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顔真卿(がんしんけい)とその周辺

  • 『千福寺多宝塔碑 顔真卿筆 唐時代・天宝11年(752) 高島菊次郎氏寄贈』の画像

    千福寺多宝塔碑 顔真卿筆 唐時代・天宝11年(752) 高島菊次郎氏寄贈

    東洋館 第8室
    2009年4月28日(火) ~ 2009年6月7日(日)

     顔真卿(がんしんけい)(709~785)は、琅邪臨沂(ろうやりんぎ)(山東省)の人。代々、訓詁(くん こ)と書法を家学とする名家に生まれ、唐の玄宗皇帝の治世になる開元22年(734)、26歳で進士に及第し、玄宗・粛宗・代宗・徳宗の4人の皇帝に仕え ました。字(あざな)を清臣(せいしん)といい、かつて平原太守(へいげんたいしゅ)をつとめたことから顔平原(がんへいげん)、また魯郡開国公(ろぐん かいこくこう)に封ぜられたことから顔魯公(がんろこう)とも呼ばれています。

      天宝14年(755)、安禄山(あんろくざん)の乱が起こり、河北の諸侯が降伏する中で、顔真卿とその一族は敢然と義兵を挙げ、顔真卿は多くの肉親を失 いながらも、唐王朝の危機を救いました。賊軍の手で首を刎ねられた甥の死を悼んで顔真卿が書いた「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」は、悲憤やるかたなき顔 真卿の激情を伝える傑作として知られています。建中4年(783)、再び李希烈(りきれつ)によって反乱が企てられると、顔真卿は宰相の盧杞(ろき)の計 略と知りながらも敵地に赴き、捕らえられて蔡州(河南省)の龍興寺で殺害されました。時に顔真卿77歳。顔真卿はのち忠臣烈士として尊ばれ、その書は後世 の多くの人々に、深い影響を与え続けています。

      顔真卿の行草書には、「祭姪文稿」以外にも「祭伯父文稿(さいはくふぶんこう)」「争坐位文稿(そうざいぶんこう)」の名品があり、これらを顔真卿の三 稿と尊称しています。一方、顔真卿は楷書で多くの碑文を揮毫しました。顔真卿の楷書は、欧陽詢(おうようじゅん)・虞世南(ぐせいなん)・ちょ遂良(すい りょう)らによって築かれた楷書の典型の上に立脚しつつ、独自の風格を加味したものです。蚕の頭のような起筆と、燕の尾のような払いから、蚕頭燕尾(さん とうえんび)と評される顔真卿の楷書は、石碑ごとに表情が異なるほど表現の幅が広く、一碑一面貌と称えられ、楷書の恰好の 手本として現在も学ばれています。

      生誕1300年を記念したこの特集陳列で、顔真卿のさまざまな書業をご高覧ください。

主な出品作品

*所蔵の表記の無いものは、当館蔵品です。
千福寺多宝塔碑 顔真卿筆 唐時代・天宝11年(752) 高島菊次郎氏寄贈
祭姪文稿 顔真卿筆 唐時代・乾元元年(758) 高島菊次郎氏寄贈
麻姑仙壇碑 顔真卿筆 唐時代・大暦6年(771) 高島菊次郎氏寄贈
郭氏家廟碑 顔真卿筆 唐時代・広徳2年(764) 市河三鼎氏寄贈
顔氏家廟碑 顔真卿筆 唐時代・建中元年(780)