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1089ブログ

イスラーム王朝が奨励した学問

イスラーム王朝が、世界史の中で果たした役割とは何でしょう?
答えの一つは、古代の学問を継承し発展させたことです。

私たちが普段使っている数字はアラビア数字で、科学や数学に関する言葉に、アラビア語起源の単語が含まれていることが知られています。
アルカリ、アルコール、ケミストリー、ガーゼ、ゼロ、アルゴリズム、アベレージ・・・などなど。
子供のころに読んだ星座図鑑では、星座がギリシャ神話とともに紹介されていましたが、実は、一般的な星の名前の大半はギリシャ語ではなく、アラビア語に由来するのだそうです。
例えば、今夜晴れていれば見える夏の大三角を作る1等星、ベガ、アルタイル、デネブはアラビア語です。

このような事例は、中世のイスラーム王朝が奨励した学問、特に天文学や数学、医学などが、
現代社会を形づくる科学文明の基層となった歴史を物語っています。

↑というような、文明史的な浪漫?もお楽しみいただきたく、本展を企画するにあたって、中世イスラームの学問に関する資料も出品していただいています!!

*以下、作品はすべてマレーシア・イスラーム美術館蔵

天文学に関する資料2点と、
左:天文学書(No.6), 右:天体観測儀(No. 141)
左:天文学書(No.6), 右:天体観測儀(No. 141)
*天体観測儀については本記事の後半で詳しくふれます。

医学に関する資料2点です。
左:『マンスール解剖書』写本(No.99), 右:解剖学用人形(No. 100)
左:『マンスール解剖書』写本(No.99), 右:解剖学用人形(No. 100)

今回は、イスラーム天文学について少し掘り下げましょう。
人類は大昔から、生活上の必要性から、天体に関する実用的な知識を備えていたと考えられますが、文明の発達とともに、高度な占星術/天文学になっていきました。
前5世紀のバビロニア(今のイラク)では、太陽の軌道を示す「黄道十二宮」が考案され、
前3世紀以降には、計算によって月食を予測するまでになりました。
西アジアの天文学はギリシャ世界に受け継がれ、当時の学問の中心地であったエジプトのアレキサンドリアで発展していきます。
アレキサンドリアで活躍した学者の1人、プトレマイオスが記した天文書『アルマゲスト』は、 古代ギリシャ天文学の到達点と位置づけられています。

ところが、古代ギリシャの高度な学問は、5世紀以降、すっかり廃れてしまいました。
西ローマ帝国が滅亡し、東ローマ帝国でも国教となったキリスト教が重視されたためです。
そして、存続の危機にあった古代の英知を積極的に吸収し、学問として発展させたのが各地のイスラーム王朝だったのです。
特に、アッバース朝による9世紀の翻訳事業がよく知られています。
首都バグダードでは、あまたのギリシャ語文献がアラビア語に翻訳され、様々な分野の学者が古代の学問を洗練させていきました。
ペルシャ人の占星術師アブー・マーシャルもその一人で、プトレマイオスの『アルマゲスト』を翻訳しました。
アラビア語の写本として残された『アルマゲスト』は天文学の基本書であり続け、16世紀に登場するコペルニクスの地動説の基礎資料にもなっています。

展示中の写本には、アブー・マーシャルによる天体観測儀に関する論考を要約した記事が収録されており、その部分を「天文学書」として紹介しています。
解剖学用人形(No. 100)

他のページをめくってみると、秤の平衡や三角法を解説している(ペルシャ語が読めない筆者にはそのように見える)記事もあり、実用的な科学的知識をまとめた便利な写本であったようです。

 

さて、天体観測儀は「アストロラーベ」とも呼ばれ、古代ギリシャで考案され、イスラーム世界で改良が重ねられた機械です。
イベリア半島では航海用に改良したアストロラーベも作られ、大航海時代の船乗りたちが手にしました。
表面
表面
裏面
裏面

アストロラーベはいくつもの部品を組み合わせて使う複雑な構造。
まず、外周に沿って360度の目盛が刻まれた円盤が本体です。
その上に、ある緯度における地平座標、方角、天頂、天の赤道などを示す線が刻まれたプレートを重ねます。
このプレートは、観測する場所に適したものに交換して使いました。
次に、リートと呼ばれる透かし彫りのような部品が取りつきます。
リートには、黄道(太陽の軌道)を示す円があり、その周囲に配される唐草文様の先端の鉤のような部分が、それぞれ特定の星の位置を示します。
手前には、アリダードと呼ばれる、時計の針のような目盛つきの部品が取りつけられています。
このアリダードの両側に、天体などを視準するための小さな穴があります。
背面も重要でした。
外周に沿って角度の目盛が刻まれ、その内側には、太陽高度を示す曲線、三角法の計算に使う方眼、影の長さから物体の高さ算出するシャドウスクエアなど、便利な目盛がたくさん刻まれています。

アストロラーベの主な用途は、
・天体の高度を図る、それによって緯度を算出する
・時刻を算出する
・地上の目標物の高さを三角測量で測る
・特定の日時における天体の位置を求める
などなど。
日常生活でも、砂漠でも、洋上でも、使い方次第で、様々な目的に応えてくれる実用的な機械でした。

写真:展示作業中に思わず北極星を観測する(妄想をする)学芸員
写真:展示作業中に思わず北極星を観測する(妄想をする)学芸員

分厚い真鍮でできているアストロラーベ。このように手にしてみると、ずっしりした重量です。
上部の輪を指などに吊るして使うので、多少の風があっても、本体の重量によって、垂直な状態を維持できました。

アストロラーベがイスラーム世界で発展した背景には、イスラーム特有のライフスタイルがありました。
例えば、イスラーム教徒は1日5回、礼拝します。
写真:展示室では、モスクと礼拝についてもスライドで紹介しています。
写真:展示室では、モスクと礼拝についてもスライドで紹介しています。

礼拝の時間になると、モスクから礼拝を呼びかけるアッザーンが聞こえてきますが、付近にモスクがない旅先ではどうでしょう?
そうです、アストロラーベがあれば、礼拝の時間も、マッカ(メッカ)の方向も知ることができます。

ラマダーン月のエジプトのカイロ市内

この写真はラマダーン月のエジプトのカイロ市内で撮った写真です。
ラマダーン中は、イスラーム教徒は特殊な事情がない限り、日中の飲食を控えます。
人々はテーブルに並ぶ夕食を前にしながら、今か今かと日没を知らせる空砲の合図を待っています。
このように、日の出や日没の時刻を知ることも、イスラーム世界での生活に必要だったと考えられます。
アストロラーベは、今でいうGPS付腕時計のようなもので、イスラーム世界で重宝したアイテムだったのです。

専門的な占星術から日常生活まで、様々な場面で用いられたアストロラーベ。
そこには、イスラーム王朝が古代ギリシャから受け継いだ天文学が凝縮されています。
天文学は天体の動きと位置を計算する高度な幾何学、数学とセットでもありました。
イスラーム王朝が奨励したこのような学問は、時を経て、私たちがその恩恵を享受している現在の科学文明へとつながっているのです。

 

マレーシア・イスラーム美術館精選 特別企画 「イスラーム王朝とムスリムの世界」

東洋館 12室・13室
2021年7月6日(火)~2022年2月20日(日)

展覧会詳細情報

「イスラーム王朝とムスリムの世界」バナー

カテゴリ:特別企画

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posted by 小野塚拓造(平常展調整室) at 2021年08月30日 (月)

 

三輪山信仰のはじまり

特別展「国宝 聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」は、いよいよ会期の終盤に入ってまいりました。
このブログでは三輪山信仰についてご紹介します。

三輪山は大神神社のご神体であり、円錐形の流麗な山容が印象的な山です。
三輪山のように信仰の対象となっている山を「神奈備(かんなび)山」と呼び、日本各地で三輪山のように整った形の山が多くその対象となっています。
私も4年前まで三輪山がある桜井市のお隣、橿原市に住んでいたころによく三輪山の姿を眺め、末広がりに緩やかな弧を描く山の稜線に魅了されました。


北側から見た三輪山

三輪山の山中に点在しているのが「磐座(いわくら)」と呼ばれる大きな岩々。本展覧会で紹介している山ノ神遺跡も数ある磐座のひとつです。
磐座は古くは大きな岩そのものが信仰の対象となったり、あるいは神が降り立つ場所として神聖視された代表的な祭祀遺跡の一つです。
神奈備山には現在神社がある場合が多いですが、祭祀遺跡がみつかることも多くあります。古くからの信仰の場である祭祀遺跡を下敷きにして、神を祀る場として神社が整備されていったのでしょう。
山ノ神遺跡のほかにも三輪山周辺には多くの祭祀遺跡があり、本展覧会では勾玉をはじめとする遺物を紹介しています。


山ノ神遺跡出土品 奈良県桜井市山ノ神遺跡出土  古墳時代・5~6 世紀  東京国立博物館蔵
「大岩の下」から出土したと伝わり、磐座での祭祀に用いられたものと考えられています。

山や大きな岩などの自然物に対する信仰は、あらゆるものに霊魂が宿るとする考え方〈アニミズム〉に根差した原初的な信仰のあり方です。
こうした考えは現在にも受け継がれ、「八百万(やおよろず)の神」という言葉を多くの方が耳にしたことがあるでしょう。
三輪山自体がご神体となっている大神神社は、そうした古来の信仰の在り方を今に受け継ぐ存在なのです。

そして三輪山が特に崇敬を集めた背景には古代の王権、国家との関わりがあるとみられます。
三輪山の周辺には、祭祀に関わる多くの遺物や遺構が見つかっている纒向(まきむく)遺跡や最古の大型前方後円墳である箸墓(はしはか)古墳といった、初期のヤマト王権を語るうえで欠かせない遺跡が存在しています。
三輪山でみつかる考古遺物にはおおよそこれらの遺跡と時期が重なるものまでがみられますが、いっぽうで三輪山の正面である西側を避けるように同時期の遺跡が分布することからも、初期のヤマト王権が三輪山の存在を意識していたとみる考えがなされています。


纒向遺跡の建物跡と三輪山(中央左寄り)


箸墓古墳と三輪山

大神神社の祭神である大物主神(おおものぬしのかみ)は神話や歴史書で疫病と関わる記載があり、古代の王権や国家との関わりを持つエピソードも語り継がれています。
日本書紀では崇神天皇の治世に疫病が流行した際、天皇の夢枕に大物主神が立ち自らを祀るように言い、その言葉に従ったところ疫病が収まったとされます。
また律令国家でも、祭祀を司る最高の官庁である神祇官(じんぎかん)が祀る「地祇(ちぎ)」(国土の神)の筆頭に大物主神が挙げられるなど、大神神社と国家の祭祀には深い関わりがありました。
奈良時代には称徳天皇が各地の神社に封戸(ふこ)を施入(神社に対して貢納や労役を行う人々を割り当てること)するなかで大神神社に別格の扱いを行っています。
これは疫病や凶作、兵乱など相次いだ災厄を克服しようとするなかで疫病に関わりのある大物主神を祀る大神神社を重視したものと考えられています。
このころ国家中枢で起こり始めた神仏習合のなか、大神神社の中にある大神寺(おおみわでら)(大御輪寺)に納められた十一面観音の現世利益(げんせりやく)の第一として「離諸疫病(りしょえきびょう)」があることも、大物主神への信仰と繋がるものなのです。

古代からの信仰を受け継ぐ十一面観音像。
現代を生きる私たちと同じように古代の人々が捧げた祈りに、皆様も思いをはせてみてはいかがでしょうか。

カテゴリ:2021年度の特別展

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posted by 山本 亮(考古室) at 2021年08月27日 (金)

 

再会した三輪山信仰の仏像

現在開催中の特別展「国宝 聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」では、タイトルにある十一面観音菩薩立像だけでなく、かつて一緒にまつられていた仏像も出品されています。
ブログ第5弾ではそれらの仏像を紹介していきます。

聖林寺の十一面観音菩薩立像は、三輪山をご神体とする大神神社の境内にあった、大御輪寺(だいごりんじ)という寺に江戸時代までまつられていました。明治元年(1868)の神仏分離令によって聖林寺へと移されたのですが、大御輪寺にはほかにも仏像がまつられていました。


国宝 地蔵菩薩立像 平安時代・9世紀 奈良・法隆寺蔵

現在、法隆寺にまつられる地蔵菩薩立像は、平安時代初期の一木造りの彫像の代表作です。
明治元年(1868)に十一面観音菩薩立像と一緒に大御輪寺から聖林寺へ移され、その後、明治6年(1873)に法隆寺の北室院(きたむろいん)へと移されました。大御輪寺、聖林寺、法隆寺の北室院は当時交流があったことが記録からわかるので、そういった縁によるものだったのでしょう。

さて、この像の足元にご注目ください。


地蔵菩薩立像 足元

台座の各部位のうち、蓮肉(れんにく)という部位を像と同じ木から彫り出しています。足先や衣の裾と蓮肉の材がつながっているのがおわかりになりますでしょうか。
このように両手を除いて頭頂から蓮肉までを一本の木から彫り出し、体の幅や奥行きもあるこの像は、重量感にあふれた堂々とした姿が魅力です。

衣の表現にも注目です。例えば右腕あたりの衣をご覧ください。

 
地蔵菩薩立像 右腕周辺の衣と書き起こし図

丸みのある襞(ひだ)と鋭い襞が交互に刻まれています。まるで大きい波と小さい波が連続して翻(ひるがえ)る様子であることから、翻波式衣文(ほんぱしきえもん)と呼ばれます。
翻波式衣文は平安時代前期の木彫像にみられる特徴で、当時流行した衣の襞の表現方法の一つです。この像は正面だけでなく側面や背面にもたくさんの襞が刻まれていて、見ごたえ抜群です。

次に、奈良市郊外に位置し、紅葉の名所で有名な正暦寺(しょうりゃくじ)にも大御輪寺から伝わった仏像があります。
 


(右)日光菩薩立像 平安時代・10~11世紀 奈良・正暦寺蔵
(左)月光菩薩立像 平安時代・10~11世紀 奈良・正暦寺蔵

それがこの日光菩薩立像と月光菩薩立像です。どちらも平安時代中期ごろにつくられた優品です。
日光菩薩と月光菩薩は薬師如来に付き従う仏で、正暦寺では本堂の薬師如来坐像の左右に安置されています。明治元年(1868)に正暦寺へ移されたときにはすでに日光菩薩と月光菩薩とされていたようですが、実はつくられた当時の本来の名称は分かっていません。
また現在は一対にされていますが、もとは別々につくられたと考えられています。
一見すると同じようにみえますが、両像の表現の違いはとくに顔に表われています。

 
(左)月光菩薩立像 顔、(右)日光菩薩立像 顔(上)日光菩薩立像 顔
(下)月光菩薩立像 顔

日光菩薩は瞼が広く、頬がふっくらとして丸みを帯びています。
一方、月光菩薩は鼻筋が通り、面長な顔立ちをしています。
一対の像とされ、日光菩薩・月光菩薩の名称が付けられたのは後の時代と思われますが、ふくよかな像の日光(太陽)、ほっそりした像の月光(月)という印象で、それぞれ太陽と月のイメージに合っていると言えるのではないでしょうか。
また、日光菩薩はケヤキから、月光菩薩はヒノキから彫り出しているという樹種の違いもあります。

三輪山のふもとの大御輪寺にまつられ、明治元年(1868)に離れ離れになったこれらの仏像が、本展で実に約150年ぶりに再会しています。かつての大御輪寺の様子を想像しながら、ぜひご覧ください。

カテゴリ:2021年度の特別展

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posted by 増田政史(絵画・彫刻室) at 2021年08月23日 (月)

 

三輪山信仰のみほとけとは?

開催中の特別展「国宝 聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」ブログ第4弾では国宝 十一面観音菩薩立像についてご紹介します。

聖林寺の国宝 十一面観音菩薩立像は、江戸時代までは、三輪山を御神体とする大神神社(おおみわじんじゃ)の境内にあった大御輪寺(だいごりんじ)に安置されていました。


覚 聖林寺蔵(本展では展示していません)

この文書は、聖林寺にあるものです。慶応四年すなわち明治元年(1868)に、本尊十一面観音、脇士(脇侍)地蔵菩薩像などを「御一新につき、当分拙寺(聖林寺)へ慥(たし)かに預かり置き候」と書かれています。
明治新政府の発した神仏分離令によって、神社にあった仏像や仏具など仏教的なものが排除されました。

ここに書かれた十一面観音像が、今回展示している像です。脇侍の地蔵菩薩像は明治6年に聖林寺から法隆寺に移されました。
この展覧会は、およそ150年前に離れてしまったこれらの像を同じ展示室に置いて、かつての大御輪寺の堂内の空間を再現することを意図したものです。


三輪山絵図(部分) 江戸時代・文政13年(1830) 奈良・大神神社蔵
中央上方の赤い柵で囲まれたところが拝殿があるところで左下方が現在若宮になっている旧大御輪寺です。


大御輪寺部分の拡大。三重塔は撤去されましたが、左の仏堂は現存します。

奈良時代から江戸時代まではこのように神社の境内に寺、あるいは寺の境内に神社があるのは普通でした。
詳しく話すと長くなるので簡単に言うと、仏教は多神教で、それぞれの土地の神を守護神として取り込んで、融合する性格だったというのが理由のひとつです。
日本古来の神を信仰する人々が最初は敵対しましたが、飛鳥時代から奈良時代に国家が仏教を重んじるようになって、神仏が合わせて信仰されるようになりました。

しかし、明治政府は神道を国家の宗教にしようと意図して、神と仏を分けること、寺院の財産を没収するなど寺院の勢力を削ぐ政策を実施しました。
それとともに、廃仏毀釈という仏堂、仏像や仏具などを破壊する運動が各地で巻き起こったと言います。


重要文化財 大神神社 若宮社 
瓦葺きで柱の上の組み物など仏堂の建築です。

大神神社の場合は、仏堂はそのまま若宮とされて残り、仏像は前述した2体のほか、不動明王坐像が桜井市の玄賓庵に、日光・月光菩薩像が仏具とともに奈良市の正暦寺に移されています。


国宝 十一面観音菩薩立像 奈良時代・8世紀 奈良・聖林寺蔵

そして、特に注目していただきたいのは、十一面観音像の両腕から垂れる帯状の天衣、左手に持つ花瓶と花、さらには台座、蓮弁の大半も奈良時代のものだということです。
これほどよい状態で保存されたのは、第1に大御輪寺で秘仏だった(最初に掲げた文書に秘仏とあります)こと、第2に大御輪寺から聖林寺に移される時に、丁寧に梱包されて慎重に運ばれたからでしょう。


左手に持つ水瓶
王子形と呼ばれる古い形の水瓶(法隆寺宝物館にたくさんあります)に挿し込まれた花の茎や葉は鉄線に乾漆(かんしつ:漆に木の粉などを混ぜたペースト状のもの)を付けて形を造っています。


台座 
蓮の花弁は1枚1枚作って台座に挿し込んでいいます。

そしてもう一つ、両腕から垂れる天衣(てんね:帯状の布)の末端と台座の隙間はわずかで、揺れたら折れる危険がありますが、この像はほとんど揺れません。
なぜなら、足の下から伸びる長い枘(ほぞ:足の裏につくり、台座にあけた穴に挿して倒れないようにするもの)が60センチもあり、台座の底面積も広いのでとても安定しているからです。


足の下から伸びる長い枘

現在、昭和34年に建てられた鉄筋コンクリートの観音堂の改修工事が始まっています。像が造られてから1200年以上を経ていますが、この先それ以上、人類の遺産として護り伝えて行かなければなりません。

カテゴリ:2021年度の特別展

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posted by 浅見龍介(学芸企画部長) at 2021年08月18日 (水)

 

浮世絵にみる日本のスポーツ~お江戸はスポーツざんまい~

東京2020オリンピックも無事に閉幕し、8月24日(火)からはパラリンピックが開幕します。
特別企画「スポーツ NIPPON」も、まもなく折り返し。8月17日(火)から後期展示がはじまりました。

今回は後期に展示する作品のなかから、浮世絵版画を中心にご紹介します。


特別企画「スポーツ NIPPON」展示風景

江戸の町人文化を代表する浮世絵は、美人画や役者絵のほかにも、多彩な題材を取り扱っていました。とりわけ、当時のスター力士の姿を描いた「相撲錦絵(すもうにしきえ)」は、浮世絵の主要ジャンルを形成しています。
相撲は古代から続く日本の伝統的な格闘技ですが、18世紀末には一大スポーツ興行として発展し、熱狂的な人気を集めました。人々は見物料を支払って相撲小屋に出向き、人気力士の取組みをこぞって観戦しに行ったのでした。現代にも続く、プロスポーツとしての大相撲の興行が、この時期すでに成立していたことは注目されます。勝負が「賭け」の対象となっていたことも、庶民の娯楽として人気を博した一因だったようです。
そうした相撲人気を背景に刊行されたのが、力士のブロマイドともいうべき相撲錦絵です。勝川春章(かつかわしゅんしょう)や喜多川歌麿(きたがわうたまろ)、東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)といった当代一流の浮世絵師たちが腕を競い合い、相撲人気にさらに拍車をかけたのでした。


加治ケ浜 関の戸 行司木村庄之助(かじがはま せきのと ぎょうじきむらしょうのすけ) 
勝川春章筆 江戸時代・天明4年(1784) 東京国立博物館蔵 
展示期間:8月17日(火)~9月20日(月・祝)

ちなみに今回の特別企画では、浮世絵のコーナーとは別に、相撲にちなんだ作品を紹介する「組む/相撲」という展示コーナーもあります。解説パネルには、当館のデザイン室が作成したオリジナルのピクトグラムを表示しており、互いに正面から取っ組み合う様子をシンプルかつ的確に表しています。
ほかにも、馬術や弓術、剣術を表したピクトグラムを解説パネルにつけていますので、こちらのピクトグラムにもご注目ください。


「組む/相撲」解説パネルのピクトグラム

続いてご紹介するのは、歌川広重の代表作として知られる「東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)」の1枚、「平塚 縄手道(ひらつか なわてみち)」です。
東海道沿いの53の宿場町を旅情豊かに描いた著名なシリーズですが、この絵のいったいどこがスポーツにかかわるというのでしょうか。


東海道五拾三次之内・平塚 縄手道
歌川広重筆 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 
展示期間:8月17日(火)~9月20日(月・祝)

画面には、こんもりとした高麗山(こまやま)の後ろに富士山が描かれ、前方にはジグザグに伸びるあぜ道が見えます。注目したいのは、画面中央下付近、小包を肩にのせてあぜ道を走る「飛脚(ひきゃく)」の姿です。
飛脚は、手紙や金銭、小荷物を運ぶ役目を担った人のこと。元々は、道沿いに30里(約16km)ごとに駅馬・伝馬を置く古代の交通制度に由来し、一定区間を走り継いで運送にあたりました。宿駅制度が整備された江戸時代にはとくに発展し、「継飛脚」、「大名飛脚」、「町飛脚」などが身分や用途によって使い分けられていました。
宿場間を数人でバトンタッチして走る姿は、お正月に定番のあのスポーツとよく似ています。そう、「駅伝」です。
日本で最初に開催された駅伝競走は1917年に実施された「東海道五十三次駅伝徒歩競走」で、京都から上野までの約500kmを23区間に分け、3日間にわたって行われたといいます。このとき、主催者によって付けられた名称が、古代の駅馬・伝馬の制度にちなんだ「駅伝」だったのです。
駅伝は日本発祥のリレー競技といわれ、海外でも「EKIDEN」と呼ばれています。

浮世絵にはほかにも、古今東西の風景やさまざまな文化や習俗を描いた作品があります。
「諸国名所風景 相州 江島 漁船(しょこくめいしょふうけい そうしゅう えのしま ぎょせん)」では、江ノ島付近の海に潜って貝や海藻などをとる、いわゆる「海女(あま)」の姿が描かれています。水中を自由自在に泳ぐ姿は、まさにスイマーそのものです。


諸国名所風景 相州 江島 漁船 
二代喜多川歌麿筆 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 
展示期間:8月17日(火)~9月20日(月・祝)

日本では古くから、武芸のひとつとして発展した独自の泳法・水術がありました。現在は「日本泳法」や「古式泳法」と総称され、神伝流・水府流・向井流など13の流派が日本水泳連盟に公認されています。戦闘や護身のための実用に即した水術ですが、なかには現在のアーティスティックスイミングや水球などに通じる技術も含まれ、世界的にみてもきわめて高度な水泳技術が発達していたのでした。
近代以降の日本の水泳選手の目覚ましい活躍も、おそらくはこうした下地があったからともいえるでしょう。とくに1932年のロサンゼルス・オリンピック大会の水泳では、日本は男子6種目中5種目で金メダルを獲得し、水泳は「日本のお家芸」と呼ばれたのでした。


1932年ロサンゼルス大会 日本代表水着 
昭和7年(1932) 秩父宮記念スポーツ博物館蔵 

さて、日本に「スポーツ」の概念が移入されるのは明治時代以降であり、今回展示する浮世絵でも、厳密には「スポーツ」と呼べない作品も含まれています。しかし、身体能力を活かした仕事や遊び、武芸に秀でた歴史的人物を描いた浮世絵には、心身を鍛え、自身の技を磨き上げるような、現代スポーツの理念や形式にも通じ合う作品も多くみられます。



本展が、日々の生活のなかにたくさんのスポーツの要素を見出すきっかけになれば幸いです。
 

東京2020オリンピック・パラリンピック開催記念 特別企画「スポーツ NIPPON」

平成館 企画展示室
2021年7月13日(火)~2021年9月20日(月)

展覧会詳細情報

カテゴリ:特別企画

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posted by 高橋真作(文化財活用センター企画担当研究員) at 2021年08月17日 (火)