十一代将軍徳川家斉(いえなり)の時代は、文化文政期を中心に退廃的なムードの中で享楽を好む文化が広がりました。そのような時代にふさわしく、大奥においても、歌舞伎が行われるようになりました。当館には、家斉の時代に三代坂東三津五郎の弟子、坂東三津江(ばんどうみつえ)が大奥で演じた際に用いたと伝えられる歌舞伎衣装が40件余り伝わっており、特別展「
江戸☆大奥」(9月21日(日)まで)では、その歌舞伎衣装が一堂に展示されています。
第4章「大奥のくらし」より『大奥の歌舞伎』展示。11代将軍徳川家斉の時代に活躍した女性の歌舞伎役者(お狂言師)・坂東三津江が用いた衣装の数々を一堂に会します。
それらの衣装の数々は、主として大奥に生きた3人の姫君と1人の側室が主催した歌舞伎で用いられた衣装と伝えられています。中でも、家斉の異母妹である一橋治済(【ひとつばしはるさだ】 1751〜1827)の娘だった紀姫(蓮性院【れんしょういん】 1785~1861)主催の舞台で用いられた衣装がもっとも多く遺されています。紀姫は、家斉が15歳で将軍となった天明6年(1786)の時はまだわずか2歳で、共に大奥に入ったのでしょう。家斉が将軍の座に就いた際、大御所のように家斉を後見し、権勢を誇ったのが治済でした(今、大河ドラマでは蔦屋重三郎を主人公とした「べらぼう」が放映されていますが、俳優の生田斗真さんが演じている役、といえば、どのような人物か想像がつくでしょう)。『ひらかな盛衰記』、『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』、『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』、『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』、『京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)』、『積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)』と、伝えられるだけでも6つの演目で用いられた豪華な衣装の数々です。
家斉の妹、紀姫の主催する舞台で用いられた衣装。高価な素材、特別感のあるデザイン、豪華な刺繡にご注目ください。
三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)の『御殿女中』では、大奥で1回の歌舞伎を演じるのに1000両かかったとのべています。実に1回1億円の舞台を催したということですから、実父・治済の贅沢は娘にも及んだということでしょう。
家斉は正室・側室・側妾を16人も抱え、53人もの子女がありましたが、家斉をめぐる女性のうち、家斉の側近だった旗本・中野清茂(【なかのきよしげ】1765〜1842)の養女として大奥に入ったお美代の方(専行院【せんこういん】 1797~1872)は、晩年の家斉に愛され、溶姫(【ようひめ】1813~1868)、末姫(【すえひめ】1817~1872)を生んだ側室でした。養父だった中野清茂は、家斉の父・治済、家斉の正室・広大院(こうだいいん)の実父・島津藩主八代島津重豪(【しげひで】1745〜1833)とともに「天下の楽に先んじて楽しむ」三翁の一人として(五弓久文【ごきゅうひさふみ】『文恭公実録』)、家斉時代に実権を握り、欲するままに贅沢をした人物として知られています。清茂という大きな後ろ盾のあった、お美代の方の主催した舞台で用いられた衣装が、紀姫の次に数多く遺されています。
家斉の側室、お美代の方(専行院)の主催する舞台で用いられた衣装。お美代の方は、豊臣秀吉を主人公にしたいわゆる「太閤物」が好みでした。
また、溶姫の舞台で用いられた衣装が1件、
打掛 黒繻子地松藤紅葉模様(うちかけ くろしゅすじまつふじもみじもよう) 坂東三津江所用 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 高木キヨウ氏寄贈
『伽羅先代萩』のヒロイン、高尾太夫の役に用いられた打掛。立体的な刺繡、大胆な意匠、錦で覆われた裾の太い袘(ふき)など、江戸時代後期の太夫や花魁の衣装の特徴がうかがえます。
末姫の舞台で用いられた衣装が4件、遺されています。
小忌衣 浅葱天鵞絨地菊水模様(おみごろも あさぎビロードじきくすいもよう) 坂東三津江所用 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 高木キヨウ氏寄贈
『時今也桔梗旗挙(ときはいまききょうのはたあげ)』の小田春永(史実では織田信長)の役に用いられた衣装です。南蛮服の影響と考えられる立襟や、金糸によるきらびやかな龍の刺繡など、トップに君臨する武将にふさわしい意匠です。
これらの衣装は、髙木キヨウが溶姫の女中だった母親から譲られたと伝えられています。また、髙木キヨウは、溶姫の妹・末姫の遊び相手として大奥に入ったとも伝えられています。大奥には男性の役者は出入りが禁止されていましたから、大奥の歌舞伎は女性の歌舞伎役者であるお狂言師が演じていました。『御殿女中』では「御狂言師は皆御抱えの人で、他からお雇ひになることはないのです」と述べています。さらに、お抱えのお狂言師は「お茶の間」が勤めるとありますが、お次やお三の間にある茶飲み所にお狂言師が詰めていたことから、お茶の間という役名ができたといいます。以上のことから推理すると、溶姫の女中としてお茶の間に詰めていたのが初代・坂東三津江だったのではないでしょうか。明治期になり、髙木キヨウが2代目坂東三津江を継いだと言われています。
家斉の側室や姫君たちの生活はほとんど記録に残されていません。しかし、特別展「
江戸☆大奥」で一堂に展示されている豪奢な歌舞伎衣装の数々が、いずれも家斉時代の側室、姫君たちの舞台で使用されたことを思えば、文化文政期における大奥の贅を極めた生活がしのばれるのです。
カテゴリ:研究員のイチオシ、「江戸☆大奥」
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posted by 小山弓弦葉(日本染織、東洋染織) at 2025年09月18日 (木)