新知見! 伊東マンショの肖像に隠されたドラマ
こんにちは、保存修復室の瀬谷愛です。
5月17日(火)の公開以来、多くの皆様がマンショ君に会いに来てくださっています。ありがとうございます!
バナーがババーン!
本館7室は、いつもとちがう雰囲気です。
マンショ君。皆様のイメージどおりでしたでしょうか。
それとも、意外とイケメン? 平たい顔族じゃない? 画家のフィルターがかかっている?
色々なご意見があると思います。
歴史上の人物たちはどんな顔をしていたのか?
写真のない時代について、肖像画はその問いに答えてくれます。
ですが、肖像画を発注できる人は高位の人物だけ。
経済的な問題だけでなく、その肖像を残すだけの地位、価値、意味がないといけません。
伊東マンショも、もし使節としてヨーロッパに行かなければ、その姿が描かれることはなかったでしょう。
さらに、伊東マンショの肖像については、
5月18日(水)九段下のイタリア文化会館で開かれたシンポジウム「イタリアと日本、初めての出会い」で発表された、ヴェネツィア・カ・フォスカリ大学セルジオ・マリネッリ教授のお話によれば、
「1577年、ヴェネツィア元老院の大部分が大火災によって焼失し、会議室を飾る絵画を補う必要があった。とくに、ヴェネツィア共和国の威容を誇示するような、海外使節団の絵画を。」
ということなのです。
感動しました・・・マリネッリ先生のお話が始まって、たった3分で。
例えば、ドゥカーレ宮殿に伝わる、ヴェロネーゼによる「ニュルンベルグからの使節団の絵」や、同じくヴェロネーゼ工房による「ペルシャ使節団の絵」などと同様に、多くの国との交流を表す、象徴的な絵画が必要だったというわけです。
そこへ、地球の裏側から、日本人がやって来る、ヤア、ヤア、ヤア!
描かないわけには参りませんよね。
伊東マンショの肖像
ドメニコ・ティントレット筆 1585年
ミラノ、トリヴルツィオ財団 Fondazione Trivulzio - Milano
では、この肖像は、肖像画制作のどの段階にあるものなのでしょうか?
その問いには、次のような結論でした。
「ドメニコ・ティントレットの肖像画の描き方というものがある。大きな肖像画を描く際、まず、個別に「下絵」を作り、集団肖像画に転写した。像主を前にしてほぼ下書き無しでサッと描かれて、フレッシュな印象になる。そして、大きな肖像画に転写するのは、工房の画家の仕事であるから、クオリティは低下する。伊東マンショの肖像は、大きな絵から切り取ったものではなく、ドメニコ自身による、この「下絵」の肖像画であろう。完成した絵であるとともに、より大きな絵の「下絵」ともいえるものだ」
感動しました・・・最初の感動から7分後。
まさに、これぞ、美術史講義の醍醐味です。
「ティントレットが描いた」と聞けば、美術好きの方はたいへん驚かれるでしょう。
そして、「息子のドメニコ」と聞くと、「なんだ、息子か」と。
しかし、いわゆるティントレットは、16世紀ヴェネツィアで非常に大きな工房を構えており、受注した絵画は工房で制作していました。先生によれば、「父の陰に隠れがちであるが、ドメニコは非常に優れた肖像画家だった」そうです。
伊東マンショが描かれた1585年、父ヤコポは69歳になっており、この頃には息子のドメニコ(25歳)が多くを製作していたと考えられています。
16歳のマンショと25歳のドメニコ。
東西の若者の結晶が、ここにあるのです。
最後に、立派な集団肖像画になるはずのものが、なぜ完成しなかったのか?
「1598年、ローマ教皇庁がフェラーラ公国を教皇領とし、ヴェネツィア共和国の自治も終わらせようとした。これにより教皇庁とヴェネツィア共和国の対立が深まり、1602年、イエズス会は以後40年間にわたってヴェネツィアから追放された。イエズス会の象徴でもあった天正遣欧少年使節の肖像画は、これにより注文が取り消されたのだろう」
ということでした。
こうして、ティントレット工房に残された伊東マンショの肖像は、17世紀初頭のファッションに描き変えられ、やがて売却された、というわけです。
このたいへん壮大なドラマを知った後でマンショ君を見ると、「苦労したね・・・」とまた嘆息がもれます。
一度ご覧になった方も、以上をふまえましてもう一度、ご覧いただけますと幸いです。
展示情報
特別公開「新発見!天正遣欧少年使節 伊東マンショの肖像」(2016年5月17日(火)~7月10日(日)、本館7室)
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posted by 瀬谷 愛(保存修復室主任研究員) at 2016年05月26日 (木)