「ふしぎな仁清」の金銀彩
タイトルにある「ふしぎな仁清」というのは、「走泥社(そうでいしゃ)」の中心メンバーとして知られる陶芸家八木一夫(やぎかずお、1918~79)のエッセイ(『芸術新潮』1969年3月号)です。実際に美術館で仁清の茶壺を観たときのことを次のように書いています。
「これだ、ああ、とおもった仁清の茶壺にだけは結局納得できなかった。ひとつは、ほとんど観念的に仁清の仕事そのものを高次元に置いていたのが、がくと私の内部で崩れたことなのだが、従ってこの場の仁清好尚への意味が、私にとってふしぎに、そして気味悪くも感じられ出してくるのだった。」
(「ふしぎな仁清」より一部抜粋)
仁清の作品といえば、20件以上も国宝や重要文化財に指定されており、日本のやきもののなかで圧倒的な知名度があります。
ただ、2017年に当館で開催した特別展「茶の湯」で江戸時代前期を代表するいくつかの仁清作の茶器を各地の美術館から拝借した際、私も図録や本の写真で知る姿とだいぶ違うと感じたことがありました。はっきり言ってしまえば絵付けの細部がつたなく、写真のほうが断然よく見えるのです。八木の場合、心理的な混乱によってまともに鑑賞することができない状況について「作品の弱さ」だけでなく「無理に他人から設定された主役の、持たざるを得ぬ悲哀」によるとまで表現し、古美術の評価や茶陶の価値を受け入れる眼や姿勢について自問しています。
しかし、博物館の研究員としては、仁清作品を積極的に評価したいし、高く評価してきた日本陶磁研究について考えてみたいと思いました。
そこで、仁清の絵付けをとりわけ力強く華やかなものにしている「金銀彩(きんぎんさい)」について調べてみることにしました。
これが、現在本館14室で開催中の特集「やきものを彩る金と銀」(12月1日(日)まで)のきっかけとなりました。
特集「やきものを彩る金と銀」の展示風景
日本でやきものに本格的な絵付けが行われるようになるのは、17世紀後半のことです。
この頃、肥前有田(ひぜんありた)では朝鮮半島からの技術に基づいて硬質磁器の生産が始まりました。一方、京都では施釉(せゆう)陶器の生産が隆盛します。そしてこれらの地で色絵、つまり赤や緑、青、紫、黄などの上絵具で装飾した製品がつくられるようになりました。興味深いことに、日本ではこの色絵装飾の草創期から、有田や京都で早くも「金銀彩」が導入されているのです。その先駆的な仁清の絵付けにみとめられるつたなさは、金銀をほかの上絵具といかにして共存させるかという試行錯誤のなかで生じた不具合によるものではないかと私は考えています。
ちなみに銀彩は空気にふれると硫化(りゅうか)して黒く変色する性質があり、そのためか中国のやきものではほとんどみられません。有田でも硬質磁器における銀彩は17世紀後半の一時期に限られますが、京都では素地や賦彩(ふさい)に工夫を凝らしながら、金彩も銀彩も仁清以降継続して行われてきました。それは幕末の永樂(えいらく)家の作陶、明治期の輸出向け製品を経て、現代作家の仕事にも脈々とつながっています。
つまり「金銀彩」は、中国や朝鮮半島からの影響のもとに始まった日本のやきものの独自性や発展性を象徴するものと言えるのではないでしょうか。
重要文化財 柿釉金銀彩牡丹文碗(かきゆうきんぎんさいぼたんもんわん)
中国・定窯 伝中国陝西省楡林出土 北宋時代・11~12世紀 井上恒一氏・冨美子氏寄贈
宋時代を代表する白磁窯、華北の定窯(ていよう)の製品には、金彩をほどこした一群が知られています。
本作品はその「金花定碗(きんかていわん)」の代表作であり、金彩で牡丹をあらわし、口縁には銀を帯状に塗っています。
色絵七宝文盃洗(いろえしっぽうもんはいせん)
永樂和全作 江戸~明治時代・19世紀 横河民輔氏寄贈
器の外面は布を置いて絵付けをする「布目手(ぬのめて)」で七宝文をあらわし、見込みは刷毛で銀を塗っています。
異なる方法で「金銀彩」を効果的に取り入れた和全の技が光ります。
このたびの特集「やきものを彩る金と銀」では、中国宋時代の定窯で行われた「金銀彩」の貴重な例を皮切りに、明・清時代の金彩、日本の有田、京都を中心とした江戸から明治期のバラエティに富んだ「金銀彩」について、時代を追いながら紹介します。また、酸化銅や酸化銀を呈色剤(ていしょくざい)に用いたイスラーム陶器のラスター彩もあわせて展示します。
異なる時代や地域の「金銀彩」を比べてみると、日本のやきものの面白さをじわじわと感じていただけるのではないかと思います。
カテゴリ:特集・特別公開
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posted by 三笠景子(東洋室長) at 2024年10月28日 (月)