1089ブログ「法隆寺金堂壁画と百済観音」展覧会の見どころなどを紹介しています。
展覧会のみどころ
模写で迫る、在りし日の威容
国宝・百済観音、23年ぶりのお出まし
法隆寺金堂壁画とは
西院伽藍(さいいんがらん)に五重塔と並んで建つ金堂には、本尊釈迦三尊像を中心に仏教世界が彫刻、絵画で表現されています。とくに仏菩薩浄土(ぶつぼさつじょうど)を大画面に描き出した壁画12面は、インド風の表現をのこし、中国・唐時代の様式を踏襲した本格的な古代仏教絵画の遺品です。創建当初の法隆寺伽藍は天智9年(670)に落雷による火災で焼失し(『日本書紀』)、その直後に再建されたのが現在の伽藍とみられることから、金堂壁画もそれ以降の近い時期に制作されたと考えられています。
この貴重な壁画を次世代へ継承する取り組みは明治時代から行われ、昭和初期から戦後にかけては、原寸大の写真撮影や画家による模写、合成樹脂による壁画の強化など様々な記録・保存方法が試行されました。昭和24年(1949)1月26日、金堂の解体修理が進められるなか、火災により壁画の大半が焼損。文化財保護法が策定されるきっかけとなり、同日は文化財防災デーに制定されました。焼捐した壁画は保存処置が施され、焼けた金堂部材とともに今も法隆寺に保管されています(非公開)。
模写で迫る、在りし日の威容
「法隆寺金堂壁画」は、釈迦浄土図や阿弥陀浄土図など仏の群像を描いた大壁(高さ約3.1メートル、幅約2.6メートル)4面と、諸菩薩を単独で描いた小壁(高さ同、幅約1.5メートル)8面の計12面から成る巨大な壁画群です。そのしなやかで力強い描線と緻密な色彩によって、インドのアジャンター石窟群や中国の敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)と並ぶ世界的な傑作とされますが、金堂解体修理中の昭和24年(1949)に火災により惜しくも焼損しました。
本展では、焼損前に描かれた模写のうち特に優れたものや、焼損後に再現された現在の壁画などの展示により、この壁画がかつて誇った荘厳な姿に迫ります。
|
法隆寺金堂壁画(模本) 第6号壁 阿弥陀浄土図
桜井香雲模 明治17年(1884)頃
東京国立博物館蔵
【後期展示】
西南大壁の第6号壁は、阿弥陀三尊と諸菩薩が描かれる、いわゆる西方極楽浄土です。後世の模写、写真ではほとんど確認できない化生菩薩(けしょうぼさつ)や化生童子が記録されています。壁画原本は昭和24年金堂火災時に損傷し、阿弥陀如来の頭部が失われましたが、その図様を残すものとしても責重です。
|
法隆寺金堂壁画をめぐる人々
法隆寺金堂壁画はその美術史的な価値だけでなく、さまざまな立場の人によって継承、保護されてきた点においても特別な存在と言えます。明治17年(1884)博物局の依頼によって、大阪の画工 桜井香雲(1840~1902)が開始した全12面の原寸大模写は、現存する最古の本格的な現状模写として特筆されます。
大正~昭和期には、秋田県仙北郡(現大仙市)出身の日本画家 鈴木空如(1873~1946)が、香雲の模写に感銘を受け、生涯で3組36幅の模写を制作しました。同じ頃、国の事業では「法隆寺昭和の大修理」が開始され、京都の印刷会社・便利堂による写真撮影と、安田靫彦(1884~1978)ら日本画家による模写が行われました。
昭和24年(1949)金堂罹災によって昭和の模写は全面の完成には至りませんでしたが、昭和43年(1968)再び安田靫彦、前田青邨(1885~1977)を中心に取り組まれた模写事業により、「再現壁画」が完成され、金堂内を荘厳することになりました。
本展では壁画をめぐる多くの人々の願いや思いがこもった模写の数々を、背景にある物語とともにご紹介します。
|
法隆寺金堂壁画(模本) 第1号壁 釈迦浄土図
桜井香雲模 明治17年(1884)頃
東京国立博物館蔵 【前期展示】
金堂内東南大壁の第1号壁は、釈迦三尊と十大弟子が土坡の上に並ぶ、釈迦浄土図が描かれています。焼損前の保存状態はかなり良かったようで、桜井香雲の模写では在りし日の威容と迫力がとくに強く伝わってきます。
|
|
法隆寺金堂壁画(模本) 第10号壁 薬師浄土図
鈴木空如模 大正11年(1922)
秋田・大仙市蔵
【前期展示】
|
|
法隆寺金堂壁画(複製) 第3号壁 観音菩薩像
便利堂制作 昭和12年(1937)
安田一氏寄贈 【後期展示】
|
|
法隆寺金堂壁画(再現壁画) 第12号壁 十一面観音菩薩像
前田青邨ほか筆 昭和43年(1968)
法隆寺蔵 【後期展示】
写真:便利堂
|
文化財保護の取り組み
~法隆寺金堂壁画保存活用委員会~
聖徳太子1400年大遠忌(令和3年・2021)を目前にした平成27年(2015)、法隆寺は朝日新聞社の支援、文化庁はじめ関係機関の協力により、焼損壁画の保存・継承と一般公開に向けた調在研究を行う学術専門委員会「法隆寺金堂壁画保存活用委員会」を発足しました。
現在、保存環境、壁画、建築部材、アーカイブの専門家による総合的な調査が進められています。岡倉天心の発案により、大正5年(1916)文部省に設置された「法隆寺墜画保存方法調査委員会」に学びながら、世紀を超えて、人類の遺産である文化財を未来へ伝えるために取り組んでいます。
展覧会のみどころトップへ
国宝・百済観音、23年ぶりのお出まし
飛鳥時代を代表する仏像で、”百済観音“の名で親しまれている国宝「観音菩薩立像」は、昭和の初めまで法隆寺金堂内に安置されていました。像高約210センチのすらりとした体謳と柔和な尊顔が生み出す比類なき美しさで、多くの人々を虜にしてきました。1997年にはルーブル美術館で公開され、世界の人々を魅了しています。以降、法隆寺から外に出ることはありませんでしたが、今回23年ぶりに東京で公開されることになりました。さらに、金堂の本尊釈迦三尊像の左右に安置される、国宝「毘沙門天立像」、国宝「吉祥天立像」も出品。金堂ゆかりの選りすぐりの寺宝をご紹介します。
百済観音とは
国宝 観音菩薩立像(百済観音)
飛鳥時代・7世紀 【通期展示】
百済観音の写真すべて:飛鳥園
蓮華座の上にすらりと立ち、左手は下げて水瓶(すいびょう)を軽くつまみ、右手を前方に差し伸べた観音菩薩。両腕と天衣(てんね)を除く本体は頭頂から台座蓮肉(れんにく)までクスノキの一木造りで、お顔や胸、両肩や腰の膨らみには乾漆(かんしつ)が盛り上げられています。頭部が小さく長身の姿は飛鳥彫刻のなかでは特異で、風をはらんだように前方に巻き上がる天衣の流麗な曲線も魅力的です。
国宝 観音菩薩立像(百済観音)
飛鳥時代・7世紀 【通期展示】
百済観音の写真すべて:飛鳥園
宝冠や胸飾り、腕の飾りには、唐草文様を彫り透かした金銅製の金具が用いられており、特に宝冠正面には阿弥陀如来の姿が表わされています。宝珠形をした光背は竹を模した柱に支えられ、その根本には山岳文様が表わされています。広大無辺な大きさであるという観音菩薩の姿を、山岳との対比によって表現したものでしょう。本像は法隆寺金堂に安置されていたことが『元禄諸堂仏体数量記』(1698年)によって知られ、同記録にある「百済国より渡来」との伝承から、大正時代以降は「百済観音」の名で親しまれています。
百済観音の宝冠
江戸時代以来、法隆寺では百済観音を「虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)」と呼んでいました。ところが、明治30年(1897)に「観世音菩薩乾漆立像(かんぜおんぼさつかんしつりゅうぞう)」の名称で旧国宝に指定されたため、法隆寺は名称訂正願を奈良県知事に提出しています。明治時代まで百済観音像は宝冠をつけていませんでしたが、明治44年(1911)に法隆寺の土蔵からその宝冠が発見されます。宝冠の正面には観音菩薩の象徴である阿弥陀如来(あみだにょらい)の姿が表わされていたため、これ以降、観音菩薩であることが確定しました。
国宝 毘沙門天立像
平安時代・承暦2年(1078)
法隆寺蔵 【通期展示】
金堂修正会(こんどうしゅしょうえ)という国家安泰を願う法要の本尊として、吉祥天立像とともに法隆寺金堂に安置されています。左手を逆手に戟の柄を握り、右手に宝塔を捧げ持つ姿で、当初の彩色をよく残しています。
|
|
国宝 吉祥天立像
平安時代・承暦2年(1078)
法隆寺蔵 【通期展示】
毘沙門天の妻とされる吉祥天。左手に火炎宝珠を捧げ、下ろした右手は軽く内側に向けています。穏やかで肉取りの豊かな造形は、見事な彩色文様とともに、平安時代後期の華麗な美を伝えています。
|
毘沙門天立像および吉祥天立像 画像提供:奈良国立博物館(撮影:森村欣司)
展覧会のみどころトップへ