2016年12月21日(木)、入場者が20万人に達しました。
2016年11月4日(金)、入場者が10万人に達しました。
1089ブログ「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」 展覧会の見どころなどを紹介しています。
「個性派ぞろい 櫟野寺のみほとけたち」 投票結果(投票期間:2016年10月3日(月)~10月31日(月))
東京国立博物館 資料館 特別展「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」関連図書コーナー設置
展覧会のみどころ
総高5m超の秘仏、寺外初公開
重要文化財 十一面観音菩薩坐像
平安時代・10世紀
滋賀・櫟野寺蔵
像高3mを超す大観音で、重要文化財に指定された十一面観音菩薩坐像では日本最大です。頭と体は一本の大木から彫り出されます。木の重さが伝わってくるような重厚な姿ですが、美しく整った顔を仰ぎ見ると心が癒されます。迫力と穏やかさがともにみられる表現は、10世紀の仏像の特徴です。
2mを超える薬師如来坐像など、重要文化財の平安彫刻20体が一堂に
重要文化財 薬師如来坐像
平安時代・12世紀
滋賀・櫟野寺蔵
左手に薬壺をもち、病気平癒をつかさどる薬師如来像です。本尊よりは小さいものの、仏像に求められる理想的な大きさである周丈六(しゅうじょうろく)を基準に表された像高2.22mの大作で、その穏やかな表現は、都の大仏師、定朝(じょうちょう)の作風を模範とする定朝様に倣います。最澄が開創した延暦寺根本中堂の本尊は薬師如来であり、いかにも天台宗の古刹、櫟野寺にふさわしいみほとけといえます。
重要文化財 地蔵菩薩坐像
平安時代・文治3年(1187)
滋賀・櫟野寺蔵
地蔵菩薩は、釈尊が入滅したのち、弥勒がこの世にあらわれるまでの56億7千万年という長い間、我われを救って歩くという役目をもっており、古くより信仰されてきました。本像は像内の銘文から、文治3年(1187)に造られたことがわかります。仏師運慶らによって写実的な仏像が造られるようになった頃ですが、櫟野寺周辺ではまだこのように、平安風で穏やかな姿の像が造られていました。
重要文化財 観音菩薩立像
平安時代・10~11世紀
滋賀・櫟野寺蔵
櫟野寺には、本尊の十一面観音菩薩坐像をはじめ、10世紀~12世紀にかけて造られた観音菩薩が現在も複数残されています。このことは、観音への信仰がこの地に深く根ざしていたことをものがたっています。本像はそのなかでもすぐれたできばえの像で、切れ長の目など表情には厳しさがありますが、細身に表された体つきは優美です。
重要文化財 毘沙門天立像
平安時代・10~11世紀
滋賀・櫟野寺蔵
平安時代の初めに坂上田村麻呂が鈴鹿山の山賊の追討を櫟野寺で祈願し、それが叶うと毘沙門天像を造って安置したといいます。この像は10~11世紀頃に造られたものですが、目をつり上げ、口をへの字に歪める表情にはどこか親しみをおぼえます。腹部に表された奇妙な顔にも注目してください。
櫟野寺について

櫟野寺本堂 撮影:藤原弘正
滋賀県甲賀市に位置する天台宗の古刹、櫟野寺は、延暦11年(792)に最澄が延暦寺の建立に際して良材を求めて当地を訪れ、櫟(いちい)の霊木に観音像を刻んだことがその始まりと伝えられます。鈴鹿山脈に連なる油日岳の山麓に位置し、すぐ近くを琵琶湖に注ぐ杣川(そまがわ)が流れるという立地は、世俗を離れ比叡山中で修行した最澄が、良材を求めた場所としてふさわしく感じられます。
征夷大将軍の坂上田村麻呂が山賊追討の祈願成就をよろこび、堂塔を寄進したとの伝承も残ります。また、白州正子氏が「かくれ里」とも呼んだこの櫟野(いちの)の地には、櫟野寺を拠点として数多くの天台寺院が建立され、豊かな仏教文化が花開いたのでした。秘仏本尊の十一面観音菩薩坐像はその制作が10世紀後半に遡るため、そのころには櫟野寺が甲賀における仏教文化の中心であったことが知られますが、本尊含め重要文化財に指定される平安仏は20体にも及びます。これら平安仏が林立する光景を前にすれば、かつて末寺として七坊を誇ったという名刹、櫟野寺の栄華がしのばれるでしょう。
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