の見どころをご紹介されました。今回は本展の主役の文徴明についてお話ししながら、オススメの展示作品をご紹介しようと思います。


文徴明(1470~1559)が生まれたのは今から550年前の蘇州です。当時の蘇州は商品流通の要地で、絹織物などの紡績業によって中国第一の商工業都市に発展を遂げていました。その経済力と長江下流域の豊かな土壌は文化の繁栄をもたらし、書画の商品化が促され、高まる需要は文人たちの活動を支えました。

現在の蘇州の街並み
商品の流通を支えたのが運河。現在も水路が張り巡らされ、白壁に統一された建造物が並ぶ蘇州の街並みは風情たっぷりです。

現在の曹家巷
文徴明の生家は、蘇州府長洲県(現在の蘇州市)の徳慶橋西北に位置する曹家巷というところにありました。巷は街の横丁という意味です。残念ながら徳慶橋は残っていないようですが、曹家巷には今も民家が軒を連ね、外壁には「曹家巷」の標識が掲げられます。文徴明が生まれたのち、父の文林は自邸に停雲館を建てたと言われます。
幼少期の文徴明は言葉が遅く、書は青年期まで下手だったようです。しかし、19歳のときに受けた試験で、書が拙いために順位を落とされたことをきっかけに一念発起、人一倍、書の研鑽に努めました。
文徴明の並々ならぬ努力については、例えば、1000文字からなる長篇の詩「千字文」を日に10回書くことを日課としたなどと、常人離れした逸話が残されます。その真偽は措くとして、実際に文徴明が書いた「千字文」は比較的多く現存し、晩年に至るまで勤勉真摯に書と向き合っていたことが想像されます。

草書千字文巻(部分) 文徴明筆 明時代・嘉靖24年(1545) 東京国立博物館蔵(青山杉雨氏寄贈)
東博通期展示
これは文徴明が76歳の時に、蘇州の自宅の玉磬山房で書いた「千字文」です。東晋時代の王羲之を手本とした書には、流暢で趣深い線が見られ、洗練された美しさが目を奪います。
文徴明は父と同じ官僚になるべく、26歳~53歳まで合計9度にわたり科挙の地方試験に挑み続けましたが、遂に及第できませんでした。その後、推薦されて54歳から3年間、北京の朝廷に出仕したものの、官界に馴染めず自ら退官を願い出て帰郷します。玉磬山房は、文徴明が蘇州に戻って間もなく自宅の東に築いた一室で、以降そこで自適に詩を詠み書画に耽る翰墨生活を送りました。
帰郷した頃には、すでに先輩や同世代の有能な文人がこの世を去っており、文徴明は以後、蘇州の文人サークルのリーダー的存在となって、その芸術活動を牽引し続けたのです。
文徴明の行草書には、王羲之の書やそれを継承したと伝えられる隋時代の智永の書を基礎とした、端正で雅やかな様式の作が残されます。また、北宋時代の黄庭堅の書法を忠実に修得した、才気あふれる大字の行書も見られます。

行書陶淵明飲酒二十首巻(部分) 文徴明筆 明時代・嘉靖33年(1554) 京都国立博物館蔵
書博後期(2/4(火)から)展示
陶淵明の有名な詩を、文徴明が最晩年の85歳の時に書きました。絹本の風合が、趣ある字姿を引き立てています。

草書七言律詩扇面 文徴明筆 明時代・16世紀 東京国立博物館蔵(高島菊次郎氏寄贈)
東博前期(2/2(日)まで)展示
文徴明が蘇州城の西北に位置する虎丘に登った際に詠んだ詩を、煌びやかな金箋の扇面に書きました。大胆かつ軽快に書き進められ、筆画の太細や疎密は変化に富みます。


文徴明が40歳の時に蘇州の天池山に遊んだ際に詠んだ詩を69歳の時に書きました。黄庭堅風の代表作の一つです。鋭さと重厚さを兼ね備えた線が躍動します。文徴明の師の沈周もまた、黄庭堅風の書にすぐれました。
文徴明の書で、行草書とならび最も高く評価されているのが超絶技巧の小さな楷書です。王羲之の「黄庭経」や「楽毅論」などをよく学び、それらを消化して清らかで気品に満ちた様式を築きました。晩年になるにつれて技量や精神力は凄みを増し、80代になっても衰えることなく小楷を書き続けました。

楷書尺牘冊 文徴明筆 明時代・16世紀 台東区立書道博物館蔵 書博通期展示
文徴明は23歳のときに昆山(現在の蘇州市昆山市)の呉愈の三女と結婚し、のちに文彭、文嘉ら子宝にも恵まれました。岳父の呉愈に宛てたこの手紙は、早年の頃の書と言われます。晩年の小楷と比べると、文字の形のとり方などに初々しさが垣間見られ、文徴明の早期の作例として貴重です。

楷書離騒九歌巻(部分) 文徴明筆 明時代・嘉靖31年(1552) 東京国立博物館蔵(高島菊次郎氏寄贈)
東博通期展示
自宅の停雲館で、83歳の時に『楚辞』の「離騒」と「九歌」を書いた一巻です。縦横1センチにも満たない文字は、1行21字詰めのマス目に合計216行にわたって整然と記され、清らかで澄みきった細身の線は乱れることなく、首尾一貫しています。卓絶した技法と高い精神力に支えられたこの書は、文徴明の代表作の一つに数えられます。
嘉靖39年(1559)2月20日、文徴明は御史の厳傑の亡き母のために墓誌銘を執筆していた際、筆を置き正座したまま逝去し、90の天寿を全うしました。温厚篤実な人柄と清雅な作風に魅せられた門弟や子孫ら、多くの後輩文人によって、文徴明は後世まで多大な影響を及ぼすこととなります。本展の作品から、文徴明とその時代に思いを馳せていただけますと幸いです。

現在の文徴明墓
文徴明のお墓は、蘇州市相城区にある孫武紀念園の敷地内に今も残されています。
*曹家巷と文徴明墓の調査では、潘文協氏(蘇州博物館)にご協力いただきました。

東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画
「生誕550年記念 文徴明とその時代」
2020年1月2日(木)~3月1日(日)
東京国立博物館 東洋館8室
2020年1月4日(土)~3月1日(日)
台東区立書道博物館
※ 前期:2月2日(日)まで、後期:2月4日(火)から

カテゴリ:研究員のイチオシ、特集・特別公開、中国の絵画・書跡
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posted by 六人部克典(登録室研究員) at 2020年01月31日 (金)