1089ブログ「タイ ~仏の国の輝き~」 展覧会の見どころなどを紹介しています。
黄金に輝く仏教美術の名宝 ベスト10 投票結果 (投票期間:2017年7月4日(火)~8月27日(日))
東京国立博物館 資料館 日タイ修好130周年記念特別展「タイ ~仏の国の輝き~」関連図書コーナー設置
展覧会のみどころ
第1章 タイ前夜 古代の仏教世界
現在のタイの国土には、タイ族の国が興る以前、インド文明を取り入れながら、独自の文化を育んだ国々がありました。チャオプラヤー川流域のドヴァーラヴァティー国、スマトラからマレー半島に勢力を伸ばしたシュリーヴィジャヤ国、メコンデルタを中心に発展した扶南国(ふなんこく)に続くクメール族のアンコール朝、タイ北部に花開いたモン族のハリプンチャイ国。
タイ文化が芽吹く土壌を形成した古代の多様な信仰の世界をたどります。
ナーガ上の仏陀坐像
スラートターニー県チャイヤー郡ワット・ウィアン伝来
シュリーヴィジャヤ様式 12世紀末~13世紀
バンコク国立博物館蔵
クメール美術と融合した精緻な美
悟りを得た仏陀が瞑想をする間、竜王ムチリンダが傘となり、仏陀を雨風から守ったという説話に基づいてつくられた仏像です。東南アジアでは、水と関係する蛇の神ナーガをとても大切にしており、このテーマの像もたいへん好まれました。本像は、シュリーヴィジャヤ国の重要な都市のひとつであるチャイヤーの中心寺院に安置されていた仏像です。その精緻な作風には、12 世紀後半頃に同地におよんだクメール美術の影響がうかがえます。
法輪
スパンブリー県ウートーン遺跡第11号仏塔跡出土
ドヴァーラヴァティー時代 7世紀
ウートーン国立博物館蔵
仏陀の教えの広まり
ドヴァーラヴァティーの人々は仏教を篤く信仰し、数多くの寺院が造営されました。寺院では仏像や仏塔、そして法輪が造られました。車輪が転がるように仏陀の教えが広まることを意味する法輪は、高い石柱の上に設置され、人々に信仰されました。仏教が普及した世界では、それぞれの国で仏像や仏塔を祀りましたが、ドヴァーラヴァティー国ほど法輪を数多く建立し信仰した国は他にありません。
アルダナーリーシュヴァラ坐像
ウボンラーチャターニー県
プレ・アンコール時代 8 ~ 9世紀初
ウボンラーチャターニー国立博物館蔵
ヒンドゥー神話の両性具有神
タイの東北部では仏教の信仰と同時に、カンボジアのクメール族の影響でヒンドゥー教も信仰されました。アルダナーリーシュヴァラとは、ヒンドゥー教の男神シヴァとその妃パールヴァティーが半身ずつ組み合わされて一体になったものです。この像は東北タイに勢力を伸ばしていたクメール文化の中でつくられた彫刻です。
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第2章 スコータイ 幸福の生まれ出づる国
1238年にタイ族がひらいた王朝スコータイは、「幸福の生まれ出づる国」を意味します。スコータイはタイ中北部の広大な盆地を中心に開けた国で、水路と陸路で諸地域を結ぶ交通の要衝(ようしょう)にありました。歴代の王はスリランカから受容した上座仏教を篤く信仰し、多くの寺院を建立しました。タイ族による仏教文化が花開き、タイの文字や文学が生み出されるなど、現在のタイ文化の基礎が築かれた時代です。
仏陀坐像
スコータイ県シーサッチャナーライ郡ワット・サワンカラーム伝来
スコータイ時代 15世紀
サワンウォーラナーヨック国立博物館蔵
来世の安寧を願って
面長のお顔に穏やかな笑みを浮かべ、ゆったりと坐す仏陀像です。抑揚を抑えながらも張りのある体や、繊細な指先のつくりなど、スコータイ時代の特徴を顕著にしめしています。台座には、マハータンマラーチャー(サイルータイ王 在位1399-1419)の后の一人が、来世の安寧(あんねい)を願って寄進した仏像であることが記されています。
(部分)
ワット・ソラサック碑文
スコータイ県ワット・ソラサック遺跡出土
スコータイ時代 1417年
ラームカムヘーン国立博物館蔵
スコータイ時代の寺院の造営の様子を記す碑文
シーマ(結界石)形をした石板の1面に端正なタイ文字を用いて整然と碑文を刻み、もう1面には仏陀遊行(ゆぎょう)像を線刻しています。碑文は、当時の寺院の造営や寄進の具体的な様子を活写するばかりでなく、寺に仏陀遊行像と足を下げた仏像(倚像、いぞう)を安置していたらしいこと、さらに弥勒菩薩への信仰を記しています。スコータイ時代に属する仏陀倚像の作例は見つかっておらず、そうした点からもきわめて貴重です。
仏陀遊行像
スコータイ県シーサッチャナーライ郡ワット・サワンカラーム伝来
スコータイ時代 14 ~15世紀
サワンウォーラナーヨック国立博物館蔵
軽やかに歩む仏像
軽やかに片足を踏み出し、歩みを進める仏陀像。穏やかな笑みを浮かべる表情、しなやかで優美な姿にタイ人の美意識を見ることができます。仏陀の歩く姿は、亡くなった母のマーヤー夫人に説法するために三十三天に昇った仏陀が、地上へ降りてくる場面をあらわすとも考えられています。
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第3章 アユタヤー 輝ける交易の都
アユタヤーは14世紀半ばから400年もの長きにわたり国際交易国家として繁栄しました。アユタヤーの優位性は南シナ海の通商ルートと、ベンガル湾通商ルートという東西の巨大な市場を結ぶ接点に立地していた点にあります。国王は、アユタヤーの肥沃な大地の恵みや、北タイや東北タイの森林から河川によって運ばれる産物をもとに、日本、琉球などの東アジア国家や東南アジアの国々だけでなく、中東や西洋とも活発に貿易を行ない、莫大な富を蓄えた「大商人」でした。また、上座仏教を国教とする一方、王の権力と神聖さを高めるためのインド的な儀礼や位階制度が整えられるなど集権化が進みました。
金舎利塔
アユタヤー県ワット・ラーチャブーラナ遺跡仏塔地下出土
アユタヤー時代 15世紀初
チャオサームプラヤー国立博物館蔵
アユタヤー初期の仏塔の姿
スリランカ様式とインド北東部のパーラ様式が混交した仏塔形の舎利容器。仏塔内の奉納品で、すっと立った円錐状の尖塔部分や優美な膨らみを帯び覆鉢(ふくばち)、基部にめぐらされた花文様など、洗練されたそのかたちは、現存しないアユタヤー初期の仏塔の姿を知る貴重な手がかりとなっています。
金象
アユタヤー県ワット・ラーチャブーラナ遺跡仏塔地下出土
アユタヤー時代 15世紀初
チャオサームプラヤー国立博物館蔵
王の威厳を示す聖なる象
タイといえば象。タイの人々は長い間、象と深く関わりながら生活をしてきました。とりわけ、白象を得た国王は、人徳が高く人々から敬われる存在と信じられており、象は王の象徴でもありました。冠を被り、貴人が乗る豪華な輿(こし)を背に載せたこの象は、四肢を地につけて伏し、鼻を高くあげています。さながらそれは王国の繁栄を言祝(ことほ)ぐかのようです。
金冠
アユタヤー県ワット・ラーチャブーラナ遺跡仏塔地下出土
アユタヤー時代 15世紀初
チャオサームプラヤー国立博物館蔵
燦然と輝く王権の象徴
寺院の仏塔内部に設けられた「クル」という空間から発見された金冠。男性の髷(まげ)に被せる冠で、王が持つべき5種の神器の筆頭に挙げられます。仏塔に王の神器を奉納するというのは、未来のダルマラージャ(仏法王)のためのもので、未来も正しい王によって仏法が守られ、国が栄え、安寧であることを願ったと考えられています。
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第4章 シャム 日本人の見た南方の夢
シャムとは、江戸時代から知られていたタイの呼称です。シャム、つまり当時のアユタヤー朝は国際交易国家として栄え、16世紀末から17世紀にかけて日本からも新たな市場や活躍の場を南方に求めた朱印船貿易家たちが集い、日本人町が形成されました。それを遡(さかのぼ)る100 年前には、すでに琉球を介して日本とシャムの交流が始まっており、日本の対外交流史のなかでもシャムとの交易はきわめて大きな位置を占めていました。彼らを駆り立てたのは、遠い異国へのあこがれだったかもしれません。
(部分)
カティナ(功徳衣)法要図
ラタナコーシン時代 1918年
タイ国立図書館蔵
[展示期間:2017年8月1日(火)から]
勇ましく行進する日本人義勇兵
アユタヤー朝の国王が、僧院へカティナ(功徳衣)を献上に向かうさまを描いた行列図。象に乗ったシャム人指揮官や外国兵とともに、行列の最後尾には薙刀(なぎなた)を手に髪を剃り上げた日本人義勇兵が並びます。近隣諸国との長い戦争のなかで、アユタヤー朝には多くの傭兵が集まりました。日本人義勇軍の勇猛さは、アユタヤー朝年代記にも記されています。この写本の原図は、アユタヤーの僧院ワット・ヨムの壁画で、本品は1918年にラーマ5世の異母弟ダムロン親王の命によって手漉き紙に写し取られたものです。
瑞鳥獣唐草文蒟醤八角箱
ラーンナータイ様式 16~17世紀
東京国立博物館蔵
異国情緒あふれるタイ製漆器
タイの代表的な漆芸技法である蒟醤(きんま)は、漆器の表面に文様を彫り、その凹部に色漆や顔料を充填(じゅうてん)して文様を表わす技法です。竹ひごを編んだ籃胎(らんたい)という器体に、唐草文を背景にしてガルーダやシンハーといった吉祥の鳥獣などを混然と表わす意匠が特色です。タイの蒟醤漆器はアユタヤーの日本人町を介した朱印船貿易によって日本に伝来し、茶道具として珍重されました。
寺院用布 黄木綿地合掌天人幾何文様更紗
インド・コロマンデルコースト産
19世紀初
バンコク国立博物館蔵
[展示期間:2017年7月30日(日)まで]
(部分)
仏教的なモチーフはタイ特有の意匠
大きさや模様からタイ語でパー・キアオ(pha kiao )と称される、寺院用に染められた敷物、あるいは壁掛と考えられます。インドでカラムカリと称される手描染と木版染とを併用して、仏陀に仕えた天人を3種の異なる図様で染めています。両手を合わせた天人の姿は「合掌天人」と称され、ラタナコーシン朝時代に好まれた模様です。このような仏教に関連する人物像を表わしたタイ向け輸出用更紗は、明治期から大正期にかけて日本の数寄者に好まれるようになり「仏手(ほとけで) 」と称されました。
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第5章 ラタナコーシン インドラ神の宝蔵
ラタナコーシンとはインドラ神の宝蔵を意味します。その都(現バンコク)はクルンテープ(天人の都)と呼ばれてきました。タイ人はビルマ(ミャンマー)軍との戦いで灰燼(かいじん)に帰したアユタヤーの都を復元するように、ここに新しい都を築き、アユタヤーの芸術文化の復興に力を注ぎました。最終章ではラタナコーシン朝に集積されたタイの伝統美術とその展開を紹介します。
ラーマ2世王作の大扉
バンコク都ワット・スタット仏堂伝来
ラタナコーシン時代 19世紀
バンコク国立博物館蔵
天界への入り口
5.6メートルを超えるこの大きな扉は、1807年に創建されたワット・スタットという第一級王室寺院の正面を飾っていたものです。国王ラーマ2世(在位1809-1824)が自ら精緻な彫刻をほどこしたと伝えており、王室とともに育まれたタイ文化を象徴する至宝といえます。チーク材の扉の表側には、天界の雪山に住むとされるさまざまな動物たちが重層的に表わされています。裏側には寺院を守る鬼神たちの姿が描かれます。この扉の完成後、ラーマ2世は他に同じような扉を作らせないように、使用した道具をすべてチャオプラヤー川に捨てさせた、という逸話が残っています。1959年の火災で一部が焼損を受け、その後処置を施せない状態でしたが、2013 年から日タイで協力し、保存修理作業を進めてきました。
右:従三十三天降下図
ラタナコーシン時代 19世紀
バンコク国立博物館蔵
[展示期間:2017年7月30日(日)まで]
三十三天から階段をつたって地上へ戻る仏陀
従三十三天降下は、成道(じょうどう)後の仏陀が亡母マーヤーのためにインドラの住処である三十三天に昇って説法し、3か月後にインドラが作らせた3筋の階段(三道宝階)をつたってサンカッサ(現在のインド、ウッタル・プラデーシュ州サンキッサ)の地に降り立ったという説話です。プラボットと呼ばれる仏画でもこの主題は好まれました。 ラタナコーシン時代の仏教寺院の堂内は、仏陀の生涯を辿る仏伝絵画、仏陀の過去生の物語である本生話、スコータイ王朝の第6代リタイ王が著わしたとされる『三界経』の示す世界観などが描かれます。従三十三天降下説話と三界経の図はしばしば組み合わされ、堂内を荘厳しました。
上:象鞍
サワットソーポン親王旧蔵
ラタナコーシン時代 18~19世紀
バンコク国立博物館蔵
象に騎乗する際に用いる巨大な鞍
象に乗るための鞍は、馬のように跨(またが)るのではなく、象の背に座面を設けて座ります。象鞍の形式は、座面の周囲に欄干(らんかん)をめぐらせて前方を開き、座面の下には象の背に載せるための脚を付け、脚には座面を支える支柱が付きます。本品は、約180センチの幅広い座面の周囲に象牙製の支柱をもつ欄干が設けられ、脚部からは流麗な支柱が伸びて座面を支え、器体全体に金箔が貼られています。
金板装拵刀
ラタナコーシン時代 19世紀
バンコク国立博物館蔵
タイで生まれ、愛された日本刀
木胎に金の薄板を張り付けた金板装拵の刀。刀身、拵(こしらえ)共に日本刀を模してタイの技法を用いて作られた日本式刀剣です。刀身にはタイ文字で「ダープクームー・オークスック・コーン・チャオプラヤー・ボーディンデーチャー・シン・トンタクーン・シンハセーニー・メータップ(民部大臣シンハセーニー家のシン将軍出征の佩刀(はいとう))」と線刻して朱を入れます。この銘文によると、ラーマ3世王時代の民部大臣シン・シンハセーニー(1775~1849)の佩刀で、同人が民部大臣に就任した期間が1829~1849年であるため、本品の製作時期はこの20年の間に限定されます。タイの日本式刀剣には所有にあたり厳格な規定が存在し、本品のような金板装の拵を佩用(はいよう)できるのは王位継承権を持たない王族を含む上級貴族だけでした。この階級のさらに上の日本式刀剣は、王位継承権を持つ王族のみが佩用するタイ七宝装拵の刀であり、これらは現在タイ王室紋章・貨幣博物館保管となっています。
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