このページの本文へ移動

1089ブログ

模本たちの果たした役割

本館特別1室と特別2室で「木挽町狩野家(こびきちょう かのうけ)の記録と学習」(3月21日(日)まで)がはじまりました。
この特集は、当館が所蔵する5,000件近い「木挽町狩野家伝来資料」を通じて、江戸時代の幕府の絵師たちが、なぜ多数の模写を行い、どのようにそれらを利用してきたかをご紹介するものです。

会場は以下の3つから構成されています。
  第1章「木挽町狩野家のはじまりと奥絵師の御用」
  第2章「鑑定と模写」
  第3章「記録から創造へ」


第1会場写真



第2会場写真

今回のブログでは、展示をご覧いただく前に、まず、この伝来資料がどのようなものなのかをご紹介したいと思います。


――「模本」「粉本」とはどんなもの

狩野派は室町時代中期から明治時代初期まで続いた、日本の絵画の最も代表的な流派の一つです。昨年の特別展「桃山」で展示していた室町時代の狩野元信、安土桃山時代の永徳、江戸時代初期の探幽などの名をご記憶の方も多いのではないでしょうか。

今回ご紹介している伝来資料は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した木挽町狩野家が大切に保管していた「模本(もほん)」や「粉本(ふんぽん)」と呼ばれるもので、主に5つの種類があります。

(1)目にした出来事を記録したもの。スケッチ。
(2)完成画(本画)の前段階となる下絵や草稿。
(3)本画の代替品としてつくられた複製画。レプリカ。
(4)後日の参考資料として、本画を写した控え。模写や縮小コピー(縮図)。
(5)学習や練習の結果、量産されたもの。稽古描き。


(1)スケッチは思いついたときに描きとめることが多く、後日、画帖や巻子に貼られて保管されました。
雑画帖 第一帖(部分) 狩野〈伊川院〉栄信、狩野〈晴川院〉養信筆 江戸時代・18~19世紀



(2)本画の前の下絵。幕府に制作を命じられた屛風の下絵です。
長篠合戦図屏風下絵 狩野〈養川院〉惟信、狩野〈伊川院〉栄信筆 江戸時代・18~19世紀 狩野謙柄氏寄贈



(3)本画の代替品としてつくられた複製画。徳川吉宗が狩野古信に命じて3セット描かせ、1つは狩野家の控えとして、残る2つは幕府と所蔵者である毛利家にそれぞれ収められました。
四季山水図巻(山水長巻)(模本、部分) 狩野〈栄川〉古信模写 江戸時代・享保10年(1725)
原本=雪舟等楊筆 室町時代・文明18年(1486)
※展示期間:2021年2月28日(日)まで



(4)古画や名画を後学のために写したもので、原本の筆者や所蔵者についてのメモを記されています。
羅漢図(模本) 竹澤惟房模写 江戸時代・安永10年(1781) 原本=伝禅月筆 元時代・14世紀



(5)狩野〈晴川院〉養信が10歳(現在の9歳)に描いた稽古描き。
魚籃観音図(模本)(部分) 狩野〈晴川院〉養信模写 原本=狩野探幽筆 江戸時代・文化2年(1805)



中でも特に多いのは古画・名画を写した(4)です。このような模本は狩野派だけでなく、土佐派や住吉派、円山派など、他の流派もそれぞれ作成し、大切に保管していました。
木挽町狩野家の場合、持ち出しを厳しくチェックし、定期的に修理を施すなど、厳重に管理していたことが知られています。


―― なぜ模本が大切にされたのか

現代の私たちからみると、模本はコピーやニセモノといったような、マイナスな印象が強いかもしれません。
けれども、「写す」という行為は、創造を生み出すための原点で、今でも美術制作の基礎中の基礎と考えられています。それは室町時代から江戸時代にかけて画壇を席捲した狩野派の画家たちにとっても同じことです。

そしてそれ以上に、作画上、絶対に模本が必要な理由がありました。それは江戸時代、彼らに期待された絵画がどのようなものだったかに関係します。

当時、絵の主な発注者である将軍や大名は、先例、特に吉例を何よりも重んじていたため、まず先例に準じた絵を描くことが求められました。加えて贈答用の絵画は、相手の格によって画題や、素材の種類、量までも決められていたため、絵師自身のオリジナリティを発揮できる部分は非常に限られていたのです。

このような状況下ですと必然的に、先例、すなわち過去の古画や名画の情報を持たない絵師は御用を務めることが出来ません。逆にいえば、これらをより多く保有している家がより有利になったのです。

そのため、どの家も積極的に鑑定を引き受け、模写する機会を増やし、それをまた次の制作に活かす、というサイクルを作り出しました。また模写の際、古画や名画に対する感想や、当時の所蔵者情報なども記録するようになります。
各家の模本類は、このようにして集められた膨大な絵画情報の集積なのです。

木挽町狩野家は、江戸時代の狩野派の中でも中心的な役割を担い、将軍のお抱え絵師として全国に多大な影響力を持っていました。彼らの手元には全国の大大名からあらゆる古画や名画が寄せられ、大変な数の鑑定をこなしていたことが知られています。
この伝来資料を読み解くことで、江戸時代の絵画制作だけでなく、現在私たちが鑑賞している中世以前の絵画についても多くのことが明らかになると期待されています。


次回は、木挽町狩野家が務めた「奥絵師(おくえし)」という立場と仕事についてご紹介したいと思います。

 

カテゴリ:特集・特別公開

| 記事URL |

posted by 金井裕子(平常展調整室) at 2021年02月16日 (火)

 

1