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「縄文しばりがあったのですか」

神奈川県立近代美術館の学芸員・三本松倫代さんに今回の「内藤礼 生まれておいで 生きておいで」(2024年9月23日(月・休) まで)は「縄文しばりがあったのですか」と尋ねられ、はっとした。もとより本展は、東博の建築や当館に収蔵される文化財を活かして構成されるということは決まっていたが、実際にどの分野の作品や資料を内藤礼が選ぶのかは決まっていなかったのだ。このような経緯をすっかり忘れてしまうほど、本展では内藤作品と縄文時代の考古遺物が会場と一体となって展示空間を形作っている。

さて本展に出品された考古遺物の選定は全て内藤に委ね、最初に土版が選ばれ、次に足形付土製品、そして動物形土製品や獣骨、最後に土製丸玉が選ばれた。

展示される考古遺物を、あらかじめ当方から提案することや説明することは避けた。なぜなら最初に内藤が選んだのが欠けのある簡素な土版であったからだ。当館には造形的にも優れ、完全な形を残す土版もあるため、正直戸惑った。代わりの考古遺物を内藤に提案しようかとも思ったが、敢えて止めた。むしろ欠けた土版を選択した内藤の意図を探ることで、これまでとは違った観点から内藤が作る作品や展示空間ときっと深く向き合えると考えたからだ。そして欠けたとは言え、この土版に縄文人が願った安産や子孫繁栄、そして豊かな自然の恵みを祈る率直な思いは一切損なわれてはおらず、これが本来あるべき姿とも思ったからである。


土版 縄文時代(後~晩期)・前2000~前400年 東京都品川区 大井権現台貝塚出土
顔や乳房を欠き、儀礼による被熱で変色している

土版に続き内藤が選んだのは本展のポスターやチラシのキービジュアルにもなっている足形付土製品である。過去の内藤展と異なり、内藤作品ではなく考古遺物がキービジュアルになっていることに内藤ファンや考古学ファンはどのように見たのだろう。だが本展をご覧になった方で、この選択に違和感をもつ方はいないのではないかと思っている。


重要文化財 足形付土製品 縄文時代(後期)・前2000~前1000年 新潟県村上市 上山遺跡出土


ポスター・チラシに用いたキービジュアル
自然光のなかで撮影された足形付土製品の柔らかな陰影


本例のような幼児の手のひらや足の裏を押し当て、その形を写し取った土製品は、手形あるいは足形付土製品と呼ばれている。手形や足形の反対側となる裏面には押し当てる際についた太く長い指の痕が残るものがあることから、子ども本人が手形や足形を写したのではなく、親などの大人を介して作られたものと考えられている。また手形・足形付土製品は墓から出土する例もあることから、亡くなった子どもの形見として作られたと考えられ、親子の絆や愛情を象徴するものとして理解されている。


足形付土製品(模造)をもつ大人の手

足形付土製品(模造)と2歳児の足裏
昔も今も変わらない親子の思いを素直に表した形

内藤によって土版に続き足形付土製品が選ばれたことで、ようやく一担当者として内藤の意図を少し理解ができたような気がした。いわゆる内藤が期待したのは火焔型土器や遮光器土偶のような縄文造形ではなく、素直に生を紡ぎ、生を営んだ結果として生じた形が縄文時代の考古遺物の本質だと内藤が考えて選んだのだと。だからこそ、本展では小さな獣骨片にさえ十分な居場所が与えている。そして、内藤の思いは来館者にも注がれているはずで、それぞれの居場所がきっと用意されているはずである。

「生まれておいで、生きておいで」
ぜひご来館いただき、東博での内藤作品と展示空間を体験して欲しいと思う。

 

カテゴリ:「内藤礼」

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posted by 品川欣也(学芸企画部海外展室長) at 2024年09月06日 (金)

 

障壁画100面、一挙公開! 特別展「大覚寺」のご紹介

2025年1月21日(火)~3月16日(日)、平成館特別展示室で、開創1150年記念 特別展「旧嵯峨御所 大覚寺―百花繚乱 御所ゆかりの絵画―」を開催いたします。
 
特別展「大覚寺」メインビジュアル
 
みなさんは大覚寺に足を運んだことはありますか?
正式名称は旧嵯峨御所大本山大覚寺(きゅうさがごしょだいほんざんだいかくじ)といい、京都市右京区嵯峨に位置する真言宗大覚寺派の大本山です。
「嵯峨」といえば、渡月橋や竹林の道が有名な「嵯峨野・嵐山エリア」として記憶されている方も多いかもしれません。
古くから景勝地として知られるこのあたり一帯は、平安時代には禁野(皇族専用の狩猟場)として、天皇や貴族の別荘が立ち並ぶ風光明媚な遊覧の地でした。
大覚寺も、平安時代初期に嵯峨天皇が造営した離宮・嵯峨院がそのはじまりで、代々皇室や貴族が住職を務めました(門跡寺院)。現在でも皇室とのゆかりの深さを示す証を境内の至るところで見つけることができます。
 
大覚寺は令和8年(2026)に開創1150年を迎えます。これに先立ち、本展では大覚寺の寺宝の数々を一挙にご紹介いたします。
7月4日(木)には報道発表会が開催されました。会の様子とともに、展覧会の概要を見ていきましょう。
 
報道発表会の様子(平成館大講堂) 
 
冒頭では、主催者である旧嵯峨御所大本山大覚寺執行長の伊勢俊雄(いせしゅんゆう)氏と、当館副館長の浅見龍介(あさみりゅうすけ)がご挨拶しました。
 
旧嵯峨御所大本山大覚寺 執行長 伊勢俊雄氏
当館副館長 浅見龍介
 
その後、本展の担当研究員・金井裕子(かないひろこ)より、本展の見どころを解説いたしました。
 
当館学芸企画部博物館教育課教育講座室長 金井裕子
 
これに沿って、大覚寺の歴史と本展のみどころをご紹介します。
 
大覚寺の歴史
大覚寺の歴史は、今から約1200年前に嵯峨天皇が離宮・嵯峨院を造営したことにはじまります。その後貞観18年(876)、皇女・正子内親王(まさこないしんのう)の願いにより寺院に改められました。
鎌倉時代後期には大覚寺統(後の南朝)の拠点となり、政治的に大きな影響力を持つようになります。応仁の乱により堂宇(どうう)は焼失しますが、安土桃山時代から江戸時代にかけ御所の一部が移築されるなどして、現在の寺観が整えられました。
 
重要文化財 宸殿
大覚寺伽藍の中心となる建造物。元和6年(1620)に後水尾天皇に入内した和子(まさこ、東福門院)の女御御所がのちに移築されたものと伝えられています。
 
みどころ1 圧巻!123面の障壁画
大覚寺には安土桃山~江戸時代に制作された約240面の襖絵や障子絵等の障壁画が伝来しています。本展はこれらから前期・後期あわせて123面を展示します。
 
重要文化財 牡丹図(部分) 狩野山楽筆 江戸時代・17世紀 京都・大覚寺蔵 通期展示
宸殿「牡丹の間」の東・北・西面を飾る襖絵。花株の位置を細かく計算して配置することで、リズミカルな展開と画面の奥行きを見事に表現しています。本展では全18面(全長22メートル)すべてを展示。
 
重要文化財 松鷹図(部分) 狩野山楽筆 安土桃山~江戸時代・16~17世紀 京都・大覚寺蔵 展示期間:1月21日(火)~2月16日(日)
正寝殿「鷹の間」を飾る襖絵。力強くダイナミックにうねる巨大な松の描き方は、山楽の師・狩野永徳の影響を強く受けたものと考えられています。
 
展示室では、四方を取り囲むように障壁画が並びます。見渡す限り障壁画・・・という圧巻のパノラマ展示をお楽しみください。 
 
障壁画の展示風景(イメージ)
 
みどころ2 ふたつの五大明王像
嵯峨天皇は旱魃(かんばつ)により疫病が流行した際、空海の勧めで般若心経を書写するとともに、持仏堂に五大明王像を安置しました。この時の仏像は残されていませんが、大覚寺には平安時代後期と鎌倉~室町時代の2つの五大明王像が伝わっています。特に明円作の五大明王像は平安時代後期の仏像の最高傑作のひとつであり、優美さと力強さが巧みに調和した作品です。
 
重要文化財 五大明王像 明円作 平安時代・安元3年(1177) 京都・大覚寺蔵  通期展示
不動明王を中心に5体の明王から成る五大明王。力強い姿の中に、整った顔立ちや柔らかな体つきなどには気品があふれ、洗練された美しさを示しています。東京に5体揃うのは初めてです。
 
みどころ3 選りすぐりの天皇の書
大覚寺中興の祖とも称されるのが後宇多法皇(ごうだほうおう)です。鎌倉時代後期、後宇多法皇は大覚寺で院政を行い、大伽藍を造営するなど大きな影響力を持ちました。
 
重要文化財 後宇多天皇像 鎌倉時代・14世紀 京都・大覚寺蔵
展示期間:1月21日(火)~2月16日(日)
 
書の名手としても知られる後宇多法皇をはじめ、本展では歴代天皇の優美で力強い宸翰(しんかん)をご紹介いたします。
 
国宝 後宇多天皇宸翰 弘法大師伝(部分) 後宇多天皇筆 鎌倉時代・正和4年(1315) 京都・大覚寺蔵
展示期間:1月21日(火)~2月16日(日)
後宇多法皇が書写した空海の伝記。謹厳な楷書から力強い草書へと変化する書体がみどころ。
 
国宝 後宇多天皇宸翰 御手印遺告(部分) 後宇多天皇筆 鎌倉時代・14世紀 京都・大覚寺蔵
展示期間:2月18日(火)~3月16日(日)
後宇多法皇が大覚寺の興隆を願い記した21か条の定め。冒頭と各条のはじめに朱で手形(御手印:おていん)を押しています。
 
このほか、「源氏物語」など、宮廷文化を伝える大覚寺の名宝の数々をご紹介いたします。
 
 
源氏物語 室町時代・16 世紀 京都・大覚寺蔵 通期展示
源氏物語全54帖のうち46帖を伝える作品。伏見宮貞敦親王(1488-1572)を中心に伏見宮家とゆかりの深い貴族らによって書写されました。外題(表紙に付された短冊形の表題)は後柏原天皇(1464-1526)によるものです。
 
重要文化財 太刀 銘 忠(名物 薄緑〈膝丸〉) 鎌倉時代・13 世紀 京都・大覚寺蔵 通期展示
源満仲、頼光、義経など清和源氏に代々継承された、「薄緑」「膝丸」の伝承をもつ太刀。長大で力強い刀身に細やかに乱れた刃文を焼入れており、鎌倉時代初期の備前刀の作風が認められます。
 
 
報道発表会の最後には、本展のPR大使と音声ガイドを務める、俳優の吉岡里帆さんにもご登壇いただきました。
 
吉岡里帆さんご登壇の様子
 
吉岡さんは京都府ご出身。大覚寺には小学生のころから絵を描きに行かれるなどされていたそうです。
住んでいたからこそわかる大覚寺の厳かな雰囲気やきらびやかな歴史もPRしたいとお話いただきました。
会場ではぜひ吉岡さんの音声ガイドもお楽しみください。
 
 
報道発表会終了後のフォト・ムービーセッション。左から浅見副館長、伊勢執行長、吉岡里帆さん。
背後の襖絵は「牡丹図」の原寸大パネルです。
 
会期は2025年1月21日(火)から。ぜひカレンダーに書き込んでおいてください!
 

カテゴリ:「大覚寺」

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posted by 天野史郎(広報室) at 2024年09月04日 (水)

 

高雄曼荼羅を写す

前回のブログ「密教の仏たちに包まれる―高雄曼荼羅の世界―」でご紹介しましたように、現存最古の両界曼荼羅である「高雄曼荼羅」は、平安時代にはすでに、空海が直接筆を執った特別な曼荼羅と認識されていました。


国宝 両界曼荼羅(高雄曼荼羅)(りょうかいまんだら、たかおまんだら)の展示風景
平安時代・9世紀 京都・神護寺蔵 
【金剛界】後期展示(8月14日~9月8日)

曼荼羅に描かれた仏たちは、密教の仏のお手本、規範であり、「白描(はくびょう)」という、墨の輪郭線を駆使した手法でその姿形が写し取られました。会場では平安時代後半から鎌倉時代の作品を展示しています。


重要文化財 高雄曼荼羅図像(たかおまんだらずぞう) 金剛界 巻上、巻中(部分)
平安時代・12世紀 奈良・長谷寺蔵 金剛界は
後期展示(8月14日~9月8日)

密教の仏は、たくさんの顔や手があったり、持ち物も複雑です。仏の姿ですから間違いは許されません。会場に並ぶ作品を見ると、一発勝負の緊張感を味わうことができます。

重要文化財 三十七尊羯磨形図像(さんじゅうしちそんかつまぎょうずぞう)(部分)

鎌倉時代・13世紀 京都・醍醐寺蔵 後期展示(8月14日~9月8日)

 
高雄曼荼羅はこれまで、鎌倉時代、江戸時代、そして現代(平成28年から6年かけてなされました)と、三度の修理が行われました。

江戸時代の修理の後、修理を企画した光格天皇と後桜町(ごさくらまち)上皇によって、原寸大の模本が制作されました。


両界曼荼羅(りょうかいまんだら)
右から【胎蔵界】江戸時代・寛政7年(1795)【金剛界】江戸時代・寛政6年(1794)
 京都・神護寺蔵 通期展示

「高雄曼荼羅」は、紫色に金銀が生える美しい作品です。今回行われた修理の際に分析が行われ、「紫根(しこん)」という非常に高価で希少な染料が使われていたことが明らかとなりました。「紫根」は紫色の染料ですので、高雄曼荼羅も描かれた当初は、模本に見られるような色味をしていたと考えられます。
 
江戸時代後半にかけて、原寸大だけでなく、数多くの模本が制作されました。空海ゆかりの曼荼羅の規範として、変わらず尊ばれていたことがうかがえます。
 
なかでも「両界曼荼羅」(京都・知恩院蔵)は、江戸時代後半の京都で活躍した仏画師、高橋逸斎(たかはしいっさい)が描いた作品です。


両界曼荼羅(りょうかいまんだら)右から胎蔵界、金剛界
江戸時代・文政11年(1828)
 京都・知恩院蔵 通期展示
 
本作品の魅力はなんといっても超絶技巧というべきその描写です。4メートルを超える大きさの高雄曼荼羅を1.8メートルの大きさに圧縮しているので、描写密度が半端ないのです。
 

両界曼荼羅 胎蔵界の部分
 
描線も美しく、高橋逸斎の持つ技術の高さが感じられます。

表装部分も描いています!


両界曼荼羅の表装部分
 
このほか会場には、高雄曼荼羅の仏を版木にした作例も展示しています。


高雄曼荼羅版木(たかおまんだらはんぎ)
明治3年(1870)
 京都・仁和寺蔵 通期展示

これは、当館に所蔵される京都・高山寺伝来の白描図像を下絵に版に起こされました。会場で久々の再開が果たされたのです!
 
高雄曼荼羅図像(たかおまんだらずぞう)
鎌倉時代・13世紀 
東京国立博物館蔵 通期展示
 
このように、平安時代後半から高雄曼荼羅の仏たちは様々に写されました。そこには、正しい仏を広めたいという高雄曼荼羅への人々の熱い想いを感じることができます。

高雄曼荼羅をご覧になった後は、ぜひこうした「写し」の作例もじっくりご覧ください。
「高雄曼荼羅」では見えにくい、気づきにくいモチーフを発見できるかもしれません。


重要文化財 高雄曼荼羅図像の賢劫千仏(げんごうせんぶつ)部分
 

同じく重要文化財 高雄曼荼羅図像 前期展示の胎蔵界ではカニが描かれていました※現在は展示されておりません
 
創建1200年記念 特別展「神護寺空海と真言密教のはじまり」の会期は残りわずかです(9月8日(日)まで)。

高雄曼荼羅や本尊「薬師如来立像」は、空海の時代から伝えられてきた神護寺の至宝です。今に伝えられたことの奇跡と軌跡、是非お見逃しなく!



 
 

 

カテゴリ:news絵画「神護寺」

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posted by 古川 攝一 (教育普及室) at 2024年08月30日 (金)

 

特別展「神護寺」10万人達成!

 開催中の創建1200年記念 特別展「神護寺空海と真言密教のはじまり」(9月8日(日)まで)は、来場者10万人を突破しました。

これを記念し、山口県下関市からお越しの中山さん親子に、当館副館長の浅見龍介より記念品を贈呈いたしました。
 

記念品贈呈の様子。中山さん親子(中央、右)と浅見副館長(左)

美術館や博物館がお好きなお母様の由貴子さんが、娘の結葉さんを神護寺展にお誘いになったそうです。
 
本展の会期も残すところ15日となりました。
寺外初公開の本尊、国宝「薬師如来立像」や空海が筆を入れたと伝えられる国宝「両界曼荼羅(高雄曼荼羅)」、国宝「山水屛風」など、神護寺1200年の至宝をご覧いただける本展。この機会をどうぞお見逃しなく!
 
 
 

 

カテゴリ:news「神護寺」

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posted by 宮尾美奈子(広報室) at 2024年08月22日 (木)

 

仏像展示の光と影

神護寺の本尊「薬師如来立像」は日本彫刻史の最高傑作といえるでしょう。


国宝 薬師如来立像(やくしにょらいりゅうぞう) 
平安時代・8~9世紀 京都・神護寺蔵 通期展示 

本来は高雄山の中腹に建つ金堂に置かれた厨子の中にまつられます。


金堂 

高雄山という霊地の空気が像の威厳を一層高めます。神護寺を真言密教の寺院として整備した空海は、薬師如来像の威厳のある姿をどのような思いで見つめたのでしょうか。

薬師如来像が寺を離れ、創建1200年記念 特別展「神護寺空海と真言密教のはじまり」に出品されるのは、節目の年とはいえ奇跡の出来事です。みなさまにも、奇跡の場に立ち会っていただきたいと思います。

 

ところで会期半ばに、薬師如来像の背後にある、仏から発せられる光を造形化した光背と、展示造作の幕を取り外しました。像の背中の美しさをご覧いただきたいという博物館担当者の思いと、見たいというお客様の声をご住職様に伝えてお許しをいただきました。このような機会を与えていただいたご住職様には心より感謝申し上げます。


第5章 会場風景

日本彫刻史では、仏像の衣の襞(ひだ)の表現を衣文(えもん)と呼んでいます。薬師如来像の正面には大腿部(だいたいぶ)を除いて、衣文が所狭しと表されます。

両腰から脚の間には、その形状から名付けられたY字形衣文とU字形衣文の美しい衣文線が見られます。大腿部に襞が無いのは、その盛り上がりの大きさを表現するためで、衣文を表さない衣文表現なのです。


薬師如来立像の大腿部

波打つ裾の縁は見どころの一つと思います。腹部には縄を思わせる衣文が刻まれますが、ややぎこちなさが感じられます。


薬師如来立像の腹部

左袖には膨らみのある襞と鋭い襞を交互に配する翻波式衣文(ほんぱしきえもん)が見られます。翻波式衣文は平安時代前期の彫刻の特徴の一つですが、これほど重厚で見事な表現は他にありません。


薬師如来立像の左袖部分

一方、背中には肘や腰、裾を除いて衣文がなく、腰の美しい曲面を見ることができます。背中に衣文がないのは拝するものからは見えないことが主な理由と考えられますが、製作者は、正面、左袖、背面とそれぞれ違った衣文表現を意識したはずです。


薬師如来立像の背中部分

日本彫刻史の最高傑作である神護寺の薬師如来像の背中や、左袖の翻波式衣文を見る機会は二度とありません。この機会を逃さないでください。


さて、背中を見ていただくには、幕と光背を取り外せば済むというわけではありません。これまでは幕や光背があったために、背中には照明が当てられていないのです。背中の美しさを見ていただく光が必要です。

照明を当て、光の具合を調整する作業をシューティングといいますが、この作業には、照明器具を調整する人、会場のデザインを考えたデザイナー、博物館の担当者が参加します。


第5章 会場風景

担当者が、ああしてほしい、こうしてほしいと作業をしている人に伝えても、照明器具の設置場所や仕様の制約などからすべて実現できるわけではありません。会場をデザインする過程で担当者から像のイメージを聞いていて、かつ照明器具のことも熟知しているデザイナーが担当者の意図を作業者に伝えます。

今回は、照明のために像が白く見えるという指摘があったので、まず、光の色を変える機能を調整して黄色味を増し、木の温かみを感じられるようにしました。

薬師如来像と日光菩薩像、月光菩薩像を照らすために、20個の照明器具が使用されますが、半数以上が薬師如来像に向いています。


第5章 中央のステージと照明

照明器具にもいくつか種類があり、すべての器具に光の色を調整する機能があるわけではありません。光の強さを調整する機能は多くの器具にそなわっていますが、広い範囲を明るく照らすもの、対象の形に合わせて光の範囲を調整できるもの、数センチの範囲にまで調整可能なものなどがあります。

薬師如来像も全体の輪郭や、頭髪部分、左袖の翻波式衣文など、その範囲に合わせた光が当てられています。それには微妙な調整の繰り返しが必要です。地震などで光がズレることもしばしばあります。


(中央)国宝 薬師如来立像 
(右)重要文化財 日光菩薩立像(にっこうぼさつりゅうぞう)(左)重要文化財 月光菩薩立像(がっこうぼさつりゅうぞう)
どちらも平安時代・9世紀 京都・神護寺蔵 通期展示

器具は、天井や天井付近に常設された配線ダクトや、展示に合わせて設置された臨時の配線ダクトに取り付けられます。薬師如来像の威厳のある表情を出すのに効果があったのは、その向かいの仮設の壁に付けられた比較的低い位置の器具でした。上方からの光だけでは顎に強い影が生じて、本来の表情が伝わりません。


威厳のある表情の薬師如来立像

注意しなくてはならないのは、像の背面を見ている人がまぶしくないように光の位置、向き、範囲を調整することです。今回は、まぶしさを完全に消せていない光が一部ありますがご容赦ください。


幕を取り除いたことで、薬師如来像と、それを護る十二神将像との一体感が増しました。本展覧会では十二神将像の壁に映った影が素敵だという声を多くいただいています。十二神将像の変化にとんだ身体の動きが、実際の像を見るよりも感じられるためではないでしょうか。


十二神将立像 (じゅうにしんしょうりゅうぞう)の展示風景
[酉神・亥神]室町時代・15~16 世紀[子神~申神・戌神]吉野右京・大橋作衛門等作 江戸時代・17 世紀 京都・神護寺蔵

十二神将像の主となる照明は上方からで、その強い影が壁の下方に映っています。この照明は像の上にも、像自身の強い影を生じさせるので、その影を弱めるために展示台に設けた器具から光を当てています。この光が、変化に富んだ影を壁に映しているのです。


十二神将立像の展示風景

この器具は光の強さを調整できないので、強すぎる場合は弱くするためのフィルターを1ないし2枚入れます。この器具の光は強いものではありませんが、下方から当てるので、いわゆるお化け顔になります。そこで上方から別の器具を使って顔に光を当てます。この照明に気付かれる方はあまりいらっしゃらないのではないでしょうか。というのは、壁の影の状態を保つために顔からはみ出さないように狭い範囲に絞って光を当てているのです。

壁の影の面白さを保つことも意識しましたが、複数の光を当てると影が乱雑に映り、像を見る妨げになるのです。薬師如来像の背後に白い幕があったときには、像を引き立てるのに妨げになる影を薄くするための光も必要でした。


第5章 前期の展示風景

仏像の展示の光と影についてお話ししましたが、このようなところにも担当者の経験と展示への思いが反映します。

 

 

カテゴリ:news彫刻「神護寺」

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posted by 丸山士郎(彫刻担当) at 2024年08月21日 (水)