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1089ブログ

世界にまたがるイスラーム文化

トーハク界隈にあるアメヤ横丁をぶらぶらしていると、ハラール、すなわちムスリム(イスラーム教徒)向けの食事を出す店を見かけるようになってきました。
もちろんムスリムでなくても食べてよく、私も時々おいしくいただいています。
近年では、日本国内でもムスリムの人々が身近で親しい存在になってきました。ただ、その割にはムスリムの背景にあるイスラーム文化に触れる機会は少ないように思われます。
そのような世相をふまえて、同僚たちとイスラーム文化を紹介する企画の必要性が話題になったこともありましたが、実のところ、トーハクの所蔵品にはイスラーム関係の作品が非常に少なく、独力では、多様なイスラーム文化を紹介する企画を組むのは困難であろうと考えていました。

アメヤ横丁 写真
アメヤ横丁
上野駅から御徒町駅までつづく商店街。このあたりではアジア料理を楽しむことができます。

ハラール 写真
ハラール
ハラールのマークがあるメニュー。ハラールとはアラビア語で「許されている」という意味。

 

そんななか、このたびマレーシアにあるイスラーム美術館の厚い協力を得て、イスラーム世界を見渡す展覧会を開催する機会に恵まれました。イスラーム美術館では、同館の地元であるマレーシアや東南アジア、あるいは聖地マッカ(メッカ)がある西アジアといったような、どこか特定の地域に限らず、広く世界中のイスラームの美術や資料を集めて、イスラーム文化を紹介しています。
イスラーム教は世界各地に伝わり、それぞれの土地の文化と結びついたので、各地の伝統的な造形や美意識に基づき、風土に応じた工芸技法を駆使して、モスクの建築や調度などが作られました。イスラーム美術館の館内を歩いていると、そのようなイスラーム文化の多様性を肌で感じることができます。

マレーシア・イスラーム美術館

マレーシア・イスラーム美術館 写真
マレーシア・イスラーム美術館
首都クアラルンプールにある美術館。屋上にあるターコイズ色のドームはランドマークとなっています。
Islamic Arts Museum Malaysiaの頭文字をとったIAMMの略称で親しまれています。

 

このたびの特別企画は、そのイスラーム美術館のエッセンスを紹介するものです。イスラームの世界や歴史は複雑で、簡単には理解しにくいですが、難しい話はさておき、まずは広大な地域のなかで長大な時間をかけて育まれた多彩な造形や美意識に親しんでいただければと思います。

 

*作品はすべてマレーシア・イスラーム美術館蔵(画像提供:マレーシア・イスラーム美術館)

「スルタン・マフムト一世の勅令」画像
スルタン・マフムト一世の勅令 トルコ 1733年
流麗な書体で記された本文の上方に、オスマン朝のスルタンの華麗なトゥーラ(花押)が表され、その左側には「君主の命に従え」という題字があります。

「宝飾ターバン飾」画像
宝飾ターバン飾 インド 18~19世紀
ムガル朝の皇族がターバンに付けたアクセサリー。力と生命を象徴する真っ赤なルビーと豊穣と繁栄を象徴する常緑のエメラルドがきらめいています。

「真鍮燭台」画像
真鍮燭台 エジプトまたはシリア 1293~1341年
マムルーク朝の宮殿の内部は多くの蠟燭で照らされていました。この燭台は真鍮製で、銀象嵌の装飾が施されており、上部に長い蠟燭を突き立てました。

「ラスター彩アルハンブラ壺」画像
ラスター彩アルハンブラ壺 スペイン 20世紀初
ナスル朝のもとで建造されたスペインのグラナダにあるアルハンブラ宮殿には赤みを帯びたラスター彩の壺が飾られました。洋梨形の胴に翼のような耳が付くのが特徴です。

「儀礼用バティック布」画像
儀礼用バティック布 マレー半島 20世紀初
マレーシアやインドネシアで行なわれるバティックという伝統的な染色技法で『クルアーン』の言葉などを表わした布。貴重な写本を包んだりしました。

「青花ペンケース」画像
青花ペンケース 中国 15世紀
オスマン朝の宮廷で用いるペンケースとして中国で注文製作された青花磁器。このままで完成とせず、さらに金具を付けたり、宝飾を施したのち、スルタンに献上されます。

 
マレーシア・イスラーム美術館精選 特別企画 「イスラーム王朝とムスリムの世界」

東洋館 12室・13室
2021年7月6日(火)~2022年2月20日(日)

展覧会詳細情報

「イスラーム王朝とムスリムの世界」バナー

カテゴリ:特別企画

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posted by 猪熊兼樹(特別展室長) at 2021年08月06日 (金)

 

聖林寺 国宝 十一面観音菩薩像のCT調査

開催中の特別展「国宝 聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」ブログ第3弾では国宝 十一面観音菩薩立像のCT調査についてご紹介します。

当館には、非破壊で文化財の内部を見ることができるⅩ線CT装置があります。
文化財の研究や保存には大変に有用な装置ですが、得られたデータの分析には専用のソフトウエアが必要です。このソフトウエアが大変に高額で、気軽に購入できるものではありませんが、さいわい、機能が限定された無償版が提供されています。
これまではそれを使用していましたが、今年度、研究費が認められソフトウエアを購入することができました。
専用のソフトウエアを利用するとCT画像は簡単に見ることができますが、そこには多くの情報が詰まっているので、詳しく分析するのは容易ではありません。
そのため、分析作業は先延ばしになりがちで、展覧会出品作品の場合、分析結果を作品で確認できずに困ることがあります。

聖林寺の十一面観音菩薩立像は、展覧会の開幕前にCT撮影をしました。


十一面観音菩薩立像をCT装置に入れたときの様子

新しいソフトウエアがうれしくて、さっそく分析にとりかかりました。

仏像のCT分析で、最も期待されるのは納入品でしょう。
聖林寺の十一面観音立像は従来のⅩ線撮影が済んでいて、内部に空洞があること、しかし、そこには何もないことがわかっています。
とはいえ、Ⅹ線ではわからないものがCTで見つかることがあります。心のどこかに期待があります。

結果は…

やはり、納入品はありません。
そんなものと思って分析を続け、画像の表示モードを変更すると!

とつぜん杖のようなものが現れました。

 
十一面観音菩薩立像中心部分に杖のような一筋の線が見えます。

大発見!?


しかし、どこか不自然です。CT画像にはノイズが現れることがしばしばあるのです。
保存科学を担当する同僚に館内メールで意見を求めましたが、すでに帰宅したのか返事がありません。

その日はオリンピックが始まる4連休の前日でした。かすかな期待を胸に連休を過ごしたのです。
連休が明けて出勤し、しばらくすると返事がきました。「ノイズである。」

日本彫刻史上の金メダルは夢に終わりました。

カテゴリ:2021年度の特別展

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posted by 丸山士郎(企画課長) at 2021年08月05日 (木)

 

聖徳太子ゆかりの「七種宝物」

聖徳太子1400年遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」では聖徳太子ゆかりの七種宝物(しちしゅのほうもつ)を展示しています。
七種宝物と聞いて、知っている方は少ないでしょう。しかし、江戸時代以前の法隆寺においては聖徳太子信仰の中心をなす極めて重要な宝物として扱われていました。
明治11年(1878)に献納宝物として皇室に納められて以降、現在に至るまで個々の作品としては有名であっても、七種宝物という信仰上の枠組みにおいて紹介されることはほとんどなくなりましたが、献納時の目録である「法隆寺什物器目録」の筆頭にこの七種宝物が列記していることからも、その重要さが知られます。
さて、この七種宝物ですが、聖徳太子に由来する「と、されている」作品で、法隆寺東院の舎利殿に伝来しました。あえて「と、されている」としたのは、今日の美術史学からみて聖徳太子の時代に作られたとは言えないためですが、少なくともこの中のいくつかは、平安時代以来、聖徳太子に由来するもっとも重要な宝物と考えられてきました。
舎利殿は聖徳太子が数え2歳(今でいう1歳)の折、「南無仏」と称え手を合わせたところ、その手のひらから出現した仏舎利(「南無仏舎利(なむぶつしゃり)」)を本尊とする建物です。
 
南無仏舎利 [舎利塔]南北朝時代・貞和3~4年(1347~1348)[舎利据箱]鎌倉時代・13世紀 奈良・法隆寺蔵
 
建物に入ると大きな厨子があり、その向かって右側面の扉を開けると南無仏舎利が安置されているのですが、左側面の扉の中は仕切りを設けた戸棚となっています。七種宝物はこの中に安置されていたと考えられ、いわば本尊に次ぐような存在だったことが分かります(ちなみに正面の扉を開けたところには「聖徳太子勝鬘経講讃図(しょうとくたいししょうまんぎょうこうさんず)」〈8月11日(水)から展示〉が掲げられていたと考えられます)。
現在、七種宝物のうち、6点は法隆寺献納宝物として東博にあり、1点は宮内庁が所蔵しているのですが、特別展では東博所蔵の6点を通期展示とし、8月11日(水)からの後期展示では宮内庁所蔵の一点を加えて、7点全てが一堂に会します。
それでは個々の宝物とその由来についてみていきましょう。
 
1.糞掃衣(ふんぞうえ)
 
重要文化財 糞掃衣 奈良時代・8世紀 東京国立博物館蔵
 
別名で衲袈裟(のうげさ)とも呼ばれています。糞掃衣とはその名の通り、「糞を掃除するのに使うような汚い布でできた袈裟」を意味します。なぜそのようなものが尊いのかと言えば、これこそ出家者が物質に対する執着から離れていることを示すものとしてお釈迦様が定めた「最上の袈裟」であり、これを着用すれば神々も賛嘆するとされているためです。
そして法隆寺伝来のこの糞掃衣こそ、お釈迦様が着用されたそのものであるとされてきました。伝承によると、お釈迦様は勝鬘夫人(しょうまんぶにん)(「勝鬘経」の主人公)にこの袈裟を授け、その後、中国に伝来していたところを遣隋使の小野妹子(おののいもこ)が持ち帰ったとされます。聖徳太子は勝鬘夫人の生まれ変わりとされており、太子がこの日本においてはじめて勝鬘経の教えを説いた折(勝鬘経講讃)この袈裟を着用したと伝えられます。
 
2.梵網経(ぼんもうきょう)
 
重要文化財 梵網経(下巻部分) 平安時代・9世紀 東京国立博物館蔵 8月9日(月・休)までは上巻、8月11日(水)からは下巻を展示
 
平安時代に記された紺紙金泥経(こんしきんでいきょう)の名品で、聖徳太子の自筆として伝えられました。昨日記されたかと思うほど、大変に金の発色と保存状態のよい経典なのですが、注目したいのはその本文ではありません。展示会場でご覧いただくと分かりますが、この経典の表紙部分に薄汚れた茶色い付箋のようなものが付いています。実はこれ聖徳太子の「手の皮」と伝えられているんです。


下巻題箋部分
 
どうして手の皮なんかお経につけたのと不思議でしょうが、これは「梵網経」に写経のあり方として「皮をはいで紙となし、血を刺して墨となし、髄(ずい)をもって水となし、骨を折って筆となす」という壮絶な方法が記されていることに由来します。
実際この「梵網経」の皮とされている部分を見ると毛穴があり、また不浄な動物の皮をお経に貼ることはないと考えられるため、実際に人間の皮膚なのでしょう。
ちなみにこの皮を拝めば死んだ後に三悪道と呼ばれる「地獄・餓鬼・畜生」の世界に生まれ変わることはないとされています。
 
3.五大明王鈴(ごだいみょうおうれい)
 
重要文化財 五大明王鈴 中国 唐・8~9世紀 東京国立博物館蔵
 
別名で古代真鈴(こだいしんれい)とも呼ばれています。中国の唐時代に作られた密教法具で、表面には五大明王の姿が浮き彫りで表わされています。どうみても仏教の遺物なのですが、どうしたわけか神代のものとされ、聖徳太子が仏教とともに神道を崇めるしるしとされています。
伝承によると、聖徳太子が生まれた時、その御殿の棟に光明を発して出現したと言われています。
 
4.八臣瓢壺(はっしんのひさごつぼ)
 
「法隆寺什物図」(東京国立博物館蔵)に描かれた「八臣瓢壺」。「八臣瓢壺」は8月11日(水)から展示
※「法隆寺什物図」は展示していません
 
 
別名で賢聖瓢(けんじょうのひさご)とも呼ばれています。一見して焼き物の壺に見えますが、ヒョウタンでできた大変に珍しい壺です。どのように作ったのか詳細は不明ですが、おそらくまだヒョウタンが青く小さなうちに、文様を刻んだ型を外側から被せたのでしょう。やがてヒョウタンが成長すると、型に圧迫されて、表面にレリーフが浮かび上がるという仕組みです(是非、どなたか再現実験をしてみてください)。
孔夫子(こうふうし)・栄啓期(えいけいき)・東園公(とうえんこう)・綺里季(きりき)・夏黄公(かおうこう)・甪里(ろくり)先生・鬼谷(きこく)先生・蘇秦(そしん)・張儀(ちょうぎ)の9人が表わされていますが、このうち、栄啓期については臣家の出身ではないため、八臣瓢壺と呼ばれます。儒教に由来するその内容から、この国で儒教が盛んになるしるしと伝えられてきました。
なお、この作品は宮内庁が所蔵されており、後期から展示されます。
 
5.御足印(ごそくいん)
 
御足印 奈良時代・8世紀 東京国立博物館蔵
 
なんだかシミだらけのマットのようなもので、どこか宝物なんだろうと思われるでしょうが、じつはこのシミ、聖徳太子の足跡とされています。
聖徳太子が未来の衆生、つまり我々と縁を結ぶために残した足跡であり、またこの足跡が見えるかどうかによって、日本の仏教が盛んであるか滅亡しそうであるかのしるしにもなっているとされます。どうですか?みえますでしょうか?
会場でご覧になって頂くともう少しよく分かりますが、向かって左側に左足のような窪んだシミが観察できます。江戸時代に記された「斑鳩古事便覧(いかるがこじびんらん)」という書物には足跡の大きさは「七寸二分」(約21.8)とあり、この窪んだシミの大きさと一致します。
 
6.梓弓(あづさゆみ)
 
重要文化財 梓弓 奈良時代・8世紀 東京国立博物館蔵
 
梓真弓(あづさのまゆみ)とも呼ばれています。太子が所持した怨敵退治の弓と伝えられ、男子にあっては弓箭(きゅうせん)の難、つまり武器によって傷つけられる災難を防ぎ、女子にあっては難産を防ぐとされています。
大きな木の棒でできており、これを引くにはよほどの腕力が必要と思われます。なお、著名な美術史家であり歌人・書家としても有名な会津八一(あいづやいち)(1881~1956)は、その著書『南京新唱(なんきょうしんしょう)』のなかでこの宝物を次のように歌っています。
 
みとらしのあづさのまゆみつるはけて
ひきてかへらぬいにしへあはれ
 
「みとらし」とは聖徳太子がお手に取られたという意味、「つるはけて」は弦を掛けることをいいます。太子がお手にとられた梓真弓に弦を掛け、引いて放たれた矢が戻ってこないように遠い彼方に去った昔が偲ばれるということでしょうか。
 
7.六目鏑箭(むつめのかぶらや)
 
重要文化財 六目鏑矢 奈良時代・8世紀 東京国立博物館蔵
 
六目鏑箭とともに、箭(や)と利箭(とがりや)、彩絵胡簶(さいえのやなぐい)(すべて通期展示)がセットとして伝えられています。蝦夷(えみし)および仏教に敵対したとされる物部守屋(もののべのもりや)を退治した時に用いたものとされ、天下泰平をもたらす宝物と伝えられています。
鏑箭とは蕪(かぶ)のような形をした中空の部品(鏑)をつけた箭のことで、矢が空中を飛んでいる時に鏑の穴に空気が通ることで音が鳴るというものです。宝物の場合、その穴が6つあるので六目鏑箭と呼ばれます。戦場では戦闘開始の合図として用いられたと言われており、魔除けの意味から、現代でも神社の授与品とされる場合があります。
 
いかがでしたでしょうか。大変バラエティーに富んだ内容ですが、先ほどの手の皮といい、足跡といい、聖徳太子その人に「触れたい、感じたい」という熱烈な信仰心が伺えます。実際に太子に由来するとは考えにくいものではありますが、史実を超え、信仰心の中で夢見られた、いわば「精神としての真実」というような聖徳太子の姿をここに見ることができます。

カテゴリ:2021年度の特別展

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posted by 三田覚之(工芸室主任研究員) at 2021年08月02日 (月)

 

自身の経験をもとに開発、金栗四三の「マラソン足袋」

 特別企画「スポーツ NIPPON」は、第1章「美術工芸にみる日本スポーツの源流」と第2章「近現代の日本スポーツとオリンピック」の2章構成となっています。今回は、第2章の「マラソン足袋」を通して、スポーツ用具の開発についてご紹介します。

マラソン足袋 明治~大正時代・20世紀 秩父宮記念スポーツ博物館蔵 
 
日本が初めて出場したオリンピック大会は、1912年ストックホルム大会です。出場選手は2名、マラソンに金栗四三(かなくりしそう)、短距離に三島弥彦(みしまやひこ)。ここから、日本のオリンピック参加の歴史が始まりました。長距離選手の先駆者として知られるのは金栗四三です。彼はストックホルム大会に足袋を履いてマラソンに臨みました。
 
(1)金栗がオリンピックに出場した時と同モデルの足袋
 
(1)は金栗が最初に用いたものと同じ形状のものです。足底は布製で、足首が長くて、日本の「直足袋(じかたび)」そのものです。日本の地面を走るのにはこれで十分でした。しかし、ストックホルムのマラソンコースは石畳があり、底が布製の足袋では、滑って大変だったようです。また、石畳の硬さは直接足に伝わります。さらに、足首全体を「こはぜ」と呼ばれる薄い金具で固定する足袋では、足首をうまく使うことができませでした。
 
(2)足首が短くなった足袋
 
(2)は足首を自由に動かすために、足首部分を短くしたモデルです。これは「金栗タビ」という名で販売され、金栗に限らず、当時のマラソン選手も使用したようです。
 

(3)ゴム底になった足袋
 
(3)は足底の布をゴム製にし、さらにクッション性をもたせたモデルです。ゴム底は滑らないように、溝が彫られています。金栗の経験をもとに、確実に改良されていることがわかります。
 
(4)ひも靴のような足袋
 
(4)は最終形ともいえるマラソン足袋です。「こはぜ」を足首の掛ひもに引っ掛ける留め方をやめて、足の甲で紐を縛るようになっています。足によりしっかりと密着するようになり、ほとんど靴のような形に進化したといえるでしょう。
 
金栗は、1912年ストックホルム大会後、1920年アントワープ大会、1924年パリ大会と、合わせて3つのオリンピック大会に出場しました。金栗は選手として語られるのがほとんどですが、彼は同時に用具の改良にも努めました。彼のスポーツ人生には、足袋を制作した「ハリマヤ」運動具店の店主とともに足袋の改良を続けた、共同開発者の顔もあったのです。
 
東京2020オリンピック・パラリンピック開催記念 特別企画「スポーツ NIPPON」

平成館 企画展示室
2021年7月13日(火)~2021年9月20日(月)

展覧会詳細情報

カテゴリ:特別企画

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posted by 新名佐知子(秩父宮記念スポーツ博物館学芸員)  at 2021年07月29日 (木)

 

聖徳太子の実像に迫る二つの宝物

こんにちは、工芸室の三田です。今年は聖徳太子の1400年遠忌ということで、特別展「聖徳太子と法隆寺」を開催しております。そもそも遠忌というのは、没後に引き続き行われる追善(ついぜん)の仏事で、一般にはごく丁寧な場合でも50回忌が限度であるのに対し、高僧や聖徳太子のような人物に対しては、100年、500年、1000年といったように、節目節目で大きな法要が開かれます。
よく今年は聖徳太子が亡くなって1400年目のように勘違いされていますが、没年が622年ですので、実際は1399年目です。これは亡くなった年の法要(1回目)を起点として、翌年を一周忌(2回目)、二年目を三回忌(3回目)と数えるためで、聖徳太子の場合、没後1399年目の2021年が1400年遠忌という計算です。
さて、そんなメモリアルイアーだからこそ、まさに100年に一度と言ってよい最大規模の法隆寺展を開催することができました。このブログでは展示を担当した立場から、いくつかの作品について見どころをご紹介したいと思います。

まず注目頂きたいのが「夾紵棺断片」です。


夾紵棺断片(きょうちょかんだんぺん) 飛鳥時代・7世紀 大阪・安福寺蔵

大阪の安福寺が所蔵されているもので、お寺の居住部分にあたる庫裡(くり)の床下から発見されたということです。その後、なかなかいい板だということで床の間の敷板として使われていたところ、昭和33年(1958)に、周辺の古墳調査のため同寺に寄宿していた猪熊兼勝氏によって見出されました。
聖徳太子が活躍した7世紀、天皇や皇族の棺として、布と漆を貼り重ねて作った夾紵棺が使用されていました。「紵」とはカラムシという植物繊維のことで、普通にはこれで作った織物を30枚程度漆で重ねて作られています。ところがこの断片は極めて珍しいことに絹を45層も重ねて作られており、より高級な素材で密度が大変高く仕上げられているのが特徴です。


夾紵棺断片断面

絹を使った夾紵棺は他に例がなく、7世紀の中でもまったく異質な遺物と言えます。
江戸時代に活躍した安福寺の珂憶(かおく)和尚は聖徳太子を深く崇敬し、太子のお墓である叡福寺の御廟に仏舎利を寄進したことが安福寺の記録から知られますが、あるいはこの時に叡福寺から太子の棺の断片を拝領したのかもしれません。
ところで、この断片は幅が98.5センチあり、猪熊氏はこれが棺の短辺にあたると考察されました。一方で長辺を裁断したものという説もあることから、今後とも断層画像の撮影など更なる調査が必要なのですが、この棺の短辺と考える説にはとても魅力があります。
それというのも、明治時代に聖徳太子の陵墓が調査された際、棺を乗せた石の台が計測されており、その110.6センチという幅は、これが棺の短辺とした場合にちょうどピッタリのサイズなのです。できすぎた話かもしれませんが、他に例のない非常に丁寧な造りからしても、なかに納められたのは相当の貴人に相違なく、聖徳太子はまさにそのイメージに合致します。
はたしてこれが本当に聖徳太子の棺の断片であるかどうか、蓋然性は極めて高いものの、本当のところはわかりません。その解決は今後の研究に委ねられていますが、聖徳太子に直接結びつく可能性の高い遺物として今後とも注目されます。

前期展示のなかでも特に有名で、ファンのみなさんが多いのは奈良・中宮寺が所蔵する「天寿国繡帳」でしょう。


国宝 天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう) 飛鳥時代・推古天皇30年(622)頃 奈良・中宮寺蔵 8月9日(月・休)まで展示

聖徳太子が亡くなられた後、「天寿国」に旅立って行かれた太子のお姿を見たいと願った橘妃の願いによって作られました。現在も画面の左上に「部間人公」<聖徳太子の母である孔部間人公主(あなほべのはしひとのひめみこ)の名前部分>という文字を亀の甲羅に表わした部分がありますが、もとは100匹の亀形に400文字の銘文が記されており、平安時代にそれを写し取った記録から制作の経緯がわかります。
それによると、「天寿国」は人間の目には見えない世界であるから、せめてお姿を描くことで偲びたいと橘妃が願い、これを受けて妃の祖母に当たる推古天皇が宮中の女官に命じて、カーテンに「天寿国」の様子を刺繡で表わさせたものと知られます。
現在はバラバラになった断片を一つの画面に貼り合わせた状態にありますが、よく見ると色鮮やでよく残されている部分と、いかにも古く色あせて糸もボロボロの部分が確認できます。じつはこれ、鮮やかな部分が飛鳥時代の原本、ボロボロの部分は鎌倉時代に作られた模本なのです。
どういうことかというと、鎌倉時代の文永11年(1274)、中宮寺の信如という尼僧が法隆寺の蔵から「天寿国繡帳」を発見するのですが、当時すでに朽ち始めていたため、後世にその姿を残すべく模本を作ったのです。やがて新旧2種類の作品はともに断片と化し、江戸時代になってそれらを取り混ぜて貼ったのが現在の姿なのですが、こうして長い時間を経てみると、新しく作った模本の方がより劣化するという逆転現象が起きたのでした。
断片と化してもほとんど色あせることなく、制作当時の輝きを保ち続ける原本の部分からは、飛鳥時代の非常に高度な染色技術が知られます。おそらく極めてよい材料を使い、何度も何度も重ねて染め上げたのでしょう。また驚くほど緻密な刺繡も、その堅牢さが保存に役立ったと考えられます。聖徳太子を思って祈りながら刺繡をした人々のひたむきな様子が目に浮かびませんか。橘妃や推古天皇が手を合わせて祈った感動を、1400年経た我々が共有できるというのは、本当に奇跡だと思います。

この特別展では聖徳太子その人と同時代の文物に注目した展示に始まり、徐々に聖徳太子信仰が高揚していく様子を展示物とともにご覧いただけます。この特別展を通じて、いつの時代も聖徳太子をもとめ、その人に近づきたいという心の表れを感じ取っていただければ幸いです。

※会期は9月5日(日)まで、会期中展示替えがあります。
※入館は事前予約制。詳細は展覧会公式サイトにてご確認ください

カテゴリ:2021年度の特別展

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posted by 三田覚之(工芸室主任研究員) at 2021年07月28日 (水)