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巨大肖像画が生まれた時-支倉常長像成立の「謎解き」-

通常、屏風や襖などを展示している本館二階7室。いまこの部屋では、ひときわ大きな、油絵の肖像画を展示しています。
特別展「支倉常長像と南蛮美術」で展示している「支倉常長像」です。

支倉常長は安土桃山時代から江戸時代初頭、仙台藩主伊達政宗に仕えた武将です。支倉は政宗の命により、メキシコとの交易許可を得るためヨーロッパへ渡りました。太平洋、大西洋という二つの大海を横断した最初の日本人でもあります。

この肖像画、日本の武士を最初に描いたものとしても大変貴重です。その他にも、見事な刀装、華やかな衣裳、愛らしい犬、キリスト教に基づく聖人像など、見どころ満載。これらに関しては会場で配布しているリーフレットをご参照下さい(なくなり次第配布終了。お急ぎを!)

細部に見どころ満載ですが、誰もが感じる、ぱっと見た時の素直な感想は、「大きい!」ということではないでしょうか?
縦はおよそ2メートルある巨大な肖像画で、支倉をほぼ等身大で描いています(いやむしろ、当時の平均身長を考えればそれ以上に大きく描いているかもしれません)。
なぜ、こんな大きな肖像画が描かれたのでしょう?

支倉常長像
支倉常長像は、高さ196.0センチもある大きさな作品です。

ヨーロッパやアメリカの美術館に行くと、ギャラリーに多くの肖像画が展示されています。その中にはもちろん支倉像のような大きなものもあるのですが、胸から上を描く半身像が圧倒的に多く、等身大の立像はそう多くありません。
下世話な話をすれば、画面が大きくなればなるほど手間もかかり、使う絵の具の量も増え、絵の代金も跳ね上がります。これは古今東西、どんな絵にでも言えること。
その意味において、支倉像ほどの大きさの絵を思いつきで描かせたとは到底考えられません。
この大きな肖像画が描かれるには、それなりの「意味」があったはずなのです。

支倉はローマ教皇パウロ5世に謁見するため、ローマに滞在します。その時の世話役だったボルゲーゼ卿が、アルキータ・リッチというイタリア人画家に命じてこの肖像を描かせたと考えられています。
ボルゲーゼ家はイタリア・シエナ出身の名門貴族であり、時の教皇パウロ5世はこのボルゲーゼ家出身です。
そうなると、支倉像が生まれる背景に、パウロ5世が深く関わっているように思えてきます。と言うのも、当時、教皇は聖職者特権などをめぐって、ヴェネツィア共和国と険悪な関係にあったというのです。
具体的な状況は省略しますが、重要なのはヴェネツィアが東地中海、アラブ、そしてインドなど、アジアの物産を取引した「東方貿易」を担ってきた都市国家だという点。ただ、16世紀前半頃から、オスマン・トルコの勢力伸長によりヴェネツィアの誇る東方貿易もだいぶ陰りが見えはじめてきていました。そんなとき、ヴェネツィアの繁栄を象徴する「東方」から、教皇を尋ねてきたのが支倉だったわけです。

支倉がローマに入市する際、盛大な入市式が行われました。「東方」からの使者の到来という歴史的な「事件」は、教皇の威光が「東方」へも遍く及んでいること、すなわち「東方」をめぐるヴェネツィアに対する教皇の優位をアピールする絶好のチャンスであったはずです。支倉の入市式はこれを内外に周知させる盛大なページェントでもありました。

そして、この「事件」を長く歴史にとどめようと描かれたのが支倉常長像だったのではないでしょうか。
支倉像は、他ならぬローマ入市式の際のいでたちを描くとされています。教皇の威光、とりわけヴェネツィアに対する教皇の優位を視覚的に表わす意図のもと、支倉像は描かれたのではないか、と考えられるわけです。

絵を前にした時、そこに描かれている「美しい」ものをめでる。そういった美術鑑賞の方法もありますが、こうやっていろいろと想像を膨らませて、「なぜこの絵が描かれたのか?」という「謎解き」をすることも、美術鑑賞のもう一つの醍醐味。

以上は、私のつたない世界史知識をもとにした、あくまで個人の感想です。
この巨大肖像画を前に、みなさんはどんな「謎解き」をされることでしょう。

カテゴリ:研究員のイチオシ2013年度の特別展

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posted by 土屋貴裕(平常展調整室 研究員) at 2014年03月11日 (火)