奈良の古刹よりきわめて魅力に富んだ仏像や文書を展示している特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」(~9月23日(月・祝))。 今回は、本展に関わった彫刻研究員による展覧会開催までの経緯、仏像について語る、いつもと違ったスペシャルな1089ブログをお届けします。
奈良の古刹よりきわめて魅力に富んだ仏像や文書を展示している特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」(~9月23日(月・祝))。 今回は、本展に関わった彫刻研究員による展覧会開催までの経緯、仏像について語る、いつもと違ったスペシャルな1089ブログをお届けします。
本展を担当した 左から 広報室 江原 香、増田 政史、浅見 龍介、皿井 舞、ポスター・チラシ・会場をデザインした、デザイン室 荻堂 正博
特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」も閉幕まで残りわずか、9月23日(月・祝)までの開催です。ぜひ会場に足をお運びいただきお楽しみください。
特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」 本館 11室 2019年6月18日(火)~ 2019年9月23日(月) |
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posted by 広報室 at 2019年09月20日 (金)
こんにちは。彫刻担当の西木です。
奈良を代表する四寺の仏さまをご覧いただいている、特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」(~9月23日(月・祝))。
今回ご紹介するのは、岡寺所蔵の菩薩半跏像(以下、岡寺像といいます)です。じつは、トーハクでは半跏像の仲間がたくさん見られるので、このブログでは、トーハクの半跏像と比べながらご紹介しましょう。
重要文化財 菩薩半跏像(ぼさつはんかぞう) 奈良時代・8世紀 岡寺蔵
「半跏(はんか)」というのは、片脚を組んで坐る姿勢のことです。一般的な仏像は、立っていれば「立像」、坐っていれば「坐像」、椅子などに坐って両脚を降ろしていれば「倚像(いぞう)」といいます。
岡寺像は、裙(くん)と呼ばれる、下半身にまとうスカートのような衣が台座にかかっており分かりにくいですが、背もたれのないスツールのような椅子に坐っています。横から見ていただくと、スカートとは別の布を被せて紐でくくっているのが分かります。
本展をはじめ、今は「半跏像」と呼ぶことが多いですが、こうした坐り方の菩薩像のうち、右手で頬杖を突いて考えごとをするようなポーズの像が多いため、「半跏思惟像(はんかしゆいぞう)」と呼ぶこともあります。教科書に出てくるのは「半跏思惟像」ですね。
岡寺像は、人差し指と中指が頬にくっついています。
さて、ここまで読んできて疑問に思われたかと思いますが、なぜ「菩薩半跏像」もしくは「半跏思惟像」というのでしょうか。結論からいいますと、こうした姿の菩薩像は、地域によってさまざまな名前で信仰されており、なかなか特定できないからなのです。
たとえば、インドでは出家される前に思い悩む姿として半跏思惟像が現われます。つまり、それがお釈迦様ですね。本名がゴータマ・シッダールタなので、中国では悉達太子(しっだたいし)と呼ばれました。また、手に蓮華を持つものがあり、これは観音菩薩と捉えられていたようです。
日本では、未来に現われる救世主である弥勒菩薩として信仰されることもありました。飛鳥時代の日本とつながりの深かった朝鮮半島にも半跏思惟像は多いので、同じく弥勒菩薩と考える説もあります。日本では、台座の下方に山岳を描くものがあり、兜率天(とそつてん)と呼ばれる天上で瞑想にふける弥勒菩薩の特徴とも指摘されています。
菩薩半跏像 朝鮮 三国時代・7世紀 小倉コレクション保存会寄贈(東洋館10室にて展示中)
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【上】重要文化財 菩薩半跏像 飛鳥時代・7世紀(法隆寺宝物館第2室にて展示中) 【下】重要文化財 菩薩半跏像(台座) 【左】重要文化財 菩薩半跏像 飛鳥時代・7世紀(法隆寺宝物館第2室にて展示中) 【右】重要文化財 菩薩半跏像(台座) |
中国で盛んに造られた、樹の下に表わされる半跏思惟像は、やはりお釈迦様が思い悩む姿と思われます。「龍(華)樹」と彫られた像があるため、弥勒菩薩が教えを説く前の姿とも言われています。
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菩薩五尊像(背面)
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岡寺像は、お寺では本尊の如意輪観音菩薩坐像の像内から発見されたと伝えられるため、如意輪観音として信仰されてきましたが、こうした事情により本展では他にならって「菩薩半跏像」としています。半跏思惟像の名前を決めるのは、案外難しいのです。
つぎに、岡寺像はいつ頃造られたのでしょうか。
法隆寺宝物館には、常に10体もの半跏像をご覧いただけます。法隆寺宝物館に行ってみましょう。
どれも飛鳥時代(7世紀)に造られたものと考えられていますが、たとえば【1】の菩薩半跏像は、衣のひだが規則的に整えられており、裾には折り畳まれて「品」という漢字に近い形が表わされています。やや厳しい表情も特徴です。法隆寺金堂の釈迦三尊像を造った止利仏師(とりぶっし)のスタイルに近いですね。半跏像以外では、如来坐像や、如来立像も典型的な止利風を示します。
法隆寺宝物館で多いのは、もっと頭が大きくて、衣が賑やかに表わされたものです。台座に山岳文が表わされている【3】菩薩半跏像もそのひとつで、衣には品字形のひだがありますが、縁にタガネと呼ばれる道具で細かく文様が彫られており、華やかさを感じます。顔はまんまるとして、子どものようであることから、「童子形(どうじぎょう)」と呼ばれています。【4】は童子形でありながら、顔は眉毛がつながる濃い顔立ち、体は肉づきよく、外国から新しい表現が入ってきたことを思わせます。衣のひだも、だいぶ乱れていて、賑やかになりました。
一方で、岡寺像を見てみましょう。
表情は少しはっきりしませんが(とくに目は墨で描いていたのでしょう)、目鼻は整っており、やや大人びた顔立ちのようです。体は細身ですが、ふっくらとした肉づきを感じさせます。衣のひだは少なく、シンプルですが、組んだ右脚の輪郭がはっきりとでており、足首で引っ張れたひだは、とても自然に表わされています。品字形に近いひだもありますが、だいぶ崩れているようです。
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いずれも、近い表現を法隆寺宝物館で見ることはできません。飛鳥時代より写実的な表現が進んでいる点から、奈良時代(8世紀)に入って製作されたことが推測できます。
ところが、頭の飾りには、古い要素が確認できます。たとえば、頂点に上向きの三日月と太陽の組み合わせがあり、中央に房飾りを垂らしています。これは辛亥年(651)に造られたことがわかる【5】観音菩薩立像や、同じ頃に製作されたとみられる【6】観音菩薩立像に典型的に見られるものです。しかし、いずれも衣のひだが左右対称に整えられる点など、その表現は岡寺像とまったく異なります。
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重要文化財 観音菩薩立像(正面)
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重要文化財 観音菩薩立像(正面)
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想像になりますが、飛鳥時代(7世紀)、あるいは同じ頃かそれより古い時代の中国や朝鮮半島由来の古い仏像が伝えられており、これを模倣して奈良時代(8世紀)に新しく造られたのが、岡寺像ではないでしょうか。とても重要な像であったからこそ、本尊のなかに納められていたとも考えられます。もちろん、小さな金銅仏は持ち運びも簡単なので、本来どこにあったものなのかすら確かではありませんが、東アジアにおける仏像の歩みを物語る、貴重な証人であることはまちがいありません。
今回紹介した「半跏像」の仲間は、現在 東洋館や法隆寺宝物館で展示中です。
特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」とあわせてご覧いただけますので、ぜひチェックしてみてください。
特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」 本館 11室 2019年6月18日(火)~ 2019年9月23日(月) |
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posted by 西木政統 at 2019年09月11日 (水)
特別展「三国志」では6件の印章を展示しています。
一級文物「関内侯印」金印(かんだいこういんきんいん)
金製 後漢~三国時代(魏)・2~3世紀
1976年、山東省新泰市東石萊出土 山東博物館蔵
金印が3件、銅印が3件ですが、銅印のうちの1件は2個一組ですので、細かく数えれば計7個ということになります。
このように多くの印章を展示しているのは、この時代には印章の役割が重要であったからです。
現代日本でも印章(ハンコ)は大事ですが、使い方はいささか異なっていました。
まずは普通に朱をつけて紙に押すと、文字が白抜きになることにご注目ください。
つまり文字は印面に溝状に彫られているのです。
「関内侯印」金印の印面と陰影
古代中国で印章が普及し始めるのは、戦国時代(前5~前3世紀)のことです。
ところで紙が本格的に普及し始めるのは、2世紀から3世紀、つまり後漢時代後半から三国時代にかけてで、まさに「三国志の時代」のことです。
印章は紙が普及するずっと前から広まっていたのです。
では紙がなかった時代に、印章は何に押したのでしょうか?
答えは「粘土」です。
古代中国では、器物を輸送あるいは保管するとき、内容物がみだりに改変されないよう封をしました。
器物を紐で縛り、紐の一部を粘土で包み、その粘土に責任者の印を押しました。
開封するには、紐を切るか、紐を包んだ粘土を破壊して紐をほどくかしなければなりません。
人に気づかれないようこっそり開封することはできないのです。
この封印に用いた粘土(泥)を封泥(ふうでい)といいます。
古代中国の封泥は、東京国立博物館の東洋館でも見ることができます。
「涿郡大守章」封泥(「たくぐんたいしゅしょう」ふうでい)
中国 前漢時代・前1世紀 阿部房次郎氏寄贈
※東洋館4室にて10月6日(日)までご覧いただけます
本作品は前1世紀ころの封泥で、「涿郡大守章(涿郡の長官の印章)」の印が押されています。
涿郡は2世紀に劉備が生まれたところです。
およそ二千年前のものですが、押された文字は鮮明に残っています。
普通の粘土がこのように残るはずがないので、封泥の粘土にはセメントのような物質を混ぜたものと考えられます。
封泥の文字が突出していることにご注目ください。
古代中国の印に文字が溝状に彫り込まれているのは、封泥の文字がくっきりと浮き上がるようにするためだったのです。
紙が普及する前は、文書は竹や木の札に書かれました。
三国時代には紙がかなり普及していたと思われますが、竹や木の札も盛んに使われていたことが今回の展示作品からもわかります。
竹簡(ちくかん)
竹製、墨書 三国時代(呉)・3世紀
1996年、湖南省長沙市走馬楼出土 長沙簡牘博物館蔵
竹や木の札の場合は、書き間違えてもナイフで表面を削り取れば簡単に書き直すことができます。
便利なのですが、悪意をもって内容を書き換えることも容易でした。
そのため重要な文書や手紙は、みだりに改変されないように厳重に封印する必要がありました。
そのために封泥には封印した人の官職や姓名をあらわした印章を押したのです。
このように封印は重要でしたから、古代中国では公職にある者は、上は皇帝から下は下級の役人にいたるまで役職名を刻んだ公印を授けられ、役を退くときは印を返納しました。
このため、印章は現代日本の辞令や身分証明書の役割ももっていました。
公印の大きさは一辺一寸(三国志の時代では2.3~2.4㎝)が原則です。
材質も皇帝・皇后の印は玉、首相クラスの重臣は金、大臣・知事クラスが銀、それ以下の役人は銅と決まっていました。
今回の展示作品には、公印のほかに宗教団体の印もあり、魏の将軍として活躍した曹休(そうきゅう)の私印もあり、さまざまな場面で印が用いられていたことがわかります。
いずれも封泥に押すことが主な用途であったと考えられます。
「曹休」印 (「そうきゅう」いん)
青銅製 三国時代(魏)・3世紀
2009年、河南省洛陽市孟津県曹休墓出土 洛陽市文物考古研究院蔵
「曹休」印 印面と陰影
印章の文字は、南北朝時代末(6世紀ころ)に溝状から隆起線状へと変わります。
おそらくこのころに、印章は粘土ではなく今日のように紙に押すようになったものと考えられます。
西暦239年に倭の女王卑弥呼(ひみこ)は魏に使いを送り、魏から「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印を授かりました。
この年は、蜀の諸葛亮(しょかつりょう)が魏と戦いのさなか五丈原(ごじょうげん)で病没してからわずか5年後のことです。
卑弥呼の金印は、魏が卑弥呼を倭王と認めた辞令・身分証明書であるとともに、この印で封印した手紙を送れば、魏は誠実に対応するという意味が込められていたのです。
三国の覇権争いのなかで、魏は倭国を同盟国にしたかったということが、よくわかります。
三国志の時代の貴重な印章をご覧いただける、特別展「三国志」は9月16日(月・祝)まで開催です。
ぜひ、足をお運びください。
日中文化交流協定締結40周年記念
特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
日中文化交流協定締結40周年記念 特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
カテゴリ:研究員のイチオシ、2019年度の特別展
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posted by 谷 豊信(特任研究員) at 2019年08月29日 (木)
こんにちは。1089ミステリーハンターの高橋です。
今回は、特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」(~9月23日(月・祝))の会場でふしぎハッケン!
連日多くの仏像ファンたちでにぎわう特別企画の会場。
一番奥のスペースには、室生寺の十一面観音菩薩像・地蔵菩薩像・十二神将像が居並びます。
さてさっそくですが、ここでクエスチョンです。
下の展示風景のなかで、ちょっと不自然なところがあります。それはいったい何でしょう?
(ちなみに会場の造作やキャプションは関係ありません ←不備があるわけではありません)
手前: 重要文化財 十二神将立像(酉神・巳神)鎌倉時代・13世紀 室生寺
奥左: 重要文化財 地蔵菩薩立像 平安時代・10世紀 室生寺
奥右: 国宝 十一面観音菩薩立像 平安時代・9~10世紀 室生寺
ヒントとして、もう少しお像に近づいてみましょう。とくに地蔵菩薩像の頭の周辺に注目です。
おわかりになったでしょうか?(自信のある方はぜひ「スーパー〇とし君」をどうぞ 笑)
というわけで正解は、「地蔵菩薩像と後ろの光背(こうはい)の大きさが合っていない」でした。
写真を見ると、地蔵の頭から発せられる頭光(ずこう)の位置が、頭より上になっていることがわかります。
つまり、現在付けられている光背は、元々はこのお像のものではなかったのです。
じつはこの光背、元来は室生寺の近隣・三本松に安置されている地蔵菩薩像に付けられていたものでした。
三本松の像は、光背とともに室生寺金堂に安置されていましたが、いつしか本体のみが三本松に移されました。
現在の地蔵菩薩像(現在展示中のお像)は、いつの頃か他のお堂から金堂へと移されたと考えられています。
仏像は時として、このように当初の安置場所から移動している例が少なからずあるのです。
さて、ここでさらに注目したいのが、この光背に描かれる様々な絵画表現です。
そもそも光背とは、仏の体から発せられる光をかたちにしたもの。
一般的には光背の周りの部分に文様を彫り出したり、小さな仏を取り付けたりします。
一方でこの「板光背(いたこうはい)」は、平らな木の板で作られた光背に、絵具や墨などで尊像や文様を描き表しています。
板光背は、平安時代前期(9~10世紀)に作られたものが多く、特に奈良県の寺院に集中して伝わっています。
室生寺金堂の真ん中に安置されている薬師如来像(今回の企画では展示されません)の板光背も、地蔵菩薩像の光背と同じ作風を示しており、同時期に制作されたと考えられます。
国宝 薬師如来立像(伝釈迦如来立像)平安時代・9~10世紀 室生寺
(この像は、現在お寺では釈迦如来として信仰されていますが、光背に7体の薬師如来が描かれていることや、薬師如来に付き従う存在の十二神将像があることから、もともとは薬師如来であったと考えられています。)
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特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」 本館 11室 2019年6月18日(火)~ 2019年9月23日(月) |
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posted by 高橋真作(絵画・彫刻室) at 2019年08月16日 (金)
展示されている三国志の時代の農具 左:犂(からすき)右:鋤(すき)
私は横山光輝(よこやまみつてる)さんの漫画『三国志』を読んで育った世代で、実家には全60巻ありました。
もちろんコーエーテクモゲームスの「三國志シリーズ」も、楽しませていただきました。
そのため今回の特別展「三国志」に少しでも関われたのを光栄に思っています。
今、縁あって日本列島の古墳時代を当館では担当していますが、その古墳時代のはじめに併行する時代が、中国大陸の三国志の時代です。
私が学生の頃より専門に研究を続けてきたのが、古墳時代の鉄で作られた農具です。
そのこともあり、本展の図録で執筆を担当したのが、鉄製の農具でした。
一見すると農具は鉄の塊にしかみえない、他の作品と見比べてみると見栄えもしない面白みのない遺物です。
しかし、私が農具の研究を続けてきたのは、古墳時代の日本列島において重要な遺物であると思っていたからです。
今回執筆することになり調べてみると、三国志の時代の農具についても日本列島と同様に、当時の社会を考えるうえで重要な遺物だと知りました。
なぜならば鉄製の農具は、これまでの石製や青銅製の農具と比べて、各段に使い勝手がよく、鋤(すき)なら良く掘ることができるからです。
また、鎌であればよく切れるので効率よく収穫することができます。
当時の権力者は、この便利な道具をいかに管理して生産に活かすか、ひいては社会や政治にどのような影響力を及ぼしうるかを考えていました。
現在ホームセンターで買えるような鋤や鎌とは、全く社会的な位置づけが異なっていたのです。
鋤
鉄製 後漢時代・1~3世紀 2004年、河北省涿州市家園工地出土 涿州市博物館蔵
鋤は長い木柄をソケットに装着して、主に雑草を除去し、田の畔切り(あぜきり)などに使われました
実際、中国大陸では前漢の時代まで鉄製の農具は、民間の大きな製鉄業者や、鉄の専売制で中央集権化を図る国家によって管理されていました。
それが後漢の時代にはいると、その厳密な管理体制が崩れ、一般村落レベルでも鉄製の農具が自給できるようになります。
その結果、国家の社会に対する支配は大きく後退することになり、在地の有力者が台頭するきっかけをつくったのです。
三国志の時代のように混沌とする時代が生まれたひとつの背景には、鉄製農具など鉄の管理体制の変化があったと考えられます。
犁
鉄製 後漢時代・1~3世紀 2001年、河北省涿州市燕趙工地出土 涿州市博物館蔵
後漢末になると牛の力を利用して土を耕しました。その土に接するところに、犂をはめました
三国志の時代で群雄割拠する武将達のうち、農業を大切に考えていた武将が曹操(そうそう)でした。
曹操が大きな力を得た背景のひとつに、当時としては画期的な屯田制(とんでんせい)の導入が挙げられます。
農民に荒れた土地を与え開墾させ、税収を得て経済的な基盤を整えることに、曹操は成功しました。
その屯田制にも使われたであろう犁(からすき)も、今回の特別展「三国志」では展示していますので、どうぞご覧ください。
犂の利用方法。牛2頭の力で耕します。赤丸が犂です ※パネル展示のみ
出典:中国画像石全集編集委員会編『中国画像石全集5 陜西、山西漢画像石』(2000年、山東美術出版社)
日中文化交流協定締結40周年記念
特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
日中文化交流協定締結40周年記念 特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
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posted by 河野正訓 (考古室) at 2019年08月15日 (木)
当館は彫刻の収蔵品が少なくて、浅⾒さんはいつも「展⽰案を作っていても張り合いがないんだよ」っておっしゃっていますね。 また、総合⽂化展にたくさんの⼈が来てくださるように何かしたいとお考えでしたよね。
その⼀つが寄託品を増やすことでした。寄託品は3年間というスパンでお預かりしているのですが、3年だと少し⻑いというお寺さんがいらっしゃるもしれないから、もう少し短いスパンでお借りできるような、柔軟な仕組みがあればいいなともおっしゃっていましたね。それが、総合⽂化展の活性化にもつながるわけです。
そんな中、室⽣寺さんの話はとてもありがたいお話でしたね。
ええ。室⽣寺さんが収蔵庫(宝物殿)を造ることになり、完成後の枯らしの期間(コンクリート、建材などから出る有機ガスの濃度が薄くなるまで作品を入れずに換気する)、国宝 ⼗⼀⾯観⾳菩薩⽴像と釈迦如来坐像、重要⽂化財 地蔵菩薩⽴像、⼗⼆神将立像12体のうち2体を預かってもらいたいということで当館にお話がありました。
「ぜひ総合⽂化展の中で展示したい︕」と喜んでいたら、室⽣寺の執事⻑さんから、今、岡寺、⻑⾕寺、安倍文殊院、室⽣寺で協⼒して奈良⼤和四寺巡礼と称して、参拝客を誘致している。 それに併せて四寺の展示にしてはどうかというお話をいただいたので、それが実現すれば、部屋全体で特別な展示ができる、とわくわくして、それぞれのお寺に相談して、「奈良大和四寺のみほとけ」という展覧会になりました。
実は11室ではなく、特別5室(本館中央階段奥の天井の高い部屋)でやったらどうかという話がでたこともありました。特別5室は仏像を置く台もケースもないので多額の設営費がかかります。 そうなると特別展料⾦でやることになりますね。そもそも仏像は輸送費がかかるので、その予算を確保するというのもなかなか⼤変なのです。また広報費も大変です。
それより、さっき⽫井さんが⾔った総合⽂化展を活性化して多くのお客様に総合⽂化展を見ていただく⽅がいいな、という気持ちの⽅が強くて11室での開催、そして総合⽂化展料⾦でご覧いただくことにしました。
平成館4000平⽶の特別展を⾒て、さらに本館となると、お客様も疲れてしまいますよね。 この特別企画を⽬当てにいらした方がせっかくだからと本館の他の展⽰もご覧になって「こんなにいろいろな作品が展⽰されていたんだ」っておっしゃっておられました。当館の総合⽂化展全体を⾒てもらうのに、本特別企画がいいきっかけになっているなという印象は受けています。
⻑⾕寺さんは⼀度、私が伺って、こちらから希望を出したとおりにご快諾いただきました。 岡寺さんは、希望通りいずれも展示してかまわないと仰っていただきました。当館寄託の釈迦涅槃像に加え、京都国立博物館に寄託されている菩薩半跏像と天人文甎は京博の了解を得てすぐに決まりましたが、奈良国⽴博物館寄託の国宝、義淵僧正坐像は輸送が難しいと思い、最初は考えていませんでした。 でも、やっぱりこの展⽰をより充実したいと欲が出て奈良博の彫刻担当者に相談しました。
義淵僧正坐像は⽊⼼乾漆造で、脆弱です。乾漆というのは漆に⽊の粉などを混ぜてペースト状にしたものです。表⾯を⾒ていただいたら、かなりひびが⼊っているのがわかります。輸送が心配なので、あきらめた方がよいかと奈良博にたずねたところ、乾漆が剥がれる心配はないと回答を得てお借りすることができました。
当館は、法隆寺宝物館は別とすれば、奈良時代のお像は少ないんですね。 所蔵品では⽇光菩薩踏下像と、⻄⼤寺さんからの寄託品である釈迦如来坐像ぐらいです。ですから、義淵僧正像を当館で展示できるのはとてもうれしかった。
本当は、 ⻑⾕寺さんの国宝 銅板法華説相図もお借りしたかったのですが、展⽰ケースにうまく納まらないため、断念しました。
そうですね。既存の台や展示ケースを利用するので、制約はあるわけです。
安倍文殊院さんにもお願いに⾏ってきました。快慶作の大変立派なお像があるのでお借りできればと思ったのですが、安倍文殊院さんは檀家のいないご祈祷寺なんですね。だからお像を出すことはできないが、その代わり、文殊菩薩の像内納入品の経巻を出しますとおっしゃってくださったんです。
展覧会は100パーセントこちらの望みがかなうなんていうことはないので、できる範囲でご協力をいただいて、それで最善のものにする。観覧される方々、ご所蔵者、主催者など関わった人がみんな「よかった」と笑顔になるようにしたいと思っています 笑。
銅造もあれば、甎もあるし、⽊⼼乾漆造もあります。また⽊彫像は、⼀⽊造もあれば寄⽊造もあり、ほぼ⽇本の造像技法を網羅しています。
例えば、⻑⾕寺の木造⼗⼀⾯観⾳菩薩⽴像。ブログにも書きましたけど、通常 平安時代11世紀後半から12世紀のお像は、内刳り(内部を空洞にすること)を⼊念に施すので、⽊の部分が薄くなるんですよ。だから軽いです。でも、このお像は内刳りしていないから重い。
十一面観音菩薩立像 平安時代・12世紀 奈良・長谷寺蔵
木目を見るとクスノキですね。クスノキは平安時代半ば以降、主に使われたヒノキより重いです。針葉樹のカヤは奈良時代後期から平安時代前期によく使われた⽊材ですけど、ヒノキに⽐べて重いです。
同じヒノキでも⽬が詰んでいるか、⽬が粗いかで全然違います。⽬が詰んでいれば重い。このお像は、軽いはずの顔をしていて重いので驚いたんです。
平安時代後期でクスノキが使われるっていうのは、すごく珍しいですよ。 ⻑⾕寺のご本尊の⼗⼀⾯観⾳立像はもともと霊⽊のクスノキで造られたという伝承がありますから、このお像もご本尊を意識して造っただろうという推測が成り⽴つんですよね。
このお像は⻑⾕寺の住職の住坊にあるので、あんまり今まで出ることはなかったんですね。
正確にはCTを撮って公表しますが、左⼿はどうも⼿⾸まで、右⼿は肘まで胴体と同じ⽊から造っているようなんですよ。両腕の内側は、鑿で胴との間を削って削って貫通させて、体との隙間をつくっているんですね。下半身にU字にかかる天衣も両足の間は体から浮くように隙間を作っています。
⼀⽊から透かし彫りになるような空間をつくるやり⽅って⼤変じゃないですか。
⼀般的に別の⽊で造って矧ぎ付けたほうが効率的ですが、わざわざ⼿の部分、肘まで、ぎりぎり1本の⽊材から取ろうとしてい るのは、使っている⽊からすべて彫り出したいという意識があったようで、 何か特別な⽊を使っているんじゃないかと思いたくなります。
確かにそうですね。
岡寺の菩薩半跏像は銅造ですね。これは溶けた銅を流して、それが隅々まで行き渡るようにしなくてはいけないですね。
重要文化財 菩薩半跏像(ぼさつはんかぞう) 奈良時代・8世紀 岡寺蔵
奈良時代の銅は純度が高く、少し流れにくいですね。
流しやすくするために、スズ、ヒ素や鉛を⼊れたりするんですよね。
⻘銅は銅とスズの合⾦で、中世のものは鉛の含有量が多いですね。
朝鮮半島製の⾦銅仏と⽇本製の⾦銅仏だと成分⽐が違ったりします。最近は蛍光X線分析という科学的な調査なんかも盛んに行なわれていますね。
⻑⾕寺の重要⽂化財 難陀⿓王⽴像は⽊造ですが、こちらは像内の銘⽂から12日間という短期間で完成されたことがわかりますよね。
重要文化財 難陀龍王立像 舜慶作 鎌倉時代・正和5年 奈良・長谷寺蔵
⻑⾕寺の本尊の⼗⼀⾯観⾳菩薩⽴像は⽕災により焼失と復興を繰り返しているのですが、復興するとき仏像を造るために競合した仏師に⼊札させて、担当仏師を決めているんですよ。恐らく、難陀龍王像の担当仏師は、短期間で出来るとアピールしたんじゃないでしょうか。
いつから難陀⿓王が出てくるのかが謎ではあるんですけど、少なくとも中世的な信仰ですね。
春⽇神と同体と⾔っているけど、春⽇神と難陀⿓王がどうして結びつくのかよく分からないですね。ただ難陀⿓王も⾚精童⼦も⾬乞いの本尊になるのですが、雨を降らせるだけじゃなくて、大雨を止めることもできる。初瀬川の下流の⼤和川ってよく氾濫していたらしいのですよね。だから止める方の祈祷もあったと思います。
この難陀⿓王ですが、両肩、⿓は別に造って接合したものです。制作した仏師は8⼈ですよね。
多分、分業していますよね。分担して何日で出来るかって、⼊札の前にひな形造っていますよ、きっと。ただ彩⾊は短期間では絶対、終わらないですね。
この難陀龍王像、実は背中に小さな焦げ跡がありますよね。
⽕災のときにできたんでしょうね。
火事だああ!って急いで助け出して運んだんですよね。これ重いし、今のように高いところに安置していたなら、⼤変だったと思います。
国宝 文殊菩薩像像内納入品 仏頂尊勝陀羅尼・文殊真言等 鎌倉時代・承久2年(1220)奈良・安倍文殊院蔵
「仏頂尊勝陀羅尼(ぶっちょうそんしょうだらに)」は、「仏頂尊勝陀羅尼経」というお経のなかにある呪文です。鎌倉時代の仏像の納入品によく書かれています。
お経というのは別名「法舎利(ほっしゃり)」ともいいます。舎利というのはお釈迦様の遺骨です。そして、法というのはお釈迦様が説いた教えです。お経というのは、それを書き記したもので、「お経=お釈迦様」つまりお釈迦様そのものという考え方があるんですね。
それを仏像のなかに入れることによって、魂を入れる、というような考え方もあるそうです。
⽂殊菩薩がこの世の中国の五台⼭に⽣きて存在しているという信仰があって、それを聞いたインドのお坊さんが中国までわざわざ会いに⾏くんですね。
そして、会いに⾏く途中で⽼⼈に出会うんです。
その⽼⼈は「仏頂尊勝陀羅尼経というお経をもってきたか︖」とインドのお坊さんに問いかけます。お坊さんは持ってきていなくて、⽼⼈が「持ってきたら、⽂殊菩薩に会えるぞ」と⾔ったので、お坊さんは⼀旦「仏頂尊勝陀羅尼経」を取りにインドに戻るんです。
⼀往復して、「仏頂尊勝陀羅尼経」を持ってインドから中国にまた来るんですね。 そして「仏頂尊勝陀羅尼経」を持っていったら、五台⼭の文殊菩薩に会うことができたという物語があります。
元々その老人が文殊菩薩の化身なんだよね。
そうですね。姿を変えてお坊さんを試していた、ということです。
途中で⼼が折れたら会えないんですね 笑。また、この納入品にはたくさん同じ⽂字が書かれています。 文殊菩薩を表わす梵字で「マン」と読むのですが、⼀個書くことが仏をつくることの象徴で功徳を積んでることになるんですよ。
まだ御覧になっていない方はぜひご来館ください。お寺で拝観するより間近で、照明も当たり、側面、背面まで観ることができる貴重な機会です。
御覧になったみなさま、今度はぜひお寺にお参りください。境内の景色、古いお堂の中で、拝観すれば博物館とは違った発見と感動があると思います。
なお室生寺さんの新宝物館の枯らしの期間を延長されるため、室生寺のご尊像のみ、来年2月24日(日)まで展示を延長いたします。また違った展示台でご覧いただけますので、引き続きお楽しみいただければと思います。