1887年2月の日付のある久米桂一郎と黒田清輝の裸婦デッサン。二人がイーゼルを並べて描いていたことがわかります。
(左)裸婦習作 久米桂一郎筆 明治20年(1887) 東京・久米美術館蔵
(右)裸婦習作 黒田清輝筆 明治20年(1887)
大きな椅子の肘掛けに座る裸婦。なんと難しい構成なのでしょう。
久米は裸婦を画面の中心に入れ、椅子は必要なところだけを描いています。
一方、黒田は消したり描いたりを繰り返しながら、裸婦を描くのと斉しい興味をもってどっしりとした椅子を描いています。
椅子が大きすぎるので裸婦が小さく見えてしまいますが、
このどっしりとした椅子にも魅力を感じていたのでしょう。
実はこの一ヶ月前まで、黒田は「ただ焼炭で、石や土でこしらえた人形を大きく描く」ことをしていました。今で言う石膏デッサンでしょうか。
それから比べると、デッサンの対象は生きていて動くのですから、人体デッサンは石膏デッサンとは全く違います。
ようやく生身の人体と対峙して描くことができる喜びが、黒田のデッサンから感じられます。
一方、久米はデッサンの数も、また人体構造への理解もすでに深く、膝や胸郭の表現などに骨格や筋の内部構造との関係を意識して描いています。
後に久米が美術解剖学に専心することを、すでに暗示するかのように内部構造への興味が顕れています。
でも、両者のデッサンとも輪郭線がはっきりし、やや説明的な意識も強いのかな、と思います。
二ヶ月後、久米と黒田はパリに二間と小さな台所のついたアパルトマンを借り、共同で住み始めました。
窓の大きい日差しの降り注ぐ、植物のある優雅な室内で、お互いの姿を室内風景の中に油画で描いたりしています。
椅子の裸婦から8ヶ月後、10月15日の日付の入ったデッサンを見てみましょう。
(左)裸体習作 久米桂一郎筆 明治20年(1887) 東京・久米美術館蔵
(右)裸体習作 黒田清輝筆 明治20年(1887)
モデルは豊かな髭を蓄えた高齢の男性です。「説教するヨハネ」のような絵になるポーズですね。
久米の人体構造への理解は表現としてもいっそう深まり、久米の最も充実したデッサンの一つに見えます。
一方、黒田の方は手と腕が短縮法で描かねばならず難しいアングルで、紙には消したり描きなおしたり、試行錯誤の跡が見えます。
顔と頭部の描写は、久米がモデルの表情をリアルかつ細やかに捉えているのに対し、黒田は立体的に捉え、雰囲気があります。
「先便より度々申上候通り今年ハ法律ノ方ハ全ク打チ棄て畫學專修の積ニ決心仕候ニ付左樣御承知被下度候 畫學教師コラン先生も不相變深切ニ致呉候間仕合の事ニ御座候」
前年より、法律の勉強と画学という二足の草鞋を履いていた黒田でしたが、1887年は黒田の心の中で絵を描いてゆく決心を固め、
画の道への強い志を、日本の父への手紙の度に切々と伝えるようになります。
人体デッサンと美術解剖学は切り離すことの出来ない描画の基礎で、普通、展覧会ではあまり表に現われることがありません。
本展では黒田と久米の油画制作の背後にある人体との格闘を、二人がどのようにひとのかたちの見方を深めていったのかを、
二人が同じモデルを描いた1887年の12枚のデッサンを通してご覧いただきたいと思います。
※作品はすべて特集陳列「美術解剖学―人のかたちの学び 」( 本館特別1室、 2012年7月3日(火) ~ 2012年7月29日(日) )にて展示。
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posted by 宮永美知代(東京国立博物館 客員研究員・東京藝術大学 美術教育(美術解剖学II)助教) at 2012年07月15日 (日)
美術解剖学のことば 第3回「ベルリンの鷗外とユリウス・コールマン」
偶然ですが2012年は、森鷗外こと森林太郎(1862~1922)の生誕150年に当たります。
トーハクでは、帝室博物館(現在の東京国立博物館)の総長でもあった、 鷗外に関する展示が特集されます。
(東京国立博物館140周年特集陳列 「歴史資料 生誕150年 帝室博物館総長 森鴎外」 本館16室、2012年7月18日(水) ~ 2012年9月9日(日) )
このブログで紹介している特集陳列「美術解剖学 ―人のかたちの学び」(本館特別1室、2012年7月3日(火)~7月29日(日))では、医学を修めていた時期の、鷗外に関係した資料が展示されています。
画像はベルリンにある「森鷗外記念館」です。
僕は2002年9月にベルリン博物館調査の際に立ち寄ることができました。
鷗外は、明治17年(1884)夏から明治21年(1888)秋までドイツに留学しました。
ライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘンと所を移して、1887年にベルリンに移るのですが、
そこで1886年に出版されて間もない、ユリウス・コールマンの美術解剖学書
『Plastiche Anatomie』(1886初版)と出会い入手したのでは?と年期的な符合から想像できます。
このコールマンの書『Plastiche Anatomie』と内容的に多く一致している書が、
『鷗外全集著作篇 第二十九巻』に収められている、鷗外短著の『藝用解體學』(げいようかいたいがく)です。
本書は奥付を欠いて発行年不明ですが、明治30年前後に書かれたものとされています。
お待たせしました! 森鷗外の「美術解剖学のことば」を紹介します。
鷗外は直接の解剖をあまり重んじることはなかったといわれますが、
以上の記述から、大局的な視点で<美術解剖学>をとらえる姿勢を感じます。
おそらくこの見地はコールマンの述べるところと同じですが、
さらに続きを読み進むと、鷗外以前の、江戸時代の「蔵志」(山脇東洋)などの例をあげて、
「皆解体学各論の芽ばえと看做(かんさ)さるべきものなり」 と述べていて、
美術解剖学の範囲を超えて、鷗外のスケールの大きさ・教養の奥深さに身が震えてきます。
鷗外は東京美術学校で美術解剖学、考古学、美学・美術史を講義した時期もあります。
ドイツ仕込みの哲学的であり文学的ともいえる教育内容は、後に紹介する、
ポール・リッシェ等フランス流の美術解剖学に学んだ久米桂一郎とは趣の違いを感じます。
▼おまけ
森鷗外「藝用解體學」を収める『鷗外全集著作篇 第二十九巻』は、
トーハク・資料館にて読むことができます。
(閉架図書につき、閲覧受付カウンターにておたずねください)
そのほか鷗外が帝室博物館総長兼図書頭であった時代のしごとである、
『鷗外自筆帝室博物館蔵書解題』を閲覧することができます。(こちらは開架図書です)
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posted by 木下史青(デザイン室長) at 2012年07月09日 (月)
まず初回は、黒田清輝(1866-1924)の言葉から紹介したいと思います。
黒田が留学先のパリから日本の義母に宛てた手紙には、
美術解剖学やヌードデッサンについての記述が残っています。
義父宛には「一筆啓上仕候・・・」の文語調の手紙で、
義母宛には平易な文章をひらがなで綴っていますが、
かえってその表現が美術解剖学の「本質」を突く、
率直な思いが表われていて味わい深ものがあります。
死んでいる人間を、いやどんな動物でも解剖して、その仕組みを見るということは、
皮を剥ぎ、ナイフやメスを使って「切ら」なければなりません。
それは一見怖いような、気持ちが悪いような気もしますが、
黒田が母への手紙に書いているように、「二度も見ましたら、もう何とも無いようになりました。」
僕は黒田のその言葉に、アーティストとしての生まれ持った素養、光るものを感じます。
正しく対象を「見ること」、そして木炭や絵筆をとって「画面を切る=描くこと」、
その「痕跡」として残された画面が、
美術作品としていま私たちの目に訴えかけるものを残しています。
解剖学実習 1987年2月
東京藝術大学の美術解剖学で、4名のグループで3日間の実習を行いました。
ウサギを解剖して、足の骨・筋肉・腱の構造を観察しているところです。
黒田清輝が、1877年のパリで残した「裸んぼ=裸婦・裸体」のデッサンは、
いまトーハクの特集陳列「美術解剖学 -人のかたちの学び」で展示されています。
盟友 久米桂一郎の同モデル・同ポーズの「裸んぼ」と合わせてご覧ください。
(左) 裸婦習作 黒田清輝筆 明治20年(1887)
(右) 裸婦習作 久米桂一郎筆 明治20年(1887) 東京・久米美術館蔵
(いずれも2012年7月3日(火)~2012年7月29日(日)展示)
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posted by 木下史青(デザイン室長) at 2012年07月04日 (水)
「美術解剖学 ―人のかたちの学び」(2012年7月3日(火)~2012年7月29日(日))が、
トーハクの特集陳列として開催されることは、
東京国立博物館が所蔵する美術解剖学資料を公開するチャンスであるとともに、
関連資料をお持ちの所蔵者・美術館の作品と、系統的にまたは対置してみることで、
相互の価値を際立たせて見ることができる、たいへん貴重な機会といえるでしょう。
僕が芸大1年生だった19歳の時に、
初めて「美術解剖学」の講義を聴いてからすでに27年の時間が過ぎましたが、
いまだその学びの奥行きに驚かされ、その興味は広がるばかりなのです。
さてこの1089ブログでは、「美術解剖学のことば」と題して、
「びじゅつかいぼうがく」とは何だ? そんな学問があるのか?
そんな疑問に、少しでもお答えしたいと思って、連載を試みることにしました。
美術を解剖するのか、美術のための解剖学なのか・・・そんな疑問もあるでしょう。
あるいは「解剖学」なんてキモチ悪いじゃない!という、あなたやあなたのために、
美術解剖学の先人たち、そして今回の展示に関係するような、
「ことば」の数々を紹介してみたいと思います。
登場するのは、
明治の文豪、医者であり、帝室博物館(東京国立博物館の前身)の総長でもあった森林太郎(鷗外)と、
東京美術学校で「美術解剖学」を長年にわたって教えた久米桂一郎、
そしてトーハクの黒田記念館でも知られ、近代絵画の巨匠とうたわれる、
黒田清輝の「ことば」を紹介してみたいと思います。
人体の美術解剖学 芸術家及び芸術愛好家の手引書 ユリウス・コールマン著 1886年出版(初版) 個人蔵
Plastische Anatomie des menschlichen Korpers, By Julius Kollmann, 1886 (Private collection )
(2012年7月3日(火)~2012年7月29日(日)展示 )
「美術解剖学の門」をくぐることで、少し違う美術の見方に気付くかもしれません。
まず初回は、黒田清輝の言葉から...(つづく)
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posted by 木下史青(デザイン室長) at 2012年06月28日 (木)
台東区立書道博物館の連携企画「呉昌碩の書・画・印」(2011年9月13日(火)~11月6日(日))は好評のうちに閉幕いたしました。展示をより深くお楽しみいただくための連載企画としてお届けしていたこの連載ブログも、いよいよ最終回の第8回です。
多くの日本人と親交した呉昌碩にとって、長尾雨山(1864~1942)との交友は格別の意味合いがあったように思われます。
明治21年(1888)東京帝国大学を卒業し、教員や新聞記者として活躍していた長尾雨山は、図らずも教科書疑獄事件に巻き込まれ、明治36年(1903)日本を脱出、大正3年(1914)12月まで、12年の長きにわたって上海に滞在しました。
民国元年(1912)上海に転居した呉昌碩は、長尾雨山の近隣に居を構え、長尾雨山が帰国するまでの3年間にわたって親交します。2人は詩文を応酬し、芸を談じ文を論じ、忘年の交わりを結びました。長尾雨山が日本に帰国した後も、2人は書簡を交わします。
5月某日、呉昌碩が乗った人力車は、上海南京路の先施公司の門で電車に接触。人力車は横転し、82歳の呉昌碩は地面に投げ出され、顔面が血だらけになってしまいます。周囲の人々は、あわやこれが最後かと気をもみましたが、医師の診察の結果、幸いにも傷は浅く内傷のないことが分かりました。図1は、その時の出来事を「一趺」と題した3首の七言絶句にまとめた詩箋です。大怪我をした2ヶ月後、呉昌碩は早くも近況を伝える詩を長尾雨山にあてて書き記しているのです。
図1 長尾雨山宛書簡・同封筒 呉昌碩筆 中華民国・民国14年(1925)82歳 京都国立博物館蔵
(展示予定は未定)
80代を迎えた呉昌碩の書画の特徴は、老練の粘り強い含蓄ある筆致と、何ものにもとらわれない闊達さにあると言えるでしょう。82歳の4月に石鼓文を臨書した図2は、70代の作例に比べると、文字の恰幅が広く、筆力は雄渾で、気力の充実したさまが窺えます。
図2 臨石鼓文軸 呉昌碩筆 中華民国・民国14年(1925)82歳 林宗毅氏寄贈 東京国立博物館蔵
(展示予定は未定)
図3は同年の8月、誕生日を迎えた呉昌碩が、自らを寿いで得意の梅を描いた興味深い作品です。
図3 墨梅自寿図 呉昌碩筆 中華民国・民国14年(1925)82歳 青山杉雨氏寄贈 東京国立博物館蔵
(展示予定は未定)
王維の詩の1句「万事不関心」を行書で揮毫した図4は、民国16年(1927)、84歳の作。呉昌碩の書の真骨頂は、石鼓文に根差した篆書にあると言えますが、行草書にも尽きせぬ魅力があります。とりわけこの横披は、最晩年にたどり着いた呉昌碩の境地をよく表した、年齢を全く感じさせない力作です。
図4 行書王維五言句横披 呉昌碩筆 中華民国・民国16年(1927)84歳 個人蔵
(展示予定は未定)
陰暦の11月4日、呉昌碩は中風を発して昏睡状態となり、11月6日、上海の寓居に逝去しました。
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posted by 富田淳(列品管理課長) at 2011年11月10日 (木)