東洋館8室では、2018年8月28日(火)から2018年10月21日(日)まで、特集「中国書画精華-名品の魅力-」を開催しています。
毎年秋恒例の中国書画の名品展ですが、今年のテーマは名品の名品たる所以をわかりやすく紹介、ということですので、本ブログでは、伝趙昌筆「竹虫図」について、その魅力をお話してみようと思います。

重要文化財 竹虫図 伝趙昌筆 南宋時代・13世紀 (9月24日まで展示)
名品たる所以 その1 ―圧倒的な描写力―
この「竹虫図」は、今からおよそ800年前、13世紀に描かれたと考えられている作品です。大きく回転しながら竹が伸び、瓜、鶏頭が添えられ、間に、チョウやトンボ、イナゴ、スズムシ、クツワムシなどが遊びます。
日本では、10~11世紀に活躍したという有名な花鳥画家、趙昌筆として伝えられてきましたが、実際の作者の名前はわかっていません。
しかし、当時でも指折りの名人であったことは確実でしょう。
複雑に重なり交差しあう竹の細枝を見事に描ききり・・・、

「竹虫図」(部分:竹枝)
トンボの頭部の立体感、翅の文様まで細かに再現しています。

「竹虫図」(部分:トンボ) ※絹糸の織目が見えるくらいまで拡大しました。
鶏頭の花の色と質感を、様々な色の点描を重ねることで表し・・・、

「竹虫図」(部分:鶏頭)
瓜の葉の、深緑から黄緑に変わっていくグラデーションを丁寧に伝えます。

「竹虫図」(部分:瓜)
注目すべきは、金泥をごく限定的かつ効果的に使用する、洗練された感覚です。
これは12~13世紀の中国絵画特有のもので、本図では、チョウの翅の文様の一部、カゲロウの目、瓜の葉の上の小虫などに金が用いられ、控えめな輝きを放っています

「竹虫図」(部分:チョウ)

「竹虫図」(部分:カゲロウ)

「竹虫図」(部分:小虫)
名品たる所以 その2 ―他に現存例のない希少性―
草花の間に昆虫を散りばめる作品は、中国絵画史では「草虫」というジャンルに区分されます。
草虫図は10世紀ころから人気の画題となってきたようで、絵画の歴史書にも草虫図を得意にしたという画家の記述が出てきます。
ただ、このころの作品はほとんど残っておらず、比較的画面の大きい掛軸形式のものとしては、本図が現存最古の作例といえるでしょう。
14世紀以降、掛軸形式の草虫図の構図は形式化して、重要文化財「草虫図」のように、左右対称性を重視した静的なものがほとんどになっていきます。
一方、本図はモチーフを片側に寄せ、より動きのある画面を作っており、定型化する前の草虫図の表現がどのようなものであったかを私たちに教えてくれるのです。

重要文化財 草虫図(右幅) 元時代・14世紀 (9月24日まで展示)
また、白居易(772-846)が「竹の性は直」というように(「養竹記」)、基本的に竹はまっすぐであるべきだと考えられ、そのように描かれてきました。
しかし、ご覧のように、本図の竹は大きく曲がっています。これは他にあまり例がありません。

「竹虫図」(部分:竹幹)
歴史書には、10~11世紀にかけて活躍した劉夢松という花鳥画家が、曲がり竹をよく作っていたとあるので(『宣和画譜』「墨竹門」)、中国には、竹を曲げて描く伝統もあったようです。
しかし、そのような作品はほとんど残っておらず、曲がり竹の持つ意味も忘れられてしまいました。
竹の中には、実際に曲がって生える種類もあるようです。
書物には、仙人が杖を植えたところ、その場所の竹が曲がるようになり、僧侶たちがこれを杖にした、という記録(潛説友『咸淳臨安志』「安隠院」)や、「羅漢杖竹」(李衎『竹譜詳録』巻五)という種が紹介されています。

李衎『竹譜詳録』巻五「羅漢杖竹」
仙人や羅漢の杖と関連付けられることからも、曲がり竹には吉祥の意味があったと推定されます。
草虫図は基本的に、おめでたいモチーフから構成される画題であるので、本図もやはりそのような意味で曲がり竹を表したのでしょう。
竹を曲げて描く伝統を考える上で、本図は重要な手掛かりの一つとなりそうです。
名品たる所以 その3 ―大切にされてきた歴史―
本図の左上には、「雑華室印」という、室町幕府第6代将軍・足利義教(1394~1441)の所蔵印が捺されています。

「竹虫図」(部分:「雑華室印」白文方印)
その後も、足利将軍家ゆかりの宝物として大切に伝えられ、江戸時代には広島の大名・浅野家のコレクションにあったことが知られています。

「竹虫図」箱

「竹虫図」箱金具
この箱は浅野家であつらえられたものでしょうか。絵にあわせて、曲がり竹に様々な虫を配した、非常に手の込んだ作りの金具がつけられています。
真ん中のクツワムシがへこむようになっていて、ここを押さないと蓋が開けられないという凝りようです。
本図には、江戸幕府の御用絵師・狩野尚信(1607~1650)の鑑定書きが付属しています。狩野派の画家たちも熱心にこの絵の重要性を理解し、一生懸命勉強したのでしょう。
当館には、18~19世紀の狩野派の画家・笹山伊成(?~1814)の模写も残っています。

「竹虫図」狩野尚信鑑定書き

趙昌曲竹辟虫図 笹山伊成筆 江戸時代・18-19世紀 (本展では展示されません)
ここまで、伝趙昌筆「竹虫図」について、その1-圧倒的な描写力、その2-他に現存例のない希少性、その3-大切にされてきた歴史、という3つの観点から、名品の名品たる所以をご説明してきました。
特集「中国書画精華-名品の魅力-」には他にも、トーハクの誇る中国書画の名品がずらっと並んでいます。
ぜひ東洋館8室まで足を運んでいただき、それぞれの名品たる所以を考えていただければ幸いです。

本館8室 特集展示の様子
カテゴリ:研究員のイチオシ、特集・特別公開、中国の絵画・書跡
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posted by 植松瑞希(出版企画室研究員) at 2018年08月29日 (水)
特集「明治150年記念 書と絵が語る明治」 第2部 描かれた明治
「ホンモノそっくりな絵」というのは、今でも絵画をほめるときの決まり文句の一つです。
今回の展示(特集「明治150年記念 書と絵が語る明治」、2018年7月10日(火)~9月2日(日))にも作品を紹介している平木政次は、師匠であった五姓田芳柳・義松親子が浅草寺境内で開いた西洋画の見世物の様子について、このように回想しています。西洋画を初めて目にした明治の人々にとっては、私たち以上にホンモノそっくりと受け取ったことでしょう。

箱根 平木政次筆 明治27年(1894)

見物人は成程と感心して、「画がものを云いそうだ」とか「今にも動き出しそうだ」とか「着物は、ほんものの切れ地だろう」とか「実に油画と云うものは、不思議な画だ」と口々に驚きの声を発して居りました。(平木政次『明治初期洋画壇回顧』)
「画がものを云いそう」な西洋画の中には、有名な高橋由一の「鮭」もありました。明治絵画の傑作とされる「鮭」も最初はいわば「だまし絵」だったわけです。横山松三郎「朝顔」も同じような趣向の作品で、細長い板にあたかも実際に蔓が巻き付いているように朝顔が描かれています。写真師として知られる横山は写真でも朝顔のさまざまな表情を写しており、彼にとっては、対象を表現するための技術として絵画と写真が等しい価値を持っていたことがわかります。
明治の庶民を驚かせた五姓田一族や高橋由一の絵は、実際の油画を見る機会もほとんどなく、道具や材料にも不自由なまま、乏しい情報をもとに自ら工夫を重ねたものでした。洋画の理論や技法自体、西欧の科学や技術を基礎としているので、体得しようとすれば系統的な教育が不可欠です。産業振興を担当していた工部卿伊藤博文は留学経験があるだけに、よくわかっていました。伊藤がイタリア外交官の進言を受けて明治9年(1876)に設けたのが工部美術学校です。教師もイタリア人が3名招かれました。フォンタネージ(絵画)、ラグーザ(彫刻)、カペレッティ(建築)で、いずれも当時のヨーロッパでも第一線の専門家です。

風景(不忍池) アントニオ・フォンタネージ筆 明治9~11年(1876~78)
美術学校は、きちんとしたカリキュラムとカンバス、用紙、絵具など豊富な材料を取りそろえたので、特に絵画ではそれまで独学していた画家たちも含め、続々とここで学ぶようになりました。フォンタネージは浅井忠、小山正太郎、松岡寿、山本芳翠といった後に明治を代表する画家となる弟子たちとともに、画題を求めて東京のあちこちを歩きました。東京帝国大学工学部を経て、現在当館が所蔵する「風景(不忍池)」もそのような折のスケッチがもとになっているのでしょう。

特集「明治150年記念 書と絵が語る明治」
2018年7月10日(火)~9月2日(日)
本館 特別1室・特別2室
第1部 明治の人と書(ブログ)
第2部 描かれた明治

特集「明治150年記念 書と絵が語る明治」
2018年7月10日(火)~9月2日(日)
本館 特別1室・特別2室
第1部 明治の人と書(ブログ)
第2部 描かれた明治
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posted by 田良島哲(博物館情報課長) at 2018年08月08日 (水)
彫刻担当の西木です。
今年、2018年は明治維新から150年を記念する年として各地で関連行事が行われていますが、トーハクでもさまざまな関連展示を開催しております。日本彫刻といえば、みなさまは仏像を想起されると思いますが、仏像の歴史のなかでも明治維新はとても大きな転換点となりました。
そこで、収蔵品と寄託品のなかより江戸時代から明治以降の彫刻作品を選び出し、その転換点についてご覧いただこうと企画したのが本特集「江戸の仏像から近代の彫刻へ」(2018年7月10日(火)~9月30日(日)、本館14室)です。

本館14室 特集展示の様子
そもそも、江戸時代の彫刻といっても、あまりみなさまにはなじみがないかもしれません。歴史の教科書や仏像の入門書では、鎌倉時代で記述が終わってしまうことが多いので…
しかし、鎌倉時代以降も仏像を造る需要は途切れることなく、むしろ制作された総量としては飛躍的に増大したと考えられます。鎌倉時代までは時代ごとに個性的な仏像のスタイルが考案されてきましたが、江戸時代はむしろ鎌倉時代風を洗練させていくことで、人々の信仰を集める仏像が造られたようです。

写真左:薬師如来坐像 旧寛永寺五重塔安置 江戸時代・寛永16年(1639) 東京都蔵
写真右:釈迦如来坐像 康乗作 江戸時代・寛文4年(1664) 東京・寛永寺蔵
なかでも、江戸幕府や皇室関係の造仏を担った御用仏師である七条仏師の仏像は、鎌倉風を基調とした瀟洒(しょうしゃ)な姿が特色です。
一方で、円空や木喰といった、仏像制作も行う僧侶も注目を集めています。

写真左:如来立像 円空作 群馬・光性寺旧蔵 江戸時代・17世紀 鴇田力氏寄贈
写真左:木喰自身像 木喰作 江戸時代・享和4年(1804) 吉沢政一郎氏寄贈
目黒区にある五百羅漢寺には、松雲元慶(しょううんげんけい)という黄檗宗の僧侶がひとりで造りあげたとされる羅漢の群像が安置されており、今でも300体以上の羅漢が伝わっています。

羅漢坐像 松雲元慶作 江戸時代・元禄8年(1695) 東京・五百羅漢寺蔵
顔立ちや体つきは異国風で、七条仏師の仏像と比べるとさまざまな違いがあるので、ぜひ展示室で見比べてください。
こうして盛んに仏像が造られていた江戸時代ですが、明治になって大きな変化を迎えることになりました。それは明治元年の神仏判然令(神仏分離令)を皮切りに、数年続くことになる廃仏毀釈と呼ばれる仏教排斥運動です。江戸時代までは、神仏習合の言葉に象徴されるように、神道と仏教は融合しながら共存してきました。ところが、明治天皇を中心とした神道国家の樹立をもくろんだ明治政府の出した法令により、神道と仏教の分離が強制されたばかりか、これまで幕府によって庇護されてきた仏教が批判の対象となったのです。

唐招提寺の破損仏

興福寺の破損仏
これにより、寺院領地の没収、僧侶の僧籍はく奪はもちろん、寺院の廃絶や仏像、経典類の破却が相次ぎました。こうした日本文化の破壊ともいえる状況を心配した政府は、すぐに古器旧物保存方と呼ばれる、文化財保護の法令を出すとともに、博物館や美術学校を設置し、美術行政に舵を切っていったのです。しかし、当時すでに仏像を造る仕事が激減していた仏師たちは、転職か廃業を余儀なくされていました。
そのひとりが高村光雲です。今日では彫刻家として名高い光雲ですが、もともと仏師として生計を立てていました。光雲の師匠の、そのまた師匠は、幕末の四巨匠と呼ばれた高橋鳳雲です。ちなみに、鳳雲の弟宝山の作品も当館で所蔵しています。

写真左:蝦蟇仙人像 高橋宝山作 江戸時代・19世紀 ガマガエルを手なづける、蝦蟇仙人を生き生きと表しています。
写真右:重要文化財 老猿 高村光雲作 明治26年(1893) シカゴ・コロンブス世界博覧会事務局 ※2018年9月9日(日)まで本館18室にて展示
当時、金属製品の原型制作や象牙彫刻に転身していく同業者が多いなか、かたくなに木彫にこだわって仕事を続けていた光雲は、東京美術学校の幹事をしていた岡倉天心に見出され、木彫科の教授として招かれます。その代表作、米国・シカゴ万博に出品された「老猿」を見ると、その巨大さと写実的に表された屈強な猿の力強さに圧倒されますが、台座ごと彫り出され、大胆に身をよじったところなど、意外と共通点もあります。
そんな光雲は多くの弟子や学生に恵まれましたが、天心は彼らに彫刻作品の模造を命じます。それはなぜでしょうか。

写真左:執金剛神立像(模造) 竹内久一作、原品=東大寺法華堂蔵 明治24年(1891)、原品=奈良時代・8世紀 ※ 現在展示しておりません
写真右:月光菩薩立像(模造) 竹内久一作、原品=東大寺法華堂蔵 明治24年(1891)、原品=奈良時代・8世紀 ※ 現在展示しておりません
理由のひとつに、開設されたばかりの博物館(当時のトーハク)には、まだまだ展示作品が少なく、おまけに当時はまだ奈良や京都などに集中する名品を自由に見られる環境が整っていなかったため、その代替であったことが挙げられます。

旧本館の彫刻展示室
旧本館の彫刻展示室
もうひとつの理由として、過去の名品を模造することで、その古典学習や技術習得が期待されたのです。彫刻を学んだ学生たちにとって、仏像は生計をたてるために造るものというだけでなく、新たな創造のインスピレーションの源ともなったのでした。
龍頭観音像 佐藤朝山作 昭和時代・20世紀 山田徳蔵氏寄贈
法隆寺の国宝 救世観音菩薩立像(飛鳥時代・7世紀)に魅せられ、終生その形を反復して再現した佐藤朝山(ちょうざん)の龍頭観音像を見ると、華麗な彩色と優雅な雲龍の表現に、近代彫刻としても命脈を保った仏像のもうひとつの姿を見ることができるでしょう。
もちろん、当時も、そして今日に至るまで職業としての仏師はなくなっていませんし、いうまでもなく仏像は信仰の対象であり続けています。しかし、明治維新という大きな変化を経験したことで、仏像は近代的な美意識のもと美術鑑賞の対象ともなり、文化財としての意義も認められるようになりました。
ぜひ本特集展示をとおして、こうした彫刻史の1ページをご体感いただければ幸いです。
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posted by 西木政統(貸与特別観覧室研究員) at 2018年07月20日 (金)
特集「明治150年記念 書と絵が語る明治」 第1部 明治の人と書
小学校の社会科でとりあげられる明治時代の人物をごぞんじでしょうか。
勝海舟、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、明治天皇、福沢諭吉、大隈重信、板垣退助、伊藤博文、陸奥宗光、東郷平八郎、小村寿太郎、野口英世に、明治時代ではありませんが、近代へのきっかけを作った人物としてアメリカの海軍軍人ペリーをあわせて14人について、多くの小学校6年生が学習しています。
今回の特集「書と絵が語る明治」(2018年7月10日(火)~9月2日(日))では、このうち下線を引いた5人の筆跡を本館 特別1室で展示しています。

勝海舟は、江戸幕府の旗本の家に生まれ、青年時代にオランダ語(蘭学)を学んだことから幕府の中で頭角を現し、西洋式の海軍を創設しました。戊辰戦争では敗色濃厚な幕府の代表者として、江戸に迫る新政府軍との交渉にのぞみました。展示している詩は、その折の心のうちを詠んだもので、危機に対応できない幕府の役人に対する怒りと時代の流れにはさからえないというあきらめの気持ちがあらわれています。
この時、新政府軍を代表して勝と話し合い、江戸の開城を導いたのが西郷隆盛であることは、よく知られています。西郷は薩摩藩の下級藩士の家に生まれました。開明的な藩主島津斉彬に仕えて、当時の世界情勢に目を開かれますが、斉彬が死去した後に藩の実権を握った島津久光に憎まれて、二度にわたり流刑の目にあいます。この時期の苦労も影響したのでしょう、体面を飾らず、私心のない西郷の人柄に心服する者は多く、後に西南戦争で敵味方となった政府軍の軍歌「抜刀隊」でさえ「我は官軍、我が敵は天地容れざる朝敵ぞ 敵の大将たる者は古今無双の英雄で」と歌うほどでした。
「敬天愛人」は西郷の思想を表わす言葉として有名で、西郷自身の筆跡もいくつか残されています。今回の展示品は昭和14年(1939)に西郷の甥(隆盛の弟従道の次男)である侯爵西郷従徳氏から東京帝室博物館に寄贈されたものです。

額字「敬天愛人」 西郷隆盛筆 明治時代・19世紀 西郷従徳氏寄贈
大久保利通は西郷より2歳年下ですが、鹿児島城下のとても近い場所で生まれました。幕末には西郷とは逆に、島津久光の下で京都や江戸の政治に関わり、新政府を立ち上げるのに大きな役割を果たしました。維新後は常に政権の中心にあって、出発したばかりの近代国家日本が当時の世界の中で生き延びてゆくための外交と、国を豊かにするための産業の振興に力を注ぎました。
展示している漢詩は、明治7年(1874)に起こった台湾での琉球人殺害事件とその後の日本から台湾への出兵をめぐる外交交渉で清国に派遣された大久保が、交渉が妥結した後に詠んだもので、中国製の紙に書かれています。新国家を興そうとして十年、隣国との友好と内政の安定を願う気持ちが述べられています。

七言絶句 大久保利通筆 江戸~明治時代・19世紀 馬嶌瑞園氏寄贈

明治4年冬、右大臣岩倉具視を正使(団長)とする外交使節団が横浜を出発してアメリカに向かいました。この時の副使として大久保、木戸孝允、伊藤博文が同行していました。全部で100名以上が参加したこの使節団は米国とヨーロッパ各国を巡り、最新の近代文明に大きな衝撃を受けて明治6年に帰国しました。
この時のメンバーたちの経験は、その後の日本の政治や経済、文化などに大きな影響を与え、後に「岩倉使節団」と呼ばれました。
蒸気船のスケッチが珍しい2枚の書。上は木戸孝允(桂小五郎)が、下は木戸と同郷の官僚で書家としても知られた杉孫七郎(聴雨)が書いたものです。木戸の漢詩は岩倉使節団の帰国の際、郷里の「馬関山」(関門海峡)を望んだ際に詠んだ作で、「火輪は矢の如く波を截りて還る」(蒸気船は矢のように波を切り裂いて国に帰ってきた)という一句が新しい時代を示しています。
伊藤博文は西郷、大久保、木戸といった第一世代の政治家たちが世を去った後、長い期間にわたって政府を支えました。伊藤は「春畝」という優雅な号を持ち、漢詩や和歌も上手でした。書は少し無骨なふんいきがありますが、個性的です。
展示作品は明治30年に金沢(横浜市)にあった別邸で詠んだ詩を書いたものです。現在、横浜市野島公園の中に建物が復元されています。

七言律詩 伊藤博文筆 明治時代・19世紀
ここに紹介した作品の画像は「国立博物館所蔵品統合検索システム(ColBase)」から利用いただくことができます。特に手続きをとることなく使うことができますので、気に入った作品をSNSで拡散したり、印刷して夏休みの課題に使ったりと、ご自由に活用してください。
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posted by 田良島哲(博物館情報課長) at 2018年07月19日 (木)

夏休み恒例の親と子のギャラリー、今年はNHK Eテレ「びじゅチューン!」とのコラボレーション企画です。びじゅつが大好きなみんなのために、「トーハク×びじゅチューン! なりきり日本美術館」(2018年7月24日(火)~9月9日(日))が、この夏、トーハクに期間限定でオープンします。
「びじゅチューン!」は、アーティストの井上涼さんが世界の「びじゅつ」を歌とアニメーションで紹介する番組。自由な想像力で美術の楽しみを広げてくれます。
今回の親と子のギャラリーは、「びじゅチューン!」に取り上げられているトーハク所蔵の作品をテーマに、複製や映像を使った体験型の展示です。キーワードは「なりきり」。絵に登場する人や、絵を描いた人になりきって、びじゅつの中で遊んでみましょう。
展示の始まる7月24日まで待てない人のために、今日はその中身をひとつだけご紹介します。
みなさんご存じの葛飾北斎による「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏」。大きな波と富士山の、あの絵です。

冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏 葛飾北斎筆
舟に乗った人のサイズと比べて見ると、「この波、どれだけ大きいんだ?!」と思いませんか? 「びじゅチューン!」では、「ザパーンドプーンLOVE」という曲で、富士山に恋した波が、大きく伸びあがってアピールしています。この作品のポイントである大迫力の波を、船乗りになりきって、リアルなサイズの映像で体感してみましょう!富士山への思いをさけぶと、声のボリュームに合わせて大きな波が起こります。

「体感!ザパーンドプーン北斎」 会場イメージ
このほか、「見返りすぎてほぼドリル」の見返り美人になってみたり、「夢パフューマー麗子」の麗子になりきってみたり、楽しい企画が勢ぞろい。
本館18室の「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏」(8月19日まで展示)、「麗子微笑」を始め、「びじゅチューン!」に関連したほんものの文化財も展示されます。
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posted by 藤田千織(教育普及室長) at 2018年06月26日 (火)