特別展「出雲―聖地の至宝―」(2012年10月10日(水)~11月25日(日)) は連日多くのお客様にお越しいただいています。
誠にありがとうございます。
今回は、特別5室を出たところにあるショップの人気&おすすめ商品をご紹介します!
今、1番の売れ筋はこちら!
お香 特別展 出雲-聖地の至宝-オリジナルグッズ
630円(税込)
この特別展のために作られました。とてもいい香りです!
おすすめ商品は・・・
ぽち袋 特別展 出雲-聖地の至宝-オリジナルグッズ
1枚60円(税込)
画像では3種ですが、10種類以上あります。おみやげに人気のようです。
そして、こちらは金太郎飴。かわいく鹿が描かれています。ぶどう味でおいしいです!
金太郎飴 特別展 出雲-聖地の至宝-オリジナルグッズ
420円(税込)
今回この特別展の主催でもある島根県古代出雲歴史博物館のグッズも人気のようです!
特に売れているのが、こちらの勾玉ストラップ。
勾玉ストラップ 特別展 出雲-聖地の至宝- 古代出雲歴史博物館グッズ
左から2,300円(税込)、1,600円(税込)、1,100円(税込)、1,000円(税込)
勾玉に使われている石は他の種類もあります。
この他詳細は、特別展「出雲-聖地の至宝-」公式ホームページのグッズページをご覧ください。
図録も販売しています。展覧会をご覧になったあと、ぜひショップにもお立ち寄りください。
*ショップのグッズは売り切れる可能性もあります。ご了承ください。
鹿のグッズのモチーフになった「重要文化財 埴輪 鹿」は京都展に出品されたものです。当館では展示していません。
カテゴリ:2012年度の特別展
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posted by 江原 香(広報室) at 2012年10月24日 (水)
書を見るのは楽しいです。
より多くのみなさんに書を見る楽しさを知ってもらいたい、という願いを込めて、この「書を楽しむ」シリーズ、第24回です。
今回はこれです。
禅院牌字断簡「湯」 無準師範筆 中国 南宋時代・13世紀 広田松繁氏寄贈
(本館4室 東京国立博物館140周年特集陳列「広田不孤斎の茶道具」にて11月25日(日) まで展示中)
かっこいい!!すかっとしている!! と思いませんか?
サンズイの勢いのあるハネ、
右上角の鋭い曲がり(転折)、
最後の線も、力強く長い。
一文字だけど、こんなに力があるなんて、すばらしい!
これを書いたのは、無準師範(ぶじゅんしばん、1176~1249)、
中国、南宋時代の高名な禅僧です。
彼のもとで学んだ日本人僧、円爾弁円(聖一国師)(えんにべんえん、しょういつこくし)に
与えた書の一つです。
円爾は東福寺の開山第一世となりました。
東福寺の「普門院」の印が斜めに押されているのも、
いい味わいを出しています。
昭和11年(1936)に、
この「湯」を写した人がいます。
「湯」(写し)、『茶道三年』(上巻、飯泉甚平衛発行、昭和13年)より転載
写したのは、松永耳庵(まつながじあん、1875~1971)。
本名は松永安左エ門、電力王として著名で、
大コレクターでした。
その耳庵が参加した茶会の記録(茶会記)に、
この「湯」の字が紹介されていました。
たぶん、茶会が終わってから思い出して書いたのでしょう。
「普門院」の印の位置も違うし、
「湯」の字も、それほど力強くないです。
でも、わざわざ写して記録するのは、
よほど気に入ったのでしょう。
茶会で見た「湯」の感動が、にじみ出ている気がします。
「湯」という一字だけに、
茶の湯の世界でも珍重されてきました。
この作品を当館にご寄贈くださったのも、
広田不孤斎(ふっこさい、1897~1973)という茶人。
本名は広田松繁、古美術商だった方です。
当館でこの作品を管理している富田列品管理課長から
「湯」に付属品の掛幅があることを教えてもらいました。
禅院牌字断簡「湯」付属品
江戸時代の俳人、松永貞徳(まつながていとく)が、
「さん水のうへにちょぼ々々三つあるはたぎる茶釜の湯玉なりけり」
と詠んでいます。
サンズイの最初の画に、ちょぼちょぼちょぼと三つあるのは、
茶釜の湯の玉だとたとえています。
江戸時代にもこの作品は、茶の湯の世界で親しまれていたようです。
「湯」の字は、いま、本館4室(茶の美術)で、
広田不孤斎の茶の湯の道具と一緒に並んでいます。
本館3室から4室を見わたすと、
遠くからでも、「湯」!!と主張していますよ。
遠くから眺めてから、
近くへ寄ってじっくり御覧ください。
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posted by 恵美千鶴子(書跡・歴史室) at 2012年10月23日 (火)
今回の特集陳列「動物埴輪の世界」(2012年7月3日(火)~10月28日(日))では、コーナーの最後に、装飾付須恵器を展示しています。
装飾付須恵器は、古墳時代後期(6世紀頃)に古墳における葬送儀礼に用いるために製作されたもので、人物や動物の小像がつけられています。
しばしば群像のような表現であらわされ、当時の人々の何らかの世界観を反映したものと考えられています。
(左)展示全景、(右)須恵器部分
大きく、インパクトのある動物埴輪と比べて、装飾付須恵器は小さく形も地味で、印象は薄いものかもしれません。
けれども、装飾付須恵器の小像群は動物埴輪とは、また違った古墳時代の人と動物の関わりを物語ってくれます。
埴輪では犬、猪、鹿などによって狩猟の場面があらわされていますが、装飾付須恵器でも同様の場面があらわされている場合があります。
岡山県赤磐市可真(かま)上出土の装飾付須恵器には、動物埴輪と同様に猪を追い立てる犬の姿があらわされています。
子持装飾付脚付壺 岡山県赤磐市可真上出土 古墳時代・6世紀
ところが、猪に向けて矢を射る人物の姿は表現されていません。
そのかわり、巨大な猪の背中に飛び乗った人間の姿があらわされています。
猪は非常に頑丈な動物で、矢を射ただけでは仕留めることができないことはもちろんです。
ちなみに、静岡県浜松市の蜆塚貝塚からは鹿のお尻の骨が出土していますが、石鏃のまわりを覆うように骨が再生しています。
矢で射られながらも一度はうまく逃げのびたものの、二度目には仕留められてしまったようです。
やはり、猪を仕留めるためには、埴輪の狩猟場面で表現されているように矢で射るだけではとても無理です。
貝塚などから出土する猪の頭骨は、眉間(みけん)のあたりが壊されていますが、これは最終的に仕留めるために加えられた打撃の跡と考えられます。
このように考えてくると、装飾付須恵器にあらわされている巨大な猪に飛び乗った人物は、まさに猪を仕留めようとする場面をあらわしているのでしょう。
こうした生々しい場面は、なぜか埴輪では表現されていません。
一方、同じく岡山県可真上出土の装飾付須恵器には馬上から鹿を射る人物の姿も表現されています。
子持装飾付脚付壺(部分) 岡山県赤磐市可真上出土 古墳時代・6世紀
こうした場面も埴輪には表されません。どういうことでしょうか。
しかし、さまざまなモチーフが描かれたことで知られる装飾古墳の中にも、狩猟の場面を表していると考えられる例があります。
装飾横穴墓として著名な福島県泉崎4号横穴では、同様に馬上から鹿を射る人物の姿が描かれているのです。
福島県泉崎村泉崎横穴壁画部分[佐原真論文1995 『装飾古墳が語るもの』 国立歴史民俗博物館より]
遠く離れた岡山県の装飾付須恵器と福島県の装飾古墳という相互に関連する可能性の低い資料において、共通する場面が表されていることは、大いに注目すべきでしょう。
これらの事実は、6世紀の日本列島において、広く馬上から鹿を射る狩りが行われていたことを示していると考えられます。
装飾付須恵器には古墳時代の人と動物との日常的な関わりが、稚拙ながらも躍動感のある姿で表されているといえます。
その一方で、埴輪にあらわされた動物たちは、王の儀礼を象徴的に示すものに限定されていたのではないかと考えられます。
「動物埴輪の世界」と題して展示した埴輪群像は、古墳時代の人と動物との関わりを表現しているというよりも、古墳時代の特定の人々にとっての動物観をあらわしたものであったと考えられます。
しかし、彼らが動物と関連づけてイメージしていた「世界」を復原するには、まだまだ研究が必要な段階にあるといえます。
皆さんも今回の展示資料をご覧になって、柔軟に考えてみて頂けたらと思います。
これまでの記事
特集陳列「動物埴輪の世界」の見方1
特集陳列「動物埴輪の世界」の見方2─鳥形埴輪・鶏編
特集陳列「動物埴輪の世界」の見方3─鳥形埴輪・水鳥編
特集陳列「動物埴輪の世界」の見方4─犬と猪・鹿の狩猟群像
特集陳列「動物埴輪の世界」の見方5─番外編
特集陳列「動物埴輪の世界」の見方6─馬形埴輪1
特集陳列「動物埴輪の世界」の見方7─馬形埴輪2
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posted by 山田俊輔(考古室研究員) at 2012年10月20日 (土)
特別展「出雲―聖地の至宝―」(2012年10月10日(水)~11月25日(日))、2章「島根の至宝」の作品のなかから、
戦国時代の出雲の大名、尼子氏ゆかりの甲冑や太刀についてご紹介いたします。
No.37の色々糸威胴丸は、16世紀の初め、出雲を拠点に中国地方11カ国に領土を拡大した尼子経久(あまごつねひさ)が
佐太神社に奉納したと伝えられています。
紅糸を中心に、青や白の糸で威した華やかな甲冑です。
重要文化財 色々糸威胴丸(いろいろいとおどしのどうまる)
室町時代・16世紀
島根県・佐太神社蔵
兜の前立には、中央に「天照皇大神宮」、鍬形には「八幡大菩薩」「春日大明神」の神号が切透かされて、
当時の武将の信仰の一端がうかがえます。
No.26の兵庫鎖太刀は、鎌倉時代に武家に好まれた拵の1つで、この太刀も鎌倉時代の作品です。
重要文化財 兵庫鎖太刀(ひょうごくさりのたち)
鎌倉時代・13~14世紀
島根・須佐神蔵社(11月4日(日)まで展示)
太刀を腰に下げる帯取に、針金の輪を2つに折って繋げた兵庫鎖を用いています。
拵を納めた箱には、尼子経久の孫の晴久が、天文21年(1552)に須佐神社に奉納したことが記されています。
なお、島根県立古代出雲歴史博物館では、10月26日(金)から12月24日(月・祝)まで企画展「戦国大名 尼子氏の興亡」が開催されます。
出雲へお出かけの方は、是非ご覧ください。
カテゴリ:研究員のイチオシ、2012年度の特別展
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posted by 池田宏(上席研究員) at 2012年10月18日 (木)
前回に引き続き、今回の特集陳列「動物埴輪の世界」(2012年7月3日(火)~10月28日(日))の重要なテーマの一つ、馬形埴輪について考えてみたいと思います。
馬形埴輪は出土数も多く、ほかの動物埴輪には見られない多様な装具や装飾(馬具)を備え、(また大型で見栄えもしますので・・・)どこの埴輪の展覧会でも、人物埴輪と並んで埴輪の代表として欠かすことの出来ない存在です。
現代でも馬は時代劇や競馬などでお馴染みですが、そもそも馬はいつ頃から日本列島に棲んでいたのでしょうか。
展示全景(左から:鳥形埴輪、犬・猪・鹿形埴輪、馬形埴輪、装飾付須恵器)
人と馬の関係は「乗馬」に象徴されているともいえますが、その起源は西アジアのイラン地方で始まったとされ、次第に人間が乗る「鞍」と馬をコントロールする「手綱(たづな)や轡(くつわ)」が整備されました。
その明確な例は、紀元前1000年頃から西アジアのアッシリアの浮彫などに見られます。
やがて、中央アジアのスキタイ民族(B.C. 6~3世紀)などの影響で広くユーラシア大陸に拡がり、紀元前5世紀頃にはローマ軍でも重装歩兵と騎兵が一般的な存在となっていました。
ちなみに、我々がよく目にする馬のシンボルともいえる蹄鉄(ていてつ)は、蹄が冷湿な環境では歪みや裂けを生じて炎症を起こすことから生み出されたものです。
ローマ時代には蹄のサンダル(!)が考案されており、(通説では)9世紀頃になって釘で固定する蹄鉄が発明されたそうです。
一方、お隣の中国では、殷代(BC.1600~1100年)後期に(ローマの戦車によく似た)2輪車の戦車の使用が始まり、西周(BC.1100~756年)末期の紀元前8世紀頃から青銅や鉄製の轡がみられます。
やがて春秋・戦国時代(BC.770~221年)末期の紀元前4世紀頃から、騎馬戦法を駆使する北方遊牧民族の匈奴(B.C.4 ~A.D.1世紀)が中原にしばしば侵入するようになり、紀元前3世紀以降、漢代(B.C.206~A.D.8年)には中国の農耕民族と激しく対立していました(あの万里長城建設の“原動力”ですね)。
紀元後の後漢代(A.D.25~220年)になると、(乗馬が不得手であった・・・)農耕民族が乗降り用の鐙(あぶみ)を発明して、現在の馬具の形が完成されたと考えられています。
東アジアの乗馬の風習と馬具の源流はここに起源が求められ、4~5世紀には中国東北地方や朝鮮半島に馬の飼育を伴って拡大し、やがて日本列島にも伝えられました。
このようにして生まれた馬具は、 (少々堅苦しくて恐縮ですが…) 機能面から大きく四つに分けられます。
(左)馬具の名称 (世界考古学事典・上「馬具」平凡社、1979年より:モデルは今回展示されている埴輪 馬 (埼玉県熊谷市上中条日向島出土 古墳時代・6世紀)です)
(右)埴輪 馬 群馬県大泉町出土 古墳時代・6世紀
第一は、馬を制御する轡・手綱と、これらを繋(つな)いで頭に固定する面繋(おもがい)です。
第二は、乗馬用の鞍・鐙および障泥(あおり)などと、これらを固定する胸繋(むながい)・尻繋(しりがい)があります。
第三はさまざまな装飾具で、面繋・尻繋の交点に付ける雲珠(うず)・辻金具をはじめ、純粋に装飾として付加された杏葉(ぎょうよう)や馬鐸・馬鈴などがあり、第四には戦闘用の馬冑・馬甲などの馬鎧(うまよろい)などがあります。
日本列島の馬具は、弥生時代中・後期の西北九州地方で(“王墓”とも呼ばれる)多数の副葬品をもつ有力な甕棺墓などから出土する稀少な輸入品の馬鐸や車馬具を除けば、古墳時代の4世紀末頃から古墳の副葬品として現われ、5~6世紀に広く普及しました。
このように、馬は古墳時代の途中から、新来の“最先端の乗り物”として登場したことが判ります。
それでは、馬形埴輪の特徴を見てゆきましょう。
比較する馬具は、前回(第5回)でもご紹介した考古展示室奥の馬具展示コーナー[古墳時代V・地方豪族の台頭](見取図:★2)と、特集陳列展示ケースの前にある覗きケース(見取図:★3)に展示されています。
考古展示室見取図(I-4~6:古墳時代 I~III[3~5c]、Ⅰ-8:古墳時代V[7c])、II-7:テーマ・埴輪と古墳祭祀、II-9: テーマ・実用馬具の変化─改良と機能の向上─)
まず頭部ですが、口の両脇には轡が外れないように先端に鏡板が付けられ、そこから後方に引手(ひきて)と手綱が表現されています。
また、轡・鏡板を固定するベルトと、その交点に付けられた辻金具もリアルに表現されています。
鏡板はもっとも目立つ部分ですので、実用的なリングだけの素環(そかん)鏡板のほか、鈴付やf字形などのさまざまなバリエーションがあります。
馬形埴輪と馬具1:(上左)重要文化財 埴輪 馬(頭部) 埼玉県熊谷市上中条日向島出土 古墳時代・6世紀、(上中)鈴付鏡板付轡、(上右)辻金具とベルト飾金具、(下左) 埴輪 馬(頭部) 群馬県大泉町出土 古墳時代・6世紀、下中)素環鏡板付轡、(下右) f字形鏡板付轡
ちなみに、頭の天辺(てっぺん)にある先が平たい棒状の飾りのようなものはタテガミの先端を束ねたもので、首筋まで続く部分も先端をカットして(おそらく・・・)“立てている”様子がうかがえます。
ほかに長い髪のままの(“ロン毛”の)馬形埴輪も見つかっていますので、(もちろん古墳時代の馬が短髪な種であった訳ではなく)まさにモヒカン刈りのような・・・パンク(?)な髪型に整えられていたらしいことには驚かされます。
次に、胴部中央に載せられる鞍と、胴体に巻き付けられる胸繋と尻繋はどうでしょうか。
古墳時代の鞍は(人間が乗る自転車のサドルにあたる)2または4本の居木(いぎ)と、前輪・後輪(しずわ)から成る前後の鞍橋(くらぼね)から構成されることが特徴です。
その鞍からは乗馬に必要な輪鐙が吊り下げられ、両脇部には泥除けの障泥(あおり)が装着されています。
鞍を固定する前後の胸繋・尻繋のベルトには、たくさんの馬鐸・馬鈴や鈴付杏葉が吊り下げられています(ガラガラと・・・ずいぶんと賑やかそうですね)。
尻繋のベルトの交点にはやはり辻金具が付けられ、ベルトがもっとも交差する中央部分には、多脚の雲珠が取り付けられていた様子が表現されています。
馬形埴輪と馬具2:(上左) 重要文化財 埴輪 馬 埼玉県熊谷市上中条日向島出土 古墳時代・6世紀、馬具:(上中)馬鐸、(上右)輪鐙、(中左・下左)埴輪 馬(胸部・尻部) 群馬県大泉町出土 古墳時代・6世紀、(中中)小型馬齢・大型馬齢、(中右)剣菱形杏葉、(下中)鈴付杏葉、(下右)雲球
このように見てくると、埴輪に表現された馬は金銀で飾られた実に煌(きら)びやかな各種の馬具で飾られていたことが判ります。
これらは「飾り馬具」と呼ばれる装飾性が高い特別な製品で、当時輸入に頼っていた金銀などの稀少な貴金属をふんだんに使用した“豪華な”馬具ということができます。
さて、人類は乗馬の他に、古来、耕作や牽引・戦闘などのさまざまな場面に馬を利用し、それぞれに相応しい馬具を使い分けてきました。
たとえば、東アジアで戦闘に用いられた馬には馬鎧(馬冑・馬甲)が装備され、文献記録や高句麗の古墳壁画は5世紀頃の中国東北部や朝鮮半島における騎兵同士の激しい戦闘の様子を伝えています。
ところが、日本列島の馬形埴輪には耕作・牽引などに適した馬具は付けられていませんし、ましてや大陸の騎兵にみられるような激しい戦闘に耐えるような装備はほとんど見当たりません。
古墳から出土した少数例の馬冑(見取図:★4)なども稀少な舶載品とみられ、馬具としてはごく少数の特殊な例にすぎません。
大多数の馬形埴輪からは、少なくとも古墳時代の馬が農耕や戦闘に従事していた様子をうかがうことはできません。
(左)高句麗の古墳壁画(朝鮮民主主義人民共和国・5~6世紀)[福尾正彦論文2005『東アジアと日本の考古学』III、同成社より]
(右)模造 馬冑(原品=和歌山県大谷古墳出土・古墳時代・5~6世紀)・蛇行状鉄器(奈良県団栗山古墳出土・古墳時代・6世紀)
こうしてみると、埴輪に象(かたどら)れた馬は乗馬に最大の「関心」があったようです(といっても馬の特性でもあるスピードが重視された様子はありません…)。
それも金銀に彩られたさまざまな馬具を鏤(ちりば)めた豪華な“いでたち”です。
ほかの動物埴輪と比べても、著しく“人の手が加わった”姿が特徴で、特定階層の人物と(まさにベタベタの・・・)深い関係にあったことは否めません。
おそらく当時の人々も、古墳に樹(た)てられた馬形埴輪を見ることによって、葬られた人物が(最先端の…)豪華な“乗り物”を所有することができた社会的地位の高い人物であることを容易に想像できたことでしょう。
現代ならば、さしづめ(やや古いですが・・・)戦後のロールスロイスか、キャデラックといったところでしょうか。
やはり、馬形埴輪の場合でも「動物埴輪の“キーワード”」を通して、その性格を読み取ることができそうです。
動物埴輪は鳥類や哺乳類・魚類など、実にさまざまな動物が採り上げられていましたが、その種類は人間社会と関係の深い動物が選ばれて造形されていました。
その背景には、古墳時代の人々の時間や生命(魂)に対する考え方や王権や神に関する世界観が隠されていることがうかがえます。
さらに、社会的地位の象徴などの意味も含まれていたと考えることができました。
これまでに見てきましたように、動物埴輪はいわば当時の社会の“鏡”のような存在であったことがお解かり頂けたことと思います。
このような視線(“眼”)でもう一度、(一見?イヤよく見てもやはり、かわいらしい…)動物の埴輪たちに込められた当時の人々のメッセージを読み取って頂ければ幸いです。
これまでの記事
特集陳列「動物埴輪の世界」の見方1
特集陳列「動物埴輪の世界」の見方2─鳥形埴輪・鶏編
特集陳列「動物埴輪の世界」の見方3─鳥形埴輪・水鳥編
特集陳列「動物埴輪の世界」の見方4─犬と猪・鹿の狩猟群像
特集陳列「動物埴輪の世界」の見方5─番外編
特集陳列「動物埴輪の世界」の見方6─馬形埴輪1
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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2012年10月15日 (月)