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1089ブログ

大彦のきものと「彦根更紗」

本館2階、特別1室・特別2室では特集「モダンきもの―名門「大彦」の東京ファッション―」を開催中です(12月8日(日)まで)。
すでにご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんが、会場には今の私たちから見ても、とても素敵で「おしゃれ」と感じるきものが、一堂に会しています。大彦創業者である野口彦兵衛(のぐちひこべえ、1848~1925)、その次男であり二代大彦を継いだ野口眞造(1892~1975)を筆頭に制作されたデザインは、いつまでも新しさを感じさせるものといえるでしょう。そして、それを形づくるための染め・刺繡の高い技術もまさに圧巻です。

特別1室には、5枚の「彦根更紗(ひこねさらさ)」と呼ばれる、更紗裂(さらさぎれ)も展示しています。東京国立博物館は、彦根更紗を450枚一括して収蔵しており、この作品は当館を代表する名品のひとつです。
「さらさ」とは、主に17世紀より交易を通じて日本にもたらされた、染めによる裂を指し、日本ではよく「更紗」の漢字をあてています。その起源はインドにあり、大航海時代を皮切りにヨーロッパや日本を含む、世界中に輸出されるようになりました。オリエンタルな模様だけでなく、茜や藍が映える鮮やかな色遣い、洗っても色落ちしない堅牢(けんろう)な染めは、当時においては非常に画期的なものだったのです。更紗は交易における商品であったことから、輸出先の地域の好みに合わせて、模様が染められました。たとえば、展示中の「黒地扇散文様更紗(扇手)(彦根更紗)(くろじおうぎちらしもんようさらさ おうぎで ひこねさらさ)」は、まさに日本向けと考えられるものです。

 
黒地扇散文様更紗(扇手)(彦根更紗)
インド 野口彦兵衛旧蔵 18世紀

次第に、更紗は世界各地で模倣製作も行われるようになります。インドネシアのろうけつ染めによるバティック、木版や銅板捺染を用いたヨーロッパ更紗をはじめ、「和更紗」と呼ばれる日本製の裂もそのひとつです。日本では、インドの更紗だけでなく、これらの模倣製作も含めて「更紗」と称しています。

彦根更紗は、一部和更紗も収めているほか、インド更紗の中でもインド国内向け、ペルシャ向け、ヨーロッパ向け……など多種多様の更紗を含んでいます。まさに「更紗の宝箱」です。

彦根更紗がなぜこの特集に?と思われるかもしれません。彦根更紗は、作品名の通り彦根藩井伊家伝来の品ですが、昭和48年に当館に収蔵されるきっかけとなったのが野口眞造なのです。それだけでなく、野口彦兵衛・眞造父子は、非常に更紗を愛好していたことでも有名でした。更紗に対する深い研究成果が、大彦の高い評判へとつながったとも言われ、並々ならぬ情熱を持っていたことがわかります。それは実際に大彦のきものをみても、十分に伝わってきます。

着物 染分縮緬地更紗切継模様(きもの そめわけちりめんじさらさきりつぎもよう)
大彦作 昭和30年代・20世紀 渡辺眞理子氏寄贈
名古屋帯 染分平絹地変わり菱花卉更紗模様(なごやおび そめわけへいけんじかわりびしかきさらさもよう)
大彦作 昭和30年代・20世紀 渡辺眞理子氏寄贈

 

実際に、いくつもの更紗裂を切り継いできものを仕立てることが、近代以降流行していたようですが、「切り継ぎ」自体をひとつのデザインとしています。それだけでなく、古渡りの裂にみられる更紗模様を踏襲しながらも、柔らかな色遣いや輪郭線で表現することで、いっそうまとまりのある模様になっています。

 
着物 染分縮緬地更紗切継模様(部分)

「着物 染分縮緬地更紗切継模様」の中央上には、先ほどあげた扇手に近い模様も見えますね。このほかにも、実は三つ巴の模様や、虫の模様なども彦根更紗に類例を見ることができます。更紗裂にまなび、新たな制作へとつなげていったことが、作品からも読み取れるのです。更紗は、大彦にインスピレーションを与えていたものだったのでしょう。

展示室では、彦根更紗とこのきものや帯を見比べられるように展示しています。ぜひ、特集「モダンきもの―名門「大彦」の東京ファッション―」(特別1室・特別2室、12月8日(日)まで)でご覧いただけますと幸いです。

 

特集「モダンきもの―名門「大彦」の東京ファッション―
会期:2024年10月29日(火) ~ 2024年12月8日(日)
会場:本館特別1室・特別2室
(注)会期中、展示替えはありません

当館ミュージアムショップで本特集の図録を販売中
全40ページ 1,870円(税込)

 

カテゴリ:特集・特別公開

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posted by 沼沢ゆかり(文化財活用センター研究員) at 2024年11月25日 (月)

 

二代大彦・野口眞造の昭和モダンきもの

現在、本館特別1室、特別2室で特集「モダンきもの―名門「大彦」の東京ファッション―」(12月8日(日)まで)を開催しています。
明治8年(1875)、東京の日本橋に創業した呉服商・大彦(だいひこ)の二代目を継いだ野口眞造(のぐちしんぞう、1892~1975)が手がけた昭和のきもの約20件のほか、初代大彦が収集した江戸時代の小袖や更紗裂(さらさぎれ)等を展示しています。


特集「モダンきもの―名門「大彦」の東京ファッション―」の展示風景

大彦を創業した初代・野口彦兵衛(ひこべえ)は、伝統的な京都風の染(そめ)に対して、東京ならではの染をつくることを志します。明治20年頃、江戸川上流に染工場を立ち上げて職人を養成するかたわら、染の技術やデザイン、加飾において、東京らしさを念頭にさまざまな考案を重ねました。やがて大彦のきものは「大彦染(だいひこぞめ)」と呼ばれ、明治後期には東京名物として一世を風靡します。

初代大彦は、新しいものを生み出すには「ものに対する見聞を広くし、鑑識を高め、その取捨に明敏でなければ」と考え、江戸時代の小袖、とくに友禅染(ゆうぜんぞめ)による優品を数多く収集しました。初代が集めた小袖(大彦コレクション)は、二代大彦・野口眞造によって昭和40年代にすべて当館の所蔵となりました。


右:重要文化財 振袖 白縮緬地梅樹衝立鷹模様(ふりそで  しろちりめんじばいじゅついたてたかもよう) 野口彦兵衛旧蔵 江戸時代・18世紀
初代大彦が収集した江戸時代の友禅染の逸品

左:訪問着「鷹に衝立」(ほうもんぎ たかについたて) 野口眞造(大彦)作 昭和3年(1928)頃 渡辺眞理子氏寄贈
大彦コレクションが当館の所蔵となって半世紀以上、ひさびさの再会です

大彦が収集した江戸時代の小袖コレクションと初代・野口彦兵衛については、2015年開催の特集に関連した記事で紹介しています。
1089ブログ「呉服商「大彦」の小袖コレクションと野口彦兵衛」を読む

前述の記事でもふれていますが、古代織物の研究と復元で知られる初代・龍村平蔵(たつむらへいぞう、1876~1962)と初代大彦は、工芸家として互いに尊敬の念を抱き、深交を結びました。大正14年(1925)に初代大彦が没したのち、二代大彦となった野口眞造を染色工芸家の道へと導いたのもまた、龍村平蔵の言葉でした。

大正期、30歳前後の野口眞造は、兄の功造(こうぞう)とともに玉川沿いの染工場で合成染料による浸染(しんせん)や機械捺染(なっせん)といった量産型の染色業に打ち込んでいました。眞造自身は、染色業の新しい技術開発に明け暮れる日々は楽しかったと述懐しますが、初代大彦と親交のあった政治家(清浦奎吾)や研究者(正木直彦)等は、大彦の行く末を心配していました。初代大彦が没したのち、龍村平蔵は兄弟を訪ね、「こういう仕事は他にもする人がある。ただし先代が残した仕事は、君たちがやるべきだし、また君たちよりやる人がない」と、工業的な仕事は辞めて父の遺した工芸的な仕事をするべきだという忠言をします。その後、兄の功造は大彦の本家大黒屋から名をとって大羊居(たいようきょ)を興し、弟の眞造が大彦の二代目を継ぎ、それぞれが染色という工芸を究める道を歩むこととなりました。


訪問着「鷹に衝立」(部分)

二代大彦となった野口眞造はまず、父より受け継いだコレクションを参考に、江戸時代の小袖の復元に取り組みます。復元にあたっては、模様に特徴のあるもの、染色技術が難しいものから選んで染料や技法を調べ、小裂(こぎれ)に試験染を繰り返し、原品と見比べて精度を高めていきます。昭和3年(1928)、完成した20領ほどの復元きものを原品とともに展示し、初代大彦の頃からの知己に好評を得ます。こうした実証的研究を通じて得られた感覚と成果は、眞造の染色家人生において揺るがぬ基盤となりました。

訪問着「シャルトルのノートルダム」
野口眞造(大彦)作 昭和40年代・20世紀 渡辺眞理子氏寄贈
訪問着「シャルトルのノートルダム」(部分)

 

江戸の小袖という古典に学ぶかたわら、野口眞造は昭和という時代に合った創作きものを模索しました。昭和29年(1986)、アメリカのシアトルからニューメキシコ、ニューヨークなどへおもむき講演やファッションショーに参加した後、ヨーロッパへ渡り各都市を歴訪します。半年間にもおよぶ欧米での見聞の成果は、眞造の手がけるきものデザインの昇華となってあらわれます。


黒留袖「鸚鵡のいる風景」(部分)
野口眞造(大彦)作 昭和30~40年代・20世紀 渡辺眞理子氏寄贈
油絵のような濃厚なタッチの友禅染に、オウムの羽毛のように見える刺繡の技が光ります

眞造は、自らの感性から湧き出る詩情をきものにあらわすことに楽しみを見出し、その感覚を「文学する染色」とよびました。まず詩があって、それに見合う染や繡(ぬい)を施してきものになると考えたのです。
詩情あふれるモダンデザインと独創的な染繡に彩られた大彦のきものは、一時の流行に左右されることのない「美術衣裳」であり、当時の女性たちはもちろん今も多くの人びとを魅了します。


訪問着「緑の中のくれない」(部分)
野口眞造(大彦)作 昭和30年代・20世紀 渡辺眞理子氏寄贈
緑一色におおわれし森の奥深く、じんせき(人跡)容易に至らざるところ、一連の彩花咲く。染色にうつして、君に見せばや。
(野口眞造編『染繡美術衣裳集』昭和34年より抜粋)

 

特集「モダンきもの―名門「大彦」の東京ファッション―
会期:2024年10月29日(火) ~ 2024年12月8日(日)
会場:本館特別1室・特別2室
(注)会期中、展示替えはありません

当館ミュージアムショップで本特集の図録を販売中
全40ページ 1,870円(税込)

 

カテゴリ:特集・特別公開

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posted by 髙木結美(平常展調整室) at 2024年11月13日 (水)

 

特別展「はにわ」10万人達成!

開催中の挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」(12月8日(日)まで)は、来場者10万人を突破しました。
これを記念し、神奈川県からお越しの田中さん親子に、当館館長の藤原誠より記念品を贈呈いたしました。


記念品贈呈の様子。田中さん親子(中央、右)と「着るはにわ 挂甲の武人ルームウェア」を着た藤原館長(左)

お母様の純子さんが埴輪にご興味があり、娘の友菜さんを特別展「はにわ」にお誘いになったそうです。

当館の国宝「埴輪 挂甲の武人」とよく似た埴輪4体をはじめ、全国各地から空前の規模ではにわが集結しています!
約半世紀ぶりの東京国立博物館でのはにわ展、ぜひお見逃しなく。

カテゴリ:「はにわ」

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posted by 小松亜希子(広報室) at 2024年11月06日 (水)

 

「ふしぎな仁清」の金銀彩

タイトルにある「ふしぎな仁清」というのは、「走泥社(そうでいしゃ)」の中心メンバーとして知られる陶芸家八木一夫(やぎかずお、1918~79)のエッセイ(『芸術新潮』1969年3月号)です。実際に美術館で仁清の茶壺を観たときのことを次のように書いています。

「これだ、ああ、とおもった仁清の茶壺にだけは結局納得できなかった。ひとつは、ほとんど観念的に仁清の仕事そのものを高次元に置いていたのが、がくと私の内部で崩れたことなのだが、従ってこの場の仁清好尚への意味が、私にとってふしぎに、そして気味悪くも感じられ出してくるのだった。」
(「ふしぎな仁清」より一部抜粋)

仁清の作品といえば、20件以上も国宝や重要文化財に指定されており、日本のやきもののなかで圧倒的な知名度があります。
ただ、2017年に当館で開催した特別展「茶の湯」で江戸時代前期を代表するいくつかの仁清作の茶器を各地の美術館から拝借した際、私も図録や本の写真で知る姿とだいぶ違うと感じたことがありました。はっきり言ってしまえば絵付けの細部がつたなく、写真のほうが断然よく見えるのです。八木の場合、心理的な混乱によってまともに鑑賞することができない状況について「作品の弱さ」だけでなく「無理に他人から設定された主役の、持たざるを得ぬ悲哀」によるとまで表現し、古美術の評価や茶陶の価値を受け入れる眼や姿勢について自問しています。

しかし、博物館の研究員としては、仁清作品を積極的に評価したいし、高く評価してきた日本陶磁研究について考えてみたいと思いました。
そこで、仁清の絵付けをとりわけ力強く華やかなものにしている「金銀彩(きんぎんさい)」について調べてみることにしました。
これが、現在本館14室で開催中の特集「やきものを彩る金と銀」(12月1日(日)まで)のきっかけとなりました。


特集「やきものを彩る金と銀」の展示風景

日本でやきものに本格的な絵付けが行われるようになるのは、17世紀後半のことです。
この頃、肥前有田(ひぜんありた)では朝鮮半島からの技術に基づいて硬質磁器の生産が始まりました。一方、京都では施釉(せゆう)陶器の生産が隆盛します。そしてこれらの地で色絵、つまり赤や緑、青、紫、黄などの上絵具で装飾した製品がつくられるようになりました。興味深いことに、日本ではこの色絵装飾の草創期から、有田や京都で早くも「金銀彩」が導入されているのです。その先駆的な仁清の絵付けにみとめられるつたなさは、金銀をほかの上絵具といかにして共存させるかという試行錯誤のなかで生じた不具合によるものではないかと私は考えています。

重要文化財 色絵月梅図茶壺(いろえげつばいずちゃつぼ)
仁清 「仁清」印 江戸時代・17世紀
枝や源氏雲の配置に工夫がみられ、曲面ながらのびやかに月梅図を描くことに成功していますが、白梅と月をあらわした銀は黒く変色しています。
色絵月梅図茶壺(部分拡大)
梅花の輪郭に銀が侵食して、本来金彩の部分まで、硫化によって黒くなってしまっているところがみられます。

 

ちなみに銀彩は空気にふれると硫化(りゅうか)して黒く変色する性質があり、そのためか中国のやきものではほとんどみられません。有田でも硬質磁器における銀彩は17世紀後半の一時期に限られますが、京都では素地や賦彩(ふさい)に工夫を凝らしながら、金彩も銀彩も仁清以降継続して行われてきました。それは幕末の永樂(えいらく)家の作陶、明治期の輸出向け製品を経て、現代作家の仕事にも脈々とつながっています。
つまり「金銀彩」は、中国や朝鮮半島からの影響のもとに始まった日本のやきものの独自性や発展性を象徴するものと言えるのではないでしょうか。


重要文化財 柿釉金銀彩牡丹文碗(かきゆうきんぎんさいぼたんもんわん)
中国・定窯 伝中国陝西省楡林出土 北宋時代・11~12世紀 井上恒一氏・冨美子氏寄贈
宋時代を代表する白磁窯、華北の定窯(ていよう)の製品には、金彩をほどこした一群が知られています。
本作品はその「金花定碗(きんかていわん)」の代表作であり、金彩で牡丹をあらわし、口縁には銀を帯状に塗っています。




色絵七宝文盃洗(いろえしっぽうもんはいせん)
永樂和全作 江戸~明治時代・19世紀 横河民輔氏寄贈
器の外面は布を置いて絵付けをする「布目手(ぬのめて)」で七宝文をあらわし、見込みは刷毛で銀を塗っています。
異なる方法で「金銀彩」を効果的に取り入れた和全の技が光ります。


このたびの特集「やきものを彩る金と銀」では、中国宋時代の定窯で行われた「金銀彩」の貴重な例を皮切りに、明・清時代の金彩、日本の有田、京都を中心とした江戸から明治期のバラエティに富んだ「金銀彩」について、時代を追いながら紹介します。また、酸化銅や酸化銀を呈色剤(ていしょくざい)に用いたイスラーム陶器のラスター彩もあわせて展示します。
異なる時代や地域の「金銀彩」を比べてみると、日本のやきものの面白さをじわじわと感じていただけるのではないかと思います。

 

カテゴリ:特集・特別公開

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posted by 三笠景子(東洋室長) at 2024年10月28日 (月)

 

古代エジプトの頭飾り

ようやく秋らしくなりました。

東洋館では毎年恒例のイベント「博物館でアジアの旅」(11月10日(日)まで)が開催されております。
今年のテーマは「アジアのおしゃれ」。
東洋館1階のインフォメーションで配布中の「アジたびマップ2024」を片手に、おしゃれにまつわる展示物を探しながら、館内を巡ってみてくださいね。 
 
今回のブログでは2階3室に展示中の古代エジプトの頭飾をご紹介します。
東洋館3室「西アジア・エジプトの美術」 展示風景 
 
 
婦人頭飾断片  伝エジプト、テーベ出土
新王国時代(第18王朝)・前15世紀
 
金の板を加工して作ったU字形の飾りです。ロゼット(花文様)が組み込まれ、カラフルに象嵌されています。
展示品のとおり、複数をつづってリボンのようにして用いました。
 
このタイプのアクセサリーは、トトメス3世(治世:前1479~前1425年頃)の「3人の外国出身の王妃の墓」から大量に見つかっているもので、おそらく、展示作品もその一部です。
つまり、今から3500年前の古代エジプトの王族が身に着けていた装飾品とみることができます。
 
この墓は1916年に盗掘され、出土品が古美術市場に流出しました。
それらの多くはメトロポリタン美術館の所蔵となっています。
同美術館は1930年代に、このタイプの装飾品をウィッグカバーとして復元しました。 
▼メトロポリタン美術館ウェブサイト
 
現在、この復元は全面的に支持されているわけではありませんが、それでも、このイメージにやや近い(もっと短かったとされます)頭飾であったと考えられます。
その場合、1つのピースが1.5g前後なので、全体で1kg近い重さになると推測できます。
実用品としては重すぎるので、セレモニーなどの特別な機会に着用したか、死者のための副葬用のアクセサリーであったのかもしれません。
 
墓に埋葬された3人の王妃、マヌワァイ、マンハタ、マルタはその名前から、もとはシリア方面の都市国家の王女で、若きトトメス3世に嫁いできたと考えられています。
当時のエジプトはハトシェプスト女王が実権を握っていた時代で、3人は、おそらく女王の存命中(前1474~前1457年の間)に亡くなり、一緒に埋葬されました。
疫病によって同時期に亡くなった、後宮での争いに巻き込まれて命を落とした、といった説がありますが、なぜ3人が一緒に埋葬されたのかは謎です。
 
展示室でこのカラフルな頭飾を見つけたら、ぜひ、青緑色や水色のガラスの象嵌材を探してみてください。 
 
色ガラスによる象嵌(ぞうがん)
 
風化していることもあり、美しく見えない?かもしれませんが、実はここが「おしゃれポイント」です!
当時のエジプトではガラスは最先端の素材で、このようなアクセサリーに使われ始めたばかりでした。
ちなみに、ガラス細工は王妃たちの故郷とされるシリアや北メソポタミアで発達していた技術で、3人にとっては馴染みの素材だったと想像できます。
 
この王妃たちが亡くなった後、単独の王となったトトメス3世はシリア方面へ軍事遠征を繰り返し、エジプトの版図をアジアへと拡大させていきます。
この過程でシリアのガラス生産技術がエジプトに伝わり、王室工房で高品質なガラス器が生産されるようになったとされます。
特に、エジプトで作られるコバルトによる青色ガラスは高級なアクセサリーの素材として地中海・西アジアで取引されました。
 
その一例が、同じ展示ケースに並ぶ青色ガラスのアクセサリーです。
頭飾・首飾 ギリシャ本土 後期ヘラディック時代III期・前14~13世紀頃 個人蔵
 
こちらはギリシャのミケーネ文明の王侯貴族が身に着けた「頭飾・首飾」です。材料の一部はエジプトからもたらされた青色ガラスだと目されます。
 
 

カテゴリ:博物館でアジアの旅

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posted by 小野塚拓造(ボランティア室長) at 2024年10月25日 (金)