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1089ブログ

特集「再発見!大谷探検隊とたどる古代裂の旅」その2「敦煌発見の裂」

前回の1089ブログ「トルファン出土裂」に続き、創立150年記念特集「再発見!大谷探検隊とたどる古代裂の旅」(~12月4日(日))で展示中の、敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)発見の裂をご紹介します。

 

敦煌莫高窟は現在の中国の北西部、甘粛省(かんしゅくしょう)に位置する都市です。古くより、シルクロード交易における要所として発展しました。敦煌では仏教文化が花開き、4世紀から14世紀にかけて造営された石窟寺院の莫高窟からは、多くの仏教にかかわる壁画や彫刻、古文書、そして堂内を装飾していた多くの染織品の断片(裂(きれ))が見つかっています。



第3次大谷探検隊の旅程概略(作成:廣谷)

 

まずは、こちらの「垂飾 平絹綾夾纈羅裂縫い合わせ(すいしょく へいけんあやきょうけちらきれぬいあわせ)」をご覧ください。なんと、幅270cmを超える大きな垂飾です!



垂飾 平絹綾夾纈羅裂縫い合わせ
中国、敦煌莫高窟 曹氏帰義軍期敦煌・9~10世紀 大谷探検隊将来品



(同作品 右上拡大図)


よくみると、右上に小さな輪が縫い付けられていることがわかります。このような特徴から、本来は輪を使って吊り下げ、仏殿内を華やかに飾る荘厳具(しょうごんぐ)のひとつであったと考えられます。
9世紀から10世紀の仏教荘厳の様子を伝えてくれている貴重な作品です。

どのように縫い合わせて、大きな垂飾をつくっているのでしょうか。作品の裏面に注目してみましょう。

 

 
(同作品 裏面) 

 
透かして見ると、小さな裂を三角形の袋状に仕立て、重ねていることが分かります。
この垂飾には、紋織(もんおり/文様を織り出した織物)や、染めが施された裂、22種類が使用されています。
全体のかたちだけでなく、各裂の特徴など細部まで注目していただきたい作品です。ぜひ、展示室では裏面もご覧ください!

 

次に、「紺地菩薩立像描絵平絹(こんじぼさつりゅうぞうかきえへいけん)」をみてみましょう。細長い紺色の裂に、黄色の絵具で絵が描かれています。これに似た裂が、当館には数点認められます。


紺地菩薩立像描絵平絹
中国・敦煌 曹氏帰義軍期敦煌・9~10世紀 莫高窟 大谷探検隊将来品



紺地菩薩立像・唐草文描絵平絹
中国・敦煌 曹氏帰義軍期敦煌・9~10世紀 莫高窟 大谷探検隊将来品


よく見ると、裂の中央にはリボンや右足先が描かれています。
フランス・ギメ東洋美術館には近しい作品が残っており、それらから全体像を推定することができます。
ここに示したのは「紺地菩薩立像描絵平絹」につながるであろう、菩薩像の顔の復元想定図です。これらの裂は、本来は立ち姿の菩薩像が何体も縦に連なる長大な幡(ばん/寺院でかかげる旗)であったと考えられます。

 

菩薩立像頭部 想定復元図(作成:沼沢)

 

最後に、「刺繡如来立像・唐草文断片(ししゅうにょらいりゅうぞう・からくさもんだんぺん )」をご紹介します。
こちらは、すべて鎖繡(くさりぬい/チェーン・ステッチ)で表された裂です。8世紀製作の作品とは思えないほど、鮮やかな色を残しています。
左手部分を拡大してみると、輪郭や衣など部分によって細かに色糸を使い分けており、縫い目ひとつ分の大きさもそろっていることがわかります。まさに、精緻を極めた刺繡技術です。
この作品は、1915年から1916年にかけて発刊された、選りすぐりの大谷探検隊将来作品を集めた図録、『西域考古図譜』にも掲載されています。優品に位置づけられるのも納得の作品です。



刺繡如来立像・唐草文断片
中国 唐時代・8世紀 伝敦煌莫高窟あるいはムルトゥク 大谷探検隊将来品 梅原龍三郎氏寄贈


同作品 組織拡大写真(50倍)

 

2週にわたって、特集「再発見!大谷探検隊とたどる古代裂の旅」の見どころをお伝えしました。
裂ひとつひとつは、実は多くの情報を秘めています。この展覧会を準備するにあたり、たくさんの裂を調査し、私たちも多くのことを再発見しました。
皆様独自の見方で裂をじっくり堪能していただき、昔のトルファン、敦煌の様子や、大谷探検隊の旅の風景を想像していただければ幸いです。悠久の時を刻んだ裂が、皆様をお待ちしております!

カテゴリ:特集・特別公開博物館でアジアの旅東京国立博物館創立150年

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posted by 沼沢ゆかり(保存修復室) at 2022年10月12日 (水)

 

特集「再発見!大谷探検隊とたどる古代裂の旅」その1「トルファン出土裂」

こんにちは、登録室の廣谷です。現在東洋館5室では、創立150年記念特集「再発見!大谷探検隊とたどる古代裂の旅」(~12月4日(日))を開催中です。「博物館でアジアの旅 アジア大発見!」にちなみ、「発見!」に関わる作品もご紹介しています。

 
20世紀前半、京都・西本願寺の大谷光瑞(おおたにこうずい)は、仏教が日本に伝わった道を明らかにすべく、中央アジアに調査団を派遣しました。この調査団を、「大谷探検隊」といいます。
本展でご紹介する裂の多くは、第3次大谷探検隊の橘瑞超(たちばなずいちょう)と吉川小一郎(よしかわしょういちろう)が、中国西北部や新疆で収集しました。
 
仏教東漸の道を遡るように、日本から海を渡り、砂漠を渡り…。かつてオアシスに栄えた都市の遺跡で、彼らが旅の途中に「発見」した裂はどのようなものだったのでしょうか。
本展では、探検隊の「発見」と当館の調査による「再発見」、探検隊の「旅」と古代裂の「旅」がリンクするように、大谷探検隊の旅路を辿りながらそれぞれの裂の魅力をご紹介しています。
 
 
第3次大谷探検隊の旅程概略(作成:廣谷)
 
 
今回は、タリム盆地北東部に位置するトルファン(現在の中国・新疆ウイグル自治区吐魯番。上記地図参照)で出土した裂に注目します。いずれも年代は6~7世紀ごろと考えられ、この頃トルファンにあった麴氏高昌国(きくしこうしょうこく)は、仏教を貴び、中国と西アジアの交易を中継して栄えていました。本展では、住民が埋葬される際に着用していた衣服や副葬品を展示しています。
まずは、こちらをご覧ください。
 
 
 
上:赤茶地幾何花文錦(部分) 中国・トルファン 麴氏高昌国時代・6世紀~7世紀前半 アスターナ・カラホージャ古墓群出土 大谷探検隊将来品
下:上記作品の顕微鏡撮影写真
 
 
この裂は高昌国の女性が着用していました。本来は鮮やかな紅と白であったのでしょう、大胆な花文がおしゃれです。経糸と緯糸を1本ずつ互い違いにし、数色の緯糸で文様を織り出す、「平組織緯錦(ひらそしきぬきにしき)」という技法を用いていますが、同時代の中国中央の錦にはほとんど例がなく、タリム盆地周辺でつくられた現地産の錦と考えられます。
 
 
 
 
上:赤地渦輪違文入鳥獣人物文綾(部分拡大) 中国・トルファン 麴氏高昌国時代・6世紀~7世紀前半 アスターナ・カラホージャ古墓群出土 大谷探検隊将来品
下:上記作品の、文様全体の描き起こし図(作成:沼沢)
 
 
一方こちらの裂は、中国で織られ、トルファン(高昌国)に伝わった綾です。渦の輪のなかに、中国の龍(黄色)や、西アジアの皇帝像(青色)などを織り出しており、中国南北朝時代の東西交流の影響を思わせます。この裂の調査中、表面にあじろ編みの痕がついていることが判りました。遺体を安置するござの上に敷かれていた可能性が考えられるでしょう。
 
 

赤地格子連珠花文錦 中国・トルファン 麴氏高昌国~唐西州時代・7世紀 アスターナ・カラホージャ古墓群出土 大谷探検隊将来品

重要文化財 蜀江錦帯(法隆寺献納宝物)(部分)  飛鳥時代・7世紀
※展示予定はありません

 
 
東西交流の観点でもうひとつ。この裂は副葬品の一部と考えられ、格子の中に蓮華文を小さな珠を連ねて飾っています。じつは日本の奈良・法隆寺にも、よく似た文様をもつ錦が数点伝来しています。
軽く華麗な中国の錦は当時、交易や外交を通じてユーラシア大陸に広がりました。それぞれの旅の終点として、これらの古代裂をいま日本でみることができることには数奇な巡りあわせを感じます。
 
 
展示風景(トルファン出土品)
 
 
執筆者は展示準備をしながら、これらの裂を身に着けた人物が、何に喜び、トルファンでどのような一生を過ごしたのかについて考えていました。残念ながらこれらの裂だけではわかりえませんが、錦や綾などの貴重な染織品を纏う姿からは、周囲の人々に丁重に葬られたことがうかがえます。
みなさまもぜひ、会場でじっくりとこれらの裂をご覧になり、ご想像いただければ幸いです。
 
来週は、沼沢研究員にバトンタッチし、敦煌莫高窟で収集された裂について深掘りします!

 

カテゴリ:特集・特別公開博物館でアジアの旅東京国立博物館創立150年

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posted by 廣谷妃夏(登録室) at 2022年10月05日 (水)

 

特集「中国書画精華―宋代書画とその広がり―」その1「アジア大発見!」

現在、東洋館8室では、日中国交正常化50周年 東京国立博物館150周年 特集「中国書画精華―宋代書画とその広がり―」(前期:~10月16日(日)、後期:10月18日(火)~11月13日(日))が展示中です。

 
東洋館8室 展示風景

 

「中国書画精華」は、毎年秋恒例となった、当館所蔵および寄託の中国書跡・絵画作品の名品展ですが、前期は「博物館でアジアの旅 アジア大発見!」にちなみ、「発見!」に関わる中国書画をいくつか紹介しています。
中国絵画では、伝趙昌(ちょうしょう)筆「竹虫図軸(ちくちゅうずじく)」と伝陳容(ちんよう)筆「五龍図巻(ごりゅうずかん)」に「発見!」マークがついています。



重要文化財 竹虫図軸 
中国、伝趙昌筆 南宋時代・13世紀 10月16日(日)まで展示

 

このうち、「竹虫図軸」については、以前1089ブログ「名品の名品たる所以―伝趙昌筆「竹虫図」の場合―」で紹介しましたので、今回は「五龍図巻」にまつわる「発見!」エピソードをお話しします。

 


重要文化財 五龍図巻(部分)
中国、伝陳容筆 南宋時代・13世紀 10月16日(日)まで展示

 

作者と伝わる陳容(号所翁)は、13世紀、南宋時代末期に活躍した文人画家です。
現在の福建(ふっけん)省の出身で、特に龍を描くのを得意にしたと伝わります。

 


五龍図巻(巻頭部分)

 

龍は、雲を湧き起こして、雨を呼び、地上に水をもたらす神獣とされます。
このため中国では、決まった形をもたない雲霞と一体化させて、龍の変化の姿を表現することが重要であるとされてきました。
歴史書によれば、陳容はその変化の姿をとらえるため、酒を飲んで酔っ払い、服装にもかまわず、手に墨を塗りたくって制作にのぞんだといいます。
墨をはね散らかして雲を、口に含んだ墨を噴き出して霧を表現した、と伝わるその激しく自由な龍の図は、以後、龍を描く画家にとっての古典となりました。

 


五龍図巻(巻末部分)

 

「五龍図巻」は、龍に呼応して波立つ水面から始まり、雲や岩の間にからみあって見え隠れする5匹の龍、水量を増して激しく流れ落ちる滝を描きます。
明暗を強調した雨雲の広がり、迫力ある水の流れ、そしてそのような自然現象と一体化してうごめく龍の姿は、歴史書にいう陳容の龍の図を彷彿とさせます。

 

さて、近年の研究により、この「五龍図巻」と同じ図様を含む画巻が、アメリカのプリンストン大学美術館、メトロポリタン美術館、ボストン美術館に所蔵されていることが「発見!」されました。

プリンストン大学美術館の作品は、合計12匹の龍を描き、8メートルを超える長大な画面を誇ります。
この8匹目から12匹目の図様が「五龍図巻」と一致しているのです。
また、メトロポリタン美術館の作品はプリンストン美術館の3匹目から4匹目、ボストン美術館の作品は4匹目から7匹目と同じ図様です。

当館所蔵の「五龍図巻」を含む、以上4つの作品の前後関係は今後の研究課題ですが、12匹の龍の図様から複数の作品が派生していったことはまちがいなさそうです。
その意味では、これらの作品は兄弟ともいえるでしょう。

 

陳容の龍の図は、東アジアで広く人気を集めました。
今後、「五龍図巻」の新たな兄弟が「発見!」される可能性もあります。楽しみに待ちたいと思います。

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡博物館でアジアの旅東京国立博物館創立150年

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posted by 植松瑞希(絵画・彫刻室) at 2022年09月27日 (火)

 

特集「未来の国宝」より 白瑠璃埦の物語

こんにちは、考古室研究員の山本です。

研究員イチ押しの作品を紹介する企画「未来の国宝」、このたび彫刻・工芸・考古の展示がはじまりました。
創立150年記念特集「未来の国宝―東京国立博物館 彫刻、工芸、考古の逸品―」と題して、本館14室を会場に、2022年9月6日から12月25日の展示期間を3期に分け、考古・漆工・陶磁の作品を展示します。

そのトップバッターとして、考古分野から白瑠璃埦と、それにまつわるエピソードをご紹介します。


重要文化財 白瑠璃埦 ササン朝ペルシア 大阪府羽曳野市 伝安閑陵古墳出土 古墳時代・6世紀 クラブ関西寄贈 ガラス製
2022年9月6日(火)~10月10日(月・祝)まで展示



このガラス製の埦について、考古展示室では長らく「ガラス埦」としてご紹介してきましたが、令和元年の特別展「正倉院の世界」で正倉院宝物の白瑠璃埦とともに展示されたことを機に名称を「白瑠璃埦」としました。
ご存じの方も多いかと思いますが、この埦と正倉院宝物の白瑠璃埦は大きさや切子の段数や数がほぼ同じで、兄弟埦とも呼ばれることがあります。
これまでこの2つの埦が同時に並べられたのは3度のみ。
うち2回は関係者や専門家しか見ることができませんでしたが、特別展「正倉院の世界」ではついに展覧会の場で多くの皆様がご覧になれる機会となったのでした。

これらの埦はソーダ石灰ガラスという種類の素材で、ササン朝ペルシア(3~7世紀)の領域で作られました。
かつてはイラン高原でよく出土することから現在のイランで作られたと考えられていましたが、最近では現在のイラクにあたるメソポタミア地方を中心に作られたものとされています。
これほど遠く離れた場所からはるばる日本へと運ばれてきた2つの埦。
当館の埦が出土した安閑陵古墳は6世紀の古墳であり、また正倉院に宝物が納められたのは8世紀のことですから時代に大きな差はあるのですが、2つの埦に秘められた数奇な運命を想起せざるを得ません。
そうした想いから、作家の井上靖さんが短編小説「玉碗記」を著したことも有名です。

そしてこの埦は、出土してから当館に収蔵されるまでの間にも、多くの変転の道のりを歩みました。

ここでそのエピソードをご紹介します。
この埦が出土したのは戦国時代とも江戸時代とも記した文書がありますが、史料が多く信用が置ける江戸時代説が有力です。出土したのは元禄年間と考えられています。
古墳が崩れ、中からこの埦が出土したとされています。
外箱の箱書きによれば、安閑陵古墳(高屋築山古墳)を含む土地を当時所有していた森田家(屋号は神谷)から、近くの古刹である西琳寺に寄進されたことが分かります。
この外箱の箱書きによって、この埦が安閑陵古墳から出土したという伝承に信憑性が与えられるのです。


外箱底面の箱書き


円筒形の内箱、その蓋には大きく「御鉢」の2文字。


内箱蓋の題字「御鉢」


内箱見込みの揮毫


内箱の身の見込みには京都の上賀茂神社の神職で、寛政8年当時に書博士として活躍していた賀茂(岡本)保考の揮毫があり、京都の聖護院門跡であった盈仁(えいにん)法親王がこの題字を書いたことがわかります。
内布には時期が遡るであろう古裂が、仕服には唐織の裂が使われており、これらをみても大変珍重されていたことが分かります。


白瑠璃埦と付属品一式


この埦が西琳寺に寄進されたころにはちょうど国学が隆盛していたこともあり、この埦は多くの文人たちの目に留まることになりました。
藤貞幹(とうていかん)や太田南畝(蜀山人)(おおたなんぽ(しょくさんじん))らの著した書物には、しっかりとその存在が記されています。
そのころにはすでに漆で接いだ状況を確認できる絵図があるので、江戸時代には現在みられるような姿になっていたことがわかります。
日本近代東洋考古学の父と呼ばれる原田淑人は、江戸時代にすでに修復が行われた証拠としてこの黒漆接ぎを「治療してはいけない傷跡」と評しています。


最も欠けが多い部分。CT撮影によって、隙間が大きい箇所には木片が詰められていることが分かりました


ところが明治時代に入ると危機が訪れます。廃仏毀釈の影響で行方不明となるのです。
幻の存在となったこの埦に再び光が当たるようになったのは戦後、昭和20年代のことでした。
大阪の旧家に収められていたのがわかり、有志の努力によって当館に収められることとなったのです。

江戸時代に出土したのち、珍重され多くの人々の関心を引いた白瑠璃埦。
危機を迎えたのち、多くの人々の手によって再び脚光を浴びるようになりました。
その道筋をたどると、未来に向けて文化財を守り伝えていく使命をあらためて強く感じます。
 


創立150年記念特集 未来の国宝―東京国立博物館 彫刻、工芸、考古の逸品―
重要文化財 白瑠璃埦 ササン朝ペルシア大阪府羽曳野市 伝安閑陵古墳出土 古墳時代・6世紀 クラブ関西寄贈
[2022年9月6日~2022年10月10日まで展示]

 

カテゴリ:考古特集・特別公開

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posted by 山本 亮(考古室) at 2022年09月06日 (火)

 

没後700年 趙孟頫とその時代—復古と伝承— その3・ ラブハンコ 趙孟頫と篆書篆刻

台東区立書道博物館の中村です。 
現在開催中の「没後700年 趙孟頫とその時代―復古と伝承―」(2月27日(日)まで)は、台東区立書道博物館と東京国立博物館の連携企画第19弾にあたります。
今回のブログでは、展示作品のなかでも印章に着目してご紹介します。

中国において印章の使用が認められるのが戦国時代です。 
紙の発明などまだまだ先の当時、印章は盛られた粘土に押されました。
紙が普及するとともに印章は朱で押されるようになります。
印章そのものは大型化しますが、余分な朱で紙面を汚さないように、印面の字の線は細身に作られました。
中国歴代の印章は、時代によって全体の姿や字の書風の変化を見ることができます。

台東区立書道博物館では、元時代に使用された印章を展示しています。
役所で用いられたであろう印章は軽量で背が低く作られ、軍事用の印章は青銅をふんだんに用いた丈夫なつくりとなっています。


「呉興」朱文円印 (ごこう しゅぶんえんいん) 印影
元時代・13〜14世紀 台東区立書道博物館蔵【書道博通期展示】
趙孟頫の故郷の役所で使用されたと考えられている印章です。


「元師左監軍印」朱文方印(げんしさかんぐんいん しゅぶんほういん) 印影
元時代・13〜14世紀 台東区立書道博物館蔵【書道博通期展示】

そして元王朝初代、世祖クビライ・カアンから帝師と仰がれたチベット僧のパスパ(八思巴)が作った文字による貴重な作例「蒙古軍万戸府経理司印」が展示されています。


パスパ文字印の展示風景(於:台東区立書道博物館)


「蒙古軍万戸府経理司印」朱文方印(もうこぐんばんこふけいりしいん しゅぶんほういん) 印影
元時代・13世紀 台東区立書道博物館蔵【書道博通期展示】 

南宋の高宗皇帝や王羲之の書を学び、上品で美しい楷書や行書で知られる趙孟頫(ちょうもうふ)は、篆書・篆刻にも情熱を注ぎました。
書画作品をつくり、署名して最後に印を押すようになるのが宋時代。
この頃は、象牙や金属などの材に文人が字を反転させて配置したあとに職人が刻む、という方法でした。
軟質の石材に文人が刀を揮うのは、趙孟頫より少しあとの世代の王冕(おうべん)に始まるといいます。
趙孟頫の書や所蔵品に見かける、動きの豊かな字姿の「松雪斎」、のんびりとした味わいの「趙氏子昂」などの印は、趙孟頫自身が字を入れたのでしょう。
趙孟頫の書を刻む専門の工人として茅紹之(ぼうしょうし)の名が記録されており、彼の刻でないと趙孟頫は腕を振るわなかったといいますが、印章においても腕を見込んだ工人がいたのでしょう。
図版は、趙孟頫が愛蔵した「絳帖」【書道博通期展示】に押された朱文印「松雪斎」の印影です。
700年も昔の印影ですから、すっかり朱色が疲れているのがご覧頂けるかと思います。


絳帖(こうじょう) 部分 (「松雪斎」印影)
潘師旦(はんしたん)編  北宋時代・11世紀頃 台東区立書道博物館蔵【書道博通期展示】

趙孟頫は、漢~魏時代を中心とする古代の印を模刻し、考証を付した『印史(いんし)』二巻を著したといいます。
趙孟頫に親しい友人のなかには吾丘衍(ごきゅうえん)という古文字の研究家もいましたから、古印の鑑賞と研究も活発に行われていたのでしょう。
趙孟頫は主に漢時代の印章に注目したため、漢時代の印章を範とする者が続きました。

趙孟頫の篆書は、「楷書玄妙観重脩三門記巻」【東博通期展示、場面替えあり】などにも登場します。
今日の私たちは清朝碑学派(ひがくは)たちの迫力に満ちた篆書作品に慣れてしまって、趙孟頫の篆書では物足りなく感じるかもしれません。
この碑学派たちより500年も前の時代、華やかな行書・草書の筆法を押し殺して均一に徹した線質、縦画の終筆の際にスッと筆を引き抜く筆法を見ると、趙孟頫の篆書の深い習熟のさまをうかがうことができます。
元時代は中華文化の停滞期というイメージを抱きがちですが、石碑の題額を中心に作例が多く残され、趙孟頫をはじめとして篆書に優れた書人も少なからずいました。


[参考]
楷書玄妙観重脩三門記巻(かいしょげんみょうかんじゅうしゅうさんもんきかん)(部分)
趙孟頫筆 元時代・14世紀 東京国立博物館蔵【東博通期展示、場面替えあり】 
※篆書の場面(画像)は展示終了いたしました。

北宋時代に古印鑑賞が興り、元時代に趙孟頫たちが篆書作品を作り、またその篆書を印に配置する。
元末明初期に王冕が軟質の石材に直接刀を揮って印を作り、明時代中頃に篆刻が文人たちのたしなみの一つとして定着するという、文人趣味の歴史の流れを追うことのできる今日、趙孟頫の存在が王羲之書法の伝承だけにとどまらないことを教えてくれます。 
 

没後700年 趙孟頫とその時代―復古と伝承―

編集:台東区立書道博物館
編集協力:東京国立博物館
発行:公益財団法人 台東区芸術文化財団
定価:1,200円(税込)
ミュージアムショップのウェブサイトに移動する

 

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 中村信宏(台東区立書道博物館主任研究員) at 2022年02月10日 (木)