10月1日(火)から、毎年恒例「博物館でアジアの旅」が東洋館で始まりました。

 東洋館外観
 東洋館外観 東洋館内観
 東洋館内観 アジアの占い 体験コーナー
アジアの占い 体験コーナー ミュージアムシアター
 ミュージアムシアター



 菩薩立像 パキスタン、ガンダーラ クシャーン朝・2世紀 3室で展示
 菩薩立像 パキスタン、ガンダーラ クシャーン朝・2世紀 3室で展示
 婦人頭飾断片 伝エジプト、テーベ出土 新王国時代(第18王朝)・前15世紀 3室で展示
婦人頭飾断片 伝エジプト、テーベ出土 新王国時代(第18王朝)・前15世紀 3室で展示


 

 ナーガ上の仏陀坐像 タイ ラタナコーシン時代・19世紀 12室で展示
ナーガ上の仏陀坐像 タイ ラタナコーシン時代・19世紀 12室で展示 胸元の花模様
胸元の花模様 コート 濃紺ヴェルヴェット地花卉文様金銀糸刺繡 インド・ジャイプール マードー・シーン2世着用 19~20世紀 13室で展示
コート 濃紺ヴェルヴェット地花卉文様金銀糸刺繡 インド・ジャイプール マードー・シーン2世着用 19~20世紀 13室で展示 拡大図
拡大図
 舎利容器クッション 4,840円(税込)
  舎利容器クッション 4,840円(税込) ブローチ如意形時計 14,850円(税込)
 ブローチ如意形時計 14,850円(税込) 花蝶文様ピンバッチセット 2,750円(税込)
 花蝶文様ピンバッチセット 2,750円(税込)カテゴリ:博物館でアジアの旅
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posted by 天野史郎(広報室) at 2024年10月03日 (木)
東京国立博物館に就職して間もない6月のある夜、一人展示準備のため収蔵庫で埴輪を探している時であった。
すわ、収蔵庫に五月人形か。いやいや、よく見ると凛々しい武者姿の埴輪ではないか。



武人埴輪模型 吉田白嶺作 大正元年(1912年)
弓取るものが左右に一対、矛取るが左右に一対、合わせて四個一組で揃いとなる。東京国立博物館所蔵品は左手に矛取るものを欠いている。
(注)特別展「はにわ」出品予定
後日、先輩に聞いたところ明治天皇の御陵(京都府京都市 伏見桃山陵)に奉献された埴輪「御陵鎮護の神将」と同じ型で作られたものという。
某研究会の連絡誌に、この埴輪にかかる記述があったことを思い出して読み返し、関連する文献などを集めた。この埴輪の制作にあたっては東京帝室博物館(現:東京国立博物館)歴史部のスタッフが監修に携わり、当館の収蔵品の修復や模造品の制作を担った彫刻家の吉田白嶺が手掛けた。
このような縁もあって当館に伝来されたものだと知ったところで、いったんこのときの熱(好奇心)は去っていった。
それから十数年の時が過ぎ、東京国立博物館で埴輪をテーマにした特別展を開催すると聞く。再度発熱した。
特別展の担当者を捕まえ、展示する意図や意義を説明して(いや、ワガママを言って)何とか出品作品に加えてもらった。
そして保存科学課のスタッフには、展示や輸送のための応急処理(X線CT撮影や接合)もお願いした。

応急修理前のX線CT撮影
埴輪「御陵鎮護の神将」は型作りによる頭・胴部・脚部・台座というように分割成形されている。胴部と脚部の継ぎ目で外れていたため状態を確認し、今回の展示に合わせ接合、修理した。
一人現地調査と意気込んで伏見桃山陵へも足を運んだ。
木々の間に白く伸びる参道、御陵から眺める宇治の景色、そして230段にも及ぶ大階段。
時折、本来の目的を忘れてしまうほどの御陵の清々しさに気を取られながらの調査、ただただ気持ちがよかった。そして、この陵(みささぎ)の墳丘のなかに納められた埴輪と古墳時代の墳丘に樹立された埴輪との差異に一人思いを巡らせた。

玉砂利と杉並木が美しい参道

宇治の景色

230段に及ぶ大階段

上が円形で下が方形の御陵
明治天皇の大喪にかかる記録を調べるために国立公文書館に出かけ、当時の世相を知るために当時の雑誌や新聞記事をあさり、また絵葉書などの記念品を集めるために某オークションサイトにも手を出した。この頃には、またいつもの熱病にかかったのかと同僚はきっと呆れていたに違いない。

参拝記念の人形

参拝記念の絵葉書
 1918年(大正7年)以降に印刷された参拝記念の絵葉書の包みにも埴輪「御陵鎮護の神将」があしらわれている。一定期間、この「埴輪」が当時の人々に関心を持たれていたことが分かる。
私は埴輪、ましてや古墳時代を専門にしているわけではない。一考古学者としてモノがどういう目的で作られ、そのモノが当時の人々にどう受け入れられ、そして後世の人がそれをどう考えるのか、ということが気になってしかたがないのだ。本展の担当者でもない一研究員でさえ「はにわ熱」にかかれば、この始末である。ましてや担当者であったならば。
この夏の暑さを上回る熱量で担当者が準備を進めている特別展「はにわ」(2024年10月16日(水)~12月8日(日)、平成館 特別展示室)が、間もなく開幕を迎える。
ぜひ楽しみに待っていてほしい。そして一人でも多くの方々にこの「はにわ熱」を存分に味わってほしいと願っている。
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posted by 品川欣也(学芸企画部海外展室長) at 2024年09月27日 (金)
本館14室では特集「能面に見る写しの文化」(10月20日(日)まで)を開催しています。

本館14室の様子
作り手の学びや、普段なかなか見ることができない秘仏の霊験あらたかな姿を写し引き継ぐための手段として、美術工芸の世界ではお手本を真似てコピーを作る「写し」が行われてきました。
「写し」は能面でも行われ、名物面とされた古面の「写し」が、特に江戸時代以降多く作られました。 
能面では鑿跡(のみあと)や傷、作者を示す焼印なども写すことが多いことが知られています。
ただし、能面の調査を重ねていくと、「写し」のなかにも様々なバリエーションがあることがわかってきました。特にわかりやすいのが、精度の違いです。
では、「写し」の精度に注目して、こちらのふたつの面を見てみましょう。
同じ名物面をもとにした、「写し」同士を見比べる
 (図1)能面 大悪尉 「丹後州/愛若大夫廿三枚之内」刻銘(朱入り)
(図1)能面 大悪尉 「丹後州/愛若大夫廿三枚之内」刻銘(朱入り) (図2)能面 大悪尉 「福来作」銘 江戸時代・17~18世紀 上杉家伝来
 (図2)能面 大悪尉 「福来作」銘 江戸時代・17~18世紀 上杉家伝来
ふたつとも大悪尉(おおあくじょう)という面で、荒ぶる神の役などに使われます。
じつはこの2面はともに、宝生家(ほうしょうけ)に伝わる名物面である大悪尉の「写し」です。
どちらも宝生家の能面をもとにした「写し」なのに、この2面は似ていません。
図1と図2を比較すると、図1が宝生家の能面により近く、本面の特徴をよくとらえています。
頬の肉付きの柔らかさや、顔の皺(しわ)の表現なども感じられるのではないでしょうか。
図1の面の面裏には「丹後州/愛若大夫廿三枚之内」と書かれていて、この面を細川家お抱えの猿楽師(さるがくしゃ)であった愛若大夫(あいわかだゆう)がかつて所持していたことがわかります。 
大名家であった細川家は、この「写し」のもととなった名物面を所蔵する宝生家と関係が深かったためか、本面の実物を見る機会に恵まれたか、宝生家の名物面に関する情報を多く持っていたとも考えられます。
よって、こちらは比較的精度の高い「写し」といえます。 
対して図2の面は、やはり大名であった上杉家が収集したものです。
しかし、当時の上杉家は経済難にあり、おそらく作者は名のある面打ではなく、実際に宝生家のものを見る機会にも恵まれなかったと想像されます。
よって、比較的「写し」の精度が低くなってしまったのかもしれません。
このように、同じ面の「写し」であっても似ていないことはよくあります。
よく似たふたつの面を見比べる
続いて、よく似たふたつの能面を見比べてみましょう。
 (図3)能面 鼻瘤悪尉 「文蔵作/満昆(花押)」金字銘
(図3)能面 鼻瘤悪尉 「文蔵作/満昆(花押)」金字銘 (図4)能面 鼻瘤悪尉 「杢之助打」朱書 江戸時代・17~18世紀
 (図4)能面 鼻瘤悪尉 「杢之助打」朱書 江戸時代・17~18世紀
どちらも鼻瘤悪尉(はなこぶあくじょう)という種類の面で、両者の顔立ちはよく似ています。
 図3の面裏
図3の面裏 図4の面裏
図4の面裏
図3の面裏には「文蔵作」と書かれています。ただしこれは、文蔵本人が書いたのではなく、世襲面打家である大野出目家(おおのでめけ)の5代洞水満昆(とうすいみつのり)によって文蔵の作であると鑑定されたという鑑定銘です。
図4の面裏には 「文蔵作正写杢之助打」つまり、文蔵作の面を杢之助が写したと記されています。 杢之助が図3の鼻瘤悪尉をもとに写したものが図4の面であると解釈できます。
ちなみに杢之助とは、世襲面打家である大野出目家の5代洞水満昆もしくは7代友水庸久(ゆうすいやすひさ)のことです。
2面とも、大野出目家にあったものかもしれません。
杢之助が文蔵作とされる鼻瘤悪尉を実際に見ながら写したからこそ「写し」の精度が高く、よく似ているのでしょう。
さて、文蔵作とされる鼻瘤悪尉をX線CT撮影したところ、かつて割れてしまい、修理されていることがわかりました。
その修理の痕が面裏に貼られたテープ状の布です。
図4の裏面にも布がはられているのは、文蔵作の鼻瘤悪尉の修理痕まで写したということでしょう。
舞台で使用する際には見えないはずの面裏の修理痕まで写すことは、その面の歴史にまで敬意を持っているということなのかもしれません。
このX線CT撮影でもうひとつ、不思議なことがわかりました。
 (図5)CT画像
(図5)CT画像 (図6)CT画像
(図6)CT画像 (図7)
(図7)
図5と図6のCT画像は、文蔵作とされる鼻瘤悪尉(図3)の上瞼のあたり(図7)の断面です。
木目が見える部分は木で作られています。図6の黄色くマークしたところは木ではなく、木屎漆(こくそうるし)と考えられます。
また、面裏の口の部分にも布が貼ってありました。これは下唇に別の材を矧(は)いでいるので、本来はもっと大きく口を開けていたと考えられます。
そもそも能面を作るのに大きな木材は必要ありません。
比較的小さな木材があれば形作ることができるので、多くの面は木の彫りで顔の起伏を表し、その上に絵具で彩色しています。
ところが能面のX線CT撮影を行っていると、起伏の少ないなだらかな形の仮面の表面に、木屎漆などで厚く盛り上げ、頬や眉間、眉などの顔の起伏を作る例があることが分かってきました。
文蔵作とされる鼻瘤悪尉もその一つで、もともとあった別の面に木屎漆を盛って改造した可能性があるといえそうです。
「写し」には精度の違いがあること、写す際には元になった面への敬意があると考えられます。
その敬意があったからこそ、一から新しい面を作るのではなく、改造という手間のかかる方法を選んだのかもしれません。
特集「能面に見る写しの文化」では、他にも「写し」のいくつかのバリエーションを紹介しています。
とても細かなことではありますが、ぜひ展示室で、面に対する人々の心に、思いをはせていただければと思います。
カテゴリ:特集・特別公開
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posted by 川岸 瀬里(教育普及室長) at 2024年09月26日 (木)
2024年は、画家の黒田清輝が没してから100年という節目の年にあたります。そこで、黒田清輝の代表作で、通常は黒田記念館特別室で年3回の公開以外は展示されることのない《智・感・情》を中心に、東京国立博物館の誇る近代絵画の名品との特集展示「没後100年・黒田清輝と近代絵画の冒険者たち」(2024年10月20日(日)まで)を組むこととなりました。
《智・感・情》の展示が決まったのは、鹿児島市立美術館で開催された大回顧展「鹿児島市立美術館開館70周年記念 没後100年 黒田清輝とその時代」展など、今年開催された黒田関連の展覧会への貸出がなく展示できる状態の代表作であったから、という裏話的な事情もありますが、現存する完成作の中では最大級であり、後世への影響も大きかったこの作品を展示の核とすることで、「近代絵画の冒険者たち」という全体のテーマも決まっていきました。

展示中の《智・感・情》 黒田清輝筆 明治32(1899)
本展では、裸体の人物を描くという日本にはなかった手法を持ち込んだ《智・感・情》を糸口として、明治以降、西洋絵画に学んだ画家たちの試みを取り上げました。
東京国立博物館の所蔵する近代の絵画作品は、日本に美術館がなかった時代に収蔵されたものが多数を占めます。これらは、全国津々浦々に美術館があり、充実したコレクションを見ることのできる現在からは想像もつかないほど「美術」という存在が不確かなものであった頃、画家たちがどのように道を切り開いてきたかを伝えてくれます。
《智・感・情》は、人間の裸体を写実的に描き、何らかの理念を象徴させるというそれまでの日本にはない内容を持つ絵画でした。
当時の多くの洋画家たちがまずは日本で絵画の基礎を学んだのに対し、黒田が絵画の勉強を本格的に始めたのは(幼少期の短期間の経験は別として)フランスに留学してからのことです。裸体の人体デッサンを基礎とするアカデミックな教育を受けたことが、黒田のその後のスタイルを決めました。
人体デッサンは黒田が教鞭を執った東京美術学校(現在の東京藝術大学)の西洋画科でもカリキュラムに組み込まれ、画家育成の基礎と位置付けられていきます。

裸体習作 黒田清輝筆 明治21(1888)
1909年に開催された第3回文部省美術展覧会(文展)に発表された吉田博《精華》は、黒田のライバルと目された吉田の描いた数少ない裸体画の大作です。白百合を持ち、ライオンたちに何事かを告げるかのように指で示す少女は、「美の威厳」を表しているとも解釈されています。
裸体画への批判にしばしばみられるのが、人物が裸体である必然性がなく場面として不自然であるというもので、例えば東京勧業博覧会で一等賞を受賞した中村不折《建国剏業(けんこくそうぎょう)》には、鎧を着け忘れたのかといった皮肉が寄せられました。洞穴で猛獣と向かい合う人物という設定にはキリスト教絵画からの影響が指摘されていますが、裸体の聖性を高める演出になっていると言えそうです。

精華 吉田博筆 明治42(1909)

中村不折《建国剏業》明治40(1907)年(焼失。展示していません)
展示会場の本館特別2室のサインにも選ばれたラグーザ玉《エロスとサイケ》は、日本ではなくイタリアで描かれました。玉は旧姓を清原といい、日本画を学んでいましたが、1876年に創立された工部美術学校の教諭として来日したヴィンチェンツォ・ラグーザに教わり、西洋絵画に転向しました。
ラグーザは故郷のパレルモで美術工芸学校を創立する計画を持っており、玉とその姉夫妻を教師として雇うという契約を結び、共に帰国しました。玉は水彩画と蒔絵の教師となり、さらにパレルモ大学美術専門学校で油彩画を含む美術の専門教育を受けました。姉夫妻が日本に帰った後に玉はラグーザと結婚し、「エレオノーラ」という洗礼名を受けます。《エロスとサイケ》には「O. E. Chiyovara」(お玉、エレオノーラ、清原)というサインがあり、玉の油彩画が目に見えて表現力豊かなものとなっていった1910年代に描かれたものと考えられています。

エロスとサイケ ラグーザ玉筆 明治~大正時代、20世紀
今回の特集展示では、「歴史資料」として収蔵されているために近代絵画の展示室では展示されたことのない織田東禹《コロポックルの村》も出品しています。
織田は古代の貝塚発掘に興味を持ち、人類学者の坪井正五郎などに取材して水彩画としてはかなりの大作となる本作を完成させました。1907年の東京勧業博覧会の美術部門に応募された本作は、あまりに前例のない作品であったため美術部門での審査を拒否され、結局石器時代の日本を描いた教育的資料として展示されました。その後、好古家としても知られた華族の二条基弘、徳川頼貞の手を経て東京国立博物館に収蔵されています。

コロポックルの村 織田東禹筆 明治40(1907)
黒田清輝の作品を多数所蔵している黒田記念館は、もとは彼が美術の奨励事業に充てるために遺した遺産によって1930年に設立された「美術研究所」でした。黒田の画業を顕彰するだけではなく、美術の研究を目的とした機関としての研究所の方向性を決めたのは美術史学者の矢代幸雄です。
美術作品の良質な図版が美術の研究に不可欠だと考えた矢代は、ヨーロッパで学んだ経験をもとに国内外の美術作品の写真を集め、それらは東京文化財研究所に現在も引き継がれています。本展に出品した黒田の日記や矢代の主著『“Sandro Botticelli”』といった東京文化財研究所の所蔵資料は、美術を社会に根付かせるという黒田の理想が受け継がれていることを示すものでもあるのです。

“Sandro Botticelli”  矢代幸雄著 大正14年(1925) 東京文化財研究所蔵

本館特別1室に展示される《智・感・情》  
特集「没後100年・黒田清輝と近代絵画の冒険者たち」は、本館特別1室・特別2室にて2024年10月20日(日)まで開催中です。 ぜひご覧ください。
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posted by 吉田暁子 (東京文化財研究所) at 2024年09月19日 (木)
現在開催中の「内藤礼 生まれておいで 生きておいで」(以下、「内藤礼展」)は、先の荻堂研究員のブログにもあったように、通常の当館の特別展とは違っています。展覧会入口に「ごあいさつ」のパネルがないことからはじまり、展示室内には作品解説パネルの類はいっさいない、会場外で並ぶことはあっても会場内の人数はそれほどでもない、3か所の会場がまとまっていない、など、ないことばかりです。
さかのぼれば、ポスターは作家の作品ではない当館収蔵品のアップ(原寸大以上)でチラシにも作家の作品画像は掲載されていない、開幕時に図録がない、とこれまたないものだらけ。現代美術展ではそれほどめずらしいことではありませんが、当館をよく知っている皆さんは、「?」と思ったかたも少なくないのでは、と思います。

展覧会第1会場エントランス 撮影:畠山直哉
推奨順路のはじまりはさりげない
美術家・内藤礼さんにとっても、この展覧会はこれまでの個展とは違うと言います。自分の作品ではない、東博の収蔵品を使っての空間作品制作は初めてのことだそうです。
ないものが多い展覧会。そこにあるのは内藤さんがつくった「空間作品」です。この展覧会では、まずは作品と向き合ってほしいと思います。
博物館では、誰もが「わかりやすい」展示を心がけます。その作品は何なのか、何でできているか、誰がどういう目的で作ったか、あるいは作らせたのか、誰が持っていたか、など、特に東博にある「古美術品」といわれるものには、すでにわかっている「作品についての情報」がたくさんあり、それを伝えるのは博物館の重要な役目です。情報が多いほどその作品あるいはそれをつくった時代など作品にまつわるさまざまなことに興味を持って楽しんでもらえるのではないかと期待して、できるだけ多くの情報を提供できるよう心がけています。また、当館の総合文化展は寄託品を除いて写真撮影可能です。
一方、「内藤礼展」会場では一切の説明を提示していません。来場者に配布する作品リストには、タイトルと制作年、材質、サイズなど作品自体の基本情報のみで、作品ごとの「解説」はありません。それは、会場でまず、来場したお一人お一人が作品と向き合い、ご自分の眼で見ていただきたいからです。会場内での撮影も不可としています。警備上の理由もありますが、写真を撮るよりもその場にいて自分の眼で見えるもの、感じることを最大限受け取ってほしいのです。部屋の入口に設けた短いトンネルを抜けて拡がる、身のまわりにあるささやかなもので構成された世界でしばし時を過ごすと、小さなものごとに気づいたり、それらに何か感じたりする、かもしれません。それは、実際に展示室にいるその時に見えること、感じられることなのです。そうしたことを持ち帰っていただきたいと思います。

第1会場展示風景 撮影:畠山直哉
《color beginning》2024 のある会場。生がはじまり、空間に色が生まれる
これほどカラフルなポンポンを多くつかったのは初めてだそう
第2会場の制作に入って数日後、作家が何かに衝き動かされるように作り始めた《母型》は、部屋のほぼ全面を使った大掛かりな作品です。この空間内をぶらぶらと歩いたり《座》に座ったりしながら、来場者自身でご自分なりにその空間を体験してみてください。会場にいる日の天気、時間、体調、気分で受け取るものは違うでしょう。第2会場と第3会場は、天気と時間で見える光景が全く異なります。晴れた朝、曇った昼間、西日の強い夕方、大雨で真っ暗な閉館間際、など、日にちと時間でここまで見えるものが違う展覧会は、当館ではめずらしいことです。

第2会場風景 撮影:畠山直哉
ガラスビーズが下がった空間《母型》は、作家が展示室での制作に入ってから発想してできた作品。
このように大きな作品を制作に入ってから構想し生み出したのも初めての経験だそう
展覧会は、会期が決まっていて、終わったら消えていくものです。特に、内藤作品はその時に顕す空間が作品なので、後日厳密に再現することは難しい。だからこそ、その日その時に見えるもの、気づくことに集中していただければと思います。

猿形土製品 さいたま市真福寺貝塚出土 縄文時代(晩期)・前2000年~前1000年 当館蔵 撮影:畠山直哉
現代美術はどうみてよいのかわからない、という方は多いと思います。私自身、現代美術の専門家ではないので、自身の眼でみたものと体験、記憶からしか作品を語ることはできません。もちろん、作家の意図はありますし、「こうみてほしい」などの希望はあり、例えば会場は1⇒2⇒3⇒(エルメスでの連携展(注1))⇒3⇒2⇒1の順にご覧になると、内藤さんの物語に沿うことになります。しかし、何かをこう感じなければならない、のではなく、皆さんがその時見えるもの、感じることが、皆さんにとっての展覧会体験です。

第3会場《母型》2024 撮影:畠山直哉
生の往還を顕すこの作品は、さまざまな時代の生の証が集まる博物館を象徴するよう
「なんだろう」「わからない」ことを悪いことだと思わず、楽しんでください。その疑問が美術鑑賞のはじまりであり、人生を楽しむきっかけとなることを願います。
(注1)銀座メゾンエルメス フォーラムでの本展覧会と同タイトルの個展 ~2025年1月13日(月・祝)
カテゴリ:「内藤礼」
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posted by 鬼頭智美(広報室長) at 2024年09月13日 (金)