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特別展「東福寺」その2 東福寺本尊 今昔物語

東京会場では残すところ会期もあと10日ほどとなった、特別展「東福寺」。
第5章「巨大伽藍と仏教彫刻」では東福寺拝観の最大のみどころ、通天橋(つうてんきょう)からの紅葉の眺めを再現しています。
その再現コーナーを通り抜けて間もなく、視界が一気に開けて大きな仏像群が視界に飛び込んできます。

第5章「巨大伽藍と仏教彫刻」彫刻展示風景写真

こちらに見えている仏像のうち、釈迦如来立像(原寸大写真バナー)・迦葉(かしょう)・阿難(あなん)の三尊が、現在の東福寺本堂の本尊です。
その前に並ぶ四天王像とともに本堂壇上に安置されています。
 
東福寺本堂 本尊の安置状況

また会場でひときわ目を惹く2体の像、二天王立像は高さ3.4メートルほどですが、通常東福寺では公開されていません。

しかし今あげたこれらの像すべて、もともとは東福寺の像ではなく、明治14年(1881)の火災で仏殿が焼けた後、移されたものなのです。
江戸時代には東福寺に隣接していた三聖寺(さんしょうじ・明治6年(1873)に万寿寺に吸収併合され廃寺)に安置されていました。

展示作品からその位置関係を探りましょう。

 
三聖寺古図(部分)
鎌倉~南北朝時代・14世紀 京都・東福寺蔵

第2章「聖一派の形成と展開」で展示しています。

これは鎌倉時代後期の三聖寺境内を描いた図です。
江戸時代の記録によると第一の門に金剛力士像、第二の門に二天王像、仏殿に釈迦如来・迦葉・阿難の三尊像と、さらに四天王像が置かれていました。
しかし、この図を見ると第一の門(図中一番下、池の前の門)に像を置くスペースはなさそうです。

金剛力士像が造像当初どこにあったのかは不明です。
おそらくこの絵図より後の時代に門が改造されて金剛力士像を移して置いたのでしょう。
   
重要文化財 金剛力士立像 
鎌倉時代・13世紀 京都・万寿寺
この像を置いた門は現存。そのためこの像は移動せず、三聖寺を吸収した万寿寺の像となったと考えられます。


絵図を見ると第二の門(図中下から2番目、山門)は重層で大きく、二天王像が置けるでしょう。
しかし、山門は南北朝時代の明徳2年(1391)に火災で焼け、その後再建されたという記録があります。二天王像はそれ以前、鎌倉時代の作ですから、再建された門にどこからか移されたことになります。
火災時の山門内に像があったとすると、大きいので緊急避難はできなかったでしょう。
   
重要文化財 二天王立像
鎌倉時代・13世紀 京都・東福寺蔵
この像の作者は、力強く動きがあって写実的な作風から、作者は運慶・快慶の弟子筋の慶派仏師でしょう。


また仏殿に置かれた三尊は同じく明徳2年の火災の際に救出されたと見られますが、こちらも別の寺院から移された可能性も否定できません。
 

重要文化財 釈迦如来立像(部分)
鎌倉時代・13世紀 京都・東福寺蔵 
(注)本展では展示されていません

 
 
重要文化財 迦葉・阿難立像(部分)
鎌倉時代・13世紀 京都・東福寺蔵


この三尊の癖の強い表情は中国・宋時代の影響を受けたものです。
よく似た像は東福寺に近い泉涌寺(せんにゅうじ)にあります。京都では癖の強さが敬遠されて定着しませんでしたが、京都中心部から距離のあるこの地域に固まっているのはおもしろい現象です。


四天王立像のうち多聞天立像(部分)
鎌倉時代・13世紀 京都・東福寺蔵
運慶の作風にきわめて近い優作で、彩色も造像当初のままです。

さて、四天王像はそもそも本尊像に比べて小さすぎるので、これは三聖寺には後でもたらされたと断定して良いでしょう。
四天王の中でも制作年代に差があり、多聞天が鎌倉時代初期、増長天は中期、持国天と広目天は中期から後期の作です。
失われた後で補ったか、大きさの同じような像を組み合わせて四天王としたかのどちらかでしょう。
このように、東福寺の仏像は転々としながら、現在の位置へと移ってきたのです。
 
展示室では同じ部屋にこれらの像と向かい合う形で大きな「手」を展示しています。
明治14年に焼失した本尊釈迦如来坐像の左手です。高さは217.5㎝。 

 
仏手 東福寺旧本尊
鎌倉~南北朝時代・14世紀 京都・東福寺蔵
左:甲側 手首が長めなのはこの手は袖口に挿し込むからです。
右:掌側 手のひらも金色だったはずですがすっかり剥がれています。

次の写真は旧本尊の光背の化仏ですが、本尊焼失前はこの像の左手(画像内赤丸箇所)と同じようにおさまっていました。


釈迦如来坐像(光背化仏)東福寺旧本尊
鎌倉~南北朝時代・14世紀 京都・南明院蔵


「仏手」は手の甲が下向きなので光やホコリで傷むことが少なく、黒漆と金箔がよく残っています。
 
この手の寸法と自分の手の寸法を比較して、これだけ大きな手だと身長がどのくらいか計算してみると・・・。
私の中指の先から手首までは20㎝、身長は169㎝です。
この仏手の指先から手首まで(袖に挿し込む部分は除く)約200㎝。そうすると像の身長は16.9mになります。私の手が標準的な大きさかわかりませんし、仏像は手が大きめかもしれませんのでおおよその計算です。

これを資料から確認してみましょう。


重要文化財 九条道家惣処分状(部分)
鎌倉時代・弘安3年(1280) 京都・東福寺蔵
(注)すでに本作品の展示は終了しました。

東福寺を創建した九条道家が書いた記録に「五丈釈迦如来像一躰(坐像)」と像の大きさが書いてあります。
「五丈(ごじょう)」というのが大きさです。一丈はおおよそ3mですから15mになります。
先ほどの計算との誤差はやはり像の手が大きめということでしょう。

15mは立像の場合の大きさですので、坐像である釈迦如来はその半分の高さ7.5mの像だったことがわかります。
もちろん台座、光背があったので、全部を合わせた高さは10mをゆうに超えたでしょう。
当館の展示室の天井の高さは約8mですからその大きさはまさに「圧倒的スケール」です。
しかしそれだけではありません。続けて「二丈五尺観音弥勒像各一躰 一丈二尺四天王像各一躰」とあります。巨像は釈迦如来だけではなかったのです。
ここには坐像か立像か書いてありませんが、後世の江戸時代の記録から、脇侍仏である観音と弥勒は坐像、四天王像は立像とわかります。
一丈二尺がおよそ3.6m、観音と弥勒の高さもほぼ同じ、展示室の二天王像と同じくらいです。

こうした巨像を造ったのは、開基である九条道家(1193~1252)の念頭に往時の藤原氏の壮大な造営があったからでしょう。
道家は息子である九条頼経を鎌倉幕府の将軍に送り出し、頼経が将軍となった嘉禄2年(1225)から孫の頼嗣(頼経の子)が将軍を辞する建長4年(1252)までは、朝廷と幕府の重鎮として権勢をふるいました(頼嗣の将軍辞職の翌日没)。
そして相当な財力を得ての造営で、摂関期を頂点とする藤原氏の栄華をこの東福寺において再現したのです。
 

カテゴリ:仏像「東福寺」

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posted by 浅見 龍介(学芸企画部長) at 2023年04月26日 (水)