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1089ブログ

アジアのおしゃれファッション

東洋館では毎年恒例「博物館でアジアの旅」(2024年10月1日(火)~11月10日(日))を開催中です。
東洋館正面玄関
 
今年のテーマは「アジアのおしゃれ」!衣装やファッションアイテムなど、「おしゃれ」にまつわる作品をピックアップして、展示しています。衣装は身にまとっていた人々の個性を如実に反映しているものではないでしょうか。作品を見てみると、今の私たちとそう変わらないように、時代や地域を問わず、人々がおしゃれを楽しんでいたことが伝わってきます。
 
例えば、3階の5室、中国の染織に展示されている、こちらの作品。
坎肩(カンジェン) 紅透紋紗地花蝶文様 中国 清時代・19世紀
 
これは坎肩(カンジェン)とよばれる、女性のチョッキ型の衣装です。おそらくは清時代の身分の高い女性がまとっていたものと考えられます。
清は17世紀から20世紀初頭まで、中国本土からモンゴル高原にかけて、満州族が治めた中国の王朝でした。古くより満州族が乗馬を得意としていたことから、衣装の装飾性だけでなく、実用性も重要でした。
このようなベストは、まさにおしゃれだけでなく防寒用としても活躍したことでしょう。
 
細部を見てみますと…
坎肩(カンジェン) 部分1
 
絹糸をたっぷりと使った、繊細な刺繡で表現された牡丹と蝶がみえます。牡丹は段ごとに色糸を変え、見事なグラデーションを表現しています。蝶も細かく刺し方を変えることで、まるで本物のような質感を生み出しています。
牡丹は、富や高い身分を示す「富貴」の花として親しまれ、さらに蝶(dié)という漢字は70歳を示す「耄耋(ぼうてつ)」の「耋(dié)」と、中国語で同じ発音をします。つまり、蝶には長寿の願いが込められているのです。
見た目に華やかなだけでなく、吉祥文様が込められているという点も、ワンランク上のおしゃれを演出していますね。
 
また、身頃の紅色の部分 について、作品前面ではほぼ見えないのが残念なのですが…
坎肩(カンジェン) 部分2
坎肩(カンジェン) 部分3
 
実はクローズアップすると、こんな風に織られています。
経糸(たていと)と緯糸(よこいと)1本ずつ交差する平織がひろがる中に、よく見ると、経糸2本がクロスするように重なり、その間に緯糸が1本はいっている箇所がみられます。
このように、経糸と緯糸が交差するような形、これを綟る(もじる)と呼びますが、この綟った隙間に緯糸1本を入れるという「紗(しゃ)」と呼ばれる組織を使うことで、一部を透けるように織り出しているのです 。使う裂(きれ)の細かな部分にまで気を配っていることが分かります。
工夫を凝らした部分が、表からあまり見えないというのは、私からするともったいない気がしますが、現代の私たちが靴下や衿元でチラ見せのおしゃれを楽しむように、「見えない部分のおしゃれ」を楽しんでいたのかもしれません。
 
次に、地下1階、13室のアジアの染織から、びっくりするような手わざで織り出された、おしゃれアイテムです。
このパトラ(経緯絣〈たてよこがすり〉)は絣(かすり)と呼ばれる技法で製作されています。4m超える長さから、おそらくサリー(インドの民族衣装)として着用されたのでしょう。
パトラ 赤紫地花文様経緯絣 インド・グジャラート 19世紀
 
パトラ 部分1
パトラ 部分2
 
小花文様が整然と展開しており、みるだけでも美しい作品です。
さて、絣(かすり)というのは織り出したい文様にあわせて、あらかじめ糸を染めます。このクローズアップ写真でわかる通り、経糸・緯糸それぞれ一列に複数の色がみえることから、1本の糸を数種類の染料を用いて染めていることが分かります。
長さ4mもある糸を複数の色に染め分けるだけでも、大変な労力を要します。これだけでも息が切れてしまいそうですが、もちろん織物にするためには、織り上げなければなりません。
染め分けた細い絹糸を何本も用意し、それらを経糸と緯糸の両方に使い、文様がかみ合うように緻密に織り上げていきます。
驚くほど巧みな技術と、想像を超える忍耐力のたまものの「おしゃれ」です。
パトラをまとった女性(イメージ)
 
サリーとして着用する際には、腰でたっぷりとひだを取ったうえで、身体に巻き付けていたのではないでしょうか。こちらはあくまでも想定図になりますが、一枚の織物がどんなふうにまとわれていたのか、展示室で想像していただけると嬉しいです。
このパトラは、音声ガイドシステムVOXX LITEの対象作品です。音声で経緯絣(たてよこがすり)の技法について、さらに詳しく説明していますので、ぜひ聞いてみてくださいね。
 
ここではご紹介しきれなかった、アジアのおしゃれアイテム、東洋館にまだまだございます。
自分だったらこれが着てみたい!このアイテム素敵!などなど、きっとお気に入りがみつかることと思います。
「博物館でアジアの旅」、みなさまもおめかしして、ぜひお楽しみください!
 

カテゴリ:博物館でアジアの旅

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posted by 沼沢ゆかり(文化財活用センター研究員) at 2024年10月09日 (水)

 

「博物館でアジアの旅」が始まりました!

 10月1日(火)から、毎年恒例「博物館でアジアの旅」が東洋館で始まりました。

博物館でアジアの旅 アジアのおしゃれ キービジュアル 
 
東洋館は昭和43年(1968)に開館した展示施設で、「東洋美術をめぐる旅」をコンセプトに、中国、朝鮮半島、東南アジア、西域、インド、エジプトなどの美術と工芸、考古遺物を展示しています。 
展示は地下1階から5階までの6フロアで、全13室。一通り見てまわるだけでも1時間はゆうにかかる広さです。展示のほかにもミュージアムシアターや占い体験など、いろいろな楽しみ方ができるのもポイントです。
東洋館外観
東洋館内観
アジアの占い 体験コーナー
ミュージアムシアター
 
さて、この東洋館で開催される「博物館でアジアの旅」では、毎年テーマを決め、それにちなんださまざまな作品を館内随所に展示します。
今年のテーマは「アジアのおしゃれ」。
流行を意識して洋服を選んだり、自分に似合うようなアクセサリーを身に着けたり…と、「おしゃれ」は誰にとっても人生の楽しみのひとつではないでしょうか。
今回はアジア各地の衣装や装飾品をはじめ、ファッショナブルな仏像や、鮮やかな色彩の副葬品、絵画作品に描かれる豪奢(ごうしゃ)な衣装の人々などをご紹介します。
時代を越えて、アジア各地の「おしゃれ」を感じとってみてください。
 
それでは、今年の「アジアの旅」を楽しむための2つのポイントをご紹介します。
 
ポイント1 必見!アジたびマップ2024
東洋館インフォメーション
 
広い東洋館のどこに「アジアのおしゃれ」関連作品が展示されているか、ひと目でわかる「アジたびマップ2024」をご用意しています。
東洋館インフォメーションで配布(なくなり次第終了)しているほか、ウェブサイトでも公開しています。ぜひこのマップをたよりに会場を自由にめぐり、作品たちのおしゃれをお楽しみください。
 
ポイント2 当館初!音声ガイドシステムを導入しています
「博物館でアジアの旅」の期間中、東洋館で音声ガイドシステムVOXX LITEを導入します。
作品解説の横に配置されたQRコード
 
作品解説の隣のQRコードを発見したら、ぜひご自身のスマートフォンで読み取ってみてください。より詳しい解説を文字と音声のいずれかでお楽しみいただけます。
アプリのダウンロードは不要。音声でご利用の際は、音量をおさえるかイヤホン等でお楽しみください。
 
マップを片手に準備ができましたら、少しだけ展示室を旅していきましょう。
(注)「アジアのおしゃれ」関連作品には目印にこの札をつけています。
 
入ってすぐの吹き抜けのフロアは、金銅仏と石仏が立ち並ぶ1室「中国の仏像」です。 
こちらの大理石製の巨大な仏像は、二重に重ねた首飾りや、ペンダント状の飾りを中心にクロスするアクセサリーが、さわやかな雰囲気を作り上げています。
重要文化財 観音菩薩立像 中国河北省 隋時代・開皇5年(585) 1室で展示
 
続く3室ではインド・ガンダーラの彫刻を展示。ドレッドヘア風の垂髪と耳飾りの飛び出すライオンがなんともおしゃれです。
菩薩立像 パキスタン、ガンダーラ クシャーン朝・2世紀 3室で展示

ライオンの耳飾り
 
同じフロアには、人類最古の文明が興った地として知られる西アジア・エジプトの美術の展示も。
こちらは金製のロゼット文様の土台に色ガラスや宝石を嵌めこんだジュエリーです。ひとつずつ綴って細長い帯とし、それを髪の上から何本も垂らして身を飾りました。
婦人頭飾断片 伝エジプト、テーベ出土 新王国時代(第18王朝)・前15世紀 3室で展示

拡大図
 
ぐるりと回るように階段を上っていくと、中国の展示が続きます。3階の4室・5室は、文明のはじまりから墳墓の出土品や青銅器・陶磁、染織のフロアです。
こちらはにっこり微笑む表情と白い花の模様があらわされたスカートが愛らしい若い女性の像です。結い上げた髻(もとどり)には金の髪飾りがつけられています。
 
三彩女子 中国 唐時代・8世紀 鈴木榮一氏寄贈 5室で展示
 
4階にあがり、石刻画の展示をご覧いただいた後は、8室の中国の絵画と書のフロアです。
行商人(貸郎、かろう)が子ども相手に雑貨やおもちゃ、小動物を売っています。商人も子どもたちも色とりどりの豪奢でおしゃれな衣装をまとっています。
売貨郎図軸(部分) 筆者不詳 中国 明時代・15~16世紀 石島護雄氏寄贈 8室で展示
 
続く9室は漆工や清時代の工芸の展示です。
銅製の如意に色ガラス、真珠、エナメル絵などを嵌(は)め込んでいます。柄の中央の時計およびエナメル絵はヨーロッパ製です。清時代には、広東の港を通じて、ヨーロッパの製品が中国にもたらされ、皇帝は時計を好んで集めました。
如意形時計 中国 清時代・18~19世紀 広田松繁氏寄贈 9室で展示
 
5階の10室では、朝鮮の美術をご紹介しています。
これは古墳に葬られた婦人が着用した頸飾(くびかざり)。瑪瑙製(めのうせい)の勾玉を中心に、水晶製切子玉や金製の空玉など、異なる素材と形で構成されています。
頸飾 韓国梁山夫婦塚出土 三国時代(新羅)・6世紀初頭 10室で展示
 
地下のフロアも見逃せません。12室は東南アジア・インドの展示です。
仏像の衣にご注目ください。型押しで花模様が表わされています。
ナーガ上の仏陀坐像 タイ ラタナコーシン時代・19世紀 12室で展示
胸元の花模様
 
13室はアジアの染織、インドの細密画、アジアの民族文化の展示で構成されています。
絹糸を細かく起毛させた艶やかなヴェルヴェット地に、重厚な金属のモール糸と宝石を密に留めつけ、ペイズリーや花唐草文を表しています。真珠、ルビー、エメラルドなどがふんだんに用いられた、インドのマハラジャ(藩主)にふさわしい豪華な衣装です。
コート 濃紺ヴェルヴェット地花卉文様金銀糸刺繡 インド・ジャイプール マードー・シーン2世着用 19~20世紀 13室で展示
拡大図
 
アウラングゼーブはムガル帝国第6代君主。頭には宝石で飾ったターバンを巻き、胸元には大きなネックレス、腕にはブレスレットやアームレットを着けています。
アウラングゼーブ帝立像 ビーカーネール派 インド 18世紀後半 13室で展示
 
展示室をまわりましたら、お帰りの際はミュージアムショップにもお立ち寄りください。
「アジアの旅」に関連したオリジナルグッズも多数ご用意しています。
 
舎利容器クッション 4,840円(税込)
ブローチ如意形時計 14,850円(税込)
花蝶文様ピンバッチセット 2,750円(税込)
 
お楽しみ要素盛りだくさんの今年の「アジアの旅」。
会期は11月10日(日)まで。総合文化展料金でご覧いただけますので、ぜひお立ち寄りください!
 

カテゴリ:博物館でアジアの旅

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posted by 天野史郎(広報室) at 2024年10月03日 (木)

 

はにわ熱

東京国立博物館に就職して間もない6月のある夜、一人展示準備のため収蔵庫で埴輪を探している時であった。
すわ、収蔵庫に五月人形か。いやいや、よく見ると凛々しい武者姿の埴輪ではないか。

武人埴輪模型 吉田白嶺作 大正元年(1912年)
弓取るものが左右に一対、矛取るが左右に一対、合わせて四個一組で揃いとなる。東京国立博物館所蔵品は左手に矛取るものを欠いている。
(注)特別展「はにわ」出品予定

後日、先輩に聞いたところ明治天皇の御陵(京都府京都市 伏見桃山陵)に奉献された埴輪「御陵鎮護の神将」と同じ型で作られたものという。
某研究会の連絡誌に、この埴輪にかかる記述があったことを思い出して読み返し、関連する文献などを集めた。この埴輪の制作にあたっては東京帝室博物館(現:東京国立博物館)歴史部のスタッフが監修に携わり、当館の収蔵品の修復や模造品の制作を担った彫刻家の吉田白嶺が手掛けた。
このような縁もあって当館に伝来されたものだと知ったところで、いったんこのときの熱(好奇心)は去っていった。

それから十数年の時が過ぎ、東京国立博物館で埴輪をテーマにした特別展を開催すると聞く。再度発熱した。
特別展の担当者を捕まえ、展示する意図や意義を説明して(いや、ワガママを言って)何とか出品作品に加えてもらった。
そして保存科学課のスタッフには、展示や輸送のための応急処理(X線CT撮影や接合)もお願いした。


応急修理前のX線CT撮影
埴輪「御陵鎮護の神将」は型作りによる頭・胴部・脚部・台座というように分割成形されている。胴部と脚部の継ぎ目で外れていたため状態を確認し、今回の展示に合わせ接合、修理した。


一人現地調査と意気込んで伏見桃山陵へも足を運んだ。
木々の間に白く伸びる参道、御陵から眺める宇治の景色、そして230段にも及ぶ大階段。
時折、本来の目的を忘れてしまうほどの御陵の清々しさに気を取られながらの調査、ただただ気持ちがよかった。そして、この陵(みささぎ)の墳丘のなかに納められた埴輪と古墳時代の墳丘に樹立された埴輪との差異に一人思いを巡らせた。


玉砂利と杉並木が美しい参道


宇治の景色


230段に及ぶ大階段


上が円形で下が方形の御陵

明治天皇の大喪にかかる記録を調べるために国立公文書館に出かけ、当時の世相を知るために当時の雑誌や新聞記事をあさり、また絵葉書などの記念品を集めるために某オークションサイトにも手を出した。この頃には、またいつもの熱病にかかったのかと同僚はきっと呆れていたに違いない。


参拝記念の人形


参拝記念の絵葉書
1918年(大正7年)以降に印刷された参拝記念の絵葉書の包みにも埴輪「御陵鎮護の神将」があしらわれている。一定期間、この「埴輪」が当時の人々に関心を持たれていたことが分かる。

私は埴輪、ましてや古墳時代を専門にしているわけではない。一考古学者としてモノがどういう目的で作られ、そのモノが当時の人々にどう受け入れられ、そして後世の人がそれをどう考えるのか、ということが気になってしかたがないのだ。本展の担当者でもない一研究員でさえ「はにわ熱」にかかれば、この始末である。ましてや担当者であったならば。

この夏の暑さを上回る熱量で担当者が準備を進めている
特別展「はにわ」(2024年10月16日(水)~12月8日(日)、平成館 特別展示室)が、間もなく開幕を迎える。
ぜひ楽しみに待っていてほしい。そして一人でも多くの方々にこの「はにわ熱」を存分に味わってほしいと願っている。

カテゴリ:考古調査・研究「はにわ」

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posted by 品川欣也(学芸企画部海外展室長) at 2024年09月27日 (金)

 

能面を写すということ、変えるということ

本館14室では特集「能面に見る写しの文化」(10月20日(日)まで)を開催しています。


本館14室の様子

作り手の学びや、普段なかなか見ることができない秘仏の霊験あらたかな姿を写し引き継ぐための手段として、美術工芸の世界ではお手本を真似てコピーを作る「写し」が行われてきました。
「写し」は能面でも行われ、名物面とされた古面の「写し」が、特に江戸時代以降多く作られました。 
能面では鑿跡(のみあと)や傷、作者を示す焼印なども写すことが多いことが知られています。
ただし、能面の調査を重ねていくと、「写し」のなかにも様々なバリエーションがあることがわかってきました。特にわかりやすいのが、精度の違いです。

では、「写し」の精度に注目して、こちらのふたつの面を見てみましょう。

 

同じ名物面をもとにした、「写し」同士を見比べる

(図1)能面 大悪尉 「丹後州/愛若大夫廿三枚之内」刻銘(朱入り)
安土桃山~江戸時代・16~17世紀 大聖寺藩前田家伝来 文化庁蔵
(図2)能面 大悪尉 「福来作」銘 江戸時代・17~18世紀 上杉家伝来

 

ふたつとも大悪尉(おおあくじょう)という面で、荒ぶる神の役などに使われます。
じつはこの2面はともに、宝生家(ほうしょうけ)に伝わる名物面である大悪尉の「写し」です。
どちらも宝生家の能面をもとにした「写し」なのに、この2面は似ていません。


図1と図2を比較すると、図1が宝生家の能面により近く、本面の特徴をよくとらえています。
頬の肉付きの柔らかさや、顔の皺(しわ)の表現なども感じられるのではないでしょうか。
図1の面の面裏には「丹後州/愛若大夫廿三枚之内」と書かれていて、この面を細川家お抱えの猿楽師(さるがくしゃ)であった愛若大夫(あいわかだゆう)がかつて所持していたことがわかります。
大名家であった細川家は、この「写し」のもととなった名物面を所蔵する宝生家と関係が深かったためか、本面の実物を見る機会に恵まれたか、宝生家の名物面に関する情報を多く持っていたとも考えられます。
よって、こちらは比較的精度の高い「写し」といえます。
対して図2の面は、やはり大名であった上杉家が収集したものです。
しかし、当時の上杉家は経済難にあり、おそらく作者は名のある面打ではなく、実際に宝生家のものを見る機会にも恵まれなかったと想像されます。
よって、比較的「写し」の精度が低くなってしまったのかもしれません。
このように、同じ面の「写し」であっても似ていないことはよくあります。

 

よく似たふたつの面を見比べる

続いて、よく似たふたつの能面を見比べてみましょう。

(図3)能面 鼻瘤悪尉 「文蔵作/満昆(花押)」金字銘
室町時代・16世紀
(図4)能面 鼻瘤悪尉 「杢之助打」朱書 江戸時代・17~18世紀


どちらも鼻瘤悪尉(
はなこぶあくじょう)という種類の面で、両者の顔立ちはよく似ています。

 

図3の面裏
図4の面裏


図3の面裏には「文蔵作」と書かれています。ただしこれは、文蔵本人が書いたのではなく、世襲面打家である大野出目家(おおのでめけ)の5代洞水満昆(とうすいみつのり)によって文蔵の作であると鑑定されたという鑑定銘です。
図4の面裏には 「文蔵作正写杢之助打」つまり、文蔵作の面を杢之助が写したと記されています。 杢之助が図3の鼻瘤悪尉をもとに写したものが図4の面であると解釈できます。
ちなみに杢之助とは、世襲面打家である大野出目家の5代洞水満昆もしくは7代友水庸久(ゆうすいやすひさ)のことです。
2面とも、大野出目家にあったものかもしれません。
杢之助が文蔵作とされる鼻瘤悪尉を実際に見ながら写したからこそ「写し」の精度が高く、よく似ているのでしょう。

さて、文蔵作とされる鼻瘤悪尉をX線CT撮影したところ、かつて割れてしまい、修理されていることがわかりました。
その修理の痕が面裏に貼られたテープ状の布です。
図4の裏面にも布がはられているのは、文蔵作の鼻瘤悪尉の修理痕まで写したということでしょう。
舞台で使用する際には見えないはずの面裏の修理痕まで写すことは、その面の歴史にまで敬意を持っているということなのかもしれません。

このX線CT撮影でもうひとつ、不思議なことがわかりました。

(図5)CT画像
(図6)CT画像
(図7)

 

図5と図6のCT画像は、文蔵作とされる鼻瘤悪尉(図3)の上瞼のあたり(図7)の断面です。
木目が見える部分は木で作られています。図6の黄色くマークしたところは木ではなく、木屎漆(こくそうるし)と考えられます。
また、面裏の口の部分にも布が貼ってありました。これは下唇に別の材を矧(は)いでいるので、本来はもっと大きく口を開けていたと考えられます。
そもそも能面を作るのに大きな木材は必要ありません。
比較的小さな木材があれば形作ることができるので、多くの面は木の彫りで顔の起伏を表し、その上に絵具で彩色しています。
ところが能面のX線CT撮影を行っていると、起伏の少ないなだらかな形の仮面の表面に、木屎漆などで厚く盛り上げ、頬や眉間、眉などの顔の起伏を作る例があることが分かってきました。
文蔵作とされる鼻瘤悪尉もその一つで、もともとあった別の面に木屎漆を盛って改造した可能性があるといえそうです。
「写し」には精度の違いがあること、写す際には元になった面への敬意があると考えられます。
その敬意があったからこそ、一から新しい面を作るのではなく、改造という手間のかかる方法を選んだのかもしれません。

特集「能面に見る写しの文化」では、他にも「写し」のいくつかのバリエーションを紹介しています。
とても細かなことではありますが、ぜひ展示室で、面に対する人々の心に、思いをはせていただければと思います。

カテゴリ:特集・特別公開

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posted by 川岸 瀬里(教育普及室長) at 2024年09月26日 (木)

 

特集「没後100年・黒田清輝と近代絵画の冒険者たち」

2024年は、画家の黒田清輝が没してから100年という節目の年にあたります。そこで、黒田清輝の代表作で、通常は黒田記念館特別室で年3回の公開以外は展示されることのない《智・感・情》を中心に、東京国立博物館の誇る近代絵画の名品との特集展示「没後100年・黒田清輝と近代絵画の冒険者たち」(2024年10月20日(日)まで)を組むこととなりました。

《智・感・情》の展示が決まったのは、鹿児島市立美術館で開催された大回顧展「鹿児島市立美術館開館70周年記念 没後100年 黒田清輝とその時代」展など、今年開催された黒田関連の展覧会への貸出がなく展示できる状態の代表作であったから、という裏話的な事情もありますが、現存する完成作の中では最大級であり、後世への影響も大きかったこの作品を展示の核とすることで、「近代絵画の冒険者たち」という全体のテーマも決まっていきました。


展示中の《智・感・情》 黒田清輝筆 明治32(1899)


本展では、裸体の人物を描くという日本にはなかった手法を持ち込んだ《智・感・情》を糸口として、明治以降、西洋絵画に学んだ画家たちの試みを取り上げました。
東京国立博物館の所蔵する近代の絵画作品は、日本に美術館がなかった時代に収蔵されたものが多数を占めます。これらは、全国津々浦々に美術館があり、充実したコレクションを見ることのできる現在からは想像もつかないほど「美術」という存在が不確かなものであった頃、画家たちがどのように道を切り開いてきたかを伝えてくれます。

《智・感・情》は、人間の裸体を写実的に描き、何らかの理念を象徴させるというそれまでの日本にはない内容を持つ絵画でした。
当時の多くの洋画家たちがまずは日本で絵画の基礎を学んだのに対し、黒田が絵画の勉強を本格的に始めたのは(幼少期の短期間の経験は別として)フランスに留学してからのことです。裸体の人体デッサンを基礎とするアカデミックな教育を受けたことが、黒田のその後のスタイルを決めました。
人体デッサンは黒田が教鞭を執った東京美術学校(現在の東京藝術大学)の西洋画科でもカリキュラムに組み込まれ、画家育成の基礎と位置付けられていきます。


裸体習作 黒田清輝筆 明治21(1888)


1909年に開催された第3回文部省美術展覧会(文展)に発表された吉田博《精華》は、黒田のライバルと目された吉田の描いた数少ない裸体画の大作です。白百合を持ち、ライオンたちに何事かを告げるかのように指で示す少女は、「美の威厳」を表しているとも解釈されています。
裸体画への批判にしばしばみられるのが、人物が裸体である必然性がなく場面として不自然であるというもので、例えば東京勧業博覧会で一等賞を受賞した中村不折《建国剏業(けんこくそうぎょう)》には、鎧を着け忘れたのかといった皮肉が寄せられました。洞穴で猛獣と向かい合う人物という設定にはキリスト教絵画からの影響が指摘されていますが、裸体の聖性を高める演出になっていると言えそうです。


精華 吉田博筆 明治42(1909)


中村不折《建国剏業》明治40(1907)年(焼失。展示していません)


展示会場の本館特別2室のサインにも選ばれたラグーザ玉《エロスとサイケ》は、日本ではなくイタリアで描かれました。玉は旧姓を清原といい、日本画を学んでいましたが、1876年に創立された工部美術学校の教諭として来日したヴィンチェンツォ・ラグーザに教わり、西洋絵画に転向しました。
ラグーザは故郷のパレルモで美術工芸学校を創立する計画を持っており、玉とその姉夫妻を教師として雇うという契約を結び、共に帰国しました。玉は水彩画と蒔絵の教師となり、さらにパレルモ大学美術専門学校で油彩画を含む美術の専門教育を受けました。姉夫妻が日本に帰った後に玉はラグーザと結婚し、「エレオノーラ」という洗礼名を受けます。《エロスとサイケ》には「O. E. Chiyovara」(お玉、エレオノーラ、清原)というサインがあり、玉の油彩画が目に見えて表現力豊かなものとなっていった1910年代に描かれたものと考えられています。


エロスとサイケ ラグーザ玉筆 明治~大正時代、20世紀


今回の特集展示では、「歴史資料」として収蔵されているために近代絵画の展示室では展示されたことのない織田東禹《コロポックルの村》も出品しています。
織田は古代の貝塚発掘に興味を持ち、人類学者の坪井正五郎などに取材して水彩画としてはかなりの大作となる本作を完成させました。1907年の東京勧業博覧会の美術部門に応募された本作は、あまりに前例のない作品であったため美術部門での審査を拒否され、結局石器時代の日本を描いた教育的資料として展示されました。その後、好古家としても知られた華族の二条基弘、徳川頼貞の手を経て東京国立博物館に収蔵されています。


コロポックルの村 織田東禹筆 明治40(1907)


黒田清輝の作品を多数所蔵している黒田記念館は、もとは彼が美術の奨励事業に充てるために遺した遺産によって1930年に設立された「美術研究所」でした。黒田の画業を顕彰するだけではなく、美術の研究を目的とした機関としての研究所の方向性を決めたのは美術史学者の矢代幸雄です。
美術作品の良質な図版が美術の研究に不可欠だと考えた矢代は、ヨーロッパで学んだ経験をもとに国内外の美術作品の写真を集め、それらは東京文化財研究所に現在も引き継がれています。本展に出品した黒田の日記や矢代の主著『“Sandro Botticelli”』といった東京文化財研究所の所蔵資料は、美術を社会に根付かせるという黒田の理想が受け継がれていることを示すものでもあるのです。


“Sandro Botticelli”  矢代幸雄著 大正14年(1925) 東京文化財研究所蔵



本館特別1室に展示される《智・感・情》

特集「没後100年・黒田清輝と近代絵画の冒険者たち」は、本館特別1室・特別2室にて2024年10月20日(日)まで開催中です。 ぜひご覧ください。

 

 

カテゴリ:特集・特別公開絵画

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posted by 吉田暁子 (東京文化財研究所) at 2024年09月19日 (木)