竹内栖鳳(1864 - 1942)は、「東の大観(横山大観)、西の栖鳳」と並び称されたほど日本の近代日本画において、大きな足跡を残した画家のひとりです。
その栖鳳は、日本絵画の革新をめざして日本の諸流派の技法だけでなく、西洋画も学びました。栖鳳の大きなテーマは大気や空気といったものを描くことでした。
大気や空気を描くことは、岡倉天心の指導の下、横山大観や菱田春草らが、19世紀のフランスを中心にした屋外で太陽光に照らされた風景画を描こうとした画家たち―「外光派」を学び、伝統的な技法である線描ではなく、色の濃淡や明暗、ぼかしによって表現しようとしたこととも軌を一にします(実際には栖鳳は、大観の表現を批判していましたが)。
重要文化財 瀟湘八景のうち瀟湘夜雨
横山大観筆 大正元年(1912) 東京国立博物館蔵
夜の湿った空気があらわされている。
2012年8月7日(火) ~ 9月17日(月・祝)、本館18室にて展示中
明治33年(1900)、明治政府によってヨーロッパへ派遣された栖鳳は、外光派のラファエル・コランに出会い、
憧れのコローやターナーの風景画をみて大気の表現を学びます。
つまり、栖鳳は大観や春草らと同じく線描を主体とせず、
墨の濃淡で大気や空気を描く方法を西洋画から日本の絵画へ応用しようとしたわけです。
羅馬古城図 竹内栖鳳筆 (作品画像はリンク先のページでご覧ください)
1901年 京都国立近代美術館蔵
画面全体で大気をあらわす。
No.25 高剣父の「漁港雨色」(1935年)は、東洋絵画の伝統的な線描ではなく、
色彩の濃淡によって大気をあらわした絵です。
高剣父は日本に留学し、白馬会や太平洋画会といった団体で洋画を学び、
さらに京都で竹内栖鳳や山元春挙といった画家の表現を手本としています。
漁港雨色 高剣父筆 1935年 中国美術館蔵
竹内栖鳳と高剣父は、西洋技術を取り込むことによって、伝統絵画を革新しようとしました。
その表現は、先んじて「近代国家」となった日本の画家と、日本の絵画に学んだ新生中国の画家の双方が、
西洋先進国と肩を並べようと、造形の世界のなかで主張しようとした強い思いを感じるものがあります。
彼らのような画家たちが奮闘した成果のひとつが、日中両国の当代の作品を紹介する1921年から1929年まで
5回にわたって中国と東京で交互に開催された「日華(中日)聨合美術展覧会」で結実します。
この展覧会が契機になって斉白石(No.4~7)は、フランス人の目にとまり、世界的に有名になりました。
この時代の日中両国の画家たちは、視線の先に同じ光明をみつめていたのでしょう。
しかし彼らの思惑を超え、 時代は戦火を止めることはできず、画家たちの輝かしい軌跡が人々の目から一旦遠ざけられることになります。
そして長い長い時間を経ることで、この展覧会が開催されることとなりました。
画家たちの理念や理想を、 いま一度想い起こすことができるまたとない機会といえるでしょう。
カテゴリ:研究員のイチオシ、2012年度の特別展
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posted by 松嶋雅人(特別展室長) at 2012年08月08日 (水)
書を見るのは楽しいです。
より多くのみなさんに書を見る楽しさを知ってもらいたい、という願いを込めて、この「書を楽しむ」シリーズ、第19回です。
いま、特別展「青山杉雨の眼と書」を開催中です!
青山杉雨(あおやまさんう)、
昭和から平成にかけて書家として活躍、中国書法の普及にも功績のある方です。
「相変」(左)、「黒白」(右)
黒白相変 青山杉雨筆 昭和63年(1988) 東京国立博物館蔵
右上の文字は、ポスターやチラシ、図録の表紙に使われています。
見たことがありませんか?
でも!
読めますか?
私は、読めませんでした…。
右から「黒白相変」(こくびゃくそうへん)と読むそうです。
そして、筆順(書き順)がわかりません…。
勝手に予想してみました。
黒白(杉雨の書)、黒白(恵美の予想)
相変(杉雨の書)、相変(恵美の予想)
これは、篆書(てんしょ)という書体です。
中国で紀元前から使用されてきた古い書体で、
日本でも印鑑の文字などに見られるものです。
篆書も、ちゃんと筆順が決まっているそうです。
正しい筆順を、青山杉雨門下の高木聖雨(たかきせいう)先生に教えていただきました!
(高木先生、ありがとうございました!)
黒白(杉雨の書)、黒白(正しい筆順)
相変(杉雨の書)、相変(正しい筆順)
私の予想は、ずいぶん間違っていました。
大きな間違いは、
まるく書いているように見える部分です。
じつは、一筆のまるではなく、何筆かにわけて書かれているのです。
たしかに、「黒」の字をよ~く見ると、
まるい部分がデコボコしています。
むずかしい。
でも、筆順を考えるのは楽しかったです!
それと、「黒」の字は、人間のようにも見えませんか?
筆順を考えたり、絵のように想像して眺めたり、
篆書もじっくり見てみてください。
カテゴリ:研究員のイチオシ、書跡、2012年度の特別展
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posted by 恵美千鶴子(書跡・歴史室) at 2012年08月06日 (月)
「青山杉雨の眼と書」の楽しみ方2─青山杉雨の素顔~書斎にまつわるエトセトラ~
『青山杉雨の眼と書』の展覧会では、準備の段階から関わることになり、青山家のみなさんと交流を持つ機会に恵まれました。インタビューなど、あらたまった席でお話をお聞きすると、お互い構えてしまうのですが、一緒にお食事をした時や、打ち合わせのために出張した時など、ご家族の方々がさらりと何気なくお話されるときに青山杉雨のエピソードが出ることが多く、その都度、ノートにメモをしていました。
今回の図録には、インタビューでのお話を掲載していますが、このブログでは、インタビュー以外の「青山杉雨の素顔~書斎にまつわるエトセトラ~」を書いてみたいと思います。
青山杉雨は読書量が非常に多く、亡くなるまで本当によく読んでいたそうです。特に、書斎にある薄くて黄色い本の『唐詩選』などは読みこんだ跡があり、鉛筆でたくさんの書き込みがあるといいます。もちろん、他の本にもあちこちに書き込みがあるそうで、あの書斎には、青山杉雨の鉛筆による肉筆がいたるところに残されているのです。
書斎の本棚
お弟子さんの指導には、とても厳しかったそうですが、指導が終わると、素の青山杉雨になるそうです。書道のことを抜きにして、書斎と隣接するお稽古場の広いところでみんな車座になって、自分も腰掛けて、社会学など雑談をしていました。お稽古中、怒られてシュンとしていた人たちも、それをやるとみんなニコニコしながらお茶飲んでお菓子食べて、青山杉雨も、お稽古の後のそれをとても楽しんでいたといいます。甘いものが大好きな青山杉雨、お菓子が出てこないと、「おーい、おかあちゃん。今日はお菓子が少ないな」と、お稽古場から大声で叫んでいたそうです。ご令室のトク様は、「”おかあちゃん”と言われると、近所に聞こえるから恥ずかしかった」とおっしゃっていました。ちなみに、青山杉雨は最初、トク様のことをお名前で呼んでいましたが、そのうち「おーい」となり、子供が生まれてからは「おかあちゃん」と呼ぶことが多かったそうです。
お弟子さんたちには、あの書斎で遅くまで『書道グラフ』のお手伝いをしてもらったりして、仕事やお稽古ではとても厳しかったけれど、お弟子さんたちをとてもかわいがり、よく面倒をみていたといいます。
お稽古場の青山杉雨
お稽古の時間になると、お孫さんの郁子さんは、小さい頃によくお稽古場の机の下にもぐって、そこから、ぶら下げられたお弟子さんの作品を青山杉雨と一緒に眺めていました。みんな、あんなに上手に字を書いているのに、いつも怒っていて、一人も褒めない。「おじいちゃまって、どうしてあんなに怒りんぼなの?」と、祖母のトク様やご両親によく言っていたそうです。
ご家族が、書斎の思い出で一番印象に残っているのは、青山杉雨が亡くなる前の正月に、入院先から最後に家へ帰ってきた時のことだといいます。車椅子で部屋中を案内してほしいとご子息の慶示さんに頼むと、家の中をゆっくりまわり、最後に、一番奥の小さな書斎でずーっと一点を見つめたまま、しばらくいたのだそうです。「父は、これが見納めだと思って見てるのかな…と」。
青山杉雨がいつも座っていた場所からみた書斎
書くことが本当に好きだった青山杉雨。今回復元した書斎には、青山杉雨のいろんな素顔と思い出が、ぎっしりとつまっています。
ユリノキひろばではエッセイを募集しています。「青山杉雨の眼と書」の感想をお寄せください。
カテゴリ:2012年度の特別展
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posted by 鍋島稲子(台東区立書道博物館) at 2012年08月04日 (土)
中国山水画の20世紀ブログ 第3回-中国近現代絵画の「選択的受容」
台湾大学芸術史研究所に留学していたころ、ある台湾の老先生が
「若い頃はよく『真美大観』で勉強したもんだ」と言って、驚いたことがあります。
『真美大観』は日本で明治32年(1899)にその第一冊が出版され、以後10年をかけて20冊が刊行された、
アジアの美術全集としては最も早い出版物の一つです。
『故宮名画三百種』(1948)をはじめ、1950年代以降の大陸や台湾で続々と美術出版が行われる以前、
日本の美術出版は、中国文化を理解しようとする人たちにとって、重要な役割を果たしていました。
その一つの例が陳少梅「秋江雨渡図」(1941)です。
秋江雨渡図(左) 陳少梅筆 1941 中国美術館蔵 (中国山水画の20世紀にて展示中)
風雨渡水図(中) 呉亦仙筆 明時代 (『真美大観』(右) 12巻 審美書院 1904)
精緻な筆使いからは、画家のたゆまぬ努力の跡がうかがわれます。
この作品は、『真美大観』所載の呉亦仙「風雨渡水図」(桑名鉄城蔵〔当時〕)を写しています。
陳少梅はそのほかにも梁楷「六祖截竹図」(東京国立博物館蔵〔現在〕)も写していますが、
陳少梅は来日したことがないため、これらも『唐宋元明名画大観』(昭和4年(1929)刊)など、
当時の日本の出版物から写したものでしょう。
重要文化財 六祖裁竹図(右) 梁楷筆 南宋時代・13世紀 東京国立博物館蔵 (展示予定は未定)
当時故宮文物はすでに四川地方に南遷し、北京に古画はほとんど残っていませんでしたが、
日本からの美術出版物がこの画家の渇望を満たしたのです。
これより以前、金城が来日したおりも、東京でたくさんの美術書を買い求めた記録が残っています。
これら日本の最新の美術出版物は、陳少梅も参加した北京の中国画学研究会において披露されていたに違いありません。
陳少梅(1909-1954)と金城(1878-1926)
15歳の陳少梅は46歳の金城が会長をつとめる中国画学研究会に入門し、研鑽を重ねました。
しかし、陳少梅が日本所蔵の宋元画を多く臨模したことには、より積極的な陳少梅の意志を感じることができます。
『真美大観』には中国と日本の絵画が混在して所載されていますが、
陳少梅は当然眼にしたであろう日本の伝統絵画の図版にはほとんど関心がないようなのです。
中国では古来、日本にはより古い中国文化が保存されていると思われていました。
画家たちはより古い中国の文化を追求するために、日本の美術出版物を必死に見つめ、写したのでしょう。
古画の臨模は画家の創作の源だったからです。
会場では陳少梅作品と彼が見たはずの『真美大観』が並べて展示してあります。
日本人が、日本美術史における中国美術との関係を語る際、よく「選択的受容」という言葉を使います。
それは日本美術が中国美術と接した際、決して中国美術をそのまま受容したのではなく、
日本国にないもの、日本のテイストをもとに、必要なものだけを「選択」して「受容」した、と言う意味です。
とかく、日本から中国への「影響」ばかりが強調されがちですが、中国でも同様の
中国の「選択的受容」がなされていたと言えそうです。
このような中国近代美術の重要な特色を、本作品は物語ってくれています。
カテゴリ:研究員のイチオシ、2012年度の特別展
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posted by 塚本麿充(東洋室) at 2012年08月03日 (金)
みなさんこんにちは!ユリノキちゃんです。さっそくですが、緊急ニュースを発表します!
なんだほ?早く教えてほしいほー。
特別展「青山杉雨の眼と書」の開催を記念して
8月13日(月)、14日(火)にワークショップ「親子書道教室」、
8月16日(木)には書のデモンストレーションを行うことになりました!
ワークショップ「親子書道教室」は、うちわに文字を書いてオリジナルうちわを作ります。
書家の先生が教えてくださるし、本番の前に半紙で練習するから、とても素敵なものができると思うの。
お道具は会場で準備しているので、持っていなくても大丈夫。
完成したうちわと書道道具の一式は、お土産としておうちに持ちかえることができるのよ!
各日20組限定、申込締切は8月7日(火)なので、早めにチェックしてね!
書のデモンストレーションは、当日、どなたでも、参加できるのよ。
8月16日(木)14時に、特別展「青山杉雨の眼と書」を開催中の平成館の1階、ラウンジに来てね。
ゲストとして囲碁棋士(二十四世本因坊秀芳(石田芳夫9段)、小川誠子6段)もいらっしゃるの。
作品をじっくり見るのも好きだけど、作品が誕生する瞬間が見られるなんて感激!
しかも完成した書は、イベントにご参加いただいた方へのプレゼントにされるんですって。私も欲しいなぁ・・・
ほー!プレゼントいっぱいだほ。
ね、みなさんにいち早くお知らせすべき重大ニュースでしょう?
ユリノキちゃんは、書道が特技だから、とっても楽しそうだほ。
もちろん!私みたいに「書道が大好き」っていう人はもちろん、
もっとたくさんの人に、新しく書の魅力を知ってもらえるとうれしいな。
夏休みの自由研究にもぴったりね!
ぜひ、特別展「青山杉雨の眼と書」の展示と一緒にお楽しみくださいね。
待ってるほー!
カテゴリ:news、2012年度の特別展
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posted by ユリノキちゃん&トーハクくん at 2012年08月02日 (木)