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特別企画「韓国美術の玉手箱」その3 祈りの造形が伝える、高麗王妃の生きた証

4月5日まで開催中の日韓国交正常化60周年記念 特別企画「韓国美術の玉手箱―国立中央博物館の所蔵品をむかえて―」では、東京国立博物館と韓国国立中央博物館が所蔵する選りすぐりの美術作品を一堂に展示しています。
ここでは高麗時代と朝鮮時代をテーマとしたふたつの章で構成される本展のなかから、第1章「高麗―美と信仰」の韓国国立中央博物館蔵「銅製銀象嵌香炉」をご紹介します。
香炉といえば、香を薫ずるための器として知られ、特に仏教においては華瓶、燭台と並んで仏前の供養具である三具足の1つとされています。


第1章「高麗―美と信仰」展示風景

高麗時代の香炉は、銅だけでなく高級品の青磁や庶民が用いる陶器など、制作する素材のバリエーションが複数存在し、幅広い層に需要があったことが窺えます。形のバリエーションも非常に豊富で、本展にも展示されている韓国国立中央博物館蔵「青磁陽刻饕餮文香炉」のほか、香炉の上部に瑞獣を象ったものなど、形の種類もさまざまです。
 
 
銅製銀象嵌香炉 韓国国立中央博物館蔵 高麗時代・13世紀

そのなかで、本作のように縁の広い鉢の下にラッパ型の台座が付く形態のものを、韓国では「香垸(こうわん)」と呼んでいます。本展示の解説では、解説に日本でもなじみのある「香炉」という名称を用いていますが、「香垸」という名は高麗時代の史料や器物に刻まれた銘文のなかに確認することのできる、当時の人びとの実際の呼び方です。ここでは韓国での用例に倣い、「香垸」という名称を用いて作品をご紹介します。「香垸」の名が確認される作品は、本作も例外ではありません。どこかに、その名を伝える銘文が刻まれています。いろんな角度から作品を観察してみてください。いったい、どこにあるでしょう…。

答えは、水平に折れた口縁部の裏。下から覗き込んで見てください。
 

香炉を下から見た際に見える銘文(展示では香炉の底面はご覧いただけません)

すると、「咸平宮主房以造上華嚴經蔵排靑銅香垸一副」という銘文が、口縁の形に沿って反時計回りにぐるりと縦書きで刻まれていることが確認できます。
「銘文を見逃してしまった!」という方がいれば、会期中にもう一度見にいらしていただければ嬉しいです。
そしてこの銘文の中には「香垸」の文字を確かに確認することが出来ます。


銘文のうち「香垸」部分拡大
 
さて、この文を読んでみると、「咸平宮主の居所にて、華厳経蔵に供えるため、青銅を鋳造して香垸一副を造る」と解釈することができます。この香垸を作った目的が、華厳経の経典を納めた蔵、つまり経蔵に奉安するためだった、というわけです。仏殿だけではなく、経蔵でも香を供える慣習があったこと、そして高麗時代の人びとが経典に対して熱心に信仰を捧げていたことを知ることができる貴重な記録といえるでしょう。
ところで、銘文に残される咸平宮主とはいったい誰でしょうか。「宮主」という称号がヒントになりそうです。これは高麗時代に王妃や王の後宮、王女などを冊立していた別称の1つで、宮殿の主人を意味する言葉です。このことから、この香垸を造らせ、発願した人物は、王室に属する女性――王妃、あるいは高位の後宮や王女であることがわかります。
さらに、咸平宮主という人物を史料から辿っていくと、この人物が高麗第21代国王・熙宗(1204~1211)の妃、成平王后を指すことがわかります。彼女は1211年に咸平宮主として正式に冊立されました。しかしその同年、熙宗が退位に追い込まれます。当時、王を凌ぐ実権を握っていた武臣政権の最高権力者・崔忠献の排除を試みて失敗したためです。熙宗と太子は流刑に処され、成平王后のみが宮殿に残されました。その後も、モンゴル侵攻による江華島への遷都など激動の時代を生きることとなり、決して順風満帆とはいえない生涯を歩んだ人物でした。こうした背景を踏まえると、この香垸は彼女が咸平宮主に冊立された1211年から没する1247年までの間、王権の失墜と外敵の脅威という不安定な時代状況のなかで制作されたものと推測されます。
香垸の鉢の部分に注目すると、前後左右に4字の梵字が配置されています。これらは、それぞれオン(om)、マ(ma)、二(ni)、パド(pad)と読む仏教の真言です。真言とは、仏の力や救いを音に託した神聖な言葉(マントラ)のことです。本作にあらわされる4字は、オン(om)、マ(ma)、二(ni)、パド(pad)、メ(me)、フム(hūm)の6字から成る「六字真言」の一部にあたります。
  
オン(om)

 

二(ni)

それぞれの音には象徴的な意味が込められ、その解釈には諸説ありますが、全体として「蓮のなかの宝珠よ、清め、救いたまえ」という救済の祈りをあらわす言葉と理解されています。本作のように梵字を配する香垸の多くは、その梵字一字一字を際立たせるように美しい銀象嵌の装飾文様で囲み、荘厳な趣が与えられています。このような香垸の意匠は、梵字や真言に宿る神聖な力を尊び、その功徳を重んじる信仰の意識を視覚化させたものと考えられます。苦難の時代を過ごした成平皇后もまた、この真言に救いを求め、立ち上る香煙とともに祈りを捧げたことでしょう。祈るという行為は時代や地域も関係なく行われる人間の普遍的な営みです。遠い過去に作られたこの香垸も、その背景を知り、そこに生きた人物が直面した苦難に思いを寄せると、作品に込められた思いは時代と地域を超えて私たちにも通じるものとして受けとめられるのではないでしょうか。
本展は、韓国美術の美を紹介することを軸としていますが、それだけにとどまらず、作品の制作背景や当時の社会状況、信仰や人びとの営みに目を向けることで、モノの意味がより立体的に浮かび上がり、モノに対する理解と共感が一層深まります。この機会に韓国美術の美しさを楽しむと同時に、その背後に広がる歴史にも思いを巡らせ、韓国美術を生み出した文化への理解を深める契機となることを願います。
 

カテゴリ:特別企画

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posted by 玉城真紀子(海外展室研究員) at 2026年04月02日 (木)